没後40年 平櫛田中 美の軌跡

2019年09月20日~11月10日

井原市立田中美術館


2019/10/25

 平櫛田中の初めて見る作品も少なくない。今回初というものもあるが、一貫した制作姿勢はモチーフをかえて、質を落とさずに繰り返されている。プライベートな肖像の注文制作は、まだまだ埋もれているにちがいない。確かな技巧は肖像彫刻という分野で、芸術的評価を度外視したニーズに裏打ちされている。

 肖像彫刻なのに何十年も隔てて繰り返されたものに岡倉天心像がある。1930年代、1940年代、1960年代と彫り続けられたもので、天心への熱い想いが伝わってくる。おなじモチーフを生涯の間に繰り返し扱う姿を見ると、私はいつもミケランジェロの三体のピエタ像を思い出す。ルネサンスの理想主義に根ざした完璧な人体が、最晩年になると同じ作家のものとは思えないほどに歪み、目鼻立ちすら見定め難いものに変貌している。しかしそれらはともにピエタとしての精神性を宿している。

 最初の天心像は奈良朝の衣装をまとったクラシックなものだ。天心自身が美術学校の制服として考案した復古調のデザインで、周りのものは天神さんのようだと言って、着用を嫌がったという代物である。次のものは戦時下にあって、天心が国粋主義者として利用される頃のもの。台座には主著「東洋の理想」の冒頭、アジア・イズ・ワンの合言葉が刻まれている。もとになった写真は、敵国を意識してか、天心がアメリカ滞在中に写された一枚を利用したようだ。東洋の優位を流暢な英語で語ってみせる奇抜なファッションである。

 三番目は戦後の復興の中で、政治色を廃した釣り人としての姿で、そこには気取りも威嚇もなく、自然体となった自由人の姿が読み取れる。彫刻の制作年は激動の昭和史を語っているが、もとになった写真はすべて明治時代の浪漫主義の産物である。そのことを思えば、天心の実像の不可解と多様性が見えてくる。

 「五浦釣人」は今では釣竿を手にするが、天心が生きていたならこれをどう思うだろうか。「活人箭」という名作がある。ここで田中は、弓を持たせてはいない。天心が存命の頃に、これでは死んだ豚も仕留められないという指摘が、見事な成果を生み出した。極限まで弓を引いたときの筋力のリアリティは、弓を取り除くことで見事に視覚化されている。こうした天心の発想は、ギリシャ彫刻を見続けるなかで誕生したに違いない。小道具を持たせないことによって、彫刻は自律して芸術としての地位を確立する。円盤や砲丸がなくとも、ポーズだけで十分に意は通じるのだ。

 武器を持たせないことは、平和主義者のあかしでもあるという点は重要だ。それは武闘ではなくてスポーツとして自立するということでもある。そこでは空手の型のような形式美が求められる。彫刻ではその美観は、コントラポストに反映する。田中は天心を通して、それをよく学んだ跡が見える。「第一歩」という作があるが、これは足を半歩前に出すというコントラポストの美学を乗り越えようとする実験だろう。それが鏡獅子の歌舞伎役者の身体の踏み込みに見事に結晶している。

 ギリシャに確立した彫刻原理は、絵画で言えば遠近法のように、否定し難いものだ。しかしそれを乗り越えないと近代の彫刻史は開かれない。ロダンの歩く人もまたコントラポストを越えようとして、大股で歩くトルソを用いたのだと、私は解釈している。大股で一歩前に出た鏡獅子の筋肉は、衣装を身に付けた彫刻からは見えてはこない。にもかかわらず裸体でポーズする演者の身体を執拗に観察して試作を繰り返す。それは西洋彫刻史の古典理解であって、日本木彫史のものではない。

 ミケランジェロには大理石の石彫しかないが、ロダンは塑像とともに大理石をこなし、両極を統合する力量を備えていた。田中はロダンを憧れたように見える。リアリティは木彫とは思えない域に達しているし、その超絶技巧が芸術に災いとなったかもしれない。彫刻技法はリアリズムを求めるあまり、鎌倉時代には玉眼を入れたり、衣服を着せたりして彫刻を離れ、人形になってしまった。このあやまちを田中は繰り返したように見える。彫刻への著色はリアリティを求める終着だろうし、それはかつての天心が危惧したものだったにちがいない。

 五浦釣人の竿を持つ手を観察すると、人差し指をまっすぐに天に向けていることがわかる。今回、竿をもたない等身大の石膏像が展示されていて、気がついたことである。竿をもたせると、人差し指は隠れてしまう。このポーズを見れば、ルーヴルにあるレオナルドの描いた洗礼者ヨハネを思い出すが、田中はこのポーズをいくつかの作品で取り上げている。誕生仏は常に天を指差すが、「竪指」と題された作品では、高僧が人差し指を天に向けて立てている。この作品を制作した大正2年は天心が没した年でもあった。

 天心流に読み取れば、竿は無い方が良いはずで、田中はかつての天心の教えを踏まえて、指に暗喩を隠し込んだふうにも見える。もちろん真偽はわからないが、一つの解釈ではあるだろう。


by Masaaki KAMBARA