第3章 報道写真

メディアの特性/ライフの時代/裏町の日常/ライフルの一撃/決定的瞬間/ライフイズビューティフル/フォトジャーナリズム/ロバート・キャパ/ハゲワシと少女/沢田教一/ユージン・スミス/同行取材

400回 2022年11月1日

メディアの特性

 写真の進化を、報道から芸術をへて、広告へという流れでたどる。写真の真価はドキュメンタリーにあり、戦争写真が衝撃を伝える。生々しい戦闘の現場に至るまでは、カメラの軽量化とシャッタースピードの進化の歴史である。弾丸が転がるだけのクリミア戦争は、南北戦争になると死体が転がり、スペイン内戦では弾丸が命中する。ノルマンディー上陸作戦では弾丸が飛び交う真っただ中にある。こうしたメカニズムの開発史を彩って「ライカの時代」が展開する。「ライフ」という写真誌を通じて、メディアの独立と大衆の支持を獲得する。カルティエ・ブレッソン(1908-2004)に結実する決定的瞬間の系譜をたどってみる。

写真は人が手や頭を働かせる以前に光学機械によって自動的に自然を取り込むことができるようになった。シャッタースピードは日進月歩加速化していった。当初は手で描くほうが早く、スケッチを走らせ続けただろう。10分が5分になり1分になり、1秒の何十分の一というまでに至る。写真術とカメラが自立していった。出発点からマイブリッジのような動画を想定した連続写真も出現した。カメラを手に持つ写真家はやがては冒険をし始める。そこで要因になるのは各地で行われた戦争だった。戦争を記録するということ。奥地にまで踏み込んでいく。戦争は都会の真っただ中ではなく、周辺部で起こる。大きな権力同士のぶつかる臨界地帯が戦争状態となる。そこに出かけて行って、報道の名が叫ばれる。これは写真にとって必然的な自覚となった。

メディアには得手不得手がある。写真には記録という働きがメディアの特性に合っていた。それを求めて進化していった。出発点では肖像写真に代表される動かないものが対象だった。シャッタースピードの進化に合わせて動くものをとらえるようになっていった。報道写真が写真のとりえとなる。新しいメディアは自身の特性を得てのち、やがてアートの世界に進化していって、その後大衆化されていく。

ここでも写真史の歴史に沿うだけではなくて、メディアの発展の形としてみると、まずは記録からスタートし、次に表現へと向かう。表現という限りは個人の自己表現という意味が強い。芸術写真という形で実現する。それに飽き足らずに写真は大衆文化に入り込んでいく。これが広告や商業写真となり、デザインの領域に加わっていく。もちろん三つの要素はそれぞれの時代ごとに連動しながら推移するが、メディアの進化としてはこの三段階をたどっていく。

第401回 2022年11月2

ライフの時代

ドキュメンタリーとして新聞や雑誌、ことに写真週刊誌が全盛を極めた時期があった。多くは廃刊に追いやられたが、印刷媒体が消滅に向かう中での現象だろうか。写真は印刷物と連動しながら進化していった。新聞から映像へメディアが移行することで、テレビうつりを気にする動画へと目を移していった。

「ライフ」(1936-2007)という大判の写真誌があった。ライフ誌を舞台に多くの著名なカメラマンが誕生した。ライフに掲載された写真が報道写真史を築く。ライフに掲載されることをめざして写真家は、報道を目的化する。ピュリッツァー賞(1917-)というプライズがそれに付加される。この賞を取るべく冒険を重ねることになる。写真ジャーナリズムの典型的な理想像として君臨し続けた。その間名作が誕生し、それに連動するように、カメラマンは戦場で命を落とした。華々しい生き方を演出して見せてくれた。命と引き換えにという特性が写真にはある。メディアとしての魅力にもつながっているのだろう。社会正義を旗印に死をも顧みない陶酔感があった。社会派ドキュメンタリーが出発点となる。戦争だけではなくて、日常生活に潜む絵になるものが探求される。社会派として現実をそのまま写し出す。権力に屈しないという側面が強調される。カメラマンが撮ったという選択眼が、背景に潜む社会的意義を浮き彫りにする。

