第481回 2024年6月8

水の中のナイフ1962

 ロマン・ポランスキー監督デビュー第一作、ポーランド映画、原題はNóż w wodzie。ヒッチハイクの青年を車に乗せたことから起こる、夫婦の不和の物語である。道路の真ん中を歩いている男がいて、避けようとはせず、危うく轢き殺してしまうところだった。車を止めて食ってかかっている。夫(アンジェイ)には乗せてやるつもりはなかったが、妻(クリスティナ)は気の毒そうな顔をしている。そのまま走り去ることもできたが、夫は青年を後部座席に乗せてやった。

 目的地までは行けず、途中の海岸で止まり荷物をおろし、妻が重そうにしているのを手伝って、ヨットにまで運んだ。男の所有する船であり、そこから妻と二人で休暇を楽しむ予定だった。夫婦の優雅な生活を、自分とは異なった人種を見るような目でながめている。

 別れを告げ、いつ戻ってくるのかと問うている。明日の朝だと答えると、その時にはまた乗せてもらえないかと尋ねて立ち去ろうとする。少し行きかけたところで、夫は呼び止めてヨットへと誘った。妻には反応はなかったが、青年がどこで一夜をすごすのか、気にかかっていたはずだ。ほっとした表情がうかがえた。3人はヨットの旅に出るが、夫は船長として青年に指示して、甲板の掃除まで命じている。彼には海の知識はなく、泳ぐこともできないのだと言っている。 

 青年はナイフをもっていて、オモチャにして遊んでいるのを見ると、何か一波乱あるのだろうと、私たちは緊張感を走らせる。「水の中のナイフ」というタイトルの意味が気にかかってくる。昼間は帆の張りかたなどを指導するが、命令口調なのに反発を抱くようになっていく。夜は狭い船室で3人が寄り添いながら、ゲームをしている。棒を積んで一本ずつ他の棒を揺らさずに引き抜くのを、私たちも繰り返し見ていた。夫はラジオでボクシングを聴いていて、妻からうるさがられて、イヤホンに切り替えた。ゲームに飽きて、妻は青年と愛の詩を口ずさんで、甘美な気分を楽しんでいたが、夫には聞こえない。

 風雨に出くわし、予定通り帰れなくなり、ヨットは浅瀬に乗りあげたあと、流されて沖に出てしまう。いらだちから夫と青年はいさかいになる。身の安全を思ってのことだったのだろう、テーブルの上に置いたままにしてあったナイフを、夫は隠し持っていた。このことから、青年が取り戻そうとしてもみあいになり、海にナイフが落ち、次に青年が投げ出される。妻の目にはこれらは、夫が故意におこなったように見えている。ヨットは止まらずに進んでいくと、青年は泳げないのだと叫んで、妻は飛び込んで助けに行った。

 ブイが浮かんでいたが、周辺に青年は見当たらない。溺れたのだと、夫婦は口論となり、夫は青年の荷物を海に投げ捨てようとする。女は警察に届けなければと言うが、夫は知らぬ顔をして、ヨットから飛び込んで、先に帰ってしまう。残された妻が悲嘆に暮れていると、青年がヨットに這いあがってきた。泳げたのだと知って、妻は憤慨する。

 ブイに近づいてきたとき、もぐって身を隠していたのだった。水底は10メートルとも言っていたが、もぐって水の中のナイフを探し当てるのかとさえ思えた。夫の無責任を目の当たりにし、青年が生きていた安堵が重なって、ふたりは情欲が高まり、情熱的に抱擁しあった。若さと野望がそこにはあった。彼女は夫の失ってしまったそれを取り戻そうとした。

 船を引き返して、途中で青年をおろし、夫の待つ港に向かう。夫は悲壮な面持ちで沈み込んでいた。車を走らせ、警察の方向を示す分岐路まできて、車は止まったままで、思案をしている。さてこのあとどうなっていくのか。妻はこのまま黙っていることで、夫に鉄槌を食らわせようと思ったかもしれない。実際は妻は正直に語っていた。

 青年が這い上がってきて、自分と抱き合ったのだと打ち明けたが、夫は信用していなかった。車が停止したままで映画を終わらせる演出が、さまざまな余韻を残す。止めたままにしてあった車のワイパーが盗まれていた。それはガラスの曇りを除くことができないという意味だ。夫の意志によって、警察に向かうこともできるし、反対方向に走らせることもできる。妻は夫の良心の行方を楽しんで、黙って見ているのである。

 二者のあいだに異物がひとつ加わることによって起こる騒動は、安定を崩して、変動を引き起こす。人は望んでそれを引き入れる。風が巻き起こったが、落ち着くともとに戻った。表面上は何も起こらなかったと同じであるにもかかわらず、肉体に残された心の傷は、深く沈潜したままだということを、このサスペンスタッチの心理劇は教えてくれた。

第482回 2024年6月9

反撥1965

 ロマン・ポランスキー監督作品、イギリス映画、原題はrepulsion、カトリーヌ・ドヌーヴ主演、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。気の弱い神経質な娘(キャロル)のラブロマンスかと思って見ていたが、精神錯乱から殺人鬼へと至るホラームービーだった。

 カトリーヌ・ドヌーヴの妖気狂気へと加速していく変貌が見どころとなっている。汚れ役であるが、「シェルブールの雨傘」ではじまった清純役があまりにも短かすぎて、オードリーにはなり損ねた女優という印象だ。暴行される場面に音が消されていたり、沈黙から急に大音響で電話が鳴ったり、効果音を駆使した怖がらせるしかけは、その後のサイコミステリーの定番となるものだろう。心臓には良くない。

 主人公の娘は美容室に勤務するが、仕事には熱心とは言えず、客のパック中に爪の手入れをしていながらも、居眠りをしている。姉の家に同居しているが、姉の恋人が我が物顔をして寝泊まりするのが、気に食わない。専用の歯磨き用のコップが使われて、男の歯ブラシが立てられていると、嫌ってゴミ箱に捨ててしまうと、姉から苦情が発せられる。男には妻がいることから、姉のふしだらを言い返している。

 積極的で明るい性格とは言えないが、美人であることから、ことばをかけてくる男は多い。頻繁に誘いをかけてくる相手がいるが、色よい返事はしていない。姉の手料理を理由に、今日はウサギ料理なのでとことわっている。高揚したときは、唇を奪われるのを拒まないが、潔癖症はあとで執拗に歯ブラシをしている。

 精神的な安定を崩しはじめるのは、姉が男とイタリア旅行をしたときだった。部屋数も多い大きなアパートを借りているが、家賃の支払いは滞っている。電話がかかってきて、姉は明日までには払うと言い訳をしている。妹はひとりにされるのをおびえたが、姉は家賃を妹に預けて男と出ていった。妹は行かないよう懇願していたので、日ごろとは異なった不安を感じ取っていたのだろう。嫌いながらも姉が唯一の心のよりどころだったことがわかる。

 最初の異変は職場で起こってくる。姉の去った部屋には、ウサギの丸焼きが、皿に盛り付けられている。体調が悪く、三日間部屋に閉じこもったのち、職場で客の指に磨きをかけていたが、突然そのヤスリかアイスピックで客の指を突き刺してしまう。血だらけになるが、女主人は寛大で、疲れていての事故だと優しく対処してくれた。

 精神錯乱のようにしかみえないものだったが、娘の行動はさらに加速していく。娘を愛する男が、心配をして訪ねてくる。男の友人たちは進展しない関係を冷やかしながら見ていた。娘は男を招き入れて、おとなしく対していたが、男が背を向けたとき、ふいに金属棒を手にして頭を殴りつけて殺してしまった。浴槽に引きずっていって沈めたが、それでも時間がたつと、悪臭が漂いはじめる。

 次には家主が犠牲になる。戸口に立って、中にいるのはわかっているのだと言っている。滞納している家賃を取り立てに来たのだった。姉から預かっていた家賃を、置いたままにしていたためだった。家主は合鍵を使って入ってきて、締め切った陰気な部屋を見て、皿に乗ったウサギの肉が腐っているのを見届けている。娘の疲れ切っただらしない姿に、付けいる隙を見出したようで、家賃はいらないと言いながら娘に迫ってくる。体に覆いかぶさったとき、娘が後ろ手に持っていたカミソリが、男の首を切り裂いていた。この男もまた殺されてしまう。

