第443回 2024年4月22日  

エルマー・ガントリー1960

 リチャード・ブルックス監督作品 、アメリカ映画、原題はElmer Gantry、バート・ランカスター、ジーン・シモンズ主演、アカデミー賞主演男優賞、助演女優賞、脚色賞受賞。品行の悪い主人公(エルマー・ガントリー)が、キリスト教を伝道する女性(シャロン・ファルコナー)に出会い、彼女の愛を得ようとして悪戦苦闘する物語である。男には娼婦の愛人(ルル)がいたが、脚光を浴びて輝く伝道女に一目惚れをしてしまう。なんとかして近づこうとするが、相手はスターであり、なかなか振り向いてはくれない。声をかけたのは、ひとりのファンとしてだったが、自分をアピールして、大声で歓声をあげ、名を覚えてもらっている。

 うつり気な男に、娼婦は復讐をはたす。人心を失うと誰もが見向きもしない。またたくまに奈落に落ちていってしまった。主人公の手腕によって、布教活動は順調に進み、知名度も上がり、資金の確保もはたされていたときのことだ。そんなとき娼婦とのスキャンダル写真がばらまかれ、新聞をにぎわすことで、これまで集まっていた信者が背を向ける。裏切りはカメラマンにスクープ写真を撮らせることによった。娼婦は自身の愚かさをわびて、真相を新聞に載せることで、信者は戻ってきた。

 復活はそれまで以上のもので、新しい教会を手に入れることにもなった。それはこれまで路上で、布教活動をしてきた女の夢だった。資金援助がなければ成り立たない現実問題で、信仰とは別ものであり、女は悩み続けていた。美貌を武器に説教をすると、聴衆は集まった。女は駆り出されたキャンペーンのあと、ぐったりと疲れ切って、人と話もできなかった。

 マネージメントのできるパートナーとして、主人公は最適だった。聖書の知識もあり、雄弁でもあった。ただ信仰だけはなく、酒と女への欲望があるだけだった。金を集める才覚も備わっていた。はじまりの場面で、男は酒場に募金活動にやってきた娘が相手にされないで、追い払われるのを見かねて、客から金を集めてやっていた。娘が去ったあと、マスターから飲み代を請求されて、今度にしてくれと頼んでいるのがおもしろく、実の伴わない性格をうまく言い当てていた。

 教会を手に入れるのは女の夢だった。実現できたのは主人公の助けに寄った。夢を実現して喜びのなかで、教会に火が燃え広がり、建物だけではなくて、女も焼け死んでしまった。混乱のなか男は必死になって女を探している。ランカスターの演じる役柄は、いつもあまり好きにはなれない。ことば巧みに近づいてきた、身勝手な男に翻弄された、信仰深き女の悲劇と見ることができるだろう。自身の愚かさを悟る娼婦役を演じたシャーリー・ジョーンズが、アカデミー賞助演女優賞を獲得した。

第444回 2024年4月23  

許されざる者1960

 ジョン・ヒューストン監督作品、アメリカ映画、原題はThe Unforgiven、バート・ランカスター、オードリー・ヘプバーン主演。先住民(カイオワ族)の土地を奪って住み着いた白人家族(ザカリー家)に起こる悲劇。6000頭の牛を飼育する牧場にまで成長できたのは、主人公(ベン)の手腕によるものだ。父親は先住民に殺された。三人兄弟の長男で、妹(レイチェル)もいるが、彼女の出生の秘密については明かされていない。別の一家(ローリンズ家)が15キロ離れて住んでいるが、対立しながらも同じ白人同士で、先住民に対しては共闘してもいた。

 そこにも息子(チャーリー)と娘がいて、互いに同じ年頃であり、結婚を前にして意識しあっていた。主人公の妹に目をつけた相手の息子は、兄の目を恐れて声をかけられない。牧童も含めて、他にもこの娘を狙っている者は多い。思い切って妹を嫁にほしいというと、考えておこうという答えしか返ってこなかった。見知らぬ老人(エイブ・ケルシー)が現れて、サーベルをかざして不気味なうわさを流しはじめる。娘は白人ではなく、先住民の子だというのだ。娘はこの男を見かけて、母親に打ち明けるが、何か隠し事があるように顔を翳らせている。老人はその後母親とも顔を合わせて、7年越しの出会いだとも言っていた。

 妹は言い寄る男の名をあげて、しきりに誰と結婚しようかと、兄に持ちかけている。妹は対立する一家の息子にしようと、相手とキスをかわし、兄の了解も取り付ける。息子はキスができたことで、有頂天になり浮かれて、帰宅途上に先住民に襲われて死んでしまう。母親は噂を信じて、息子の死は娘に先住民の血が流れているからだと、泣き叫んで遺体にすがっている。

 真相を探ろうとサーベルの男を探しはじめる。見つけ出して吊し上げて語らせると、娘は先住民の子で、亡き父と、今そこにいる母はそのことを知っているはずだ。母親はそのとき娘のからだに付けられていた先住民のしるしを、洗い流していたと証言している。それを聞くと母親は、首に縄をかけられた男の、またがっていた馬にむちをあてた。馬はかけ出して男は首が締まって死んでしまう。最後までは語られなかったが、居合わせた娘は落胆し、兄は娘を守って去っていった。帰宅後、血が呼び寄せたのか、娘は鏡の前で自分の肌の色を確かめ、ひたいにまっすぐに黒の一文字を引いた。

 先住民が娘を取り戻しにやってくる。妹は迷っているが、兄は有無を言わさず、先住民の手から妹を守ろうとする。母親は生まれたばかりのわが子を亡くしたとき、先住民の生き残った赤ちゃんを発見し、わが子のように育てたのだと明かした。確かに母親の母乳で育っていたのだった。妹は決心をつけたようだ。先住民が家を取り囲み、こちらにいるのは兄と下の弟(マティルダ)、母と妹だけだった。上の弟(キャッシュ)は先住民といっしょには住めないといって家を出ていた。銃を手に応戦を決意し、兄は弟に取り囲んでいるひとりを撃ち殺せと指示する。

 戦いがはじまり、先住民が押し寄せてくる。妹も銃を手に応戦している。母と弟は負傷する。家に火をかけて防波堤を築くが、敵は身近に迫ってくる。妹に近づいてきた先住民は、実の兄(ロスト・バード)だった。手を差し伸べたところを、妹は引き金を引いて射殺してしまった。上の弟は対立する一家の娘のもとに居たが、戦火の音を聞きつけて、駆けつけてくる。銃弾が尽きていたところを助けられて、家は焼けてしまったが、一家はひとつになって無事に防衛することができた。

 兄は極限状態のなかで妹への愛を告白している。血のつながりはないので、ふたりは結ばれ、ハッピーエンドになるのだが、これでよかったのかという疑問が起こってくる。妹に群がる男たちを排斥していたのは、自己の屈折した愛情のゆえだったようにさえみえる。実の兄を射殺してしまった妹の心の傷は、描かれずじまいだったが、白人社会に虐げられた民族の恨みは必ずあるはずだ。