第402回 2022年11月4

裏町の日常

ウジェーヌ・アジェ(1857-1827)やベレニス・アボット(1898-1991)は報道という強い意志はないが、背景に社会構造を考えないで見ることはできないものだ。単なる名所旧跡を写しているわけではなくて、パリの裏町何でもないショーウィンドウに目が注がれる。ニューヨークの場合は伝統ある歴史的モニュメントではなく、躍動する現在の、日夜変わっていく姿をとらえていく。アジェはフランスの地味な写真家だったが、アメリカの写真家アボットが発掘した。パリに埋もれていた写真を世界的に紹介したということだ。二人は連動した立ち位置にいる。パリとニューヨークという町の素顔でありながら、パリは変わらない伝統の重厚さを見せ、ニューヨークは変貌し続ける現実の世界に目を向ける。

忘れられていた写真家という点では、ソール・ライター(1923-2013)もそのひとりで21世紀になってよみがえった。いまからみるとそれは古きよきニューヨークであり、アジェの再発見に似ている。ニューヨークの変わらない日常が、ライターのカメラに記録されている。時代はめぐり、そして繰り返す。ライターに至り、ニューヨークは落ち着いた古都の風格を持ち出したということだ。

ミュージカル映画「ウエストサイド物語」(1961)は混沌とした暴力の巣窟でもまだ愛を語れる絵になる時代だった。やがてベトナム戦争後のサイゴンを舞台にした「ミス・サイゴン」(1989)に至るとそんな余裕もなく、肌の色を超えた愛は崩壊してしまう。ウエストサイド物語も半世紀もたつとスピード感が緩慢になった。ウエストサイドストーリー(2021)としてリメイクされると、時代に対応した。「激突!」以来のスピルバーグによる演出のスピード感は健在だった。そしてロメオとジュリエットの悲恋の普遍性とミュージカルの骨組みをなす音楽は、古びることなくよみがえった。もちろん人種差別というメッセージも、克服されることなく現代でも生々しいテーマであり続けた。

人物をターゲットに肖像写真から分離して日常生活の一コマが取り上げられる。労働風景であったり、虐げられた人々の苦悩の姿であったり、人間が取り出される。得意な領域を突き詰める専門集団の活動をへて、オールマイティの写真家としてカルティエ・ブレッソンが登場する。報道写真を出発点にしながら芸術性の薫り高い写真表現にまで至った。肖像もあるし生活の一コマもあるし戦争もある。それを支えたのはブレッソンの場合、ライカというカメラだった。ライカの時代と言ってもよいだろう。写真のはじまりでは幌馬車のような移動形態で西部開拓史に準じたが、手持ちカメラ一台を手に移動するまでに進化した。

第403回 2022年11月5

ライフルの一撃

報道カメラマンはそれを武器に見立てた。ペンに代わるものとなった。それは機能としては剣でもあった。場合によればライフルにも匹敵しただろう。ライフルの響きには報道写真を支えた「ライフ」と「ライカ」を内包している。今は見ることも少なくなったパトローネに入った写真フィルムのかたちはライフルの弾に似ている。カメラのかたちもまた銃をまねて構想されたのではなかったかと思う。海外旅行につきものだったのはカメラだが、それがいくら軽くなっても、つねにフィルムという重荷をともなっていた。それは確かに銃弾のことであって、弾がなければ銃は機能しなかった。今日のデジタル革命を考えると、驚異的な進化は新時代の訪れを感じざるを得ない。