 姉からはイタリア旅行の楽しさを伝える絵はがきが送られていた。そこにはピサの斜塔が写し出されていて、その傾きが不安定な心の動揺を象徴しているようにみえる。壁からは何本もの手が出てきて、娘の行く手を遮っている。姉たちが戻ってきて、部屋の異常を見届けて、悲鳴をあげる。妹はベッドの下に潜り込んで手だけを見せて、気を失っていた。

 職場仲間とチャップリン映画に笑う正常も持ち合わせていたが、壁にかけららていた家族写真に写された少女の顔がアップになると、狂気の資質は長年をかけて熟成されてきたという、抗えない宿命を感じさせるものだった。姉とは対極にある人格のようにみえるが、平然と不倫をものともしない本能もまた、同質の狂気を宿したものなのかもしれない。確認すればわかることだが、家族写真にはもうひとり、もっと小さな子どもが写っていたように思ったが、それだと大写しになった少女は姉のほうだったということになる。

第483回 2024年6月10

袋小路1966

 ロマン・ポランスキー 監督作品、ドナルド・プレザンス、フランソワーズ・ドルレアック、ライオネル・スタンダー主演、イギリス映画、原題はCul-de-sac、ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。車で逃げるふたりの犯罪者がいた。ひとり(アルバート)はメガネをかけ知的に見えるが、弱々しく瀕死の状態、もうひとり(リチャード)は、粗暴な中年男で、腕を撃たれ右腕を吊っていた。動かなくなった車を、不自由な手で押している。彼らがギャングだとわかるのは、相棒が背に引いていた機関銃を取り出したときだった。

 小高い城のような住宅に目をつけ、ひとりがようすをうかがいにいく。そこはホテルのようになっていて、立ち去ろうとする家族の客がいた。次の日曜日にまた来ると言っている、作家夫妻と運転手でもある息子だった。隠れて男はのぞきみて、来週まで客は来ないことを確認した。オーナー夫妻のほかは誰もいない。夫には財産はあるが魅力はなく、若い妻は浮気を楽しんでいる。夫に女装をさせて遊んでもいる。

 疲れ切っていた逃亡者は、安心をして居眠りをしている間に、潮が満ちていたようで、車は水に浸かり、置き去りにした仲間が、車のなかで溺れかけていた。腹を減らして冷蔵庫を物色していて、見つかるが主人(ジョージ)の平和主義には攻撃能力はなく、男が凄味を効かせると、いいなりになってしまう。妻(テレサ)がそのだらしない姿を、見くびるように眺めている。彼女は肉感的で、夫の消極的な性格がものたりない。

 まだ新婚のようで、夫は全財産をつぎ込んで、11世紀の古城を手に入れ、ホテルとして収入を得ていた。妻は鶏を飼育して、家計の手助けをしている。鶏がにきやかで喜劇としての調子を高めている。冷蔵庫には生卵しか入っていない。男たちは何度も割り損ねて、床に落としている。

 犯罪者は銃を散らつかせて、言うことをきかせ、仲間の救出を手伝わせた。不満を感じながらも、主人は言いなりで反抗の気配もないことから、犯人は警戒することなく、わがもの顔に振る舞っている。おとなしくしていれば、そのうちに立ち去っていくだろうと、夫は考えている。

 電話で連絡を取り、組織のボスが助けにやってくると、期待をしながら待っている。このあと電話コードは人質に連絡させないように切り裂いていた。瀕死の仲間は死に夜中に墓を掘っていると妻がやってきた。怪しんだが夫は寝ていると妻は答えていた。夫に知られないままの単独行動だった。夫にはない暴力的な獣性に惹かれたのかもしれない。

 遠くに走ってくる車が見え、組織の仲間が来たのだと喜んだが違っていた。新婚の祝いを兼ねた知人たちの訪問だった。風光明媚な城での生活を、うらやましげに見ながら楽しんでいる。小さな子どもも混じっていて、妻はそのいたずらを嫌っている。レコードを傷つけられたり、さらにエスカレートすると、仲間のひとりが持参していた猟銃をおもしろがって、弾を入れて発砲し、周囲を震え上がらせた。お気に入りのステンドグラスに命中すると、夫は怒りを露わにして、訪問客を追い出しにかかった。

 その間、犯罪者は使用人に化けて、おとなしく目立たないようにしていた。妻が次々と命令を与えて、不思議な関係が生まれている。粗暴な男の情欲を支配できたという、女の確信だったのだろう。夫は恐る恐る犯罪者に接していたが、妻の横柄な態度には気が気でない。犯罪者は正体が見破られないように、おとなしく接していたが、客が去ってしまうと爆発する。片手しか使えない相手に、夫は隙を狙っていつでも反撃する機会はあったが、隠し持っていた上着のポケットから、銃を抜き取ったのは妻だった。

 銃を夫に手渡すが、夫は迷惑げにビクビクしている。夫の勇気を試そうとする、意地の悪い子どものいたずらのように見える。切断された電話コードをつなげて、組織に連絡が取れた。見放されたことを悟ると、男はここを出ようと決意して、上着を着ようとした。銃のないことに気づいて迫ってくると、夫は身構える。男は撃てないだろうと、見くびりながら近づいてくる。夫は思い切って、盲滅法に発砲すると、男に命中した。男はよろめきながら、車に隠していた機関銃を取りに向かった。それを手にして戻ってきたときには、力は尽きていた。空に向かって弾丸は乱射され、車にあたって炎上して燃え尽きた。

 夫は撃ち殺したことで精神は昂揚し、人が変わったように見え出してくる。妻はこの狂気に恐怖を感じている。知人のひとりが、引き返してきていた。先につどっていたとき、妻に言い寄っていた男だった。あのとき子どもがおもちゃにしていた銃が、置き忘れたままであり、それを取りに帰ってきたのだった。妻は思わぬ助け舟を喜び、その車でいっしょに逃げるように去ってしまった。

 夫は一人取り残され、どんづまりの袋小路にいて、途方に暮れて嘆いている。悪に立ち向かうバイオレンスは身につけたが、妻を引き止めるすべは知らなかったのである。もう少し我慢していれば、逃亡者は立ち去っており、またもとの平和な日々が続き、妻ももっといろんな浮気を楽しむことができたはずだった。若い浮気女を演じたのは、その後25歳で亡くなったカトリーヌ・ドヌーブの実姉というのが、感慨を深めている。

第484回 2024年6月11

ローズマリーの赤ちゃん1968

 ロマン・ポランスキー監督作品、ミア・ファロー主演、アメリカ映画、原題はRosemary's Baby。監督としてハリウッドに招かれての作品だが、故国ポーランドでの恐怖の血の記憶は、普遍性を帯びてポランスキーという自身の名に残り続けている。舞台はニューヨーク、俳優業を営む夫婦が、引っ越してきた部屋で起こる怪奇現象を前にして、子どもが生まれるまでの話である。悪魔の登場する、現実を超えたホラー映画であるが、残酷場面をつなげたスプラッタームービーではなく、それ以上に恐ろしい、格調高く味わい深い心理劇となっている。

 売れない役者(ガイ・ウッドハウス)にはぜいたくな物件なのだが、妻(ローズマリー)が気に入り、夫も無理をすることになる。不動産屋が部屋を案内しながら、不思議がっている。クローゼットがなくなっているというのである。これまでの住人が死んだ直後に住むというのも気になることだ。由緒ある高級アパートだったが、さまざまな死の影がこびりついていた。のちにはジョン・レノンがこの玄関で射殺されたアパートだともいう。

 不動産屋と夫で家具を移動すると、部屋の扉が現れて、開くと物置だったが、日常生活で使うような道具が入っていた。家具が勝手に動いたのではないかとも思えてくる。壁が薄く話し声が聞こえてくるのが気にかかる。過敏な神経には、壁が薄いのではなく、壁が発するささやきにさえ聞こえる。

 別の部屋に住む老夫婦(ローマン・カスタベット)がいて、おせっかいをやいて、夫人(ミニー)が何度も訪ねてくる。夫婦水入らずでグラスを傾けていても、邪魔をされる。ときには玄関先でスィーツを届けてくれただけで、上がり込まなかったのに、ホッとしている。夫は美味しそうに食べているが、妻は不審なたくらみを嗅ぎつけて、塗り込められた壁の味を感じ取り、首を傾けている。この夫人から悪臭を放つ薬草の入ったネックレスをプレゼントされるが、それはそこに同居していた娘(テリー)の遺品だった。引越しの直後にこの娘とは、共用のランドリーでことばをかわし親しくなったが、謎の死をとげていた。