 日本に置き換えて、娘の名前が「めぐみ」だったならどうなのだろうと考えてしまう。ヘップバーンの能天気と、ランカスタターの演じる人格に違和感が残る。批判的に描いているとすれば、彼らは確かに許されざる者だろう。アメリカがかかえる根深い問題であり、西部劇の限界を露呈するものとなったように思う。

第445回 2024年4月24 

バターフィールド8 1960

 ダニエル・マン監督作品、アメリカ映画、原題はBUtterfield 8、エリザベス・テイラー主演、アカデミー主演女優賞受賞。奔放に生きる娘(グロリア)と財産家の男(ウェストン・リゲット)との恋愛のはてに起こった悲劇である。娘は母と二人暮らしだが、出歩いていて家に居つかず、母親の心配は絶えない。ずけずけとものをいう友人がいつも出入りしているが、母は娘を強く諌めることができないでいる。娘に対して引け目があるようにもみえる。男には妻(エミリー)がいるが、実の母親の看病でながらく家を空けていた。娘はモデルとして働いているが、男を渡り歩く遊び人として、評判はよくなかった。男たちは娼婦として彼女に接している。

 はじまりは男の部屋で一夜をすごし、朝になり男は仕事に出かけてしまい、ベッドで遅くまで寝そべっているところからである。電話の受話器は外されたままになっている。250ドルが置かれていたのを見つけて腹を立てている。自分は売り物ではないと、口紅で鏡に「非売品」と書いて出ていった。着ていたドレスは破れてしまって、仕方なくドレッサーにかかっていた妻のミンクのコートを着て出た。

 家には戻らず、男友だち(スティーヴ)を訪ねて、昨夜からのいきさつを話している。彼は作曲家でピアノに向かっている。コートを脱いで、なまめかしい姿で誘いをかけてくる。昔なじみであり、恋人どうしにみえるが、気心が知れている以上のものではないようだ。彼には恋人(ノーマ)がいるが、主人公との関係を疑っている。

 財産家が遊び人になったのは、妻の一族の経営する会社で副社長の地位にあり、生きがいをなくしていたせいだった。富裕な生活をしているが、満足してはいない。以前は法律事務所に勤め充実した日々を送っていた。気にかけてくれる先輩がいて、現在の自堕落な生活を心配している。主人公の男あさりは、相手の卒業した大学名をアルファベット順にAからはじめて、今の相手はイェール大学卒で、Yまできていた。

 彼女は幼なじみに自分の生い立ちを打ち明けている。父を早く亡くし、母親に再婚を迫った軍人がいて、その少佐から迫られて、13歳の少女は深く傷つき、それ以来、道を外れてしまったのだという。精神分析医の診療も受けているが、心の病は癒えてはいない。そんな彼女を真剣に愛する男の登場で、心は変化していく。妻の人となりを陰からのぞきみることで、自分とは異なる上品なたたずまいに接して、自分を卑下することになる。

 高価な毛皮のコートを返しそびれたことで、妻に気づかれ、夫も彼女を疑って、盗んだものと思い込んでしまう。ふたりの関係にひびが入るが、男はあきらめきれず、女が自宅を去ってボストンに向かったことを突き止めると、あとを追った。このとき妻には離婚を切り出していた。

 行き先がわかったのは、バターフィールド8への電話からだった。映画タイトルであり、何度か登場する名称だが、何の名前なのかは、明確には語られない。たぶんふたりが出会った秘密の組織のことなのだろう。BU-8と刻まれたライターを女は男にプレゼントしている。彼女を示すイニシャルなのだろうか。はじめ男はカバンをプレゼントされるものだと思ったが、彼女が店員にイニシャルの刻印を頼んだのは別の男のそれだった。嫉妬心を燃えさせる策略だったようにみえる

 恋のかけひきは、男が追えば、女は逃げる。高速道路での猛スピードの追跡は、女の死につながった。男は名乗りをあげ、彼女との関係も警察に伝えている。妻のもとに戻り、彼女の死と明日の新聞に掲載されることを伝える。そして自分が誇りを取り戻すことができれば、帰ってくると言い置いて去っていった。死に追いやった自分の不甲斐なさを嘆き、死者の誇りを賛美しての別離だった。妻は離婚をうながす母親に対して、夫を待ち続ける姿勢を、崩すことはなかった。それは誇り高き妻の姿であり、夫にはそれが重荷となっていたのだと思う。

第446回 2024年4月26 

雨のしのび逢い1960

 ピーター・ブルック監督作品、フランス映画、原題はModerato cantabile、マルグリット・デュラス原作、脚本、ジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンド主演、カンヌ国際映画祭女優賞受賞。冬枯れた木々を背景に、アンニュイな気分がただよう、典型的なフランス映画である。港町で工場を経営する社長夫人(アンヌ)と、そこに勤める工員(ショーヴァン)との秘められた恋。実らないまま何事もなく終わるので、波瀾万丈とは言えないが、心理的な葛藤のドラマとしては、味わい深いものだった。

 狭い社会である。夫は家庭的ではなく、妻の楽しみは子どもの成長しかないが、ピアノのレッスンに連れて行っても身は入らない。映画タイトルにある「歌うように普通の速さで」という指示に、息子は従うことができない。結婚をしてこの町に住んで7年になり、母は一人息子を溺愛している。ピアノ教室の近隣にあるカフェで事件が起こり、レッスンそっちのけで、窓から身を乗り出して見ている。パトカーがやってきて、殺人事件なのだとわかると、人だかりに混じって好奇心をつのらせている。女が横たわり、それにすがりつく男が捕らえられて、連行されていった。

 彼女に近づいてきた男があった。次の日のレッスンの帰りに、事件のいきさつを知りたくて、子どもを連れてカフェに立ち寄ったときのことである。子どもを外で遊ばせて、ワインを注文して飲んでいると、男が声をかけてきた。夫の工場で働く工員だった。町にやってきて2年目だったが、社長夫人であることは知っていて、いつも遠くからながめていたのだという。飲み慣れないワインをさらに勧められている。事件の詳しい内容を知りたがっていると、男は次に会うときまでに聞いておくと約束している。

 息子と散歩に出かける日課を探って、遠出をしたときに、男はあとをついて行く。女はそれに感づいているが、警戒してはいない。むしろ期待しているように見える。子どもが遊んでいるあいだに、ふたりの話ははずんでいた。知りたがっていた事件の細部を男は語っている。殺人に至った男女の愛のもつれを興味深く聞いている。平凡な日常への刺激材料としてはこの上ないものだ。やがて夫と子どもの目を盗んで、男との逢瀬を重ねていく。

 狭い町で人目を避けることは難しかった。男は躊躇するが、女はだんだんと大胆になっていった。現場検証で殺人者がカフェで事件を再現している。男は聞き耳を立てて、真相を探ろうとしている。次の日に新聞に詳細が掲載されたのを女は読んで、先に男から聞いていたのとちがっていることを知る。自分たちと妙に符号していた内容は、男の創作だったのだ。それでも女はさらに好奇心を抱いて深入りをし、もっと想像の話をしてくれと、男にせがんでいる。