それによって一方でイメージが軽くなってしまったのも事実で、フィルムの重さがそのままイメージに重さのあることを体感させた。私の最初の海外旅行は100日間だったが、用意した100本のフィルムは軟弱なバックパッカーにはさすがに重く、半分に減らしたことがある。銃では弾は打ちっぱなしだが、カメラではフィルムは帰国まで持ち歩かなければならなかった。ときにカメラを向けることによって被写体の命を取ることにもなる。一発で仕留めるためには弾はそんなに多くなくてもよい。はては弾だけになって突っ込む神風や人間魚雷も登場した。もちろん帰りの燃料は積み込まれてはいない。片道切符という青春哀歌を伴奏にしての国家の洗脳のたまものだったのである。カメラ自体はどんどんと物騒な武器になっていく。1963年ダラスのビルの屋上には、オープンカーのパレードでベストショットをねらっている写真家がいた。となりには暗殺者も身をひそめていた。

シャッタースピードが上がることは、ライフルで一瞬に事を成就することを暗示する。写真をとるというが、命をとるともいう。シャッター音に快感を得るのもその操作性にあったし、デジタルカメラになってからもシャッター音は残り続け、ショット成功の前触れとなった。ファインダーをのぞきながら狙いを定める身の置き方も両者は共通している。心臓をいとめるのは、弓矢の頃からの目標だったが、暗殺者だけでなく、恋愛の標的のことでもあった。恋愛はいつも愛のキューピットをしたがえて、暗殺の予感を宿しているということだ。

ペンは剣に立ち向かったが、それに対する回答は、問答無用と言っての射殺だった。同じように写真はライフルに立ち向かう。今日、核兵器に立ち向かうメディアとしてインターネットが登場したのだろうか。インターネットが登場したとしても、原子力とともに軍事目的で開発されたものという点では、大差のないものだった。すべては裏切り行為によって推移する。平和利用という頼りなげなスローガンもまた、裏返されると軍事利用が本音に浮上して、簡単に裏切られてしまう。平和利用のはてに、チェルノブイリやフクシマがカタカナになって、世界的な知名度を得た。ヒロシマやミナマタもまたカタカナ表記をされて知られている。それは都市名ではなく、都市をまるごと壊滅させるパワーに与えられた名称だった。核戦争の時代、命中率のよい小型のミサイルさえあれば、核兵器をもたなくても簡単にそれと同じ効果を得ることができる。そのときミサイルはいつも原子力発電所をねらっているのである。平和利用は簡単に裏切ることになる。チェルノブイリでもフクシマでも経験としてはわかっていても、戦争と同じで遺伝することはなく繰り返されていく。

第404回 2022年11月6

決定的瞬間

ブレッソンのキャッチフレーズは「決定的瞬間」だったが、それはシャッタースピードが銃のように一瞬に至ったということだった。「サンラザール駅裏」(1932)は決定的瞬間の代名詞となる作品だ。何でもない写真のように見えるが、よく見ると水たまりの水面と飛び越える男の靴のかかとの間に絶妙な空白がある。次の瞬間に水浸しになることを誰もが予想する。

引き戻せない事件の直前の姿を写真が写すのは、ながらく不可能なことだった。常に写真報道は事件の直後を伝えるものだ。しかし写真家の直感は直前に目を向けることができるとすれば、それは動物的本能、職業的天分のなせるわざだっただろうか。今では均一の連続写真の一コマに過ぎないという話になるが、当時に置き換えると奇跡を呼び込む力だった。連写を連射に置き換えると、機関銃の誕生はベストショットをねらうプロの殺し屋を否定するアマチュアカメラマンの登場に対応するものだっただろう。しかし残念ながら機関銃は暗殺には使えない。

決定的瞬間は偶然なのか必然なのか。松本清張には「十万分の一の偶然」という小説がある。偶然でしか報道写真は撮れないという面と、偶然をいかに必然に変える力を持っているかが写真家の腕だという面がある。もちろん偶然を装った犯罪の場合もある。なるだけ偶然に出くわすようなところに身を置くこと、多少の危険を伴っても、命を張ってもということになってくる。人の行かないところに足を踏み込むことにつながっていく。戦争の真っただ中に飛び込んでもいく。

