1967年
冒険者たち1967 /暗黒街のふたり1967/ サムライ1967 /悪魔のようなあなた1967/ 少女ムシェット1967/卒業1967/招かれざる客1967 /上意討ち 拝領妻始末1967/アポロンの地獄1967/暗くなるまで待って1967/俺たちに明日はない1967/ 伯爵夫人1967/ 日本のいちばん長い日1967/華岡青洲の妻1967/ ロシュフォールの恋人たち1967/墓石と決闘1967/ 夜の大捜査線1967/
第515回 2024年7月14日
マイク・ニコルズ監督作品、アメリカ映画、原題はThe Graduate、ダスティン・ホフマン主演、サイモン&ガーファンクル主題歌、アカデミー監督賞受賞。成績優秀な若者(ベンジャミン・ブラドック)が名門大学を卒業して、飛行機で5時間をかけて帰ってくる。空港の長い歩く歩道を歩く場面からはじまる。
父親の仲間が集まってお祝いの会が開かれている。本人は今後の進路が定まってはいないで憂鬱げである。大学院に進むのかという質問も出るが、そうでもなさそうだ。知り合いと挨拶をかわすが、ひとりの女性(ミセス・ロビンソン)が近づいてきて、家まで送ってくれないかという。夫は車で先に出てしまったようだった。父親との共同経営者で、古くからの知り合いだった。
陸上部を代表するスポーツマンでもあり、走る場面が繰り返される。バスに乗り込もうと恋人を追いかける姿は、たのもしく目に映る。女は下心があってこの若者との火遊びを楽しもうとしていた。夫はまだ数時間は帰ってこないと言って、酒をすすめてくる。くつろいで衣服も脱いで入浴しようともしている。あわてて逃げ帰ろうとするが、返してはくれない。娘(エレーン)の部屋に案内すると、写真があって若者はこちらのほうに惹かれていった。
母親は娘には会うなと釘を刺している。主人公の二倍の年齢だと言っていたので、40歳を過ぎているのだろう。娘はカルフォルニアのバークレー校に学んでいるようで、休みにならないと帰ってはこない。大人の女性に好奇心はあるが、夫がいつ帰ってくるか気が気ではなく、拒否し続けている。帰宅の音が聞こえたとき、あわてて階下に降りて、その場を繕って無事逃れることができた。
その後も誘いを避けるのかと思ったが、自身で部屋を取って夫人との情事を楽しみ出す。密会が続いて疲れた頃、知的な会話を楽しもうと、美術の話はどうかと誘うが、興味はないと夫人は答えている。主人とのなれ初めを聞くと、大学でということだった。何を勉強していたのだと追求すると、美術だと答える肩透かしがおもしろい。
休みになり娘が帰ってくる。家族どうしでパーティを開いて、娘と顔をあわせることになる。母親はにがい表情を浮かべている。若者どうしが母親の監視を逃れて、デートをするようになった。男は思いが深まり結婚を考え、両親に話すと喜んでくれたが、まだ本人にも親にも話してはいない。もちろん相手の母親に話せることではなかった。
娘は憂鬱げな男をみて尋ねると、人妻と関係があったのだと告白した。娘は意にも介さなかったが、その相手が自分の母親だと知ると、強いショックを受けて男から去っていく。母親から聞かされたのは、男が車で送ってくれたが、そのときに、家に入り込んで襲われ、その後ずるずると続いていたのだという。
主人公は真実を伝えて、愛を取り戻そうとバークレーに出かける。学生下宿を借りて住み着いて、女の周辺を探す。弁明をするが、女は疑心半疑であいまいな返事しかしない。主人公への愛は残っていることがわかるが、母親とのことがあり、別れるのがベストだと判断している。
つきまとうと男とのつきあいが浮かび上がってきた。相手は医学生だった。動物園でのデートの場にも遭遇した。相手に紹介してもいたが、二人で肩を組んで立ち去ってしまった。男のみじめな姿を写したあと、猿の群れで仲のいいカップルを恨めしげに眺めている、失恋猿をとらえているカメラワークが気に入った。
学生下宿では学生でもなさそうな男を、怪しげに眺めている。娘が訪ねてきたことがあった。愛を確かめるためだったように見える。娘が叫び声をあげたとき、管理人と下宿人たちが駆けつけた。もめごとを読み取って、部屋を出ていくよう言い渡されている。娘の父も訪ねてきた。妻とは離婚をする覚悟を伝えている。ここでも夫は妻の話を真にうけて、誤解しているようにみえる。
両親は娘を医学生と結ばせたいと結婚を急いだ。秘密のうちにひっそりとした教会で式をあげるが、主人公は探りあてて駆けつける。牧師を前にしたセレモニーの最中に、大声をあげて中断すると、花嫁は男を見とめ感極まって、花婿と両親の制止を振り切って、主人公のもとへ走った。
罵倒する声を背に受けながら、ふたりは通りかかったバスに飛び乗った。最後部のシートに座ると、乗客たちが全員振り返って見ていた。達成感と満足感に満ちた表情がふたりをとらえていた。興奮が覚めると、同時に大それたことをしてしまったという不安を感じさせる。去って行くバスの後ろ姿を映し出して、映画は終わった。サイモン&ガーファンクルの歌声が効果的に挿入されている。既成の価値観を打ち壊すプロテストソングに見えながら、不安定な揺れ動く感情を伝えて、スタイリッシュな青春映画に仕上がっていた。
第516回 2024年7月16日
スタンリー・クレイマー監督作品、ウィリアム・ローズ脚本、アメリカ映画、原題はGuess Who's Coming to Dinner、スペンサー・トレイシー、シドニー・ポワチエ、キャサリン・ヘプバーン主演、アカデミー賞主演女優賞・脚本賞受賞。英国アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞受賞。
人種差別を扱った難しい問題だが、みごとなハートウォーミングな話に仕上がっている。新聞社の社主の娘(ジョアンナ・ドレイトン)が旅行先のハワイで知り合い、恋に落ちた相手(ジョン・プレンティス)は黒人だった。何の偏見もなく恋愛にたどり着いたのは、親の教育のたまものであり、父(マット)はリベラリストとして知られ、これまで人種差別と戦ってきていた。