 夫は妻の不自然な行動に不信感を抱き始めた。客を招いての晩餐会の夜、女は家を抜け出して、男に逢いにカフェを訪れた。客たちは二人の関係に気づいていて、浮き足立っている。女は男に迫り、愛を告白するが、男は別れを告げていた。好奇心から近づいたのは自分の方だったが、女に火をつけてしまったことに、恐れを感じはじめていたようで、町を去ろうとしていた。いったん晩餐会に戻るが、終えてからもう一度来ると言いおいて、女は出ていった。後ろ姿に男たちの視線が集まっている。

 晩餐会では妻の態度は落ち着きがなく不可解だった。終了して抜け出た妻を追って、夫は車を走らせた。女がふらつきながらやってくるのを、窓越しに見かけた男は、カフェに向かい、閉店しようとしていた女主人に、ここでしか会うことができないのだと懇願して、店を開いておいてもらった。女主人は自分も思いを寄せていた、このなじみの男を心配げに見つめている。

 女がやってくるが、男は明日の旅立ちを告げて、すげなく姿を消してしまう。入れ替わりに夫の車が探し当てて、ライトを放っている。妻は肩を落として車に乗り込むと、FINの文字が現れた。一歩まちがえれば、殺人事件になっていたかもしれないが、表面上は何もなかったかのように終わった。大人の恋は情念を制御し、ゆったりとしたモデラート・カンターピレとなっていた。もちろん内面の炎は燃えたぎっていたはずである。昨今の映画なら、露骨な性描写にうんざりするところなのだろうが、この時代、夢幻の味わいなのがいい。虚無が縁取る何もない空間を描き出した、監督ピーター・ブルックの演出が冴えている。日本語名を見ながら、しのび逢いにはちがいないが、雨など降っていたかなと思い起こしている。

第447回 2024年4月27 

日曜はダメよ1960

 ジュールズ・ダッシン監督作品、ギリシャ・アメリカ映画、原題はNever on Sunday、カンヌ国際映画祭主演女優賞(メリナ・メルクーリ)、アカデミー賞歌曲賞(マノス・ハジダキス)受賞。舞台はギリシア、港町(ビレウス)で享楽的な日々を送る商売女(イリヤ)の話。アメリカからやってきた自称哲学者(ホーマー)が、この女に興味をもつが、なぜ彼女が商売女なのかがわからない。客は誰でもいいというわけではなく、自分の好みの相手としか付き合わない。英国の兵士がふたり、彼女に料金を聞いている。安い値をつけたほうが自分好みだった。その兵士の腕を取って、酒場をあとにしていた。日曜日は仕事は休みで、気の合う男たちを招いて騒いでいる。

 外国からの寄港船も多く、ギリシア語だけでなく、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語にも通じている。どこで覚えたのかという問いに、女はベッドでと答えている。アメリカ人は軽くあしらわれるが、彼女をギリシアの象徴的存在だと考えて、アプローチを続ける。テーマは古代ギリシアはなぜ衰退したのかという疑問だった。

 アメリカ人は教養を振りかざして、ギリシアの哲学や悲劇を楽しむが、彼女もまた王女メディアやオイディプス王の物語を語りはじめている。ただし最後には悲劇にならず、ハッピーエンドにしてしまい、男は話が違うと言って、ムキになっている。女の生活を改めようと、金をかけて、部屋を改造して、図書館のようにしてしまう。バッハやモーツァルトのレコードが散らばり、西洋文化の基本的教養を教え込もうとしている。それを通して古代ギリシアの偉大さを知らせようというわけだ。女はアリストテレスは女性蔑視なので嫌いだと言っている。

 男の考えに同調して、部屋に廃業とまで、看板を掲げていたが、男の資金源が町を牛耳る悪徳組織からのものだと知ると、アメリカ人を追い出して、またもとの生活に戻っていった。ギリシアの楽器を使った、軽快な主題歌が印象的で、クラシックの西洋音楽に対抗して、女が最後に自分を取り戻すときに、歌われていた。寄ってたかってかつての古代ギリシアを賛美して、こうあるべきだというおせっかいに、大きなお世話だと言い返しているようにみえ、好感が持てた。

 主人公を演じたメリナ・メルクーリのカラッとした地中海気質がさわやかで、ひとりの男に所有されない女神のような存在には、商売女としての陰湿な影は全くない。王女メディアになりきっての語りは、マリア・カラスを思わせるものでもあった。アメリカ男の教養主義は相手にされず、寂しくギリシアを去っていった。

第448回 2024年4月28

ラインの仮橋1960

 アンドレ・カイヤット監督作品、フランス、ドイツ合作映画、原題はLe Passage du Rhin、シャルル・アズナヴール、ジョルジュ・リヴィエール主演、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。ヒトラー政権下のドイツがポーランドに侵攻し、フランスがレジスタンスで抵抗をしている頃の話である。パン職人(ロジェ)と新聞記者(ジャン)が従軍し、フランス人捕虜としてドイツで捕まり、生きのびて再会するまでのできごとを追っている。行列をなして歩きながら、見知らぬふたりはラインの仮橋を渡り、敵地をゆく。互いに自己紹介をしあうが、捕虜の尋問では職業を聞かれると、新聞記者は農夫と答え、パン職人も同じように農夫と答えた。

 捕虜はそれぞれの家庭に下働きとして入り込んだ。新聞記者は厳しい家族だったが、若い娘がいるのを喜んでいる。パン職人は村長宅で、息子には意地悪をされたが、娘は優しく迎えてくれた。収穫を手伝って、トラックで運搬をしたとき、路上で友を見かけて、一袋を投げ落としてやった。音がしたからかトラックが止まり、娘が荷台に上がってきて袋の数を数えている。一袋少ないのに気づくと、何も言わずに別の袋を開けて、少しずつ空の袋に入れはじめた。男もそれに合わせて、同じようにしている。ふたりは顔を見あわせて、にっこりと笑みを交わした。

 新聞記者は脱走を考えていた。日中は農夫として働き、寝泊まりは収容所だった。ベッドを隣り合わせていたパン職人を誘うが、今のままで満足しているようだった。記者は持ち前の男の魅力を発揮して娘に言い寄り、無理矢理に関係を結ぼうとして失敗し、父親に通報され、ドイツ軍に目をつけられる。持ち場が変更になるが、逃亡の意志は強く、やはり女を利用して、脱走をはたす。

 パリに戻り、レジスタンスの活動をはじめるが、ゲシュタポに捕まり、身に危険が及ぶ。そんなときかつての恋人(フロランス)が手を差し伸べた。新聞社の同僚だった恋人は処世術にたけ、権力になびきながらも、この男を愛していた。かつての相手は新聞社の社長だったが、その後ドイツの支配下にあっては、ゲシュタポの司令官とも関係をもった。それは愛する男を助けるためであったのかもしれない。男は理由を告げられないまま釈放され、パリでの記者の仕事に復帰する。人望を集め編集長にまでなったころに、連合軍の反撃でパリが解放される。