 おしゃべりな夫人は、妻が妊娠をすると、名医を紹介してくれた。医療費も安く喜んでいるが、これまであまり知られていないような薬を飲まされている。腹痛が起こり治らないと、妻は治療を疑いはじめる。やがて悪魔の仕業で、赤ちゃんを狙っているのだと結論づけた。腹痛はながらく続いたが、ある日突然ピタッととまる。理由はわからないままだった。

 妻はみんなして悪魔の手先になってしまったと判断している。胎児を自分の手で守ろうとして逃げ回る。医者を代えようと夫に相談するが、聞きつけてくれない。役に恵まれなかったのに、幸運な仕事が舞い込んでくると、夫まで悪魔と取り引きをしたのだと疑いはじめる。

 黙ってはじめ一度だけ診察を受けた町医者を訪ねる。話を聞いてくれて、理解を示したが、今かかっている医者名をあげると、名医だと認めて、妻を休ませたまま席をはずした。しばらくしてやってきたのは、夫とその名医だった。町医者は妻の精神異常を見て取っての判断だった。妻の妄想は高まり、子どもを産み落とすが、逆子であり死産だったと告げられる。

 映像では部屋に近親者が集まり、ゆりかごをあやす姿があった。悪魔のように見える人物はひとりもいない。赤ちゃんの泣き声が聞こえる。妻はおそるおそる近づいてのぞき込むと、顔の色がかわり、大きく目を見開いた。何を見たのかは、私たちにはわからない。母親はあきらめをつけて、悪魔の子を育てようと、自分に言い聞かせたように見えた。悪魔でなくとも、生まれてくるまでわからない奇形は、つねにある確率だ。

 妊産婦が通常いだく不安定な感情を下敷きにした心理劇は、無事に子が生まれるよう願う母性の、正常な不安から発するものだろう。妊娠している女性には見せたくはないという判断が生まれるとすれば、影響力をもった映像表現として評価されたということになる。誰もが信じられないという孤独な心理は病的だが、不可解な現象に遭遇したときの、自然な反応であり、それによって精神の安定がはかられるものだ。そして生命の誕生ほど不可思議で神秘的なものはないという、真理に行き着くのである。

第485回 2024年6月12

マクベス 1971

 ロマン・ポランスキー監督作品、ウィリアム・シェイクスピア原作、ジョン・フィンチ主演、イギリス映画、原題はMacbeth。権力獲得にやっきになった野心家(マクベス)が、王になり、それが奪われるまでの話。血に彩られた狂気を描くシェークスピアの名作は、ポランスキーごのみのテーマである。あるいはポランスキーがシェークスピアごのみの資質をもっていたというほうがよいか。冒頭は切られた腕にナイフを握らせて、土に埋めるという、死者を追悼する奇妙な墓参の儀式からはじまっている。老女は魔女たちなのだろう、再会を約束して左右に別れていった。

 妻の甘言にそそのかされて、忠臣であったはずの、夫が王(ダンカン)を裏切る。妻は夫以上に野心家だった。もとは気の弱い小心者であった夫は、ひとつ殺害を犯すと、先手を打って、次々と罪を重ねていく。魔女の予言がはたす役割が大きいのは、彼が自力で未来を切り開けないあかしでもある。無理矢理に予言通りに、運命をねじ曲げていったようにも思える。

 主人公が武勲をあげて、自国(スコットランド)に勝利をもたらす。友(バンクオ)と帰還の途中で、魔女に出会い、予言を聞いている。自分に与えられるのは小さな領主(マーダ)にすぎないが、友は王の父になるというお告げだった。気にもとめていなかったが、帰ると王は、主人公についてはその通りの恩賞を与えた。王の継承はわが王子に託された。王は居城を離れ、主人公のもとに客人としてやってきた。妻は夫が王になる絶好の機会だとそそのかす。主人公はためらうが、有無を言わさない野心がほとばしっていた。

 王を暗殺して、犯行を王の従者に見せかけていた。このことを知ったふたりの王子は恐れをなして、国外に逃亡した。主人公は王になったが、そこで気にかかったのは、友が王の父になるという先の予言だった。密使を派遣して、友を暗殺させたが、息子には逃げられてしまった。息子は生き延びて、王子が身を隠していた国(イングランド)にたどり着く。最終的にはそこで蜂起して、主人公に恨みをはたすことになる。王子に王冠は渡されるが、それでは予言通りではないという余韻を残す。

 妻は敗北を感じ取ると、潔く自害したが、主人公は最後まで戦った。妻子を殺された、もとの仲間(マクダフ)との一騎討ちが、はてしなく続いている。男の恨みが加勢して、主人公は首をはねられて死んだ。首がさらしものにされる、壮絶な姿が映し出されていた。ポランスキーを通して、あらためてシェイクスピアの、欲望に根ざしたどろどろとした世界を思い知ることになった。

 家族を惨殺された恨みをはらすように、主人公が斬首されるラストの光景は、主役が入れ替わったような情念を宿している。それはこの監督の個人的な復讐を思わせるものだ。不在中の新居に賊が押し入って、若き妻をはじめ全員が惨殺されるという事件が、この映画にかぶさっている。妻は前年の作品で主役を演じたシャロン・テートだった。

 カルト集団の狂気による犯罪で、しかも先に住んでいた住人との人間違いだった。家族にとっては呪われた不運だったが、生き残った監督にとっては、幸運ではなかったが、強運ではあった。ナチスに追われ家族が犠牲になる中で、生き延びた過去がよみがえってくる。同じポーランド出身の監督、アンジェイ・ワイダと比較して、抵抗と逃亡として、その人生観を考えてみたいと思った。同じくマクベスを下敷きにした黒澤明と比べてみるのもいいかもしれない。

第486回 2024年6月14

チャイナタウン1974

 ロマン・ポランスキー監督作品、ロバート・タウン脚本、アメリカ映画、原題はChinatown、ジャック・ニコルソン、フェイ・ダナウェイ主演、アカデミー脚本賞、ゴールデングローブ賞作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞受賞。ダム建設をめぐり水道局局長の死を調査する探偵(ジェイク・ギテス)の推理サスペンスである。ダム建設に許可を出さない局長(ホリス・モーレイ)は、地域住民から避難が集中していた。旱魃に直面する農民にとっては死活問題だったが、背後には利権をめぐる確執があった。

 局長の妻(エヴリン)からの依頼を受けて探偵は動きはじめる。依頼内容は浮気調査だった。尾行して現場写真を写すことに成功する。その写真がスクープされ、新聞に掲載されるが、探偵には新聞社に情報を流した覚えはない。局長の妻が再度事務所を訪ねるが、顔を合わすと先の人物とは別人だった。探偵は興味をそそられ、陰謀を感じとり、真相究明に動き出した。探偵はもと警官であり、警察の所蔵するデータを、前歴をいかして活用することができた。

 局長が貯水池から死体となって見つかると、事件は混迷を極めるが、局長夫人の秘密がわかりはじめることで、大きな組織が関わっていることも予想されてくる。探偵が深入りすると、脅されて鼻を削ぎ落とされようとする。局長夫人の父親(ノア・クロス)が、黒幕として見え出してくると、隠された秘密を求めて探偵は、ますます興味を増していく。ナイフの傷で鼻に絆創膏を貼りながらの捜査が続く。それだけではなくこの夫人とのあいだに愛も目覚めはじめた。

 絆創膏姿を見ながら、コロナ禍でマスクをしながら映画制作をしている直近の事情を思い浮かべた。いつまでも絆創膏を貼っているのは、映画としては不自然だったが、暴力には屈しないという探偵の正義の弁明にもなっていた。夫人はそれに打たれたようで、痛々しげにそれを外しながら、手当てをしてやっていた。浮気の調査依頼があったとき、探偵は愛しているなら見過ごしておくほうがいいと言っていた。この職場放棄の潔癖さを夫人は聞くことができなかった。

 彼女は自宅に、夫の浮気相手を監禁していた。探偵はそれを窓越しに目撃して、弱々しげな娘の姿を見届けていた。局長がボートを漕いでふたりでいるのを、近くから盗み撮りをしたのは探偵自身だった。なぜ監禁されているのか。問いただすと自分の妹なのだといった。その後さらに追及したときは、自分の娘だともいった。

 探偵は見えすいた嘘に憤慨すると、妹であり娘でもあるのだと、真実を告白した。父親と局長は水をめぐって利益を共有していた。違いは公共性を重視するか、私腹を肥やすかにあった。この対立が局長の命を奪うことにもなったのである。探偵は尾行中に貯水池から、秘密裏に大量の放水がされるのにも出くわしていた。