10日間で結婚を決意するまでに至る。娘は23歳、言い出せばあとに引けないのは、母親譲りだった。母親(クリスティーナ)は画廊のオーナーで、友人(ヒラリー)に運用はまかせている。男は優秀な医師で、文句のつけようのない業績を誇っていた。ハワイへは大学から招かれて記念講演で来ていた。現在37歳で、8年前に事故で妻子を亡くしている。
悲しみから結婚は断念していたが、娘の積極的な姿に接して、閉ざしていた心を開いていったようだ。男の父親は郵便局員だったが、母親も働いてなけなしの財産は息子の学費に充ててきた。今は退職してロサンゼルスに住んでいる。
娘は性急に結婚を望んだ。親の承諾を得るために、自宅のあるサンフランシスコに立ち寄り、男はその足で仕事のため渡航することになっていた。これまで大学教授も歴任したが、いずれはアフリカで医師の育成に従事する夢をもっていて、娘もそれに付き従うつもりをしている。
突然の訪問に親が驚くことはわかっていた。はじめ母の経営する画廊に向かうが不在で、管理する友人は、黒人の同伴を怪訝な顔で見ている。自宅に着くと男はためらいを示すが、娘は親しみをもって、黒人のメイド(ティリー)を紹介する。メイドは近親憎悪にも似て、黒人を卑下して、お嬢さんは騙されているにちがいないと怪しんで、憎しみの目で医師に接している。
母親が帰ってきてまず驚く。戸惑いの表情からやがて理解を示し、はては反対をする父親に立ち向かうまでの変化を、キャサリン・ヘプバーンが、みごとに演じ分けている。偏見は娘の幸せそうな姿をみることで、理解へと変化していった。庭でふたりが語り合うのをのぞきみて、今までに見たこともない笑顔だと言っている。娘への信頼感に裏打ちされたものだった。
父親も帰宅するが、ゴルフの約束があった。医者が来ているというので、何かあったのかと娘のことを心配する。黒人医師にあいさつだけして、出かけようとすると、ようすがおかしく、不穏な雰囲気を察する。ゴルフをやめて家庭に問題が起こったと、約束相手の司祭(ライアン)にことわりの電話をして、話に加わる。日ごろ信条としている平等の精神も、わが娘のこととなると、簡単には承諾をさせない。
男も電話で親に結婚相手ができたことを伝えると、喜んですぐにでも会ってみたいと言い出す。相手が白人であることを言いそびれたままだった。娘が先走って夕食に招待すると、まわりは大あわてをしはじめるが、結論を出すには時間がなさすぎる。ロサンゼルスからサンフランシスコまでは、飛行機で40分の距離だった。飛行場で出迎えた娘が白人だったのに驚く。娘の運転する車で自宅に向かい、初顔合わせとなった。
画廊を管理する友人が興味本位で訪ねてくる。母親はすでに黒人への偏見をなくしていたが、友人のあからさまな拒否反応と失礼な態度に業を煮やして、仕事の解雇を言い渡して追い返した。ゴルフをすっぽかされた司祭も、気になってやってくる。娘は黒人医師を結婚相手だと紹介すると、はじめから何の偏見もない。肌のちがいを問題にすることなくお祝いのことばを述べた。名前を聞くと著名人であることも知っていて、論文も読んだことがあると言っている。父親とは古いつきあいであり、説得をして二人の結婚に一肌脱ぐことになる。
ふたりの父親は、愛する二人の結婚を許そうとはしない。ふたりの母親は、はじめ混乱をしていたが、子ども同士が愛に裏打ちされたものであることを知ると、応援しはじめる。神父もまた父親の偽善ぶりをあげて、若者に味方する。男は女の両親が承諾しなければ、結婚はしないと、自分の意志を伝えていた。白人と黒人との結婚は、州によればまだ違法の時代だった。娘は親の承諾がなくても、結婚をすることを望んでいて、そんな約束をしていたことは知らなかった。
父親が全員を集めて結論を出す。自分が否定すれば、男が身を引くことはわかっていた。父は自分が最低の人間であったことを懺悔し、二人の結婚を認める内容だった。この騒動は忘れかけていた自分たち夫婦の愛情を、思い出させるものでもあった。外出して車で二人きりの時間を楽しみ、昔を思い出すように自分はパフェを、妻はコーヒーを頼んでいた。昔と同じパフェを頼んで味がちがっていたが、こちらも悪くはないなと言っている。
最後の父の長ゼリフは、分析的で論理的で説得力のあるものだった。演じたスペンサー・トレイシーの演技と脚本家の勝利だった。社会の偏見は根深く、これからの苦難も覚悟しなければならないことも付け加えた。相手の父にも優しく、肩に手をかけてメイドが用意した食卓に誘っていた。ディナーにありつけるまでに、長い時間がかかった。原題は「誰がディナーにやって来ると思う」という問いかけである。それは招かれざる客としてのフィアンセであり、その両親であり、司祭だった。
娘には不自然なまでに人種差別がないのに驚くが、幼い頃から教育を受けてくれば、そのようになるのだろうという気がする。にもかかわらず教育を授けてきた側の両親には、人種差別は理性的にはなかったが、感覚的には残っていたという点が興味深い。
娘の父が黒人医師との会話のなかで、生まれてくる子どもへの懸念を発していた。娘は生まれてくる子どもは全部アメリカの大統領にするのだと言っていたことを伝えている。加えて医師が言うには大統領は無理で、せいぜい国務長官だろうとジョークを飛ばしていた。今ではすでにアメリカで、黒人の大統領は誕生した。確かにこの黒人は人種差別の問題を一般化するには、あまりにも優秀でありすぎたかもしれない。
映画では日本食レストランで和服を着た女性も登場していたが、問題は肌の色のちがいではないのだということを、かつて有吉佐和子の「非色」を読んだときに感じたことがあった。ここでもシドニー・ボワチエを白人の俳優に変えれば、エリート階級の支配層の陳腐なラブコメディーになってしまっていたような気がする。
第517回 2024年7月17日
