第17章 新表現主義

1980年代生むから生まれるへ/バスキア:ニューヨーカーの意識と無意識/黒人文化/落書き絵画(グラフィティ)/ネオの矛盾/「新」という語の欺瞞/キーファー:五感に伝わる挑発/横尾忠則タブローのゆくえ/ポップミュージック

第213回 2022年4月8 

1980年代

新表現主義は80年代から起こってくる運動だが、10年間のくくりでいえば1950年は抽象表現主義、60年はポップアート、70年がミニマルアート、80年を新表現主義が支配したというと、あまりにも図式的に聞こえるだろうか。そして90代年のネオポップに続くとみれば、確かに10年ごとに考えかたが推移していく。抽象表現主義は戦後、アメリカでは勝利に沸いており、戦後の混乱を背景にまだ十分に形が定まらないが、エネルギーだけが有り余っている姿を象徴するようだ。

それが10年くらいの間に新しい世界をリードするアメリカを象徴したコカコーラやマリリンモンローやケネディーなどアメリカンヒーローが表面化した大衆化路線に引き継がれていく。スーパーマーケットという巨大商業施設が美術にも躍り出てくる。それがポップアートで抽象表現主義の晦渋さを否定して、わかりやすいイメージを植え付けた。

そしてポップのわかりやすさからもう一度美術とは何かを問うタブロラーサの受難が開始する。そこでは20世紀の大前提であった「表現」をも否定するミニマルアートからコンセプチュアルアートへと加速度を増していく。それは概念だけで美術は成立するという、マルセル・デュシャンを呼び戻すルネサンスでもあった。

デュシャンはしばらくの間を隠れてのち、復活してきたようにみえる。芸術の根幹を問うなかで、芸術そのものを全否定し、表現に代わるあらたな提案を模索した。つくることを表現に結びつけるのではなくて、機械や自然による創造にまで拡張した。

第214回 2022年4月9 

生むから生まれるへ

「生む」のではなくて「生まれる」という発想の転換があった。原点は人類誕生に由来する。子どもは生まれる。生むよりも生まれるというほうが自然ないい回しであることを考えると、そこには傲慢な人間中心主義はない。人間を主役にした生むという能動ではなく、自然を主役とした受動に人は身をゆだねる。この思想が個人主義を乗りこえる礎となったにちがいない。人は自然に身をゆだねて生まれるが、ニワトリは制御されて生む機械と化している。

危険なのは再度また生まれるという自然をコントロールしようとする人工知能に、現代文明の最末期のあがきを感じるからだろうか。オブジェの概念は、はじめは木や石など自然の生み出したものだったが、やがて自然は社会と名をかえてレディメイドのオブジェも組み込むことになった。そこではつくってもらってもそれは自作だと主張することができた。手の跡を残しながら仕あげていた旧来の個性の表出から、一歩進化したともとれる。

根っこにはポップアートがあって、コミックマンガのひとこまでも、それを大きく引きのばすのは作家自身の仕事だったが、モチーフそのものは自分のものではなくて、大衆化されたイコンだった。そこではすでに表現を否定する要素は出ていたが、見た目にはわかりやすく、それを表現と取りちがえた。ポップアートからミニマルアートへの移行は、表現しない点では共通項をもつが、見かけ上はポップアートとは対極にあるような抽象性の強いものとなった。ステラの絵画作品には明確な具体的イメージはないが、くっきりとした抽象的フォルムはポップアートを引きずっている。

70年代を通じて絵画の再定義に終始したのちに、新表現主義が出てくる。もう一度絵筆に帰るといういいかたがわかりやすいだろう。絵筆をもってペインティングにもどるということだ。ステラでも表面に彩色は施すが、できる限り手の跡を残さないフラットな画面作りをしていく。個性やタッチや息づかいは殺しながら制作をしていた。新表現主義はその対極に荒っぽい落書きアートをともなっている。落書きは絵画ではなくパフォーマンスだという点で重要だ。