 恋人が結婚をするのにマドリッドに向かうのを知ると、引き止めてプロポーズをする。このとき彼女がゲシュタポの司令官の情婦であったことを知らされている。新聞社から結婚か辞職かの二者択一を迫られ、辞職を決意した。パン職人は終戦を迎えて、捕虜から解放され、フランスに帰国することになる。これに先立って、戦況の変化で村長は家族を残して、土地を去ってゆく。捕虜ではあったが信頼を得ていたパン職人に、村長は家族を託していた。はじめ反発していた息子とも打ち解け、娘とは心を通わせている。

 戦争が終わり、パン職人はパリに戻った。パン屋の娘婿だった。ガミガミ言われながら、地下室でパンを焼く単調な生活に追われている。夫婦の絆は薄く奴隷のようで、ドイツでの充実した日々を懐かしんでいる。そんなとき新聞記者とめぐりあい、現況を打ち明け、ドイツに戻りたいと伝えると、書類の手配に一肌脱いでくれることになる。許可証の手続きをすませて、ラインの仮橋見送る友の姿があった。その頃、記者の恋人も意を翻して、手紙を残してマドリッドへと向かっていた。

 戦争がもたらした不幸な結末であったかもしれないが、二人は人生の苦難に鍛え上げられた、確実な手ごたえを受け止めていたにちがいない。マドリッドに去った女の心境も、恋人のことを思ってのことだとすると、心憎いものがある。もちろんドイツに加担したことからの、国外逃亡だったのだろうから、女の打算だとすれば、マドリッドにはこれまで以上の幸せが待ち受けているのかもしれない。

第449回 2024年4月29

勝手にしやがれ1960

 ジャン=リュック・ゴダール監督作品、フランス映画、原題はÀ bout de souffle、ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ主演、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。ラストシーンの女の謎めいた表情が印象に残る映画である。まっすぐにカメラを見つめるのは観客に向かって語りかけているのだという解釈もあるようだが、私は鏡を見つめているしぐさだと思っている。そこに見ているのは自分ではなく、女に宿った男の魂だったという解釈が、ここでの提案である。

 無軌道な男(ミシェル)の死に至るまでの話。パリの下町の情景が散りばめられた風物詩でもある。エッフェル塔や凱旋門シャンゼリゼ通りが舞台として映し出され、フランスにあこがれる外国人にとっては、生活感をともなって、親しみのある身近さを感じさせるものだ。スタイリッシュなカメラワークは、日常の目線に立って映し出されていて、スナップ写真をつなぎあわせたような新鮮さがある。ハリウッド映画に対抗して、手持ちカメラで写した味わいが見落とせない。

 男が車を盗み、警察から追われ、白バイの警官を射殺してしまうことから、物語ははじまる。犯人は逃げ、警察が追いかけるというサスペンスタッチで物語は進展する。男は金をもって逃亡しようと考えるが、手元に逃亡資金はなく、金を貸した相手から取り戻そうとするのだがつかまらない。ぐずぐずしているあいだに、警察の手がまわり、最後には撃ち殺されてしまう。

 話としてはこの男に恋人のアメリカ娘(パトリシア)がからんで、ふたりの心の葛藤を写し出しながら展開していく。娘はパリに住む留学生のようで、フランス語はうまい。男とのつきあいは日が浅く、まだ3日とも5日とも言っている。大通りでアメリカントリビュートと呼び声を出しながら、新聞を売り歩く姿が最初の登場だが、主人公がその姿を探し出して声をかけている。誘うが警戒してか、なかなか乗ってはこない。女は男のことをいつもちがう車に乗っている、金持ちの道楽息子だと思っている。実際には、車の盗みを繰り返し、現金は小銭しかもっていない。車の盗みはプロ級で素早い。

 彼女は新聞に記事を書く機会をねらっていて、男との交際とは別に、アメリカ人の関係者とのつきあいをすすめている。男はふたりが馴れ馴れしくしている姿を、尾行しながら追っている。キスまでしているのを目撃し、嫉妬心をつのらせている。娘のいないあいだに、部屋に入り込んで、ベッドに潜り込んでいるので、ふたりの関係はすでに深いもののようだ。アメリカ人とのつきあいは、仕事をもらうためのもので、恋愛とはちがうのだと、女は弁明をしている。

 男が警官殺しで追われているのを、女が知るのは、かなり遅くなってからだ。刑事が捜査にやってきて、何かあればと名刺を渡している。はじめ女は男をかばうが、やがて裏切る。みずから警察に電話をして、居場所を教えている。そしてそのことを男に打ち明ける。男にひとりで逃げるよう促すが、男は逃げようとはしない。男は愛を確かめて問うと、女は警察に通報したのだから、たぶん愛してはいないのだろうと、他人事のような答えを返している。

 警官に追われ、背中を撃たれてよろめきながら歩いて、四つ角まで来てばったりと倒れる。刑事と女が駆けつける。死ぬ間際に「まったく最低だ」というセリフが聞こえる。「最低」は原語ではdégueulasse、英語ではsuckがあてられている。女は何て言ったのと問うと、刑事は「あなたは最低だと言ったのだ」と答えている。刑事は男の居所を知らせる電話をもらったとき、女が裏切ったことを知っていた。女は唇に指を触れたのち、最低ってどういうことと自問をして、正面をみつめ、後ろを向いたとたんに、FINの文字が入る。もの思わせぶりなラストシーンが謎めいていて興味を引く。

 カメラを見つめる目は、誰に向かって語っているのかあいまいなままだ。はじまりの場面でも、男は車を盗んで知り合いの女が乗り込もうとするのを拒んで、ひとりで走らせていた。そのときも運転をしながら、カメラに向かって繰り返し語りかけていた。助手席に向かっての対話にみえるが、同乗者が誰もいないのを私たちは知っている。私たちに向かってしゃべりかけているのだとみれば、アンガージュマン(参加)の思想ともいえる。第三者として安穏に身を置かせない、この時代の意識の反映とも言えるものだ。

 最後のセリフの前に、男は三度口を動かせている。それは何か言いたげにみえるが、ことばを発しようとしたのではないようだ。先に女の部屋で愛をかわす場面で、鏡の前でしかめっ面をして、三度これと、同じ口のかたちをみせていた。ここではそれを再現していたのだろう。そのときは男と女がともに同じ動作を繰り返していたので、記憶に残るものだった。

 下唇に指をあててなぞるのは、男の癖のようだが、何度も繰り返すポーズだ。最後にそれを死にゆく男に向かって、女は再現してみせる。映画館の前でハンフリー・ボガートのブロマイドを前にしての男の、このしぐさはハードボイルドに生きるタフガイに寄せるオマージュでもあったのだろう。