小林正樹監督作品、滝口康彦原作、橋本忍脚本、武満徹音楽、三船敏郎、司葉子、加藤剛主演、ヴェネツィア国際映画祭国際映画評論家連盟賞、キネマ旬報日本映画第1位、英語名はSamurai Rebellion 。理不尽な武家社会で起こった悲劇である。おかみに歯向かって命を落とした男の無念が、紡ぎ出されていく。現在揺れ動いている兵庫県知事の進退問題を思い浮かべながら、この映画を見た。
会津藩士であった主人公(笹原伊三郎)は剣の達人だが、見込まれて婿養子となり、妻の言いなりになって、20年以上も家名を守ってきた。腕を競い合う友(浅野)とふたり、領主が新しく手に入れた剣の試し切りの役目を仰せつかった。ふたりの息子がいて、彼らには自分のような生きかたはさせたくないと思っている。ある日降って沸いたように、殿のお気に入りであった女(いち)を、拝領妻としてつかわされることになる。大奥に仕えて男児ももうけていたが、殿の機嫌を損ね、暇を出された。乱心の末、殿の胸ぐらを抑えて平手打ちをしたという噂が入っている。
そんな女を跡取りの長男(与五郎)の嫁になどもらえないと、家名を重んじる妻はことわるが、おかみの命に応じないわけにはいかないと、息子は承諾をする。来てみるとそんな気性の激しい女とは思えなかった。姑は辛くあたるが、娘は従順につかえようとする。長男は妻にいきさつを尋ねた。
藩主に見染められて、無理矢理に連れていかれたが、娘にはいいなづけがいた。娘はかたくことわったが、男のほうはやむなく承諾したのだという。娘はあきらめて召され、男の子まで生まれたが、産後の療養を経て帰ると、殿のそばには別の女が寄り添っていた。女どおしのいがみ合いの末、殿にまで迫ったことから、大奥から追放されることになった。今の世継ぎにもしものことがあった場合の、担保として男児はとどめ置かれた。
娘を妻に迎えて長男は、幸せな日々を送って、女の子(とみ)も誕生した。父親もその姿を喜びの目で見ていたが、世継ぎであった殿の子どもが亡くなると、娘が生んだ子が跡取りとなり、その母親を下級藩士の嫁にしておくことができず、もう一度大奥に戻るよう命令が下される。理不尽な申し出に憤り、妻は戻らないことを断言する。
さまざまな手を使って、言うことを聞かせようとする。家族だけでなく、一族にも圧力をかけると、親戚一同が会して、娘を説得するが戻らないと言い張っている。長男と父は娘を戻したくないが、母と弟は戻ってくれないと、一族に迷惑がかかると恐れている。上司が出向いて意向を伝えるが、首を縦には降らない。夫までが妻に大奥に戻ってくれと言い出すと、父親が諌めた。自分が果たせなかった思いを貫くよう、息子を励ましている。
上からの報復を恐れた弟は、母親と画策して、家老の家に兄が待っていると偽って娘の連れ出しに成功した。兄と父は裏切りに憤慨するが、妻が大奥に上がってしまったので、どうしようもない。穏便にことを図ろうとして、大奥に妻を差し出す旨の文書を求めてきた。求めに従って家老に差し出し、開けてみると娘を取り戻す嘆願書だった。戻らないと藩の理不尽な仕打ちを幕府や他藩にも訴えるという内容も書かれていた。
残された乳飲み子を案じて、足軽の嫁(きく)が命を受けて乳母として通っていた。不憫を感じての権力者側の配慮のようにみえる。敵方の女であったが、憐れを感じて最後までこの赤子のめんどうを見ることになる。父と長男には使いを差し向けて、切腹を申し付けるよう言い渡される。まともに手合わせをすると、父親は剣の達人であることから、多くの死傷者が出るのは目に見えている。互角に戦えるライバルの友にも声をかけるが、自分は国境を警備する役なので、部署を変えて禄高が増えるようなら考えないでもないと言いながらことわった。
思いついたのは大奥にいる女を、連れ出してくるという策略だった。父と息子は畳を取り払い屋敷を整理して、雇い人にも暇を出し、迎え撃つ準備をしていた。定刻に乳を与えに来た乳母は驚き、赤子が託された。籠で乗り付けた女を前に引き出して、選択が迫られる。言うことを聞かないと、二人の男は討死をすることになるが、認めればなかったことにすると言うものだった。決することができず、女は突きつけられていた槍を、手に取って自害した。
これにより死闘がはじまり、息子は妻を抱きかかえるようにして討たれた。ふたりの手を握り合わせて敵に向かう。父親の剣は衰えてはいなかった。手勢をすべて倒して、軍勢を率いていた上司までも刺し殺した。場面が変わると赤子を抱いて旅路を急ぐ姿があった。
国境まで来ると警備をするライバルが待ち構えていた。通行手形を求めたがもってはいない。赤子を置いて一騎討ちとなる。ライバルはひとりものだったが、敗れたとき死者も加勢したのだと負け惜しみを言って果てた。先を急ぐが目的をはたせず、剣の達人も飛び道具にはかなわなかった。乳母が追ってきていたのか、身寄りのなくなった赤子を抱きあげて、わが子のように慈しんでいた。
権力構造は何層にもなっている。藩主は思慮に欠け、好き放題をやっている。家老はいつもにこやかで、穏便にことを済ませようとするが腹黒い。その下にくるとだんだんと悪党ヅラに変わっていく。藩主の意向を強いる上司が直接の重圧となる。日ごろは仲良く接していたものが、急に牙をむき出す。死者の無念はいまも変わらず残っているようだ。現代に置き換えれば、知事をトップにして、副知事、部長、課長、係長という階層になるだろうか。
第519回 2024年7月19日
ピエル・パオロ・パゾリーニ監督・脚本、ソポクレス「オイディプス王」原作、イタリア・モロッコ合作映画、原題はEdipo Re、Oedipus Rex、フランコ・チッティ、シルヴァーナ・マンガーノ主演。オイディプス伝説の映画化である。人間の運命を左右する予言から逃れようとして、予言のまま地獄に落ちる皮肉な話である。まちがいは生みの親と育ての親を取り違えたことから起こる悲劇なのだが、同時に血のつながりについても考えさせられるものとなった。原題は「オイディプス王」だが、アポロンの神託によって地獄へと陥るという意味の、邦題のほうに魅力を感じる。