第405回 2022年11月7

ライフイズビューティフル

これに対して日常生活でも見落としているものはあるという逆の方向性は出てくる。ブレッソンは生々しい現実の戦争に走るのではなくて、戦争が終結した後の人々の喜びや怒りや安堵にカメラを向ける。そこに芸術としての進化が読み取れる。スペインのセビリアで撮影した一枚では、壁にくりぬかれた大きな穴の向こうで子どもたちが遊んでいる。白い壁がフレームとなっていて、絵になる光景だ。子どもたちが遊んでいるだけでは何のメッセージもないが、壁に穿たれた穴が大砲による痕跡だと気づいたとき、意味を持ち始める。そこでは武器も何も出てこないが、かつての砲弾が転がるクリミア戦争の証言写真と同じ驚きを与える。それが戦争写真であることは、正面の子どもが松葉杖をついていることからも察せられる。

加えて戦火の中であっても子どもたちは笑顔を絶やすことなく遊びに熱中していることを、戦争の惨禍にあってもたくましさとして読み取ることになる。「ライフイズビューティフル」(1997)と題すると、戦禍にあっても楽天的人生観の一コマとなるものだ。

セビリア スペイン 1933年」というキャプションだけからは伝えきれない映像の力が、そこには潜んでいる。私たちはスペイン内戦の悲劇を知っているが、それが1936年のことだと気づくと、ここでも決定的瞬間の予感をこの写真家は嗅ぎ取っていたとしか思えないことになる。ピカソがこの内戦に怒りをぶつけて「ゲルニカ」を描いたのは1937年のことである。

少年が二本のワインボトルを小脇に抱えて気取って歩いているのは「ムフタール通り」と題された一枚である。1954年という年号は戦後フランスの開放的な光景であることを伝える。1945年の「収容所からの開放 デッサウ」では戦争が終結してナチスから解放された日の逆転劇を単にドイツへの報復だけではなく、愚かしい人間劇の一コマとしても読み取れるよう演出されている。

戦争の真っただ中ではなく、それが終わってほっとした気分もブレッソンの手にかかって表情豊かに記録されてきた。それが写真の可能性を広げアートへの道筋を用意した。

第406回 2022年11月8

フォトジャーナリズム

フォトジャーナリズムは専門家集団として一つの職業意識にたけていった。ロバート・キャパ(1913-54)は戦争に特化して深入りしていく。戦場で命を落とす宿命を受け入れる。キャパが中心になって設立されたマグナムフォト(1947-)という集団名は、ものものしい戦闘的な様相を呈し、尖端的で銃装を思わせる響きには、カメラマンの悲劇さえ目に浮かんでくる。カメラがマグナム弾だというのは、それがほんらいは光を取り込む装置であるにもかかわらず、光を放つ光線銃でもあるという確信にある。かつてレオナルドは目が光を発すると考えたが、確かに視力と眼力とはちがうということだ。「がんりき」と読めば確かに目は「めぢから」を宿している。

日本の場合も沢田教一(1936-70)の名が知られる。戦争の傷跡をカメラに収めるのは写真家の大きな役割だった。今も戦争はどこかで続いているし、それを写すジャーナリズムの目も消えることはない。公的立場を越えて、フリーのカメラマンが自分の目を通して写し出し、一方的な戦争報道に収まらない多様な視点を提示する。統制はじょじょに厳しくなっていくが、日本のカメラマンが-活躍するのは60年代に入ってからのベトナム戦争だろう。泥沼状態で長く続く中、多様な写真が撮影された。アメリカ側からの特派員の写真だけではなく、報道規制が緩和されていた状況下、ベトナムに入り込んだ立場の違いが浮き彫りにされる。