 最低なのは自身の生きざまだったはずだ。銃を携帯するほどの悪人ではなかったのに、盗んだ車のフロントボックスに、拳銃が入っていたばっかりに、ホールドアップをされたとき、警官を撃ち殺すことになってしまった。刑事に追われ逃げるときには、金を持参した仲間と出会っている。車に乗って逃げるよう誘われたが、拒んだのは女への失意からの自暴自棄だったのだろう。逃げるならせめて拳銃でももっていけと投げ渡され、それを拾うことで、追いかけてきた刑事から撃ち殺されてしまった。

 銃さえもっていなければ、こんなことにはなっていなかったはずだ。ツキに見放された、まったく最低な人生だった。原題のフランス語の意味は「生きせき切って」ということだが、死に急ぎをしてしまった青年の、やぶれかぶれの生きざまを読み取ることができる。

 女は妊娠しているかもしれないと、打ち明けていたことが気にかかる。男の反応を見るための虚言だったようにも取れるが、真実はあいまいなままである。男の身振りの再現は、胎内に宿った男の魂のなせる最低を、引き受けようとする女の決意だったように思える。

第450回 2024年4月30

裸の島1960

 新藤兼人監督作品、乙羽信子、殿山泰司主演、林光音楽、モスクワ国際映画祭グランプリ、作曲賞受賞、英語名はThe Naked Island。セリフが一言もないことに、まず驚かされる。監督の書いた脚本が、どんなのだったかが気にかかる。にもかかわらず話の筋がよくわかるのは、映像の力なのだろうと思う。淡々とした日常生活が映し出されているだけなのに、考えさせられるのはなぜなのか。問題提起を含んだ実験作だが、前衛精神で突っ走っているわけではない。むしろ手がたい手法を駆使して、映画で追求できる極地を求めているようだ。

 瀬戸内海の孤島に暮らす家族四人の四季を追っている。「耕して天に至る」という故事と、「乾いた土」という文字が冒頭、説明として入る。天秤棒の前後に水桶をぶら下げて島の上まで運びあげる夫婦がいる。傾斜のある坂は足もとが悪く、女のほうは重たいのでよろよろとしている。たどり着くとひしゃくですくって、少しずつ土にかける。潤いはなく干上がった土は、とたんに水を吸い込んでしまう。

 水は民家のある近隣の島から、小舟で運んでくる。唯一の交通手段である。一度に夫婦で桶の数で四つしか運べない。水は船着き場から少し歩いた道路の脇の、湧水から汲んでいるようで、水道水をもらったり買ったりしているのではなさそうだ。子どもは男の子が二人いて、上の子は大きな島の小学校に通っている。母親が島まで送るが、このとき二杯分の水を桶に入れて持ち帰っている。朝早くすでに四杯分を夫婦は島まで一往復して運んでいた。その間に二人の子どもは走りながら、朝の食事の準備をしている。よく働く素直な子どもたちである。無言のまま急いで食事をすませると、父は野良仕事、母は上の子の送り迎え、下の子は海に潜って魚介類に立ち向かっている。

 夫婦で淡々と無言で水を運ぶ姿が、延々と映し出されている。来る日も来る日も変わらない。妻は一度、足を滑らせて片方の水桶をひっくり返したことがあった。夫が近づいてきて、何をするのかと思ったら、妻を殴り倒した。妻は起き上がり、無言のまま作業を続けている。ドラム缶を湯船にして交替で風呂に入る。子ども二人、父親、母親の順で、瀬戸内海を望む露天風呂と見ると、心地よいつかのまの幸福であるのだとわかる。子どもは仲良く二人で入っている。顔の汚れが消えた女の顔が美しい。母親がすませて、女性である恥じらいを取り戻すと、すでに日は落ちてしまっていた。

 夏の日差しが過ぎて秋になると、麦の収穫があり、四俵にまとめて島まで運んで、地主に納めている。子どもたちが釣り上げたみごとな魚を売りに、連絡船に乗って町まで出る。尾道と瀬戸田という地名が出てくるので、ここでやっと地域を知ることになる。大きな屋敷をねらうがうまくいかず、最後に魚屋に持ち込んで、やっと売ることができた。食堂に入って家族で食事をして、子どもの衣類も買ってやった。楽しそうな笑顔が写し出されてほっとする。

 両親が小舟で出ているときに、長雨で体をくずした上の子が熱を出していた。苦しがっているのを、下の子がそわそわとして見ているが、両親に連絡するすべがない。小舟が見えて、大きく腕を回している。母親は何が起こったのかと心配顔だ。戻ったときには長男はぐったりとしていて、父親はもう一度島に向かうが、医者がつかまらない。やっと見つけて戻ったときには、手遅れだったようで、母親は涙を浮かべていた。あっけない最後だった。子どもの弔いに、船を仕立てて、クラスメイトが担任に付き添われて、僧侶を伴ってやってきた。瀬戸内海を望む小高い丘に、穴を掘って棺おけを埋めて墓標を立てている。

 息子を失っても、日常生活は同じように続いていく。母親はいたたまれず、運び上げた水桶の片方をぶちまけて、地にひれ伏して泣き崩れた。医者もいないこんな孤島になぜ住み続けなければならなあのかという無言の叫びに見える。夫はそれを見ながら慰めることもできず、黙々と耕作を続けている。泣きはらして涙が枯れて、妻は起き上がり、夫と同じように作業に戻った。妻は二度、水をぶちまけたことになる。一度は足を滑らして、二度目は悲しみの余り、やり場のない怒りを大地に向けて訴えた。

 季節は移り冬が過ぎ、桜の季節がめぐってきた。変わらず何の文句も言わずに、黙々と働く姿を通して、私たちは考えさせられ、年中不平ばかりを言っている自分を見つめ直すことになる。自然の営みが風のように音を運んでくる。セリフに代えてつぶやくような伴奏曲が、黙々と働くシジフォス神話に、切々と語りかけてくるのがみごとだった。映画を見終わって、セリフを入れた脚本を、名脚本家でもある、この監督に代わって書いてみようと思った。

第451回 2024年51

おとうと1960

 市川崑監督作品、幸田文原作、水木洋子脚本、岸惠子、川口浩主演、宮川一夫撮影、ブルーリボン賞作品賞、監督賞、女優主演賞、技術賞受賞。「銀残し」という撮影術によって、独特の調子をもった映画の表情を実現している。カラー映画なのに、あとで思い起こしてみると、モノクロ映画ではなかったのかと思ってしまうところに、魅力の秘密はあるようだ。セピア色をしたノスタルジーがかぶさって、不思議な感覚を味わうことになった。

 姉(げん)が19歳、弟(碧郎)は17歳、四人家族で父親は少しは名の知れた作家であり、家にいて原稿用紙に向かう日々を送っている。母親は後妻だが、リュウマチで手足が不自由であり、家事は姉がこなしている。弟は姉に甘えて、迷惑ばかりかけている。悪い遊び仲間に誘われて、万引きをしてひとりつかまり、母親が警察にまで引き取りに出向く。