現代のイタリアでの光景からはじまる。赤ちゃんが草原に置き去りにされて、地面に寝かされ、母親は友だちとはしゃいでいて、放置されたままである。歩き始めてからも、ベランダに出て母親が男と抱き合っているのを、離れた窓越しに見ている。花火が夜空にあがると驚いて、大きな泣き声をあげている。
突然、場面は古代ギリシア(テーバイ)にタイムスリップする。王(ライオス)の夫妻に生まれた子が、呪われた運命にあるという予言を受けて、家来に殺すように命じる。赤子を裸のまま手足を縛って、棒に吊り下げて荒野に連れて行く。剣で貫こうとするが殺すのにためらい、前から歩いてきた老人に望みを託して去っていく。赤子が見つけられたのを見届けると、安堵の笑みを浮かべている。
連れ帰られた子は、神の授けものとして、別の国(コリントス)の王(ポリュボス)のもとで勇者として育てられることになる。子は遊び仲間から、実子でないことを揶揄されても信じなかったし、王も否定した。成長した若者は不吉な夢を見たことから、その意味を知りたくて、アポロンの神託を聞くために、一人旅に出る。両親は心配するが3日後には帰ってくると言い置いて出ていった。大木のもとでの神秘的な光景のなかで、信託を聞こうとする信者が列をなしている。
順番が来て前に出るなり、おびえるような声で告げられたのは、父親を殺し母親と交わる運命にあると言う神のことばだった。主人公は両親のもとに帰るのを恐れて、運命に逆らうように、反対の方向に向かう。広い荒野で方向を決しかねたときには、目をつむって回転して、目が開いた方向に進んでいくが、なぜかいつも同じ名(テーバイ)をもつ指標に戻ってしまっていた。
いくつかの部族と出会い、交流をしながら、歩みを進めていく。エキゾチックな衣装は、古代ギリシアを超えて、アフリカや東洋風でもある。部族のさまざまな神々に支えられて、秘教的気分を高めている。笛と太鼓による音楽は日本の雅楽のようにも聞こえる。
ある日、従者に守られた貴人の馬車に出くわすと、高圧的に道をよけるように命令される。首を振ると、従者のひとりが剣をかざしてかかってくるので、若者は一目散に逃げ出すと、どこまでも追いかけてくる。一対一になるまで、遠く逃げたところで、取って返して相手を、剣でたたき殺した。同じ戦法で残りの兵士も殺害した。首領も殺害したが、そばで付き添っていたひとりには逃げられた。これが父であるなどとは、主人公は夢にも思っていない。
その足で少し進むと、列を成して町を逃げ出す民衆に出会う。聞くと罪禍を恐れてのことだった。勇敢な若者は先を進むとスフィンクスが待ち構えていて、民衆のおびえる原因になっていた。この怪物をしとめると、若者は英雄に祭り上げられる。スフィンクスを退治した者が、城に住まう王妃(イオカステ)と結ばれることになるのだと言われていた。新しい王として権力を手に入れると、若者は暴君になっていく。先王は殺されていた。
王妃の弟(クレオン)が神託を聞いて戻ってくると、新王を追い出そうとする不吉な予言内容であり、弟は恫喝される。王妃はその姿を複雑な思いで聞いている。たぶんその時、女はすべてを理解していたのだと思う。男は何も知らないまま、獲得した権力を守ろうとする。予言者も呼び出され、やがて真実が明かされていく。何度も繰り返された予言は、「父を殺し母と交わる」という近親憎悪と近親相姦が重なった、人間にとっての重いテーマである。血の濃さを求める偏愛は、形を変えた自己愛なのだと思う。
人はそれを恐れて逃げようとするが逃げきれず、逃げれば逃げるだけ深みに落ち込んでいくものだということを、ギリシア悲劇は教えてくれる。私がオイディプスに興味をもったのは、この映画からだったが、シェイクスピアと近松に加えてギリシア悲劇への関心と、これを監督したパゾリーニにも引かれていった。
話はうまく辻褄が合わされていく。主人公は真実を知ろうとして、証言者を探していく。赤子を捨てに行った王の家来は生きていた。殺しきれずに放置したことも証言される。そのときすれ違って赤子を拾った男も登場する。少なくとも20年以上も前のことなので不思議なのだが、同じ顔をしている。
道すがら殺された王の車に同行して、逃げ残った従者も探し出された。王妃に暇をもらって、いなかに引っ込んで暮らしていた。主人公は探し当てて問いつめる。それは赤子を捨てに行った家来でもあった。王妃はすべてをご存じだという。息子は自分が殺したのを確信するが、母は早くからわかっていて、息子と交わっていたようでさえある。
不思議な笑みを浮かべたときがあった。息子を求める母親一般の心情と情欲をそれとなく語ってもいた。すべてを知ったとき、母親にそれらを語り問いつめる。絶望はそこで終わった。裸で首を吊った女を前にして、男は両目をえぐって血だらけになって、城門を出て行く。呪われた運命をこれ以上見たくはなかったにちがいない。場面は切り替わり、現代のイタリアの町を、盲目となった男がたて笛を吹く従者に導かれて歩いている。ボローニャだろうか、特徴的な広場も写されていた。すべては暗示的なのだが、見えない糸に導かれるように、綿々と運命の悲劇は繰り返されていくのである。
第520回 2024年7月20日
テレンス・ヤング監督作品、オードリー・ヘプバーン主演、アメリカ映画、原題はWait Until Dark。写真家(サム・ヘンドリクス)の盲目である妻(スージー)に襲いかかる恐怖が、スリリングに展開する。夫は空港で見知らぬ女性(リサ)から人形を預かった。中には密輸の麻薬が袋に入れて、多数埋め込まれていた。仲間の目を盗んで独り占めするつもりだったが、女は殺された。預けた相手の家も探りあてられるが、人形は見つからない。
写真家には暗室が必要なので、半地下の部屋を借りていた。外光はほとんど入らないが、誰かが来ると窓からは足元だけが見える。夫は多忙で帰ってきても、すぐにまた撮影に出かけてしまう。盲目の妻がひとり残されるが、同じアパートの上階に住む少女(グロリア)を雇っていて、身の回りの手助けをしてもらっている。頼みごとも多く命令口調でもあったことから、少女は反抗的な態度を取っていた。爆発して台所や冷蔵庫にあるものをぶちまけた。