グラフィティの名でバスキアヘリンクが知られるが、大都市の壁面や道路にその場限りのパフォーマンスを演じて落書きをする。非合法下で警察が来ればすぐに逃げる。太古の昔からある存在証明にも似て、絵画の原点をかたちづくる。原始の洞窟やアフリカの岩壁に残される手の跡は、まさに「手を付ける」ことによって、所有をも主張しているようだ。自分がそこに生きているというメッセージは、職業以前のそうせざるを得ないような衝動に裏打ちされている。破壊的な表現力は、ミニマルアートによって弱体化した絵画のオーラを取り戻そうという原始宗教にも似た生命力を宿している。

第215回 2022年4月10

バスキア(1960-88):ニューヨーカーの意識と無意識

 ジャン=ミシェル・バスキアが亡くなったのは1988年のことだが、21世紀以降に生まれてきた若者にも圧倒的な人気を誇っている。28歳で死んでのち数十年もすると、今の若者にとっては年齢的には老人に近い。20歳代の写真しか残っていないということは、世代をこえて同年代に共感を与えるということだ。加えて当たり前の話だが、作品も20代のものしかない。

10年足らずの活動歴で残した圧倒的な作品量という点では、ゴッホになぞらえられるかもしれない。しかしゴッホのように報われなかったわけではない。問題は今後の評価ということになるが、評価が落ちるとすれば、バスキアの基盤をなす新表現主義そのものが相手にされなくなる時だろう。ゴッホを支えているのも表現性の強いオリジナリティで、今そこに画家がいて、その息づかいが聞こえるところに価値基準はある。

 ライブ感覚といってよいが、その点ストリートアーティストとして鍛えられたバスキアは、ゴッホに優っている。表面を見る限りでは、ゴッホのようなほとばしる情念はない。画面はフラットであるし、何よりもちがうのは文字の氾濫である。文字はある意味、冷静のシンボルであって、話せばわかるというデモクラシーに支えられたものだ。それを切り捨てる問答無用の受け答えがあるなら、それはゴッホを蝕んだ狂気に他ならない。クールな精神を冒すには、バスキアが証明するようにドラッグしかない。

 バスキアのイメージはオリジナル作品をまとめて見ることによって変わる[i]。沈着冷静で知的な思索家だったという点だ。落書きが意味する殴り描きの荒くれ者ではなくて、ヴィヴィッドでデリケートな感性に、震えるようにして筆を運んでいる。文字のレタリングも、一角一角をきっちりと跡付けている。団塊の世代には全共闘時代の立て看文字を思い出す。彼らもまたバスキアと同じ、醒めた目をもったストリートアーティストだった。バスキアの書くEは漢字の三で縦棒がない。ファッショナブルでオシャレなロゴマークを形成しているのだ。

 プエルトリコ系ということだが、移民の子がニューヨークという街に生まれ育って、メインストリームとして根を張って行く安定感が、その冷静さのベースにはある。生粋のニューヨーカーであって、大都会に育てられたリズム感が、書き殴りを装いながら、緻密な計算のもとで、枠をはみ出さないみごとな構図法で輝きを放っている。金融の街でもあるニューヨークは、足早なビジネスマンを横目に見ながら、バスキアを絵画のプロに押しあげていった。制作中を写した一枚の肖像写真がある。ポロックの写真と並ぶファッショナブルなイメージ戦略でもあるが、バスキアに寄せる写真家の親愛の念が満ちあふれている[ii]

バスキア28年の生涯はプロボクサーなら、すでにひとはな咲かせているので、短いというわけではないのかもしれない。イタリアルネサンスを切り開いたマサッチオは27歳で死んでいる。日本では青木繁(1882-1911)が28歳だが、関根正二(1899-1919)や村山槐多(1896-1919)といったさらに上回る夭折の画家がいる。それを過ぎるともう一仕事をすませたゴッホ37歳、ロートレック37歳、ラファエロ37歳、岸田劉生37歳、菱田春草37歳の年齢になる。適齢期はありそうな気がするが、バスキアもみごとに天命に合致しているということはいえそうだ。