 局長夫人は15歳で子どもを産み落としたと言っている。妹であり娘でもあるのだという事実に、驚愕させられることになる。父親の手を逃れ、ふたりをのせた車が警察の制止を振り切って走り去ろうとしたとき、発砲されて夫人は命を落とした。悲しい結末だった。探偵はそれを前にして打ちひしがれ、父親は生き残った娘を、やさしくいたわるように手を差し伸べていた。悪漢の父親を演じたジョン・ヒューストンの複雑な心境が見どころでもある。

 ポランスキー自身も、主人公の鼻をナイフで傷つける手下役として登場した。それは脇役として開花した名監督へのオマージュだったのだろう。自分はまだヒューストンに比べれば、チンピラにすぎないという含みをもたせた、言下に語られない隠された意味がある。それらは衝撃的な場面として記憶に残る。

 突然の放水で探偵が流されて溺れかける場面がある。鼻を削がれて血が噴き出る場面もそうだ。水死体として現れる局長にも驚かされる。そして最後には夫人が撃ち殺される。それがフェイ・ダナウェイであることから「俺たちに明日はない」のラストシーンを思わせるものでもあった。それらを点として、一本の線を紡いでゆくおもしろさがここにはある。ことばたらずが、映画の醍醐味である。それは原作を読んだところで解決するものではない。

 映画名のチャイナタウンが、エキゾチックな彩りを加えるが、中国人が登場するわけではない。冒頭では論語が引用され、中国人のものの考え方が揶揄されていたが、ロサンゼルスという街のリアリティを増幅させるもので、それ以上のものではないようだ。探偵ははじめその界隈を取り締まる警官だったが、悪との癒着構造に、二度と訪れたくはない、背を向けるべき場所となった。

第487回 2024年6月15

テス1979

 ロマン・ポランスキー監督作品、トーマス・ハーディ原作、ナスターシャ・キンスキー主演、フランス・イギリス映画、原題はTess、アカデミー賞撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞、新人女優賞受賞。旧家の誇りと愛の狭間で、悲劇的な末路をたどった娘(テス・ダービフィールド)の生涯。冒頭に監督の亡き妻シャロン・テートに捧げるという文字が入る。悲運な女性の生きざまを見つめながら、ほかに解決の道はなかったのかと苦悶することになる。

 牧師の調査によって旧家の出であることがわかった一家の話だが、農家の父親は飲んだくれで、一文なしの状態だった。子沢山で上の娘が、美人だったことから、同じ姓をもつ近隣の富豪にあいさつに向かわされる。気に入られたようで、養鶏場での仕事に雇われることになった。家では財産家のもとに入り込めると期待している。

 息子(アレック・ダーバヴィル)が一目惚れをして、言い寄ってくる。遊び人で、実権のある母親からは嫌われていたが、親切なので娘は気を許してしまい、妊娠をしてしまう。彼らは家名を買い取っていたようで、娘とは血のつながりはなかった。息子を愛していたわけではなく、引き止めるが娘は実家に帰っていった。子どもが生まれたことは知らせず育てるが、愛の結晶として生まれたものではなく、はじめは嫌っていた。やがてわが子への愛は深まっていくが、育たずに死んでしまう。

 娘は家族を支えるため働きに出る。牛の乳しぼりの仕事だったが、そこで出会った若者(エンジェル・クレア)と恋に陥る。若者は名家の子息だったが、労働体験としてそこに来ていた。女たちは目をつけていたが、4人が水たまりを前にして、衣服が汚れるのを躊躇していると、若者が一人ずつ抱きかかえて渡してやった。娘を最後に抱きかかえたとき、あなたを抱きたくて、前の3人を運んだのだとささやいた。愛の告白に娘は胸を躍らせた。

 二人の愛は順調に進み、男は結婚を申し込むが、女は結婚はできないと拒絶した。汚れた過去を思ってのことで、ことばでは言えず手紙を書いて、それでも受け入れてくれることを願った。戸口に手紙をはさんでおいたが、男のその後のようすから、安堵して結婚式をすませた。手紙がそのままにされているのに気づくのはそのあとだった。

 男も隠していることがあるといって、年上の女と数週間の関係があったことを明かした。女も同じことがあったと告白し、子どもももうけていたが、亡くなったことを伝えると、男の顔はくもり、許そうとはしなかった。娘は親からは黙っておくよう指示されていたが、夫の愛情を確信しての決断だった。

 夫はいっしょに暮らすことはできないと言って、出て行こうとするが、結局は妻が実家に戻ることになる。心の整理がつくまでの別離だった。妻は夫が戻ってくることを確信していた。夫もまた新居にとどまることができず、いたたまれず国外(ブラジル)に向かう。

 乳しぼりの頃に男に心を寄せていた娘が訪ねてきたときに、いっしょに行かないかと誘っている。悲しみを癒してくれる相手がほしかったからだろう。娘は簡単に承諾したが、自分に向ける愛を尋ねたとき、出ていった妻ほどの愛はないと答えると、男はそのまま立ち去った。

 妻はぼろぼろの状態で実家に戻った。母親は暖かく受け入れ、母との農家の作業が続いた。母は娘を憐れんで、富豪の息子に事情を伝えていた。息子はこのとき子どもが生まれていたことを知り、娘に手を差し伸べる。娘は拒否して夫を待ち続けた。

 夫がやっと心の整理を付けて帰宅する。待ち続ける思いを連ねた、娘からの手紙が、自分の実家には積まれていた。謝罪をしに娘の実家を訪ねるが娘はいなかった。母親は会っても無駄だと言っている。男は手がかりをきき、その地名を頼りに、娘の居所を突き止める。メイドがいて怪しむが、自分の名を言えばわかると取次いでもらう。2階から降りてきて再会を果たすが、娘は遅すぎたと男に繰り返した。夫が2階にいることを伝えると、男は肩を落として立ち去った。

 2階に戻ったが、もとの鞘に戻った生活は、裕福ではあるが満たされるものではなく、気づいたように女は駅に向かって走り出ていった。メイドは天井から血が滲み出る異常を見つめている。男が列車に乗り発車しかけたとき、女が駆けつけて乗り込むと、抱き合い夫を殺してきたと告げた。男は運命をともにしようと決意した。ふたりは次の駅で降りて、徒歩で、できるだけともにいる濃密な時間を過ごそうと考えた。

 空き家になった邸宅に忍び込んでの、至福の短いときが過ぎて、ストーンヘンジにまで逃げ延びて、夜明けとともに追手が取り巻いて、女は逮捕されていった。原始の巨石の間から朝日が昇り始めているのが、荘厳で神々しい。こんなに美しく写されたストーンヘンジははじめて見た。人類の明るい未来が、幻想的なもやを打ち消して立ちあがろうとしている。にもかかわらず、ナレーションは女がその後絞首刑になったことを伝えていた。

 波瀾万丈な絵になる一生だったが、幸福論からいえば悔いは残る。最初の男は映画で見る限り、極悪非道とは見えなかったし、主人公は十分に優遇されているようだった。実家に戻らずにそこでわが子を産み落としていたなら、死なせることもなかっただろうし、二番目の男と出会うこともなかった。この男との再会がなければ、やけボックリに火がつくこともなかったし、夫を殺害することもなかった。二番目の男が運命の人と思えるほどの好人物とは思えないことも、それに輪をかける。

 これらのキャスティングと演出が、意図的なものだったとすれば、妄想による娘の一人芝居に見えてもくる。美化させない人生の皮肉を、違和感として感じさせるものだったというひねりも、考えておいてよいかもしれない。ストーンヘンジの立ち上がった巨石のもとで娘は眠っている。末路を先取りした荘厳な墓石に見えて、何よりも美しい。

第488回 2024年6月16

赤い航路1992

 ロマン・ポランスキー監督作品、フランス・イギリス映画、原題はBitter Moon。夫婦での船旅で出くわした、奇妙な男女との出会いから起こる悪夢。結婚生活7年目で、倦怠感のあるイギリス人夫婦に誘惑するように伸びてきた魔の手だった。車椅子の中年男性(オスカー)と若い官能的な女性(ミミ)は、夫婦であるようだが、別々の船室を取っていた。

 きっかけは夫婦がデッキを歩いていて、妻(フィオナ)がトイレに入るが、いつまでたっても出てこない。夫(ナイジェル)がようすをうかがうと、妻は華奢な神経質そうな女性だったので、倒れて若い娘が抱き起こしてくれたのかと思った。逆に妻が若い娘を抱きかかえてもいて、ふたりは抱きあっているように見える。私たちの目にはふたりが一瞬入れ替わったようでさえあり、夫はこの娘に惹かれていく。知的にみえる妻とは対極にある娘だった。妻は船酔いがひどく、その後も船が揺れるたびに、グロッキーになり寝込んでいた。妻を残してバーで飲んでいると、激しく踊る女がいた。見ると彼女だった。男は声をかけたが、相手にされず、妻のもとに帰れと、軽くあしらわれた。