盲目の主人公が片づけはじめると、非道を悔いたのか、片づけを手伝いだす。壊れたものでケガをしないようにと注意されると、割れないものばかり投げたのだと言っている。優しく抱きかかえると、その後は頼もしい味方になっていく。主人公が盲学校に行って留守中に、二人組が入り込んで、人形を探しているが見つからない。ひとりは元刑事(カルリーノ)だったが、刑事役をして二人で芝居をすることで稼ぎを得る詐欺師グループだった。
今回の事件にも一味に加わっているが、直接の悪党(ロート)がもうひとり別にいた。この3人が組んで一芝居うつことになる。部屋を物色しているときに、妻が戻ってくる。気配を感じて、誰かいるのかと知り合いの名を呼んでいる。男たちは息をつめて沈黙を守っている。
目が見えないだけに、音を聞きつける力が発達していて、それによる推理の展開が興味深い。鋭い感性がみどころになっている。警察への電話を装って別の番号をダイヤルしても、見抜かれてしまっているし、外に止めてある車への連絡に窓のブラインドを開閉すると、それも音で記憶され、その直後に電話が鳴ったり、訪問客が来ると、合図であることが見破られていた。
写真家が浮気をしているという話をでっちあげて、人形は相手へのプレゼントとして用意されたものだと言う。妻は知らないというが、男たちは信用しない。夫の友人を装った詐欺師(マイク)は、親切そうに見えて、すっかり騙されてしまう。少女が自室に戻り、戸外を警戒するなかから正体が見破られるが、そのときはすでに遅かった。
人形は見つかったが、それは少女が気に入って取り込んでいたのだった。戻しに来たときに気づかれた。信頼していた夫の友人に、見つかったことを伝えてしまうと、この詐欺師は乗り込んできた。正体を見破ったのは、電話をかけた直後だった。少女と打ち合わせてあったのは、電話のベルを二度鳴らして止めるのと、水道管を叩くというのが、危険を知らせる合図だった。人形をゴミ箱に隠し直して、男には夫の事務所にあると偽りを言って時間を稼ぐ。
三人に仲間割れが起こり、二人の詐欺師が横取りを狙った。ひとりが主人公に接している間に、相棒の刑事が駐車場でもう一人を殺害する手はずだった。守備よく相棒が戻ってきたと思って、部屋の扉を開くと男はいきなり刺し殺されてしまった。相棒のほうがやられてしまっていたのである。
電話線はいつのまにか切られてしまっていた。助けを求めることはできない。主人公が身を守るために思いついたのは、部屋の明かりを消すことだった。思いつく灯りをすべて叩き割ってまわった。廊下にまで出て電灯を壊していた。誰がやってきても見えないはずだったが、自分は盲目なので確かめようはない。男の一人は刺し殺され、さらに凶悪な男が迫ってくる。
盲人にとっての盲点があった。冷蔵庫を開いたとき、なかに光があることまでは、気が回らなかったのである。薄明かりを頼りにして男が迫ってくる。冷蔵庫が小道具として重要なのだという伏線は、早くから敷かれていた。夫が出ていくとき冷蔵庫が故障していることを話題にして、この大きな冷蔵庫に目が向くことになる。二人組が入り込んだときも、ひとりが冷蔵庫を物色して、なかにあったサンドイッチを食っていた。窓のブラインドを開閉するときも、前を遮る冷蔵庫が目を引いていた。
身の危険を感じて人形の隠し場所を教えると、男は人形の腹を割いて、麻薬を取り出している。隙を見て主人公はおびえながらも台所の包丁を隠しもった。男が性的興味から、女の手を引っ張って寝室に向かおうとしたとき、勇気を出して男の腹に突き刺した。それでも執拗に迫ってくる。冷蔵庫の扉を何とかして閉めようとするが、タオルが挟み込まれているのが見えない。後ろにまわり壁のコンセントに手を伸ばした。真っ暗がりのなかで、女の悲鳴が聞こえる。少女の通報を受けて、警察と夫がかけつける。ふたりの男が倒れ、妻は開かれた冷蔵庫の扉の裏に身を隠して無事だった。
死んだと思った男が飛びかかり、急に足をつかまれて驚きの悲鳴をあげたときは、見ている方も悲鳴をあげてしまった。急に背中をたたかれたように、心臓にはよくない。サスペンスの醍醐味は、ゆっくりと恐怖が迫ってくるところにあることを思うと邪道である。一度だけだったのでよかったが、多用されると悪趣味となるものだ。全体的には良質の密室の心理劇だった。
第521回 2024年7月21日
アーサー・ペン監督作品、ウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ主演、アメリカ映画、原題はBonnie and Clyde、アカデミー賞助演女優賞・最優秀撮影賞受賞、キネマ旬報外国映画ベスト・テン第1位。男女ふたり組の強盗の短い生涯を描く。兄夫婦とひとりの若者が加わるが、5人の活動は長くは続かず、悲劇的な末路をたどる。
はじまりは女(ボニー)が自宅の前に置いてあった母親の車を、荒らしている男(クライド)を見つけ、2階の窓から声をかけたことからである。ふたりは意気投合して、互いに惹かれあう。男は強がりを言って、その場で商店に入って強盗をしてみせる。大男の店員の抵抗にあって動揺し、傷を負わせてしまう。無謀だが勇敢な行動に女が感心すると、さらにスリルは銀行強盗にまでエスカレートしていった。
男は刑務所を出たばかりで、足を引きずって歩いていた。どうしたのかと問うと、重労働を嫌って足の指を、みずから2本切断したのだと言う。このため刑期も短くなったようだった。男は女に愛を告白し、女神のように礼賛している。からだを求めないのが、その証拠だと言って、プラトニックな愛が続いていく。
ウエイトレスやメイドをするような女性ではないと絶賛すると、その気になって女は母親を捨てて、男に付き従って、死ぬまで行動をともにすることになる。銀行強盗の決意は、ふたりが空家に入り込んだとき、家を銀行に取られてしまった家族に出会い、恨む声を耳にしたことからだった。義賊のポリシーは、銀行権力からは奪うが、その場に居合わせた預金に来た人から、なけなしの金を要求することはなかった。