[i] 「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」2019年9月21日(土)~11月17日(日)森アーツセンター

[ii] 「バスキアとNYアーティストたち Roland Hagenberg 写真展」2018年9月8日(土)−10月21日(日)三菱地所アルティアム

第216回 2022年4月11

黒人文化

バスキアが出てきてやっと気づくことがある。黒人画家ということだが、タブーにふれるかのように黙ったままでいることも多い。肌の色など問題にならないという意識的なスタンスでもない。気づいていなかったというのなら、それもまた白人文化の延長上にあるものだ。気づくとバスキア以前の黒人画家のことが気になってくる。黒人が描かれることはあっても、黒人が描くことはなかったわけではないのだ。エコールドパリの黒人画家の存在が気になってくる。いないのではなく埋もれているとすれば、ものめずらしさを払拭したはじめの第一歩が築かれることになる。

男性文化もまた白人文化と同時に、自覚なく日本人でさえ自分が白人の男性であると、気づくことなく前提としてしまっている。バスキアを通して黒人文化を問題にすることは、同時代のマイケル・ジャクソンを含めて80年代を再考することにもなる。バスキア自身は黒人であることを無意識のうちにしか意識していないとしても、描かれた作品には黒人のもつ濃厚な郷愁が漂っている。

女性画家の存在は今日ではずいぶん発掘されたが、オノヨーコ草間彌生以前の例は、本稿でも引かれていない。カミーユ・クローデルの彫刻作品にもふれないままだった。写真家ドラ・マール(1907-97)の名は、ピカソの「泣く女」のモデルとして以上の記述が必要なはずだ。クリストは本来はファーストネームをもたないユニットだったが、夫婦が同じ年の同じ日に生まれたという怪奇主義は、一心同体というアンドロギュノス神話を引きずって、男性の商標になってしまった。

パートナーやユニットといって一体化してもいいが、法的基準で一般化すれば夫婦でよいだろう。夫に先立たれて妻が才能を認められることは多い。オノヨーコだけでなく、三岸節子(1905-99)、リー・クラスナー(1908-84)、久保田成子(1937-2015)などが思い浮かぶ。古くは池玉瀾(1727-84)といったところか。

ユニット名を夫の名で代表させるこれまでの標準を問い直す。妻が作家活動をしているだけを問題にしないとすれば、知られざる家庭料理の名手である場合も多い。夫に先立たれたおかげで、私たちの食卓を豊かにしてくれた料理の名手も実在する。夫婦漫才はこれまでユニット名として男女を対等に位置づけてきた。美人コンテストに応募しない美人は巷には山ほどいる。美は共有を拒み隠れたがるが、それ以上に隠したがるものだった。世に知られないまま人知られず書き連ねられた文学は、男女を問わず眠り続けている。

野心を前提として芸術の歴史は成り立っている。夫を支えて才能を殺した妻の復権は、フィルターをかけないで評価をくだす審美眼を必要とする。家事や育児に忙殺された時間をハンディとしない目は、家事や育児をとおしてしか見出せない成果の存在に評価が向く。それもまた蔑視だとすると、漫才のユニットに理想を見いだせるが、しばしば夫婦漫才は名をなしたころには夫婦を解消しており、もはや夫婦善哉にはならない。

第217回 2022年4月12

落書き絵画(グラフィティ)

残された写真からもバスキアがキース・へリング(1958-90)とは仲間であったことがよくわかる。肌の艶と柔らかそうな額の輝きはとてもいい。目も輝いているのにバスキアと同じく、早く死んでしまった。写真家ロバート・メイプルソープ(1946-89)とともにエイズと結びつけて記憶される才能である。落書きをしているところを写した写真がある。ニューヨークをキャンバスにした、壮大な絵画プロジェクトだったことは確かだ。八〇年代の一時期を爽やかな一陣の風のように通り過ぎ、逝ってしまった。ヘリンクの没年はバスキアの二年後1990年のことだった。