 車椅子に乗った中年男が現れて、彼女は自分の妻だと言う。自分と同じように身を滅ぼすので、近づかないほうがいいとも忠告した。自分と彼女とのいきさつを聞いてくれないかと自室に誘うと、夫は承諾して妻を船室に残して出かけて行った。

 なぜ車椅子生活になったのかが気にかかった。パリでの馴れ初めが語られる。バスの無賃乗車を助けてやったことから、男は娘に一目惚れをして、もう一度会いたいと同じ路線のバスを、毎日探しまわっている。男は売れないアメリカ人作家だったが、親から受け継いだ財産はあった。

 なかばあきらめかけて、女好きだったので街の女を誘ってレストランに行ったとき、ウエイトレスを見ると彼女だった。女のほうも覚えていて、会いたいと約束をすると簡単に承諾した。そこから濃密な関係が生まれていく。ふたりの愛はアブノーマルなものへと発展して、倒錯的な姿が赤裸々に語られると、夫はうんざりとするが、女のことが気にかかっている。妻のもとに戻っても、浮き足立っていて、妻は何かあると察している。

 次の日も続きを聞きに男の部屋を訪れる。身の上話は続くが、内容は打って変わっていた。はじめ男のほうが積極的だったが、やがて女に飽きてくると、女はすがるように求めてくる。女王のように男を従えていたのと逆転してしまっている。彼女を哀れに思っていたところに、部屋を出るとちょうど廊下に待ち構えていて、申し合わせたように声をかけてきた。自分の船室に来て話を聞いてくれないかとすがってくる。今夜は遅いのでのちの日にと、約束をして妻のいる船室に戻った。妻はすでに眠っていた。

 女は踊り子で酒場では、踊り好きの相手を見つけては官能的な踊りを見せて、男に嫉妬心を起こさせている。フランス娘で、アメリカに住みたがっているが、男はパリを好んでいる。二人になると、主導権を握り、暴力的に男に迫っていた。身体を傷つけ、ベッドから落として車椅子生活にしてしまった。男を自分のものにしておくためだったように見える。

 女はあなたの幸運は歩けなくなったこと、私の不幸は生涯あなたの介護をすることと言う。逆説的な言い回しで、女は見捨てるわけではなく、甲斐甲斐しく世話をする。ときに意地悪く姿を消して、男は排尿を我慢ができずに、恥ずかしい下半身をさらけることになった。不自由な下半身は、性的欲望の吐け口として、妻と若い男との情事を思い浮かべることで、満たされていったのだろう。結婚7年目の夫婦は、ぴったりの獲物として現れたようにみえる。

 夫は男からの話を聞くと偽って、彼女の部屋を訪ねると、電気をつけずに入ってくれと言う声が聞こえた。夫は期待に胸を躍らせ、入るとベッドには男が横になっていた。二人して夫をかついで、笑い物にしたのだった。さらには女が妻を誘惑して、同性愛の倒錯へと導いていく。7年目の刺激のない夫婦にとっては、はじめて経験する世界だった。同性愛は二人の女がはじめて出会った、トイレで芽生えていたのだろう。暴走に歯止めをかけるように、インド人の父娘が登場する。イギリス、アメリカ、フランスという国際間の摩擦を緩和する理性的人格のように思われた。

 終止符は車椅子の男によって打たれた。妻から誕生日のプレゼントに、ピストルをもらっていたが、突然女同士で抱き合っているほうに向けて発砲して、自分の妻を殺害してしまう。間髪を入れず、自分も銃身を口にくわえて引き金を引いた。あっという間に、悪夢は終わってしまった。ふたりは実在していたのかとさえ思えてくる。衝撃は走るが男女は、呆然として寄り添っている。長い船旅はまだ続いていく。

 何という不道徳な話なのかと驚くが、これは妄想であり悪夢ではなかったのかと思う。それはこのふたりの死亡によって、何もなかったかのように、痛みか引いてしまうことで察せられる。歯痛が歯を抜いた途端に消えてしまうのに似ている。誰もが抱く邪悪な妄想が、具体的な人物の姿を借りて見えてきたと考えるのが妥当だろう。

 船の揺れが引き起こす不安定な感覚は、船酔いとなって具体化する。ここでも妻をはじめ、ふつうに立ってはいられない不安定な心理が描き出されていた。それに伴ってこんなとんでもない人格が、ごく普通の夫婦の間にも現れる。砂漠を歩くときの安定しない揺れとみれば、「赤い航路」は、アントニオーニの「赤い砂漠」と連動させようという意図が読み取れる。もっともこれは日本語タイトルで、原題は直訳すれば「苦い月」である。「甘い月」との対比と見れば、ハネムーンの気分を取り戻そうと計画した航海で、七年目の浮気を期待した、夫婦がみた悪夢ということになるだろう。

第489回 2024年6月17

ナインスゲート1999

 ロマン・ポランスキー監督作品、フランス、スペイン映画、原題はThe Ninth Gate、ジョニー・デップ主演。扉がひとつずつ開かれ、第九の扉が開かれるまでの物語である。宗教学ならぬ悪魔学を下敷きにした話は謎めいていて、古書の版画に隠された意味を探るミステリーが、見どころになっている。

 謎を解く印刷本が複数あり、主人公(ディーン・コルソ)は古書を扱う古物商として、豊かな知識をもった専門家だった。稀覯本を所有するコレクター(ボリス・バルカン)から調査依頼があった。何冊もない版本の比較を通して、真贋の判断を依頼され、借り出した一冊の古書を手に、他の所有者を訪ねて、挿絵を並べて見比べていく。

 閲覧は難しく、呪われた書籍は、焼き払われてぼろぼろになったり、所有者が殺害されたり、盗難にあったりと、調査は思うようにはかどらない。三冊に掲載されている版画を、それぞれ比べてみると、どれもが贋物ではなく、印刷本なのにわずかなちがいが見つかる。その間違い探しの成果を伝えることで、やっと所有者の門前払いがとけたこともあった。

 そこには作者名をあらわすマークが入れられていて、LCFと読み取れる。主人公はルシファー(悪魔)の略だと推定している。各冊子に三枚ずつ、紛れ込むように入れられていた。一覧表にして並べることで、見えてくるものがあり、その9枚を集めて読み解いたものが、悪魔の力を身につけることができるのだという。版画製作者を訪ねるが、不思議なオーラを放つ双子の兄弟だった。

 主人公は謎解きの興味から深入りしていくが、依頼主は悪魔のパワーを手にしたいという欲望にとらわれていた。力づくで三冊の冊子から切り離し、9枚の版画を手に入れるが、最後の一枚は偽物だった。そのことを知らずに、ガソリンを頭からかぶって火をつけても、死ぬことはないと信じながら、火まみれになって焼死した。

 主人公を見守る謎めいた女性がいた。依頼主に雇われていたように見えるが、武術の心得もあり、主人公の窮地を救っている。スポーツカーオートバイを乗り回し、主人公を後ろに乗せて、犯人追跡もしている。贋物であった最後の一枚のありかも知っていて、主人公にそのヒントを教えている。それに導かれて版画製作者の双子の兄弟を訪ねると、家具の上に隠されていたそのページの一枚が、空中を浮遊して落ちてきた。最後の鍵を手にして主人公は秘密の全容を知ることになる。

 依頼主の死で、主人公は光り輝く第九の扉に向かって歩いていくが、それに先立って全裸になって、二人は激しく貪りあっている。肉欲に溺れるように女が男にまたがり、男は苦悶の表情を浮かべている。彼女については誰であるのかの説明はなく、鋭いまなざしに秘められたパワーから読み取れるものがありそうだ。

 時間を超越するように、一瞬空中を浮遊することもできた。その姿は登場人物には見えないが、私たちには見えていた。背中には羽根が生えていたのかもしれない。ルシファーとは悪魔となったが、もとは天使のことだった。性なる儀式は、第九の扉を開くための、みそぎのようにもみえる。彼女の前では主人公はひよわげだが、子どもをあやすような口調でおだてられると、勇気を奮い立たせることができた。