 これまでも面倒を起こすたびに、母親は菓子折りをさげて、頭をさげてきた。血のつながりがないのに、なぜこんな役をしなければならないのかと、不満を感じている。キリスト教の信仰があり、犠牲的精神を前にすると、子どもたちはうんざりとしている。信仰仲間がやってきてひそひそ話を始めると、子どもは嫌がって家を出てしまう。

 姉は弟の保護者がわりでもあり、このままではいつまでも嫁に行くことができない。雨が降り傘をもっていってやるところから映画はスタートする。過保護だが、弟は意地を張って突っ張っている。弟を取り調べた刑事が姉を気にいって、ひつこく追い回し、通っている学校にまで押しかけてくる。通学路で姉を見かけていた工場の工員が。声をかけて言い寄ってくる。ともに弟は学生仲間の助けを借りて、嫌がる姉の窮地を救っている。大量のアヒルが出てきたり、がっしりとした工員が、オネエことばをしゃべったりと、意表をつくような演出が楽しませてくれる。

 登場人物も誇張されていて、それぞれの名優の演技が光る。父親役の森雅之の気の弱くひ弱げな好人物は、これまで神経質なインテリの役柄を数多くこなしてきたキャラクターを地でいくものだ。それに対して、狂信的で攻撃的な後妻を演じる田中絹代は、男を立てつつも責め立てる強い個性を際立たせている。家に引きこもり、足を引きずって歩く姿もインパクトがある。信者仲間の某夫人を演じる岸田今日子の不気味さが、それに輪をかける。医者役の浜村純と看護婦役の江波杏子の一癖ある演技も見逃せない。

 この母親のキリスト教仲間が、縁談を持ち込んだときは、姉は条件はいいのに、自分の意志でことわってしまう。父や弟を置いていけないという思いからだった。義理の母も娘を便利づかいをしているが、煙たい存在でもあり、嫁がせて追い出したい思いが顔を出す。気の強い娘とのやり取りが、静かな火花を散らして、ドラマを盛り上げている。

 弟の遊びは止まらない。警察沙汰で退学になるが、転校した学校でも、すぐに遊び仲間をみつけている。ビリヤードからモーターボート、乗馬と、金のかかる遊びを繰り返し、姉が父から金をもらって尻ぬぐいを繰り返している。父には子どもを甘やかすだけの収入があった。馬を骨折させてしまい、弁償することにもなる。本人は金の心配よりも、馬に悪いことをしたと悔やんでいる。父は叱ることはなく、優しく諭すが、弟の遊びがやむことはなかった。

 弟が肺結核であるのがわかったとき、すでに手遅れだった。やっと遊びは止まったが、自暴自棄になるのを姉は食い止めようとする。死期が迫ったとき、母親が不自由な体をおして見舞いにくる。弟は心を開いて、素直なことばで対応すると、母親もこれまでの非を詫びているようだった。姉の心配もしてやっている。姉弟の絆は何ものにも変えがたく、深く強いものだった。

 姉は伝染するのも恐れず、病室に寝泊まりして看病をした。互いの手首に紐を結えて、まるで恋人同士のようにして眠っていた。時間が来ても紐が引かれることはなく、姉が目覚めたとき弟に反応はなかった。父が駆けつけ、母も来て、見守られるなか静かに息を引き取った。このとき姉は気を失い、別室に運ばれて横になって眠っている。母がようすを見に来て目覚めると、何を勘違いしたのか、あわてて病室に戻っていった。それは弟の看病を続けるためだったようにみえる。気がふれて弟はまだ生きているのだと思っているように見えなくもない。同時に画面右端に「完」の文字が浮かび上がり、結末に余韻を残した。

 不自然にさえ思える監督のこだわりは、あちこちに隠し込まれている。誇張された演技は素人演劇を思わせるもので、名優とはいえこれが二世による文壇の文士劇の体裁を取っていることで裏付けられるようにみえる。原作は幸田露伴、音楽担当は芥川龍之介である。配役には有島武郎、川口松太郎、岸田國士などがいる。岸惠子は岸田今日子と韻を踏んでいるように思うのは考えすぎだろうか。

第452回 2024年5月2

ぼんち1960

 市川崑監督作品、山崎豊子原作、市川雷蔵主演。大阪のあきんどの世界。船場の道楽息子(喜久治)の一代記である。老舗の足袋屋の跡取り息子だが、店を仕切るのは祖母(きの)と母親(勢以)であり、婿養子の父(喜兵衛)は働くだけの人で実権はない。古くからのしきたりにがんじがらめになっていて、息子は何とか脱却したいと思っている。ぼんちとは、商家のぼんぼんが、一人前に功を成し遂げたときに用いる名称である。女道楽が過ぎるので、嫁(弘子)をもらうことになるが、家のしきたりに合わず、子どもまで生まれていたのに離縁させられてしまう。男の子が生まれて喜んだ矢先のことだった。夫は自分の不甲斐なさを詫びている。

 妻が去り、男の女遊びは妾の数を増やしていく。昔からのなじみで家を買えている女(幾子)が一人いた。そのあとに新顔の芸者(ぽん太が現れ、ふたりの間に男の子も生まれた。それにカフェで働いていた馬好きの女給(比沙子)が加わる。競走馬も買い与えてやっている。さらには祖母が気にいってあてがわれた、料亭に勤めるしっかりものの女(お福)も入ると、四人の面倒を見ながら、商いにも精を出して、ホンモノのぼんちになろうとしている。

 父親はに敷かれて、仕事いちずな人だと思っていたが、隠れて囲っていた妾がいた。息子はそんなことができないと思っていた父を見直している。父が病に臥せることになったとき、その女を下働きで呼び寄せている。やがて父は息を引き取ると、母親が泣き崩れるのをみて、祖母は意外な顔をして、愛していたのかと冷ややかな目で見ている。

 気丈な祖母の言いなりになって、娘も孫も従うが、父の死で息子は、30歳そこそこで若だんなから、だんなへと名を変えることになったのを喜んでいる。遊びは加速するが、時代は戦争へと傾斜し、店の者は主人公と男の従業員を一人残して疎開していった。

 菩提寺は河内長野にあったが、祖母と母は有馬温泉に逃れていた。船場は空襲にあって、蔵を残して店と屋敷は焼失してしまう。船場が焼け野が原になったのを聞きつけて、疎開先から祖母と母が心配げに戻ってくる。焼け伸びたには、在庫の足袋があふれていたが、すでに三人の妾たちが集まっていた。

 最初の妾は男の子を産んだときに死んでしまった。妾の葬式には立ち会えないのが、しきたりだった。四番目の妾の機転で、料亭の二階の窓越しに、葬列をのぞき見ることができ、そのとき泣きくずれる主人公を、このしっかりものの女は優しく誘い込んで、男は体を委ねた。妾の子は船場では男なら五万円、女なら一万円を渡して、腐れ縁をなくしてしまうしきたりになっていた。慣例的に繰り返されてきたことなのだろう、マニュアルができていたのである。