沢田教一の「安全への逃避」(1965)は考えさせられる一点だ。のちにふれるユージン・スミスの「楽園へのあゆみ」(1946)と対比的に見るとよいだろう。追われるように川に浸かりながら逃げていく家族が写し出されている。悲惨な状況ではあるがおびえながらの表情を間近にとらえている。そこには報道がもつ力と同時に、残酷さも見えてしまう。カメラマンの目の非情さを伴っている。弱者には手を差し伸べるものだろうが、そうしていては写真が撮れない。バリアを設けてガラス越しに事態を見る冷酷な目が求められる。名作を生むために感情は犠牲にしなければならない。ベトナム戦争の場合、カメラマンよりももっと残酷なのは空爆やナパーム弾だったということを、しばしば私たちは忘れてしまっている。それはかつての日本では、焼夷弾であり原子爆弾でもあった。

第407回 2022年11月9

ロバート・キャパ

キャパの「崩れ落ちる兵士」(1936)にしても、間近にいた兵士の頭に弾丸が命中する。次の瞬間には崩れ落ちて兵士は死んでしまっているはずだ。間近にいるというのが必須の条件だ。少し弾丸がずれていればカメラマン自身にあたる。ノルマンディー上陸作戦ではさらに過酷な状況に、キャパは身を置いた。映画での「史上最大の作戦」(1962)を思い浮かべることになる。あるいは「プライベートライアン」(1998)でもよい。ナチスの占領下ドイツ軍が狙い撃ちをする中でのノルマンディー海岸への上陸作戦である。フランスを取り返すべく連合軍が立ち向かう。どこに上陸するかがわからないという緊迫感は、ドイツ側のスパイを描いた「針の眼」(1978)というミステリー小説が描き出している。

激しい抵抗をドイツ軍は試みた。蟻のように上陸する兵士が狙い撃ちをされる状況下で写し出されたとみると、凄みを帯びた写真に見えてくる。兵士たちの姿を横にいて間近にとらえている。弾丸が飛び交う中、後ろから追いかけているだけでなく、正面から兵士の顔を写し出したものもある。それを見る限りでは一本の映画や一冊の小説が、一連の連続写真によって凌駕され、しかも一枚で十分に対等であることを主張している。カメラは平衡を崩し、画面は手振れがしている。シャッターを押すだけが精一杯で、ピントを合わせるまでに至らないという臨場感が見事に演出されている。それはかえって冷静なまでの計算さえなされたように見える。自分には弾丸が当たらないという写真家の自信の上に築かれたものだったように思える。

ピンボケやブレは今では写真の特殊効果として意識的に用いるのは、半ば常套手段になっている。写真の歴史はピントをいかにして合わせるかというところに終始していた。いかにぶれない写真を撮るか、そういう写真機を開発するかが生命線だった。人間の目と同じようにピントは一か所にしか合わなかった。全面にピントが合わないだろうかという欲求から、やがてパンフォーカスが開発される。奥から手前まですべてにピントが合う。写真が求めた理想の形だった。行き着くと今度は逆に現在のソフトフォーカスのように、ぼかしを効果として用いようとする。真を写すという目的から、自己表現として用いはじめたと解釈してもよい。記録からアートへという流れと連動してくるものだろう。ブレてこそ写真だという独自の表現性が見つけ出された時代に入っていた。その後ブレてこそ絵画として、ピンボケ絵画が登場する。ある種の開き直りでもあるが、ふつうなら失敗作として廃棄するところだろうが、そうするのではなくて公表する限りでは、その効果をねらっていたということだろう。キャパの立ち位置は微妙なところにある。ピンボケを報道で生かす。本来報道はピントが合わないといけないが、手が震えてブレざるを得なかった。人間のもつ感情や怖れがそのブレに現れている。カメラの発明以来、人はカメラのような目で世界をみるようになった。

第408回 2022年11月10

ハゲワシと少女

沢田教一が命と引き換えに、ピュリッツァー賞を獲得する。授賞の見返りは論争を呼ぶ。写真家の仕事は何か。ジャーナリズム一般の問題だが、ケビンカーター(1960-94)が「ハゲワシと少女」(1993)という写真でピュリッツァー賞を取ったときでも繰り返された。栄養失調でぐったりとした少女をハゲワシが狙っているところを間近にとらえた写真だ。アフリカでの飢餓の実情がメッセージとして伝わるが、ここでも写真家は撮る前に、もっとすることがあるだろうという声が起こる。写真家の徹底した冷徹な目を批判する論調はいつもある。写真を見たごく一般的な反応であるに違いない。大多数を占めるが再考する必要がある。ハゲワシはカメラマン自身だとも糾弾された。そのあとカメラマンは自殺したことを思うと、ハゲワシは声高の心ないマスコミのことだったとわかる。