 古書が並ぶ重厚な西洋文化の蓄積が、悪魔学を支えている。黒づくめで集う秘密結社の妖艶な神秘性も映し出されていた。上流階級に根づくセクシャルな黒魔術である。対して主人公は、古本屋という地味な職業であるが、安く買いたたく商魂も持ちあわせていて、ドンキホーテの四巻本を本の値打ちにうとい遺族から手に入れている。現実的な狡猾さが、目につくが、日常生活はバスと徒歩でこなし、質素な姿が見える。

 車の運転もせずタクシーに頼っていたが、目覚めて勇気をもって敵と立ち向かうときには、さっそうと車を乗りまわしていた。おしゃれなファッションとは縁遠いが、着古した上着やコートとズタ袋のようなショルダーバックが、ラブシーンには邪魔になるメガネとともに、トレードマークとして揺るぎない美観を呈していた。

第490回 2024年6月18

戦場のピアニスト2002

 ロマン・ポランスキー監督作品、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画、原題はThe Pianist、エイドリアン・ブロディ主演、カンヌ映画祭パルムドール、アカデミー賞監督賞、脚色賞、主演男優賞受賞。戦時下でピアノは力となるかが問いかけられる。ひとことで言えば、芸は身をたすくということになるが、ことはそんなに単純なものではない。生き延びるためには、芸を身につけておきましょうという処世術では終わらせることのできない、人間の愚かさへの告発がある。一人生き残り、荒廃した市街を歩む姿は痛々しい。歴史の教訓はことに権力の支配下にある小国がたどる運命に反映している。それは現代のウクライナであり、かつてのポーランドだった。

 この映画の見せ場は、主人公(ウワディスワフ・シュピルマン)がショパンを演奏するのを聞いて、命を奪うことのできなかったドイツ将校(ヴィルム・ホーゼンフェルト)の感涙にある。その後食糧を差し入れまでしてやっている。のちにドイツ軍と間違われることにもなるのだが、軍服の上に着ていた防寒用のコートまで脱いで渡してやっている。音楽に興味のない軍人なら、ユダヤ人であるというだけで、虫ケラのように銃殺してしまっただろう。ピアニストを救ったのは芸ではなく、そこに宿った悲痛な訴えだったように思う。ショパンの旋律の中に、すでにこの民族の血は息づいていた。

 ドイツ占領下にある、ポーランドのラジオ局でピアノの収録をしている著名なピアニストがいた。突然の爆音が響き、壁は破壊され、建物自体が壊滅状態になる。イギリスとフランスが参戦をしたという情報が入り、ドイツ軍の侵略は長くは続かないと喜ぶ一方で、死に物狂いに抵抗をすることで、ナチスの狂気は加速していく。アメリカはユダヤ人を数多くかかえるのに、なぜ参戦しないのだといういらだちも表明されている。

 ピアニストには両親と弟と妹が同居していた。仲のいいユダヤ人家族であり、運命をともにするが、ピアニストだけが生き延びることになる。弟は抵抗運動をして、身柄を拘束されるが、兄が手を尽くして釈放されることができた。兄の力が働いたことを、弟は嫌っている。ピアニストとして、上流階級や権力者とのコネクションをもっていたことへの反発があった。それはナチスにおもねることによりなされたが、弟にはその不純が耐えられなかったのである。死を覚悟したとき、妹にもっと話したかったのにと、兄はつぶやいていた。生きているあいだにという意味である。

 ピアニストを慕う女性がいた。チェロを学ぶ新人だったが、共演したいと約束を交わしていた。ユダヤ人であることから、愛がみのることはなかった。援助する友人も多く、抵抗運動に加わった仲間や音楽仲間も彼を助けた。家族が揃って列をなし、貨物列車で強制収容所に送られようとしたとき、主人公を見つけて家族から引き離し、列から引っ張り出して助けたのは、顔見知りのドイツ軍幹部だった。引き離された父と子は目と目があって、最後の別れをしている。父親がわが子の幸運を祈ろうとする目が印象的だった。バイオリンのなかになけなしの紙幣を隠し込んだが、何の役にも立たなかった。少し前までは一粒の菓子を等分に切り分けて、家族で食べるのに役立った現金ではあった。

 ピアニストは運動には加わらず、抵抗することなく生き延びようとして、逃亡し続けた。華奢な肉体は、強制労働に耐えられるものではなかった。レンガを運ぶ重量に耐えかねて落とし、ドイツ兵から暴行を加えられている。その生きざまは潔いものではなく、無様にさえみえるが、そのあらがいと苦悩のすべてが、無言の音楽に結晶した。ピアノを前にした姿は凛々しく、どこからも打ち込めない剣の達人の風格を示している。それが無抵抗であるだけに、心に響いてくるのだと思う。

 監督のポランスキーもまた逃げ続けた人だった。逃亡者は育てられた母国ポーランドからだけではなく、みずからが犯した性的虐待の罪で、自由の地であったアメリカからも追われた。祖国を裏切ったという限りでは、批判することもできるが、人間には武器を取ることでは解決しない、欲望と悪徳がある。

 宗教はそれを緩和しようとするが、しばしば武器を取ることを教える。対して芸術は武器を捨てることを教えるのである。ドイツ人将校はピアニストを撃てなかった。敗走を前にして彼は自殺するのではないかと思ったが、それは私のなかにまだ潔さの美学が根を張っていたからだろう。実際は彼は生き延びて捕虜になり、ポーランド人からのあざけりを受けながら、ピアニストの名をあげ、著名人だと知ると、その命を救ったのだとアピールしていた。

 ドイツ人を美化することは避けたかったにちがいない。ワルシャワではユダヤ人を一ヶ所に集めて、壁を築いて隔離し、強制的に移動させて住まわせる。ゲットーの名で呼ばれるものだ。腕章をはめて、街の通りでは脇の溝を歩かせる。情け容赦なくゲーム感覚で銃殺を楽しむ。末端の兵士の極悪非道が、これでもかこれでもかと告発されている。その恨みは当事者でしかわからないものだ。ポーランドに根づいたユダヤ民族の怨念と言ってもよいだろう。

 スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」とあわせて、ドイツ人をそこまで悪者にしないとおれない、屈折した負の歴史の真実を思い知る作品となった。日本人にはユダヤ人問題に実感はないが、西部劇でのインディアンや、アジアに勢力を拡大した日本軍もまた、絶対悪として描写されてきたことも、あわせて考えておくべきことだろう。

第491回 2024年6月19

オリバー・ツイスト2005

 ロマン・ポランスキー監督作品、チャールズ・ディケンズ原作、バーニー・クラーク主演、イギリス ・チェコ ・フランス ・イタリア合作映画、原題はOliver Twist。天涯孤独の孤児(オリバー・ツイスト)が出会った泥棒仲間と善良な養父との間で、それぞれに人間関係を築き上げていく物語。両者は相入れないが、悪の道とはいえ、そこで受けた恩を忘れられないのがポイントである。

 孤児院での集団生活で、仲間とのくじ引きで外れて、代表して食事のお代わりを口に出すことになった。今まで誰もそんなことを言ったものはいなかった。そのために管理者から目をつけられ、この施設を追い出されてしまう。市井での労働環境は劣悪で、自由を求めて徒歩でロンドンまでゆくことにする。たどり着くが飲まず食わずで途方にくれていると、声をかけてきた少年があった。ついてゆくと泥棒仲間の子どもたちの集団であり、スリのテクニックを指導する老人(フェイギン)がいて、目をかけてくれた。

 三人が組になって、一人目が盗み、二人目がそれを受け取り、三人目がさらに引き取って逃げ去る。練習場面を見ながら、みごとな連携プレイに感心する。古書店の客を標的にして、主人公を含む三人が実行するが、見つかり逃げ遅れた主人公だけが捕まってしまう。この少年は無実だという証言者も現れ、被害者(ブラウンロー)も素直そうな姿に引かれて、自宅に連れ帰る

 裕福な家には子どもがいなかったようで、実の子どものように育てられることになる。泥棒仲間はそのことを知ると、自分たちの組織のことが明るみにでることを恐れて、誘拐を計画した。古書店に返す本があり、少年が使い走りをすることになった。ついでに支払いの金も託すと、居合わせた主人の友人は、持ち逃げされることを懸念している。

 このとき誘拐が実行された。主人公は誤解を恐れて、帰らなければと訴えるが、聞きとげられない。持っていた大金も着ていた衣服も、仲間たちに取り上げられて、また昔の身なりに戻された。組織を取り仕切るボス(ビル・サイクス)がいて、家庭の事情を知った主人公を使って、強盗を計画する。極悪非道の男であり、凶暴な犬も連れていて、子どもたちに慕われる老人とは対極の、恐れられ嫌われる存在だった。情婦(ナンシー)がいて、主人公には同情を寄せながらも、この男の言いなりになっていた。