 祖母は跡取りは男ではなく、女の子を産んでくれることを願っていた。男で道楽ものならどうしようもないが、女の子だとしっかりものの婿養子をもらって、店は安泰だという理屈だった。主人公の放蕩を見るにつけ、そう思うのだった。四番目の妾は、女の子を生んでくれと祖母が念じて引き入れたが、主人公と結ばれたとき、彼女は自分が妊娠のできない石女であることを明かしている。主人公は祖母の思惑が外れたことを喜んだ。

 母親は従業員には厳しいが、祖母の言いなりで、自分の考えはなく言い返すこともできなかった。一人息子の好き放題も、これまでの船場のしきたりに従って処理される。妾をもつのも甲斐性のひとつで、妾のほうも、正式に店にあいさつにやってくる。

 新顔の芸者と関係したときも、しっかりとしたあいさつをしたことで、祖母は心情をよくしている。主人公は来ないよう言いつけていたのだが、芸者はきっちりとしたしきたりを重んじ、割り切りのよい性格だった。妾の一人は死んでしまうが、三人は焼け出されて、残された蔵に身を寄せている。祖母と母も加わり、この先どうしようかという難問に、主人公は決断する。

 腹に巻いていた現金を取り出して、六等分して女たち五人と自分の分だといって床に並べた。目分量での分け方を見ながら、芸者は札束の高さを比べながら、手を出している。美人だがちゃっかりとしている。当分は遊んで暮らせるだけの額だった。大阪はまだ危険なので、河内長野の里に移るよう指示する。妾三人は旅立ったが、祖母は川で溺れ死んでしまう。悲観しての自殺だったように見えた。芸者は去るときに、子どものことをくれぐれもよろしくと言い置いて去った。息子の分け分は考えてはいなかったのである。

 はじまりと終わりは、没落した今の生活が写し出されている。主人公は老いて狭い家に暮らしているが、まだ再建の夢を捨ててはいない。息子が二人やってきていて、仏壇に手を合わせている。母親の法要の年だった。確か七年前に死んだと言っていたか。主人公はその後二度目の結婚をしていた。里へ出向いたこともあったが、三人の妾はたくましかった。三人が仲良く入浴する姿を遠目で見ただけで、彼女たちの生き抜く活力は、もはや自分の手に負えないものに感じたようだ。十分すぎる資金が彼女たちを潤していた。そこで女遊びには見切りをつけたのだが、それはぼんちになり損ねた証明でもあった。

 男は老境に達しているが、もう一旗あげようと意気込んでみせる。息子は足袋屋など時代遅れだと思っているが、父は自分の仕事はこれしかないと、意地を張っている。身の回りの世話をする老いた女中がひとりいて、若い頃からながらく付き添ってきた下働きだった。息子は彼女が父親に好意を寄せているのだと見当をつけている。その日は顔なじみの落語家(春団子)が法事に訪れていた。主人公は息子から金を借りて誘い出し、二人して花町にくりだしていた。

 ふたりの子どもは、誰の子だったのか。ともに慎ましい月給生活のようである。冒頭に出てきたセリフを思い起こしてみると、太郎というが次男だと言っている。母の位牌に手を合わせているが、血のつながりはないとも言っていた。太郎というのは、確か芸者が自分の名前ぽん太から取った名であるはずだ。それなら長男は、離縁された最初の妻との間に生まれた子だということになる。ふたりの息子を見ていると、すでにぼんちの時代は終わったのだということがわかる。それでは芸者の母親はどうなったのか、仏壇を見ると、すべての妾が位牌となって並んでいた。

第453回 2024年5月3

青春残酷物語1960

 大島渚監督作品、桑野みゆき、川津祐介主演、英語名はCruel Story of Youth、ブルーリボン賞新人賞受賞 、監督28歳での第二作である。ゴダールの「勝手にしやがれ」と同じ年に制作されたことに、注目してみると興味深い。1960年安保を背景にした男女の学生に起こった悲劇。夜遊びをする娘(新庄真琴)が乱暴をされ、ホテルに連れ込まれようとしているのを、学生(藤井清)が助けたことから、二人は恋に陥る。男のほうも大学にも行かず不良学生であり、家庭教師に行っては、そこの母親と火遊びをしている。全学連に加わってデモに参加する学友もいるが、未来の展望を描けず、無軌道な生活を送っている。

 チンピラ相手にけんかをすると、度胸があり強くてヤクザの兄貴分から、いちもく置かれている。金がなくなると、娘を使って金のありそうな男を誘わせ、言いがかりをつけて、金を巻き上げようとする。ちょうど娘を救ったときの状況を再現するのだが、娘もおもしろがって乗ってくる。何度かは成功をして、味を覚えることになる。はじめて娘を助けたとき、相手の男がおびえて、財布から金を出したのが記憶に残っていたのだろう。そのときは正義感が先に立っての行動だった。女は頼もしく思い、このときから男に引かれていった。次の日の誘いに乗って、デートを繰り返し、男のペースに巻き込まれていく。

 男のアパートは、しばしば友だちが逢いびきの場所として利用し、風紀は乱れていた。そんななか女は家を出て同棲するに至る。家族は父(正博)と姉(由紀)がいた。姉もかつては学生運動に深入りして、道を外れていたが、厳格な父がそれを引き留めた。それが今では妹の非行については甘く、口出しをしないのに、不満をいだいている。姉として妹は危なかしく、気が気ではない。

 娘は妊娠をしてしまったが、そのことを伝えると、男は堕ろすことをまず考えた。女は男の冷淡な態度に衝撃を受けた。金が必要なので、これまでの手口で一稼ぎしようと持ちかけるが、女は嫌悪感を示していた。金のありそうな中年男をターゲットに、車に乗り込むが、紳士的な振る舞いに接し、失敗と判断して、車を降りてしまう。男は堕胎費用を捻出するため、家庭教師宅の母親に頼み込む。去って行こうとする、男を引き止めようとして金は用意され、娘は無許可の医師(秋本)のもとに向かう。

 その医師は偶然にも、かつて娘の姉と愛を交わした相手だった。ふたりは学生運動に情熱を注いで、愛を育んだが、挫折して今は離れていた。男は社会の底辺にいて、医療を続けていた。姉は情熱的な妹の姿を前にして、思い出したように昔の恋人を訪ねたとき、妹と出くわすことになる。男が手術費用の支払いに出向いたときだった。二組の恋人どうしはそれぞれに話している。姉の時代と妹の現代での考え方のちがいを、パラレルになった会話を聞き分けながら、感じ取ることになる。

 妹は先に失敗した中年紳士に、何日かして偶然出会い、再度声をかけられている。優しくされると娘のほうが積極的になり、恋人のつれない態度への憤りもあって、一夜をともにしてしまう。このことを正直に恋人に話すと、嫉妬心を燃やす姿に接して、娘は愛を確認できたようだった。