男は単独で銀行に乗り込む。拳銃ももっていた。窓口で金を要求するが、不景気で倒産したのだという。窓口の係員を連れ出して、車で待っている女にそのことを言ってもらうと、女は笑い転げていた。銀行強盗のリハーサルにもなったようで、その後規模を拡大していく。ガソリンスタンドで高級車に興味をもった若者(C・W・モス)に目をつけ、車の知識を買って、運転手として仲間に加える。好奇心からおもしろがってついてくるが、レジから札束を鷲掴みにしてきて、自己アピールをしてみせた。
三人が組になっての強盗団が誕生する。車は常に盗難をし続けて乗り換えていた。行きと帰りでちがった車のこともあった。実行犯は男女ふたりなので、若者の名は知られないままだった。新聞にも書き立てられ、有名人になっていく。警察官が逃げる車に、飛びかかってきたので、発砲して殺してしまった。殺人犯となり、もはや他の生き方を選べないことを自覚する。
兄夫婦を訪ねると、妻(ブランチ)は牧師の娘だったが、兄(バック)は刑務所勤めもした前科をもち、弟の強盗団に一枚加わっていく。妻は嫌っていて常識的なのだが、行動をともにせざるを得ない。強盗団のなかでひとり浮いているが、一般人として違和感をもちながら、足手まといとなっていく姿がリアリティを感じさせる。
ことにスタイルを気にする看板女の嫌悪感は激しかった。兄嫁なので強くも言えず、リーダーはなだめるが、むくれてひとり姿を消してしまうこともあった。対極にある役を演じたのはエステル・パーソンズで助演女優賞に輝いた。警官との銃撃戦になったとき、夫とともに負傷する。夫は死亡し、妻は目を撃ち抜かれる。警察の厳しい尋問を受けて、ためらいながらも仲間の若者の名を教えてしまった。
若者は負傷した首謀者ふたりを自宅に連れ帰りかくまっていた。警察の手は伸びてきた。息子は自慢げに有名になった男女の犯罪者を紹介した。父親は息子が犯罪に身を染めているのを嘆き、警察に知らせて取引をする。息子を助けることを条件に、首謀者逮捕の手助けをする。車で町まで3人で出かけても、帰りはいっしょに帰らないよう言い含めると、息子はそのようにした。
町から引き上げようとするが若者の姿がない。警官が捜査をはじめているのに気づくと、あとでまた連れに来ようと言って、ふたりは車を走らせた。若者は物陰からそれを見ていた。表情には後ろめたさを残していたが、危険を逃れたものと思い、ほっとした笑顔を浮かべている。
罠はそのあとにあった。途中で若者の父親が車を故障させて立ち往生をしていた。男は降りて声をかけた時、茂みからざわめきが起こり、機関銃が乱射される。男は地面を転がりながら、女は車のなかでシートに揺れながら、ともに蜂の巣のようになって息絶えた。ふたりは引き離され、ともに執拗なまでの衝撃的な最後だった。
ことに女の死は、根深いまでの個人的恨みを感じさせるものだった。はじめから逮捕をするつもりなどなかったのである。発砲を指揮したのは、かつて捕らえられて屈辱を味わわされた、地域の保安官だった。警察以上に彼らに憎悪をいだいていた。銃を突きつけられて、一味と仲良く写された恥辱の写真が残されている。
ベレー帽をかぶり、銃を手にポーズをつけた、女の写真も残っていて絵になるものだ。女は男の肉体を求めたが、男にその能力がなかったことは重要だ。女は嘆くが男への愛は変わらなかった。子を生んで継承されるものでないだけに、この性的コンプレックスがふたりの精神的結びつきを深め、加速度を増して犯罪の奈落へと、落ち込んでいったようにみえる。男は兄との、女は母親との血族の絆を求めていたが、それ以上のものをふたりは築き上げた。死を前にして男女の性の交わりは、実現したようだったが、その喜びもつかのまのものでしかなかった。
原題の「ボニー&クライド」は犯罪者名を連ねたもので、実録としてアメリカでは知られるが、日本ではなじみはない。自暴自棄な若者の破滅する時局の反映として、「俺たちに明日はない」の合言葉は、輝きを放っていた。ベトナム戦争の時代、理不尽な戦いに駆り出された、アメリカの若者の心情にぴったりのものとして、徴兵制度のない日本でも、共感をもって受け止められたように思う。
第522回 2024年7月22日
チャールズ・チャップリン監督作品、イギリス・アメリカ映画、原題はA Countess from Hong Kong、マーロン・ブランド、ソフィア・ローレン主演。香港からアメリカに向かう船上でのドタバタ喜劇だが、甘く切ないラブストーリーを下敷きにしている。
男(オグデン・ミアーズ)は国務長官を狙う野望をもった、石油王の御曹司で財産はある。女(ナターシャ)はロシア貴族の伯爵夫人だが、身をもち崩して香港で娼婦をしていた。この町にはロシア革命で追われた貴族が逃れて住み着いていた。伯爵夫人と踊れると銘打った酒場があり、水兵服を着た兵士でにぎわっている。たがいに気位が高いので打ち解けなかったが、女は脱出してアメリカに行きたいと思っている。
香港を出航して、神戸から東京を経てホノルルに至るまでの船上で、急速な話の展開が起こる。友人が新しく決まった国務長官の名前を知らせにくる。男はこのポストを逃して、石油関連なのだろう、サウジアラビア大使として赴任することになった。香港を去って船上の朝に目覚めると、男の船室のクローゼットのなかに、女が身を潜めていた。
前の晩に知り合いになった伯爵夫人だった。アメリカに行きたいというが、パスポートももっていない。酒に酔っていたせいもあるのか、前夜のいきさつについて男には記憶がない。とにかく出ていってもらいたいが、社会的立場を考えれば、見つかってしまうのはよくない。神戸でも、東京でも降ろそうとするが、失敗してしまう。
入れ替わり立ち替わり部屋をノックされると、そのたびにあわてて逃げ隠れるドタバタ劇が展開する。ドレスのままだったので、女は男のパジャマを着ている。見つかるとその身なりはまずい。豪華客船には服飾店も入っていたので、女ものの衣服を買ってくるが、着せてみるとダブダブだった。