 銃も用意して脅しながらの犯行となる。少年を窓から侵入させ、玄関の鍵を開けさせる。少年はためらいながら、家人に知らせようとすると、銃が発砲され肩に命中する。少年を連れ帰って治療を続けるが、ボスは凶暴さを増し、少年は監禁状態にある。情婦は少年を助けようとしてボスを裏切り、養父に知らせた。少年仲間のひとりが女の監視を割り当てられていて、ボスに裏切りを密告すると、激怒からボスは情婦を殺してしまった。

 このとき猛犬までもボスを見限って、離れていった。主人の言うことを聞かなくなった犬の名演技がひかる。犬に誘導されて、警察が動きはじめる。ボスは主人公を盾にして逃げようとするが、屋根伝いに逃げるなかで、足を踏み外してロープが首吊り状態なって死んでしまった。主人公は養父のもとに戻り、泥棒仲間とは絶縁した、書籍に囲まれた知性あふれる環境で、育つことになった。

 かつて主人公を疑った、養父の友人は非を詫びていた。悪の道から足を洗ったにもかかわらず、養父に頼み込んで自分を見込んでスリの訓練をした老人に会うことを願った。獄中にあり、半狂乱のなかでの再会だったが、主人公にとっては、忘れることのできない、かけがえのない恩人でもあった。誰からも見向きをされない極貧の弱者にとって、彼らは泥棒とはいえ、たくましく生き抜く、孤児院以上の存在だったということなのだろう。

第492回 2024年6月20

ゴーストライター2010

 ロマン・ポランスキー監督作品、ロバート・ハリス原作、フランス・ドイツ・イギリス映画、原題はThe Ghost Writer、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞、ユアン・マクレガー主演。国を左右する大物政治家(アダム・ラング)の自伝を書くために、高給与で雇われゴーストライターが、身に降りかかる危機を乗り越えて、真相究明にいどむサスペンス映画。

 前任者(マカラ)は謎の死をとげている。フェリーから落ちての溺死とされていた。厳重な警備がされるなか、海辺の閑静な住宅に乗り込むと、妻(ルース)と秘書(アメリア)が現れて、女同士の対立があるのを、ライターは感じとった。ホテルに泊まり込んで、通いでのインタビューを通して仕上げていくのだが、すでに下書きができあがっていて、うず高く積み上げられていた。ホテルでは4週間の滞在を予約している。政治家が到着するまでの6時間で、目を通しておくよう言われて、うんざりしているが、原稿には至るところにバツを入れて、大幅に書き直すつもりをしている。

 ケンブリッジ大学の頃の話を聞き、妻との出会いを探ろうとする。その頃は演劇をしていて、政治には興味がなかった。演劇の話は書かないよう指示を出している。妻のほうが政治には興味をもっていたようで、ライターとの会話で、自分は政治家になり損ね、あなたは作家になり損なったと、皮肉を言っている。夫への不満を示すように、その後、留守宅を守る妻とライターの関係は深まっていく。女秘書はてきぱきと仕事をこなし、イギリスとアメリカを行き来する政治家に付き添っている。

 政治家に戦犯の容疑がかかると、急に身辺があわただしくなっていく。マスコミや市民が騒ぎはじめると、ライターの出入りも制限され、ホテルを引き払って邸宅に引っ越してくる。執筆期限も1ヶ月から2週間に短縮された。邸宅に用意されたのは、前任者が住み込んでいた部屋だった。死亡してからまだ日も浅く、荷物が置いたままにされていた。ライターはそこから、密かに調査されていたことを示す、写真やメモ書きを発見している。

 軍事兵器の製造に関わる大物の企業人と写された写真や電話番号もあった。大学時代の記録にも、何年かのずれを発見して、隠された謎が潜んでいることを感じていた。CIAに属した博士(エメット)の存在も浮上してきた。電話番号をたよりに独自で調査に乗り出すが、深入りをし過ぎて追われることになる。ますます疑惑は増していくと、自分も前任者のように抹殺されるのではと、恐れを抱くようになる。フェリー乗り場追跡されて、車を捨てて逃げる場面は、スリルに満ち、サスペンス映画の醍醐味をあじわうことができる。

 電話をして助けを求めてやってきたのが、味方なのか敵なのかがわからない。CIAの国家機密を左右するような話にもなってきて、ゴーストライターの手に負えるものではない。確かめようとしていたが、政治家は専用機で空港に戻ったとき、暗殺をされてしまう。タラップから降りてきたところを、遠距離からライフルで狙い撃ちをされた。ライターは下書きの書き出しに、前任者が事件の真相を隠し込んでいることを突き止めていた。段落のはじめの文字を順に抜き出していくと、文章が現れた。驚くべき事実だった。

 大勢が集まり、追悼のスピーチをおこなっている妻に、そのことを記したメモを人から人へと手渡していく。彼女の手に渡ると、驚きの表情を浮かべ、一瞬顔色が変わった。末席にいたライターは身の危険を感じて、証拠となる下書きをかかえて、その場を離れた。通りを渡り終えたとき、入れ違いに通り過ぎる車を映し出したかと思うと、何枚かの紙が風に吹かれ、やがて何百枚もの原稿が宙に舞いはじめた。

 ライターの姿も通り過ぎた車も、その後は映し出されなかったが、静かな幕切れが、闇に葬られる不穏な抹殺を暗示して、余韻を残すものとなった。ライターは突き止めたが、真相は前任者と政治家の死に引き続き、依然として隠されたままである。ゴーストライターという存在が興味をそそる。私たちは彼の名前も知らない。この幽霊作家ははじめから存在してはいなかったのである。

第493回 2024年6月21

おとなのけんか2011

 ロマン・ポランスキー監督作品、ヤスミナ・レザ原作、フランス・ドイツ・ポーランド・スペイン合作映画、原題はCarnage、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット主演。子どものけんかをめぐって、殴った子ども(ザカリー・カウワン)と殴られた子ども(イーサン・ロングストリート)の両親が、仲直りに集まり、さらに険悪なけんかになっていくコメディ映画である。

 はじめ丁重に控えめに話をすませて、帰り支度をしていると、コーヒーでもと言ったところから、いらぬ話題に展開し、やがてまた子どものけんかへと話が戻っていく。心にあったわだかまりが、じょじょに口に出てきてしまい、はては男同士と女同士に分かれて、組み合わせが代わってのバトルにもなっていく。スクラムを組んでいたはずの夫婦の仲間割れが、本題をはずれて、新たな話題を見つけて拡張していく。

 日常よくある話だが、子どものけんかにおとなが入って、争いを拡大してしまうことは多い。これを国家間でのことと考えれば、絶えず繰り返されてきた代理戦争でもあった。ここでも同盟国の仲間割れは常に起こってくることだ。大虐殺を意味する、原題の大げさな真意は、ここにあるのかもしれない。会談場所は被害者宅で、謝罪を伝えにきたという体裁をとる。これが加害者宅だと怒鳴り込んでいったということになってしまう。調停会議をどこで開くかは重要なことだ。

 自宅はアパートだったが、父親(マイケル)は日用雑貨を販売する店を経営しているようだ。母親(ペネロピ)は作家だと紹介しているが、それは相手方への対抗意識もあった。相手の父親(アランは弁護士で、まともにけんかをすると歯が立たない。母親(ナンシー)も知的な金融の仕事についているようだ。ただ弁護士は妻について同行してきただけで、子どものけんかに関心は薄い。今抱えている仕事が忙しく、絶えず携帯電話が鳴って、話を中断させている。

 妻は失礼だろうと夫をいさめるが、その後も繰り返し電話はなり続ける。秘密情報も筒抜けで、相手の心情は良くない。第三者が聞いていてもいいのかという内容に、雑貨屋は弁護士という職業そのものに嫌悪感を浮かべている。最後には、自身の妻の怒りが爆発して、携帯を花瓶の中に投げ捨てた。弁護士は全データが入っているのにと、悲痛な顔立ちに変わってしまった。

 ふたりの女は共闘して高笑いをしている。相手の夫は水没した携帯を何とか復元しようとして、協力を惜しまない。男同士が相憐れむ姿とも見える。停滞電話に対抗するように固定電話が鳴り出す。雑貨屋の母親からの電話で、本筋からはずれるが、携帯電話の内容と微妙に対応させているのは、脚本家の腕の見せどころである。