ニューヨーカーとしての自覚と自負と自信に満たされて、グラフィティと名乗る絵画の領域は、絵画そのものの物質性よりも、パフォーマンスに根ざし、モノからコトへと視点をずらすことで、哲学的迷走を避け、時間的推移を呼び込もうとする。建設よりも解体を準備する破壊的特性を前面に出しながら、行為する自我の前にあっては、作品概念は一歩下がり、商業さえも否定の対象として停滞する。世界の生命線の否定を通じて、アートの潔癖なまでの真実が求められている。

売買の対象にならないものに、価値をつけていく。それが商業の醍醐味でもあって、これまで映像の最先端でさえも、クリアしてきたことだった。バスキアの名がひとり歩きする限り、作品以上の意味が、生身の作家にかぶせられていく。写真集がオリジナルを駆逐する瞬間である。出発点はポロックのアクションを映し出した写真にすでにあった。それはくわえタバコを捨てて忘我に入っていくドリッピングの一瞬だったが、バスキアのポートレートには、何気ない素振りで、タバコを指にはさんでいて、気取りも何もない。

第218回 2022年4月13

ネオの矛盾

新表現主義の「新(ネオ)」には繰り返された焼き直しという意味をもつ。ネオポップやネオダダという現象を見ても、かつての動向の繰り返しにすぎないという印象は残る。もとをたどると選択はそんなに多くはないということだ。新しいものがなかなか生まれてこないときに、直前のものを否定するため、さらに古いものをもち出す。ルネサンスではリニューアルの意味をもたせて、「再(ル)」を冠にしたが、近代がめざしたものは、今までにない「新」だった。リニューアルという語も、再新と和訳するとわけのわからない英語であることが露呈する。

新表現主義でもどこかで見たことのあるイメージが出現する。表現主義に似ているから新表現主義と名づけるのだ。20世紀初めのキュビスムが出てきたときに、古代エジプトの美術やアフリカの仮面からの影響が指摘された。知られないままにされていたものが再発見されて、新しい運動に加担していく。ヨーロッパにとっての浮世絵は、日本には新しくはなかったはずだが、西洋のフィルターをかけることで新しくなった。そのとき日本の感性にとってもアフリカの仮面におとらず浮世絵は新しいものに見えだした。

シュナーベルが皿の断片を画面に貼り付けた「プレートペインティング」(1979-)にしても、表面をペイントしている限りは新表現主義に位置づけられる。仕上がりから見るとタイルを貼り付けた中世のモザイクのようだし、ガウディの建築装飾を思わせるものでもある。古いところに根っこがあって、モザイクもガラス片を細かくして貼り付けるとき、その原型は皿であってもいい。

ネオポップにしても新表現主義にしても、ともにネオ(新)という語に支えられている。新と名付けられながらあまり新しくないという印象が残る。ともにポップアートや表現主義の焼き直しにしか見えない。ネオばやりであり、全く新しいものなら頭にネオをつける必要はないと思うが、古い時代の権威に頼ろうとするためだろうか。あるいは人間のやるところ、どう転んでもそんなに新しいものは出てこない、繰り返しにならざるを得ないという教訓からだろうか。

そうしたあきらめムードがこのネオという語のなかに見え隠れする。ネオが新という意味だと知らない子どもの頃、ネオミルクやネオソフトという商品を、純正ミルクや純正バターに劣るものと、ながらく私は思っていた。新といいながら新になっていないという意味では、それが矛盾したことばであることに気づく。

新人というが、それは今は新人だが、いつまでも新人ではないということだ。つねに新陳代謝しながら古いものになっていく。いつまでもネオといっていればきりがない。最初の例は19世紀が始まったときに新古典主義の名が用いられた。しかし古典主義はその後も出てくるにちがいない。その時はなんと呼ぶかということだ。それ以前に古典主義は古典を踏襲することで、新はありえないのではないか。新古典主義の命名がすでにモダニズムの幕を切って落としたということではないのか。

