第449回 2024年4月29日
ジャン=リュック・ゴダール監督作品、フランス映画、原題はÀ bout de souffle、ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ主演、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。ラストシーンの女の謎めいた表情が印象に残る映画である。まっすぐにカメラを見つめるのは観客に向かって語りかけているのだという解釈もあるようだが、私は鏡を見つめているしぐさだと思っている。そこに見ているのは自分ではなく、女に宿った男の魂だったという解釈が、ここでの提案である。
無軌道な男(ミシェル)の死に至るまでの話。パリの下町の情景が散りばめられた風物詩でもある。エッフェル塔や凱旋門やシャンゼリゼ通りが舞台として映し出され、フランスにあこがれる外国人にとっては、生活感をともなって、親しみのある身近さを感じさせるものだ。スタイリッシュなカメラワークは、日常の目線に立って映し出されていて、スナップ写真をつなぎあわせたような新鮮さがある。ハリウッド映画に対抗して、手持ちカメラで写した味わいが見落とせない。
男が車を盗み、警察から追われ、白バイの警官を射殺してしまうことから、物語ははじまる。犯人は逃げ、警察が追いかけるというサスペンスタッチで物語は進展する。男は金をもって逃亡しようと考えるが、手元に逃亡資金はなく、金を貸した相手から取り戻そうとするのだがつかまらない。ぐずぐずしているあいだに、警察の手がまわり、最後には撃ち殺されてしまう。
話としてはこの男に恋人のアメリカ娘(パトリシア)がからんで、ふたりの心の葛藤を写し出しながら展開していく。娘はパリに住む留学生のようで、フランス語はうまい。男とのつきあいは日が浅く、まだ3日とも5日とも言っている。大通りでアメリカントリビュートと呼び声を出しながら、新聞を売り歩く姿が最初の登場だが、主人公がその姿を探し出して声をかけている。誘うが警戒してか、なかなか乗ってはこない。女は男のことをいつもちがう車に乗っている、金持ちの道楽息子だと思っている。実際には、車の盗みを繰り返し、現金は小銭しかもっていない。車の盗みはプロ級で素早い。
彼女は新聞に記事を書く機会をねらっていて、男との交際とは別に、アメリカ人の関係者とのつきあいをすすめている。男はふたりが馴れ馴れしくしている姿を、尾行しながら追っている。キスまでしているのを目撃し、嫉妬心をつのらせている。娘のいないあいだに、部屋に入り込んで、ベッドに潜り込んでいるので、ふたりの関係はすでに深いもののようだ。アメリカ人とのつきあいは、仕事をもらうためのもので、恋愛とはちがうのだと、女は弁明をしている。
男が警官殺しで追われているのを、女が知るのは、かなり遅くなってからだ。刑事が捜査にやってきて、何かあればと名刺を渡している。はじめ女は男をかばうが、やがて裏切る。みずから警察に電話をして、居場所を教えている。そしてそのことを男に打ち明ける。男にひとりで逃げるよう促すが、男は逃げようとはしない。男は愛を確かめて問うと、女は警察に通報したのだから、たぶん愛してはいないのだろうと、他人事のような答えを返している。
警官に追われ、背中を撃たれてよろめきながら歩いて、四つ角まで来てばったりと倒れる。刑事と女が駆けつける。死ぬ間際に「まったく最低だ」というセリフが聞こえる。「最低」は原語ではdégueulasse、英語ではsuckがあてられている。女は何て言ったのと問うと、刑事は「あなたは最低だと言ったのだ」と答えている。刑事は男の居所を知らせる電話をもらったとき、女が裏切ったことを知っていた。女は唇に指を触れたのち、最低ってどういうことと自問をして、正面をみつめ、後ろを向いたとたんに、FINの文字が入る。もの思わせぶりなラストシーンが謎めいていて興味を引く。
カメラを見つめる目は、誰に向かって語っているのかあいまいなままだ。はじまりの場面でも、男は車を盗んで知り合いの女が乗り込もうとするのを拒んで、ひとりで走らせていた。そのときも運転をしながら、カメラに向かって繰り返し語りかけていた。助手席に向かっての対話にみえるが、同乗者が誰もいないのを私たちは知っている。私たちに向かってしゃべりかけているのだとみれば、アンガージュマン(参加)の思想ともいえる。第三者として安穏に身を置かせない、この時代の意識の反映とも言えるものだ。
最後のセリフの前に、男は三度口を動かせている。それは何か言いたげにみえるが、ことばを発しようとしたのではないようだ。先に女の部屋で愛をかわす場面で、鏡の前でしかめっ面をして、三度これと、同じ口のかたちをみせていた。ここではそれを再現していたのだろう。そのときは男と女がともに同じ動作を繰り返していたので、記憶に残るものだった。
下唇に指をあててなぞるのは、男の癖のようだが、何度も繰り返すポーズだ。最後にそれを死にゆく男に向かって、女は再現してみせる。映画館の前でハンフリー・ボガートのブロマイドを前にしての男の、このしぐさはハードボイルドに生きるタフガイに寄せるオマージュでもあったのだろう。
最低なのは自身の生きざまだったはずだ。銃を携帯するほどの悪人ではなかったのに、盗んだ車のフロントボックスに、拳銃が入っていたばっかりに、ホールドアップをされたとき、警官を撃ち殺すことになってしまった。刑事に追われ逃げるときには、金を持参した仲間と出会っている。車に乗って逃げるよう誘われたが、拒んだのは女への失意からの自暴自棄だったのだろう。逃げるならせめて拳銃でももっていけと投げ渡され、それを拾うことで、追いかけてきた刑事から撃ち殺されてしまった。
銃さえもっていなければ、こんなことにはなっていなかったはずだ。ツキに見放された、まったく最低な人生だった。原題のフランス語の意味は「生きせき切って」ということだが、死に急ぎをしてしまった青年の、やぶれかぶれの生きざまを読み取ることができる。
女は妊娠しているかもしれないと、打ち明けていたことが気にかかる。男の反応を見るための虚言だったようにも取れるが、真実はあいまいなままである。男の身振りの再現は、胎内に宿った男の魂のなせる最低を、引き受けようとする女の決意だったように思える。