 デザートがあったのでコーヒーとともに振る舞うと、おいしかったのか、夫婦は喜んで食べている。ことに夫は食事がまだだったので、おかわりをして、はしたなく食っていた。その間も仕事の電話を手放せないままだった。妻はそのみっともない姿を軽蔑の目で見ていた。

 途中で加害者の母が気分を悪くして、食べたものを戻してしまう。突然のことで、あっと驚く圧巻の場面である。その後もバケツを手にしながら、みんなしてひやひやとしている。テーブルの上にあったココシュカやフジタの画集にかかり、人の家に来て何ということをするのだと、妻は怒りを沸騰させるが、押し殺している。たいせつにしていた画集だった。はじめはマニアックなベーコンの画集をふたりしてながめ、打ちとける気配を示していたのだったが。怒りが爆発したときには、相手のバッグを投げ飛ばすに至る。

 画集が汚れたとき、相手の夫はすかさず弁償しようというが、展覧会の図録であり、絶版になっていて今は手に入らないと、いらだちを示した。このときも雑貨屋は本がシワにならない工夫を考えてやっている。嘔吐は夫のズボンにもかかり、トイレで脱いで乾かしているので、ドライヤーが使えない。

 相手の妻がトイレに入ってきたとき、弁護士のズボンを脱いだ姿とドライヤーに、険悪な視線を浮かべて出ていった。しばらくして今度は、自分の妻が入ってくると、デザートがまずかったと悪口を言い合っている。それでも雑貨屋が自慢のウイスキーを持ちだすと、弁護士は喜んで飲み、先に食い物をもどした妻までも飲み、さらにいらだちを押し殺して冷静を保っていた、もう一人の妻までも飲んで、酔った勢いで饒舌になり、ますます言い争いのタネがふえていった。

 ハムスターを虐待したと雑貨屋は非難を受けている。これにはふたりの妻は同調した。最後に公園に置き去りにされたハムスターを大きく映し出して、その背後で子どもたちは、またなかよく遊んでいる。子どものけんかはすっかり終わって、ハムスターも戸外でのびのびとしているようにみえる。

 親の確執はまだ収まりがつかずに、引き続いている。今度はどちらの家で集まるのかもまた、決着のつかない論議のタネだった。乾くまでの長い時間の経過を示すように、携帯電話がまた鳴り出して、テーブルを震わせていた。結論が出たわけではなく、ゴングが鳴って第2ラウンドがはじまったという印象だった。

 バックグラウンドで入れられている、せき立てるような音楽が効果的で、せかされるような不安感といらだちを高めていた。舞台劇がそのまま映画に移されたように、折り畳むようなセリフの連続が、テンポよく展開する。登場人物は4人だけで、それぞれが性格を際立たせた熱演だった。ことにこれまで主役を張ってきた名女優ふたりの掛け合いは、フィクションを超えて、生々しい現実感のある自己主張をもったものだった。

第494回 2024年6月22

告白小説、その結末2017

 ロマン・ポランスキー監督作品、フランス・ベルギー・ポーランド合作映画、原題はD'après une histoire vraie、英題はBased on a True Story。映画は女性小説家(デルフィーヌ)のサイン会からはじまる。朝から引き続いているので、この流行作家はうんざりとしている。にこやかに接していたが、時間が来ても、まだ列はできていた。作家が目配せをして、主催者の判断でやっと終了した。席を移すとぐったりとなっている。終わってからもひとりの若い女性がサインを求めてきた。感じのよい娘だったが、サインをすればまた列ができてしまうのでと、丁重にことわっている。その後バーでくつろいでいると、この女性がいて話しかけてきた。

 惹かれるところがあったのだろう、このふたりの交流を軸に話は展開していく。作家には夫も子どももいたが、今は執筆活動を優先して、ひとりで部屋を借りて住んでいる。夫はテレビを中心に放送局の仕事をもち、人気番組を担当するメインキャスターだった。妻を自分の番組に出演させて、ひんしゅくを買ったこともあった。ともに競争の激しい業界である。子どもは男女がいるが、まだ自立はしていない。別れて暮らしているが仲は良好のようだ。

 出会った女性は名を明かさない。サイン本にはエル(彼女)と書くよう要求している。作家は興味を持ちはじめていた。女のほうも身のまわりのことを心配して、いろいろと手を尽くしはじめた。執筆に専念させるために勝手に依頼を断ったり、作家の名でメールの返信をするまでに至る。料理もうまく作家はありがたがっているが、夫は怪しみ出していた。

 番組編成の仕事で忙しくなり、夫は長期の出張に出てしまう。作家は彼女の誕生祝いに招かれて、二人だけのパーティもおこなっている。家主の都合で部屋を出なければならないと言って、彼女は作家の部屋に住み着いてしまった。子どものために用意していた空き部屋があった。秘書として事務作業を有能にこなす才能もあった。自身も作家だと言っていて、著名人のゴーストライターなのだと明かしていた。今も執筆を続けているが、誰の仕事を請け負っているのか、作家には気にかかるが、秘密事項なので明らかにしようとはしない。

 体調を崩した作家の代わりに講演にも出向いた。学校で教科書に採用したこともあっての依頼だった。担当者に替え玉なのが見破られたが、子どもたちは話を喜んでいたと報告している。作家の履歴をすべて覚え込んでの対処だった。女の身の上話を聞いて、まわりに不思議な死の影がまつわりついているのに、作家は興味を抱く。

 それをメモしはじめて、新作の構想に使えると直感した。これまで身辺を取り上げていたことから、当事者なのだろうか、差出人不明の脅迫めいた手紙も続いていた。このことでスランプに陥って書けなくなっていたのを脱却できると考えた。作家の携帯電話をのぞき見たときに、自分のエピソードが記録されているのを知った女は、信頼への裏切りを感じ取り、その報復を決意したようだ。女の凶暴さがゆっくりと顔を見せはじめていく。料理をしていて、ミキサーが動かなくなったとき、それを何度もたたきつけて、暴力的に破壊していた。のちには作家の強迫観念がみた夢だったが携帯電話とノートパソコンをたたき割っていた。

 作家が階段から落ちてけがをして、松葉杖の生活が続いたとき、いなかでの生活をはじめることで、環境を整えようとする。いなか家は落ち着いた平屋だったが、古くて女が地下室に入ったとき、ネズミに出くわし悲鳴をあげる。作家は異変に驚くが、ネズミを異常に恐れるのだと知る。女はネズミに飲ませる薬剤を買ってくるが、恐怖心は地下室に置くことができない。作家が松葉杖をつきながら、地下室にまで降りていった。

 何かが起こる予感がする。閉じ込められるのではないかという気になるのは、重そうな床の扉を引き上げて、地下室に降りる構造が与える不安感からだっただろう。作家に食欲がなくなり、出された食事を残しはじめると、女は皿ごと投げつけてしまった。作家は飲み物や薬にも不安を感じはじめ、飲み残したときの女の反応を恐れて、そっと捨ててもいた。顔には憔悴の表情がうかがわれる。

 身の危険を感じて、作家は松葉杖をつきながら、真夜中に脱出をはかる。道路に出たときに、トラックを避けようとして溝に落ちて、気を失ってしまう。朝になって近くの作業員に見つけ出されて、運ばれ一命を取り留めた。胃からはネズミに飲ませる薬剤が検出されたことで、作家活動のストレスとスランプによる自殺未遂とみなされた。出張中の夫が駆けつけたが、妻といっしょに生活をしていた女性については、エルという名しかわからなかった。

 新刊書が出版され評判を呼んでいる。自殺未遂が話題をさらっていたのかもしれない。新境地を開くものとして評価されたが、本人には自覚はなかった。自分が書いたものなのかさえ定かではない。あのときと同じようにサイン会が開かれ、賛美の声を聞いている。そんななかファンのひとりに、エルという名でサインを求める女性が姿をみせた。顔は見えなかったが、作家は顔をあげてあっという表情を浮かべている。

 ゴーストライターについては、それがタブーであるかのように、作家は何も語らなかった。夫にも仲のいい女友だちができたと言っただけだった。ずっとふたりでいたが、目撃者はだれもいなかったように思う。気になっていたが、じつは自分のゴーストライターだったのである。現実世界に実在する、このキャラクターの存在と不在という問題は、先の同名の作品から引き継がれたもので、ポランスキーが追求した生涯のテーマと密接に関係しているものだ。黒澤明が「羅生門」や「影武者」で扱ったキャラクターとも連動して、映画というメディアが普遍的に考え続ける課題だと言ってよいだろう。