和田誠展

20211009日~1219

東京オペラシティ アートギャラリー


 ものすごい作品量である。そしてものすごい人ごみである。コロナ禍の狭間でなければ成立しない企画だが、和田誠にはなんの責任もない。華やかな舞台に身を置いてきた人だというのがよくわかる。芸能界やテレビ局やコマーシャルという文脈なので、創作活動としては三谷幸喜などと混同して見えてくる。人気も今の若者から昔の若者にまで渡るのが、ひとごみの層の厚さから察せられる。四年が一本の柱に見立てられて、回を重ねるオリンピックのように林立している。各面に一年が割り当てられているので、円環状に繰り返しまわりながら、聖火リレーのようにしないと、生涯をたどれない。


 物心ついた頃は数年がまとめられるが、高校生以降は代表的なイメージをはりつけた1年のクロニクルが、途切れることなく続いている。エポックはいくつかあるが、それは見る側の個人史との対応をなしている。私にとっては「ハイライト」のパッケージデザインと、「麻雀放浪記」の映画制作だった。セブンスター派だったので、ハイライトはあまり吸わなかったが、タバコの顔はグラフィックデザイナーの勲章だ。民衆のタバコか、上流階級のものか、労働者のものかは、デザイナーの資質と関係している。


 週刊文春の表紙デザインが、壁面いっぱいに並んでいる。ライフワークともいえる息の長いシリーズだ。毎週のことだから大変だと思うが、通してみるとスランプやマンネリ化、絶好調の時期がうかがえて興味深い。週刊文春だというのもタバコと同じで、デザイナーのキャラクター形成の要因となる。それは立花隆が文春の出だという意味とも共通するものだ。スキャンダルを執拗なまでに暴くという人格形成は、その機関に身をおいた偶然のもたらした必然なのだと思う。では和田誠は何を暴露しようとしていただろうか。


 一歩下がって斜めから世間を見渡すスタンスなのは、取り上げられるモチーフの庶民性からうかがえる。漫画やコミックをパワーの源としている点でも、武器はパロディにある。聞こえてくる音楽は歌謡曲とジャズである。ゴシップと紙一重の綱渡りをしながら、存在感を増していく。新聞や月刊誌ではなく、週刊誌の立ち位置が和田誠の行動様式の美学をかたちづくっているように思う。同じ話題を一週間以上は引きずらないが、一週間は徹底的に考えつくす。そのサイクルが小気味よく繰り返されて、数十年の連作が誕生した。週刊文春の表紙はその結晶だった。週刊新潮が谷内六郎を好んだのと比較すれば、同じ素朴派とはいえ、都会と田園風景との相違は、誰もが気づくところだ。


 都会的でありながら洗練されてはいない。野暮ったい田舎暮らしとの同居が、庶民との同一地平を楽しんでいる。植草甚一のコラムを集大成した全集のような、松岡正剛の千夜千冊をネットから冊子に移したような、在野に根ざした知的伝統との協調がある。そのポピュラリティには、いちはやくアンテナをはって嗅ぎ分ける知に向けての自負がある。考現学の地平と言ってもよいか。在野がたよるのは権威ではない。民衆の共感であり、その気まぐれな移り気に賭けようとする。流行はすぐに移りゆく。それがわかっているからこそ、週刊誌はおもしろいのだ。誰もそれを本気では信じてはいないし、裏切りを苦にもしていない。そんなふてぶてしさが、痛快に響き渡る展示空間だった。


by Masaaki Kambara