ハゲワシに襲われようとする光景がたまたま出くわしたものだとする。よりよいアングルから撮ろうとしてぎりぎりまで待ち続ける。間一髪で少女は食いつかれるかもしれない。写真家は少女を助けようという思いは人間だからあるはずだ。それよりも良い写真を撮りたいという思いが勝っている。これを通じてアフリカの飢餓状態を世界に訴えることができる。立場としてどちらを取るかは判断に窮する部分がある。少女を助ける必要はないというきっぱりとしたジャーナリズムの立場もある。

そんなにきっぱりと割り切るなよと、心情は揺れ動きながらも、探ってみるとカメラマンの仕事はその一枚を取っただけではない。もっと多くのものを撮っていることがわかる。アフリカでは飢餓状態はありとあらゆるところに蔓延している。たまたまやせこけた少女に出くわした。それは何千分の一でしかないかもしれない。それよりももっといろいろなものが取り込まれているはずだ。写真賞で選ばれるのは一点だけであり、その一点を撮るためだけに、冷徹になっていたと思いがちだが、どうもそうではないようで、一般的な見方も訂正しなければならないのではないか。

第409回 2022年11月11

沢田教一

沢田教一の場合も同様なことが言える。写真を見ると家族のうち二人は恨めし気にカメラに目を向けている。その目は写真を撮らないで早く助けてくれと訴えているように見える。私も手を貸して助けるほうが先だと思った。その後ドキュメンタリー映画「SAWADA」(1996)が制作され、それを見ると難民で逃れたその時の家族を探して沢田は会いに行っている。写真を撮ったときも、そのあと家族を川から引き上げて救済所に連れて行ったようだ。当時10歳ほどだった子どもがインタビューに答えている。必ずしも沢田がカメラに徹しただけではなくて、人間味あふれる事後処理をしたという証言があったのでほっとする。ただこの写真一枚を見る限りでは伝わってこない。

「ハゲワシと少女」の場合も、撮影後に鷲を追い払って、少女を病院のほうへ向かわせている。写真を撮るために最後のぎりぎりまで見届けようという選択が読み取れる。ぎりぎりの判断はもちろん難しい。ハゲワシが少女を襲った場合、この写真は陽の目を見なかったかもしれない。助けようとしたが間に合わなかったという弁明がこの一枚を破棄する理由となっただろう。報道写真の一枚がかもしだす物議は、メッセージ性もありながらそれを見つめるカメラマンの目に対する断罪を伴っている。生身の人間の見るファインダーだが、それをのぞく人間としては機械の目に徹しなければというジレンマが見えてくる。トヨタ商事事件で起こった刺殺事件は、取材に押し掛け、取り巻いた記者たちの目前でのことだった。カメラマンは殺害場面を黙って見続け、撮り続けていた。悪人は即刻殺されればいいという無言の声も聞こえてくる、目に焼き付くショッキングな報道場面だった。

第410回 2022年11月12

ユージン・スミス

ライフは目に見えることこそすべてだというメッセージを強く打ち出して長らく続いた。メディアの交代を告げるように21世紀とともに廃刊に至る。フリーカメラマンが大勢を占める中、ライフ誌の専属カメラマンとしてユージン・スミス(1918-78)は、日本との関係でも特筆に値する。フリーカメラマンのフリーとは自由という意味ではなく、保証がないという意味だ。自由の概念のさま変わりはデモクラシーを危ういものにしている。かつてフリーダムは民主主義が希求する代名詞だった。いまでは自由は敗者のシンボルになってしまった。フリーには無料という使用法もあるし、フリーターも無職以上に冷ややかな目で見られている。フリーペーパーも無料であることから見向きのされないこともある。しかし、実際には有料をうわまわることも少なくない。それは無料でも読んでほしいという情熱と意志の自由が伝わるときだ。