第219回 2022年4月14

「新」という語の欺瞞

日本にも「国立新美術館」(2007)が誕生した。新しくできたので一般名称としてならそれでよいが、実際には固有名詞として使われている。「日曜美術館」というNHKの長寿番組も同じ頃、新日曜美術館と称していた。その後おかしいと気づいたのか、もとの名に戻った。芸能人の名も新加勢大周(1993)という名で別人を誕生させるという珍事件も起こった。今も残る襲名で継承される日本文化を考えると過去の名を受け継ぐことに抵抗はないのかもしれない。この傾向は日本だけのことではない。

「日曜美術館」(1976-)はいつまで続くかわからないが、テレビ放送と展覧会活動という形式が終わるまでは、引き続き放送されるような気がする。そのなかで「新日曜美術館」(1997-2009)と名乗った期間があったということは、モダニズムを考えるうえで興味深い。テレビ番組の歴史がミクロコスモスを形成し、美術の歴史をなぞっているように見える。離婚に踏み切り新たな一歩を踏み出すのではなくて、もとの名に戻ったという出戻り現象も、美術の歴史を占ううえで示唆的だ。あとはこの番組の終了を、その理由を分析しながら見届けたいと思う。

新大阪はまだ新しくできた大阪という意味を残しているが、ニューヨークになるともう新しいという意味はない。新幹線の駅名に付された新はどことも発展し損ねたあるいは不便なという意味が付加されてしまった。ゴジラの名をカモフラージュして「シン・ゴジラ」(2016)が出現したが、これに至って「新」の欺瞞性が告発されたとみてよい。シンの語の響きは多様に拡張し、進や真や深や森のほか神にさえあてることができる。

国立新美術館も国立森美術館にすれば六本木トライアングルがさらに明確化する。六本ぐらいでは森にならないが、国立の森に広がる美の殿堂のイメージが都会の喧騒を払拭してくれる。もちろんインターナショナルなものではなく、英語圏でひとり歩きすると、シンは「罪」sinがまず思い浮かび、極悪非道という意味が付け加わる。それもまた興味深い言語論へと展開していくだろう。

「新しさ」を追い続けてきたモダニズムの限界を示唆しているようにみえる。モダニズムの本質はネオや新のあとに続く語ではなく、ネオと新のほうにあったのではないかと気づく。つまりネオのあとに何がこようと大差ないという表明なのだ。ネオイズムというほうが適切かもしれない。新しいということだけが価値をもったが、その新という語の欺瞞が露呈してしまったということだ。

第220回 2022年4月15

キーファー(1945-):五感に伝わる挑発

表現を考えると、ドイツのもつ表現性は繰り返し、歴史上にあらわれてきた。アンゼルム・キーファーやゲルハルト・リヒターはそうした民族の血を継承する。キーファーには政治色も強い。以前にドイツ表現主義や、さらにさかのぼればドイツルネサンスのグリューネヴァルトにたどりつくグロテスクなまでの表現性を示している。

新表現主義の代名詞のようにみられるおどろおどろしいまでに立ち込める霊気は、ゲルマン神話やドイツの森に棲む妖精たちに漂う宇宙観に属するものだ。世界を構成する四大元素である土や火に還元するような、人類が太古から抱え込んできた神話的世界に結合している。

キーファーではときに荒々しく藁(わら)が塗り込められ、絵画は巨大な農家の壁に変貌する。藁を埋め込んだ絵は土壁として機能することになる。それは日本でも昔ながらの土壁をつくる左官の技術だった。藁は薔薇のように嗅覚に訴えかけるが、この藁の香りはのちにクリスチャン・ボルタンスキー(1944-2021)に引き継がれるものだ。そこにはもはや絵画はなく、足で踏む体感を伝えるインスタレーションに変わっている[i]。ときには心臓音が響いてくる。その生暖かい香りは生臭い隠蔽をもともなって、重苦しい状況が伝えられる。