部屋にはボーイが食事を運んでくる。掃除にも出入りがある。友人(ハーヴェイ)も同船している。身の回りの世話をする執事(ハドソン)も連れている。パーサーや船長も顔を出す。迷惑がっていた女に感心をいだき、はては愛情を感じはじめるというのが、大きな流れである。神戸と東京でも降りそびれ、ホノルルでは意を決して降りることになるのだが、いざ別れるとなると離れ難くなっていく。
男の妻との関係は冷え切っていて、離婚の噂も出ていたが、社会的な体裁もあって、ふたりそろってサウジアラビアへ赴任するのが一番いいというアドバイスもうけていた。妻がホノルルに迎えに来るという連絡も入る。部屋にいる女をなんとかしないといけない。執事の結婚相手にすることを思いつく。執事はアメリカ人なので、船上で結婚式をあげれば、女の入国は可能となる。船長に頼んで正式な手続きをしてもらう。執事はわくわくして喜んで寝室で待ち構えているが、女は迷惑げである。
友人には事情を話して、助けになってもらう。部屋に入るときのノックの仕方を決めていた。香港で一晩遊んだ仲だったので、女のことは知っていた。部屋に閉じこもってひとりで時間をつぶしている女の姿を見て、自分が相手をしてやろうとも思っている。女が思い悩み、ホノルルに着いた時に、海に飛び込もうと相談するのも、この友人だった。女の本心はわかっていて、友人は一肌脱いでやる。海に飛び込むのは、現地人のセレモニーになっていて、女はそれにまぎれて飛び込んでしまう。友はワイキキの浜で待つことを聞きつけて、それを見届けた。船内では花嫁が姿を消したと大騒ぎをしている。
男は妻がやってきたので、身動きが取れなくなっていた。女をあきらめかけたが、これまでの船上でのやり取りが忘れられず、そっとホノルルで船を降りてしまう。何もかもふり捨てて、ホノルル・ホテルに向かい、レストランに入る。海を見ている女がひとりいるはずだと、ウェイターが探すと確かにいた。うしろから近づくと女はふりかえり、思わぬ男の出現に涙を浮かべて、映画は幕をおろした。
チャップリン独特の身振りの繰り返しによる笑いの定式は維持されているが、マーロン・ブランドとソフィア・ローレンの醸しだすオーラに支えられて、悲しみを宿したシリアスな表情が、映画の情緒を高めていた。監督自身も老ボーイ姿のちょい役で登場するし、娘のジェラルディンも舞踏会のひとりに紛れ込んでいる。主要人物には息子も加わり、チャップリン家のプライバシーを色濃く残していた。
客船内での着飾ったダンスパーティは豪華なものだった。伯爵夫人も脱いだままだったドレスを着て、友人に手を引かれて部屋を出た。男は顔を見て驚いたが、感慨深げにラストダンスを体感している。船旅での話であることを忘れないように、船酔いでトイレに駆け込んだり、窓から顔を出して嘔吐する姿が、ユーモラスにはさまれていた。トイレを先にこされ、窓に向かって走ったり、逆に窓が開かずトイレに取って返すスピード感も、見落とせないチャップリン独特の演出だった。
第523回 2024年7月23日
岡本喜八監督作品、大宅壮一原作、橋本忍脚本、佐藤勝音楽。ポツダム宣言を受け入れて、日本が降伏するまでの日々をつづる。ことに1945年8月15日の正午に、玉音放送が行われるまでの24時間の、時々刻々と変化する時局を、ドキュメンタリータッチで追っている。三船敏郎が演じる陸軍大臣を中心にした、多くの人物が目まぐるしく動く、群像劇となっている。
閣議を繰り返すが、結論は出ない。軍部は徹底抗戦を主張して引かない。海軍大臣(米内光政)とも一線を画し、陸軍大臣(阿南惟幾)は軍服を着て、軍刀を手にして参加している。陸軍は本土決戦に備えていた。結論が出ない間に、広島に原子爆弾が落とされる。
その後も受け入れ条件をめぐって一致せず、長崎も犠牲になる。総理大臣(鈴木貫太郎)には収拾が取れず、陛下の決断を仰ぐことになった。これ以上犠牲を出すことは忍びがたく、宣言の受け入れを決意する。陛下の命にもかかわらず、陸軍の若い士官たちが、不穏な動きを起こし、反乱として鎮圧されるまでに至る。
軍部に押し入り、師団長を殺害し、軍を動かせることで、陛下に考えを変えてもらおうとはかっている。御前会議で陛下は大臣に対して、収拾がつかないなら、自分が直接に出向いて、説得にあたるとまで言った。陸軍大臣は若者の純粋な心情がわからなくもない。笠智衆演じる総理は、国の舵取りとしては頼りなさそうに見えるが、暴走はさせないだけの威厳はもっていた。横浜の基地でも同調して、宮内省に兵を進める。総理暗殺も企てるが、果たせず屋敷に火をかけた。同時に南方に向かって特攻隊を送り出し、若者の無駄死にを指揮する、上官の非道が映し出されている。
陛下が直接国民にラジオ放送で訴えることが決まると、草案を練り上げ、録音することになる。放送局で正副2巻の録音盤が作成され、どこに保管するかも問題になるが、放送局が尻込みするなかで宮内省の事務室で預かることになる。気骨のある侍従の一人が、手提げ金庫に隠していた。
反乱兵士たちの中心は、陸軍とともに近衛師団だった。陛下の警護を任務としていたにもかかわらず、陛下に従わず、戦争終結を許さず、ラジオ放送が流されることを阻止しようとした。録音盤を探し出そうと血眼になり、はじめ放送局に行くがなかった。侍従が預かったことを明かすと、その局員を顔見聞に連れ出した。宮内省に押し入って、侍従を探し、可能性のある場所をひっくり返している。
軍部全体を動かそうと、上官に詰め寄るが、若者たちをいさめると、殺害にまで及ぶ。放送局を占拠し、録音盤のありかを探る。アナウンサーを脅して、国民をあざむく報道を流そうとして、銃を突きつけるが、局員は応じようとはしない。玉音放送が流されても、それは偽物だと伝えることで、撹乱させようと考えたのだった。
反乱兵士のひとりが、懇意にしてくれていた陸軍大臣を訪れて、行動をともにするよう懇願している。陛下の決意に反することはできない。机に向かって書きものをしていたのは、遺書のようだった。かたわらには短刀が置かれていた。酒を酌み交わし、兵士たちは大臣の切腹を見届けることになる。腹だけでは死にきれず、助けを借りることなく首の血管を切って果てた。カメラは壮絶な最後を映し出していた。青年が死を共にしようとしたとき、君たちの仕事は新しい日本の再建にあるのだと言って、血気をとどめた。