 男のほうは思うようにならない苛立ちから、街を歩いていて女に誘われた。ついてゆき一室に入ると、誰の女に手を出しているのだとすごまれた。見るとかつて出会ったヤクザの兄貴分だった。金のない相手をカモにした女は殴り飛ばされた。チンピラとケンカになったとき、仲裁に入って、金で解決するよう提案したが、学生はきっぱりとことわり、金がないことはわかっていた。

 一夜を過ごした娘の相手を探して、男はゆすりにいく。紳士は簡単に金を出して、ふたりが共犯なのだと理解した。この脅迫から警察は動きはじめたようで、容疑が固まったとき、二人は常習犯として、繰り返しゆすりをしていた罪で、捕らえられる。芋づる式にヤクザの仲間もつかまり、もぐりの医師にまでも、被害が及んだ。

 男が釈放されたのは情夫として愛していた家庭教師宅のマダムの助けによるものだった。被害にあった中年紳士との間で、示談を進めてくれていた。兄とマダムがやってきて男は釈放される。このとき女がまだ鉄格子のなかでうずくまっているのを、目に留めていたが、無言のままその場をあとにした。娘のほうも遅れて、未成年なので施設送りになるところを、父と姉が迎えに来て、責任をもって監視指導することで、本人の反省を確認して開放された。男は別れを切り出し、女はすがろうとしたが、男の意志は固かった。

 この先、ふたりはそれぞれに悲劇の死を迎えるが、たがいに知らないままの最後となるのが、もの悲しく目に映る。男はヤクザからの復讐で、金がないなら女を貸せと言われ、拒否し続けたのちに、拷問を受け命を落とした。女は男の死を予感したように、見知らぬ男に誘われ、助手席に乗ったまま、衝動的に事故死をとげてしまう。

 ふたりはどんなふうに死んだのかさえ、たがいに知らない。姉がそうだったように、別れてのちあれからどうしているのだろうという感慨深い回想もなく、すべては同時に無に着してしまった。無関係の死は、時が経ってなぜ死んでしまったのかという疑問さえ、発することができないのである。しかしそうした真相を知っている、私たちの存在もまた不思議なものだ。これを通して私たちは勝手に青春の残酷物語を創り上げていくことになる。

第454回 2024年5月4

ふたりの女1960

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品、イタリア、フランス映画、原題はLa Ciociara、英語名はTwo Women、ソフィア・ローレン、エレオノーラ・ブラウン主演、アカデミー賞主演女優賞、カンヌ国際映画祭女優賞受賞。ソフィア・ローレンの気丈で情熱的な名演技が光る。イタリアが第二次世界大戦で敗北する時代を背景にして、ローマを逃れ、田舎に逃げ延び、またローマに帰ろうとする母(チェジーラ)と娘(ロゼッタ)のふたりの女の話である。娘はまだ13歳にもならない少女で、母親が溺愛をして育てている。

 年齢差のあった夫は亡くなっていて、食料品店を切り盛りしている。爆撃で棚の商品が根こそぎ落ちている。美人の母親に好意を寄せる、ラフ・ヴァローネ演じる男(ジョヴァンニ)がいる。夫の友人だったが、妻帯者であることから、女のほうは敬遠している。戦火が広がると男は積極的に迫ってきて、女も気を許すが、爆撃が続き、病弱の娘がおびえることで、母親は生まれ故郷に疎開をすることを決意した。男に店の見張り役を頼んで、ローマを離れる。留守中の連絡では、泥棒が入ったが、この男の働きで無事だったという便りをもらっていた。

 列車での帰郷の途中、線路が爆破されて、復旧までに5時間以上かかるのを聞くと、歩いて戻ることを決意する。カバンを頭に乗せて母娘は歩きはじめる。途中では空爆も受けて、ふたりに声をかけて通り過ぎ自転車の男が、目の前で被弾して命を落とした。村にたどり着くと、顔なじみが迎えて、娘とふたり歓待された。ジャン=ポール・ベルモンドの演じる隣家の息子(ミシェル)と再会する。以前から、女に思いを寄せていたが、戦争反対の立場を貫いて、仲間からは白眼視されている。娘はこの男に親しみを抱いたようだが、男は母親のほうに目を奪われている。まだ25歳の若者だった。

 ドイツ軍の統治下にあったが、戦況は連合軍の勝利が迫っていた。敗走する10人ほどのドイツ兵士が、村人に銃を突きつけて、食糧や水を要求する。道案内を出すようおどすが、誰もが尻込みをしている。隣家の息子が指名されると、父親が自分のほうが道には詳しいと申し出た。一人息子の身をあんじてのことだった。ドイツ兵士は年寄りを嫌がって、若者のほうがいいと突っ放した。息子は心配するなと言い置いて、敗走兵に同行した。

 入れ替わりに連合軍がやってくるが、ドイツ軍の空爆はまだ続いている。村人はひとかたまりになって移動するが、主人公親子はローマへの帰宅をめざして、グループと別れる。廃墟となった教会で休息を取っていたとき、大勢の男たちが現れて、ふたりは襲われる。ともに辱めを受けて、ことに娘の衝撃は強く、立ち直れないだけでなく、母親との会話も拒絶していた。

 ひとり小川に降りて行き、水に浸かって身を洗い流している。獣と化した男たちは何者だったのか。僧服を着ていたようにも見えた。肌の色がちがっているようでもあった。ドイツ人でも、イタリア人でも、あるいは連合軍の兵士でもなかった。向こうみずな単独行動をする母親を批判するかのような衝撃的なシーンだった。気持ちを取り戻して歩きはじめてからも、母親は通り過ぎるアメリカ軍のジープを止めて、兵士に向かって気が狂ったように、怒りをぶちまけている。

 若者たちを乗せたトラックがやってきて、同乗することができた。ローマの近くまでたどり着くが、その地名は隣家の息子が、ドイツ軍に連れられて行った場所だった。運転をする若者が娘に声をかけている。ダンスは好きかと聞いて、誘いをかけると娘は嫌がることなく、うなづいている。警戒のない娘の態度に、母親は戸惑っている。夜の宿で目を覚ますと、娘がいなくなっているのに気づいた母親は、隣家の息子をあんじて、会いに出かけたのではないかと心配する。やっと戻ってきてわかったのは、運転をしていた若者に誘われて、ダンスに出かけていたのだった。

 隣家の息子がドイツ兵に殺害されたという知らせを受けるのは、そのあとのことだった。慕っていた娘に伝えると泣きくずれた。ローマにたどり着く直前のことであり、このときカメラがゆっくりと遠のくようにして、The Endの文字が入った。未完のまま放り投げられたような印象が残る。私の見たのが英語版だったせいか、みんな英語をしゃべっているのも、私たち日本人にとっては不自然なものに目に映った。

 ふたりはこのままローマに戻ることになるのだろうか。ハッピーエンドで終わらせない空白が、余韻を残す。店は無事に再開できるのか、妻がいなくなれば結婚できるといっていた男のことが、気にかかる。娘は立ち直ることができるだろうか。ムッソリーニは倒れたというが、はたしてローマは安全なのか。気が気でないさまざまな不安が、この余韻の底流をなしている。