藁は展示室内に敷き詰められ、ぬかるみを体感させる仕掛けになっている。さわやかな香りとすがすがしい風とかすかな音色が聞こえていたように記憶するが、足を取られて前には進めない。ともにヒトラー時代の恐怖を引きずるなかで出現した一致だとすれば、そこには藁のもつ根深いシンボリズムが横たわっている。藁は中世以来むなしさのシンボルだったが、ボスコンスタブルの「乾草車」やモネの「積みわら」を経由して現代アートにまで継承されてきたものだ。

視覚を超越した五感に伝わる挑発が訪問者を引き裂く。ベルリンの「ユダヤ博物館」(2001)で体感したときの記憶がよみがえってくる。ダニエル・リベスキンド(1946-)が設計をした蛇の胎内に続く傾いた通路を進み、顔を切り抜いた無数の鉄片が敷きつめられたなかを歩いたときの、足の裏に感じたなんともいえない恐怖を思い出す。きしみ続ける金属音の不快は笑っているようにさえ聞こえる。あざけりかあきらめかを聞き分けられないまま、足かせとなって、思わず歩みを止める。踏みにじるということがどういうことかを知ることになる。

ドイツに根づいたフォークロアな響きは、ヨーゼフ・ボイス(1921-86)と共鳴するものでもある。視覚体験以上にフェルトのもつ肌触りやコヨーテの遠吠えが聞こえてくるようだ。絵画からアクションが切り離され、社会彫刻というパフォーマンスに帰結するが、そこでもナチスの負の遺産を引きずる不気味なトラウマは、表現性を発揮して、ドイツ民族の血脈と同化するものだ。加速する絵画離れは、イメージを切り抜いて映像やインスタレーションに組み立てて、音響をともなわせて総合化をめざす。2019年のボルタンスキー展は旧来の美術館を使って、鬱積した表現性をため込みはするが、みごとなマルチメディアの結実だった[ii]


[i] 「クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス-さざめく亡霊たち」2016年9月22日(木)~12月25日(日)東京都庭園美術館

[ii] 「クリスチャン・ボルタンスキー − Lifetime」2019年2月9日(土)~5月6日(月)国立国際美術館 2019年6月12日(水)〜9月2日(月)国立新美術館

第221回 2022年4月16

横尾忠則(1936-)

新表現主義は一般にはニューペインティングの名で広まった。横尾忠則の歩みを見ると興味深い精神的軌跡が見つけられる。出発はポスター印刷メディアを用いたグラフィックデザイナーに属していた。ポップなイメージを正面に出した演劇のポスターも鮮烈だった。ポップアートの旗手として先陣を切ったのは60年代のことだが、80年代に入ってデザインから身をひるがえして、突然画家宣言をおこなう。ペインティングの作家志向に変貌する。

そこではイズムとして中間にあるミニマリズムはすっぽりと抜け落ちていて、過剰なまでに増殖するイメージの氾濫という点で共通している。大衆性という点ではポップアートを原点にしながら、ペインティングの時代になっても個性満載の表現性は失われることはない。ポップアートと新表現主義は1960年と80年という20年間の距離を経て、継承する脈絡が見えてくる。

神戸にある「横尾忠則現代美術館」(2012-)の名称を見ると、作品が美術館に収まる限りはモダニズムの絵画運動の枠内で解釈したくなる。しかしその活動をみると、横尾忠則のタブローを使いながら現代美術館の未来を試行実験しようとしているとしか思えない。そのはみ出した部分がポストモダニズムなのだろうが、具体的にいくつかの企画をあげてみる。

ようこそ!横尾温泉郷」(2016)のテーマは温泉地巡りである[i]。絵画が壁面に飾られているだけではない。様々な雑多なオブジェがあちこちに備え付けられている。壁面から蛇口が出てくる。展示室の真ん中に大きな湯船が設置されている。あちこちにソフトクリームの立体の看板が置かれている。実際に街で見かけるものが、そのまま展示されている。こうした日常性を通して、さして高級とはいえない温泉地の俗的世界が浮かび上がってくる。