社会派カメラマンとしてスミスは水俣病を取材する。通常は興味本位に人体が麻痺をして奇形になった身体そのものに目が向かいがちだ。戦争全般を見ても残酷なものが多いし、売り物にもしている。怖いもの見たさの好奇心が先だって、見世物という扱いがぬぐい切れない。そんな中、スミスの写し出す世界観は少しちがう気がする。

戦争カメラマンであったスミスが変わるのは、銃弾に倒れた病床にあった。カメラを握れない苛立ちが、報道では伝えきれない名作を生み出した。それは世界の情勢とは無縁の少年が、よちよち歩きの妹の手を引いて歩む後ろ姿だった。身近な家族に向けるまなざしは、銃弾が飛び交う戦地と同じほどに平和を希求している。タイトルは「楽園へのあゆみ」(1946)とある。報道に明け暮れる荒廃した日々との決裂を伝えるアートフルな傑作である。直接法で感情を動揺させるのが報道写真なら、心に染みこむとアートとなる。森を行く兄の後ろ姿にはしっかりとした足取りと意志が読み取れる。ヒッチコック映画「裏窓」のカメラマンも足を骨折した裏窓から、今までにない被写体を見つけ出した。骨折した足の包帯姿は、そこでは悲惨な現場にはなく、命が救われた安堵のコメディとしてユーモラスに描かれている。

第411回 2022年11月13

同行取材

ドキュメンタリー的性格はアートとは見ない方が健全だが、作品に一貫して流れるポリシーは、世界に真理と普遍性を与えるものだ。報道カメラマンからはじめるが、現地に取材する生々しい戦争を直視する姿勢を見直し、一歩下がって視点を変えるところから、アートとしての展開はあった。

 ユージンスミスの復帰後の活動の中では、とりわけひとりの医師に密着して撮影を続けた「カントリードクター」(1948)や黒人の「助産師モード」(1951)の活動を写し出したシリーズが感動を呼ぶ。家族の命を救われて目がしらを押さえる老人の感謝の姿は、写真でしか表現できない真実だ。真理と普遍性をめざして大上段に構えるのではない。そこで求められるのは真理ではなく真実だと、写真家は訴える。自らがヒーローになるのではない。第一線に立つ人物に寄り添った「同行取材」という姿が、写真の真実を際立たせる。

 シュバイツァー(1954)もこの写真家のカメラを通して登場する。地道な活動を続ける日常の一コマごとの積み重ねが評価されるのであって、それが危険な綱渡りを演じるスタントプレイを越えるのだ。写真は決定的瞬間にのみ映し出されるものではないということがよくわかる。戦場で命を落とすカメラマンの悲劇は、あとを絶たないが、決して犠牲的精神が正義を演出するわけではない。一歩下がって寄り添う中から、滲み出てくる空気を写し取ろうとする。

 水俣のシリーズ(1971-4)はそんな精神に貫かれているように思う。社会悪の犠牲となった患者と同じ目線に立って寄り添うこと。向き合って患者を見つめるのではなくて、寄り添って患者の目に映る世界を写し出すことだ。「寄り添う」という語は今では一人歩きしてしまって、その語を使用する人によっては、「緊張感をもって」とともに空々しい語の筆頭になってしまったが、スミスの活動時期には、そんな現代語の用法はなかった。カメラの位置はいつも低い。それは負傷したカメラマンが横たわるベッドで見つけたアングルであったはずで、その時の子ども目線が、その後を方向づけた。そのときカメラマンの目には楽園が見えたはずだ。ローアングルは弱者のまなざしなのだと思う。成育は知らず知らずのうちに視線を高くしていってしまうのだろう。


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