ゲルハルト・リヒター

2022年10月15日~2023年01月29日

豊田市美術館


2022/10/27

 絵画とイリュージョンの関係をとことん考えてきた画家だと思う。その姿勢は表面上はどんなに異なっていようと、一貫している。ピンぼけ写真の兵士の全身像がある。戦死したリヒターの叔父の姿のようだ。一連のリヒターを見ていると、これもピンぼけ写真をそっくりまねた絵画なのだと思う。しかしキャプションを見ると、絵画ではなくて写真だというのだから、たぶん写真なのだろう。写真か絵画かまでは気にしないで見るのが一般論だろう。解説によるとはじめは肖像写真をまねて油彩画に写し、次にその油彩画をピントをはずして撮影したもののようだ。つまり工程が逆走あるいは迷走している。このことを知らなければ面白くもなんともない。「ルディ叔父さん」というタイトル名に加えて、キャプションにはチバクロームプリントとアルディボンドの名が上がっている。2000年という制作年も書かれているので、被写体の年齢とは明らかに合致しない。油彩キャンバスと書かれていると安心するのだが、そうでないので心が動揺し、現代アートの文脈に起き直しての思索が開始する。

 フレームをもった鏡が、同じサイズの油彩画と並べて置かれている。アクリルにはさみ込んだ紙の作品もある。グレイ一色で表面はガラス面でおおわれている作品がある。保護用の防犯ガラスなのか、ガラス面も含めて作品なのかは区別がつかない。表面は反射して見ている自分が鏡像として写し込まれている。これを写真撮影すると撮影者が写り込むので、それを避けると正面からはシャッターをきれない

 描き出されたイメージの前面に一枚のガラスが置かれると、イメージを隠して表面は鏡に変貌する場合がある。この現象をおもしろがった成果が、近年のビルケナウの連作だったかもしれない。ガラス張りに見るというのは、それが見せ物であり、重要作品であることを暗黙のうちに了解している。かつてむき出しで見ることのできたモナリザや夜警も、今はガラスごしでしか見ることはできない。現代ではガラスがあるから安心してトマトを投げつけることも起こってくる。心優しい過激な地球環境家の憂いの表現ということらしい。たいていの場合はガラスの挿入は第三者によってなされるが、作者が取り込むと作品保護や地球保護以外の理由が喚起される。

 ビルケナウのそれは盗み撮りをされた4枚の写真からはじまった。下地をなすイメージは、上から塗られた絵具によって隠し込まれている。そしてそこに見ている自分自身が投影される。強制収容所でのおどろおどろしい光景は塗り込まれていて、跡形をとどめない。しかし私たちはそれを透視しようとしていることを知っている。ヴェールを剥ぎ取ろうとして見つめ続けるのである。ときに死体は見つからず、その代わりに天使の顔や裸婦の輪郭が見えだしたりしてくる。

 確かに抽象絵画なのだろう。しかしそこには筆跡は見えない。左官が壁を塗りこめるような動作が繰り返されている。熟練した職人が示す冷静はそこにはなく、苛立たしい混色が、心の乱れを誘おうとしている。剥がれたように塗りこめるのは、下地を見せようという工夫だったかもしれない。ポオの小説のように、壁には黒猫の死体が隠し込まれている場合もある。

 四枚の大作は対面にそっくりのアンドロイドをともなっている。鏡写しと言ってもよいが、左右が逆転しているわけではないから版画での原版と刷版との関係ではない。投影されたデジタルプリントとして、新時代の技術の推を語るものだ。異なっているのは画面は四分割されていて、中央にできるスリットが十字架をかたちづくっていることだろう。私たちは十字架ごしにアウシュヴィッツの悲劇を見ている。それもまたフィルタである。この二重のフィルタを通して告発は深く浸透していく。ガラス質の表面とは異なり、私たち自身がざらついた重厚な表面に写し出されることはない。そのかわりに残された壁の一面では両側に位置する絵画群を仲介するように、反射率の悪い鏡が暗い世界を写し出している。私たちはそこに自分の姿とその向こうに広がる時代の暗部に身を置く。鏡の対面にはオリジナル写真の紙焼きが飾られている。焼き殺されるユダヤ人たちの姿が亡霊のようなぼんやりとした光を放っている。

 こうした仕かけはいくぶん芝居染みていて、美術の表現としてはふさわしくないという見方はある。あらかじめ下地に何かが隠されているという情報が、出発点になるような鑑賞法は、いわば文学的であって、見ることの優位を主張するならば、不純なものと目に映るだろう。ピカソの絵に子どもの落書き以上のものを見ようとする平凡な鑑賞法にすぎないと言えるかもしれない。ピカソなら子どもの落書きに自分の絵を超えるものを見つけていたはずである。リヒターであるがゆえに許されていることがあるはずで、それに同調する必要はないというわけである。

 ストライプやドットに色面分割された抽象絵画は、ビルケナウとは対極にあるように見えるが、これをモザイク処理だと解すると、ここでも私たちは目を凝らしてその向こうにある楽園を見ようとしていたことがわかる。このコーナーでも、壁面の絵画に対して、それを見ようとする装置のように、板ガラスが組み合わされたフィルタが、彫刻作品として展示室の中央に置かれている。彫刻を見ながらときおりそれを通して見える色彩分割のゆがみを、私たちは楽しんでいる。プリズムの乱反射のように美しい一瞬を見せようとしているのだ。モザイクは見たいという欲望に根ざすが、真実を見たくないという逃避のフィルターでもある。


by Masaaki Kambara