壁面を覆う絵画は幻想味を帯び、ときに不気味さも漂わせるが、底辺にあるのはポップアートであり、その亀裂から、噴き上がってきたのが、ニューペインティングの流行に同調して出てきたタブロー群だったということだ。今も枯れることなく噴出し続けるという点では、まさに温泉地巡りというテーマがそのまま、制作活動そのものを意味するものとなっている。

個人の名をかぶせた美術館でありながら、記念館ではなく現代に生きようとするためには、常に作家が生きて活動をしていなければならない。その点ではこの美術館は実にパワフルに動いている。壁面にかかる絵画を、ただの飾りにすぎないものと思わせるほどに、本末が転倒しており、それを通してしかタブローの未来はないというメッセージにも聞こえる。それはまたタブローの上で安住してきた美術館という存在への問い直しでもある。個々の独立した小宇宙を形成していたタブローが、死物として脈絡なく漂っていたものが、秩序をもって再構成される。


[i] 「ようこそ!横尾温泉郷」2016年12月17日(土)〜2017年3月26日(日)横尾忠則現代美術館

第222回 2022年4月17

タブローのゆくえ

ヨコオ・ワールド・ツアー」(2017)は世界旅行である[i]。横尾忠則を通してインドやニューヨークを見るという点では収穫はまだまだあるようだ。ことにビートルズやインド美術の豊穣な世界は、60年代を丸ごと伝えるものでもあり、考えさせられるところは多い。最初のコーナーに旅行に使用したスーツケースが並べられている。横尾作品よりもどんな会場構成がされているかに興味は移り、スペースアートとしてのインスタレーションを楽しむという方向に鑑賞法は変貌していく。

会場構成は、これまでの作品概念を壊し、展示のためのパーツとして作品が主役をはずれることで、リニューアルされた世界が誕生してくる。それは単体としての作品の読み直しにもなるし、いつまでも古びることなく、リサイクルが繰り返されていく。掛け替えを一義とするタブローは実はそういう機能を負うものだった。

横尾忠則 在庫一掃大放出展」(2018)[ii]。これまで展示されていない在庫品を一掃するという自虐ネタは、この画家のスタンスにふさわしいものだ。監視員は祭りの赤いハッピを着ている。美術館というしかも公立館という役所の機構を解体する。ロビーには赤提灯が並んでいる。

壁面の絵画だけが邪魔ものとばかりの空間演出を楽しむ。売約済みのような捺印をキャプションに見つけると、この絵は人気があるのだと思う。作者自筆の制作メモが絵のわきに貼り付けられていて、絵よりもこちらの方にオリジナリティを感じてしまうから不思議だ。

横尾忠則 自我自損展」(2019)[iii]。ロビーに提灯を吊ったり、風呂桶を並べて銭湯を再現したりして、タブロー展示を見飽きた観客に目くらましをし続けてきた企画力に、私は注目してきた。その点で今回は、タブローを前面に出したおとなしい展示だと感じた。唯一の例外は、滝のシリーズのコーナー展示で、スリッパに履き替えて、全壁面と天井まで覆い尽くした滝の絵葉書を見た。これは凄まじいパワーだ。恐ろしいまでの執念でコレクションした無数とも言ってよい絵葉書が、きっちりと並んでいる。

一枚一枚の滝の絵葉書の膨大が圧巻になるためには、これをきっちりと展示してみせた展示業者とこれを指示した学芸員の手腕に目を向ける必要がある。手慣れたプロの技に脱帽する。薄暗い室内は、磨かれた床面に絵葉書の虚像を映し出し、滝は無限に広がり続けていく。代表的な数枚をセレクトして、のぞきケースに並べればすみそうなものを、そうではなくてアートとして生き返らせようとする。

突如出現したこの一角の見ごたえは、タブローに備わったオーソドックスを許容して、逆に一点一点を丁寧に見ていこうという気にさせる。全体で見ていたこれまでの視点が、部分の描き込みに目を移すと、ニューペインティングと思っていた油彩画が、文学に支えられたシュルレアリスムの源流と出会うことになる。

ポスターに用いられた首吊りの縄を背後に置く正面を向いた自画像にすべては集約しているようだ。マンレイのオマージュにみえるが、ひとことで言えば「自我自損」ということになるのだろう。シュルレアリスムでいうデペイズマンという技巧に置き換えた言葉遊びであり、ここからも決してニューペインティングではないことがわかる。

その後「兵庫県立横尾救急病院展」の企画名とともにコロナ禍が襲うことになった。先にハッピを着ていた監視員や売店の会計までも白衣に着替え、マスクをしはじめる。時代を支配するイズムはあるが、この自由自在を目にすると、こだわりなく彷徨できる限りは、つまるところ対立と見えていた思想も大差はなく、すべてをモダニズムの名で一時代を終結できるのではないかと思えてくる。救急病院以来、ぷっつりと美術館に行かなくなった。私にとってのモダニズムが終わった。横尾忠則は猪熊弦一郎とともに作家名の継承を通じて、現代美術館が今に生きる美術館活動の、地に足のついた模索と実践の姿を提案してくれている。2021年にはコロナ禍の続く東京で、いまだ旺盛な創作を続ける現況が別途、大規模に回顧された[iv]


[i] 「ヨコオ・ワールド・ツアー」2017年4月15日(土)〜8月20日(日)横尾忠則現代美術館

[ii] 「横尾忠則 在庫一掃大放出展」2018年9月15日(土)〜12月24日(月)横尾忠則現代美術館

[iii] 「横尾忠則 自我自損展」2019年9月14日(土)〜12月22日(日)横尾忠則現代美術館

[iv] 「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」2021年7月17日(土)〜10月17日(日)東京都現代美術館

第223回 2022年4月18

ポップミュージック

ポップミュージックを引き合いに出して考えてみよう。60年代をビートルズに代表させると、80年代の音楽シーンではマイケル・ジャクソン(1958-2009)がその対応として思い浮かぶ。マイケルとポール・マッカートニー(1942-)がコラボレーションをしてデュエットしたことがあった。世代をこえて共演ができるという意味では底辺につながっているものがあるということだ。それは一体何か。ポップのもつ大衆性やサブカルチャー的要素にまず目を向ける。

次に新表現主義の時代に出てくる、たとえばマイケル・ジャクソンの生い立ちを考える。ニューヨークの路上でパフォーマンスをおこなって歌と踊りに興じる黒人の姿は、美術でのバスキアなどのスタンスに近い。舞台上での活動はもちろんあるが、パフォーマンスではパブリックアートが共有する大衆性に通じている。マイケルはキース・ヘリングとは同い年だし、バスキアは二歳年下だ。

これまで考えてきた重厚で深刻な新表現主義が、ちがって見えてくる。エイズやドラッグに冒されたバスキアやヘリンクの短命なペシミズムも、残された落書きが独り歩きして、プリントされたりTシャツの柄になる。それはポップなイメージである。シュナーベルが絵画から映画にメディアを横断していくのも、大衆性を基盤に置いた思考だった。

ウォーホルがマルチなタレント性を発揮した映画や音楽プロデュースへのこだわりと連動している。シュナーベルは映画監督として「バスキア」(1996)を制作したが、そこでバスキアに接近するウォーホルは、ポップアートにはない新表現主義の才能を見出していた。それは自分にはない対極の要素へのあこがれと同時に、十分に親和性を確信した証拠でもあった。ウォーホル役を演じたのがデヴィッド・ボウイ(1946-2016)であったことを思うと、80年代のポップロックに新表現主義との親和性を認めることができる。

新表現主義は「へたうま」といわれて評価は高くない。ミニマルやコンセプチュアルに対する反動として、出て来るべくして出てきた動向だが、必然性に乏しい。20世紀が表現の時代だという限りでは、最後の砦でもあるのだが、ニューペインティングとはいうものの「新」がこれまでほどには魅力的な語にはなりえず、短命のうちに忘れ去られたようにみえる。フンデルトヴァッサーは絵画から建築へと興味を移行させることで、表現主義を乗りこえていった。ドイツというよりもウィーンという文化基盤に従ったというほうがよいか。


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