反乱は軍部全体に波及することなく食い止められ、無事に陛下のことばがラジオから流れてきた。もちろんそれが、敗戦を受け入れる内容ではなくて、徹底抗戦を呼びかけるものだと思い込んでいる、国民も少なくはなかった。不眠不休のまま長い一日が終わった。水面化で起こった事件は歴史の闇に隠されて、静かな終戦に涙していた。青年将校の暴走が悪夢となって蘇ってくる。ことに中丸忠雄と黒沢年男の対極にある演技が恐ろしい。一方は叫び、他方は冷ややかにことを進める。最後はビラを撒きながら訴えて自決する姿は、狂気を秘めたものだが、国家に対するひとつのかたちだったのだろう。
第524回 2024年7月24日
増村保造監督作品、新藤兼人脚本、有吉佐和子原作、市川雷蔵、若尾文子、高峰秀子主演。和歌山の医学者、華岡青洲の妻(加恵)と母(於継)のすさまじい敵対心を描いた物語。
代々の医者の家系だったが、貧民からは治療費は取れず、財産はなかった。処世術に長けた父親(華岡直道)は、裕福な商家から嫁をもらうことで、それを乗り切ろうとした。どんな医者も直せない娘の病いを、西洋医学を身につけた父が乗り込んで、治すことができれば、直った娘を嫁にもらうという約束で、良妻を獲得した。財産家から賢明な嫁をもらって、優秀な跡取りを生んでもらうという、俗的野望を第一の目的としていた。
優れた腕はもっているが、人格的には破綻した粗暴な医者には、不釣り合いなできすぎた評判の女性だった。それをひとりの武家の娘が憧れの目をもって見つめ続けていた。ある日、この女性から息子の嫁にもらえないかという申し出が親元にもたらされる。急なことでとまどい、家の格から言えば否定的だが、娘は長年のあこがれの女性からの申し込みを喜んだ。娘の心情を理解していた乳母が、あいだに立って嫁ぐことになった。
息子(雲平)は京に出てオランダ医術を学んでいた。両親が褒めちぎる優秀な長男だったが、娘が嫁いでからも顔も見ることなく、ながらく戻っては来なかった。下には弟と二人の妹がいて、同居していた。あこがれの母のもとで、嫁ははじめ丁重に扱われるが、息子が帰郷し、華岡青洲と改名した頃から、母親の態度が変わりはじめる。
嫁と姑の確執が表面化していく。やがて加速した陰湿な争いは、まわりにはわからない。息子が嫁をいたわると、母親は嫉妬する。嫁は跡取りを生むのは自分にしかできないと、誇ってみせる。水面化の戦いが冷ややかに続いていく。姑の悔し涙も嬉し涙として、門弟たちは受け止めて、母親をたたえている。
子どもができて、実家に戻ると、両親に姑の嫁いびりを訴えるが、あんなよくできた人がと言って受け合わず、娘の思い込みだとすませられた。生まれた子が女だったことも気に入られず、母親は出産をねぎらう前に、次には跡取りを生むようにと要求している。嫁にとっては姑は息子を溺愛する愚かな母にしか見えなかった。
意地の張り合いは、人体実験が必要になったとき、たがいに自分がその役に立とうと譲らない醜態に結晶する。息子は二人の女を、医学の追究に見せかけた私欲に利用したようにみえる。麻酔薬の量の調整として、すでに多くの動物実験が行われていた。目的を知らなければ、ただの殺人鬼にしか見えないものだ。
息子は妻に、母親の飲んだ薬剤は微量のものだったと告げている。それは強い申し出に拒否できなかったことと、肉親に向けてのいたわりのようにみえる。妻には実験台として容赦なく要求し、妻も役に立つことで、母親に対する優越感を味わっている。裾が乱れないように足を縛る結び方を嫁は知っていた。暴れればなお締まるというもので、夫はさすがに武家の娘と感心していた。
医者は二人いた妹を癌でなくした。その悲しみは、人道に反した行ないへの報いにさえみえる。ともに独身のまま実家にとどまったのは、嫁と姑との醜い争いを目にしていたからだった。手遅れで外科医としての無力感を味わうことで、自身の非力を思い知る。生まれたわが娘もまた簡単に死んでしまった。嫁と姑はともにわが娘を亡くした悲しみを共有することで、打ち解けたように見えるが、嫁に跡取りが生まれないことを諦めて、歳の離れた次男を後継ぎにするよう提案することで、嫁を悲しませた。
麻酔薬の開発に成功し、動物実験では解決のつかない、どのくらいの量を飲ませれば有効かという難問を、嫁の人体実験によって解決することになった。このことで世界ではじめての全身麻酔による乳がんの摘出手術を成功させた。多くの門弟をかかえる医師として名声を得たが、その見返りに妻は人体実験の過失で失明してしまう。盲目となった妻の手を引きながら、新しく拡張された病院施設を案内している。その後男児は出産されるが、それによってすべてが解決されたわけではない。
美談とも受け止められる反面で、古いしきたりに拘束されて、家名の継承によって自由を奪われた女の生きかたを、再考させられるものとなった。麻酔の効きすぎたネコの動作とおびただしい数の死骸、マンダラゲの毒素を秘めた白い花に近づく恐怖も、映像ならではの効果として印象に残った。
第525回 2024年7月26日
ジャック・ドゥミ監督作品、フランスのミュージカル映画、原題はLes Demoiselles de Rochefort、カトリーヌ・ドヌーヴ、フランソワーズ・ドルレアック主演、ミシェル・ルグラン音楽。
ロシュフォールというフランスの地方都市で起こる恋愛模様が、すれ違いを重ね合わせながら、世間は狭いという感慨をともなって、最後はハッピーエンドに収まっていく。町のお祭りに集まった旅芸人たちが、準備をはじめるところから、映画はスタートする。男女ふたりずつの4人のグループがあり、女の二人に逃げられたことから、町に住む双子の姉妹を代役に立てて、歌と踊りの舞台を成功させる。
姉妹は体型はそっくりだが、顔立ちは少しちがっている。12分早く生まれた姉(ソランジュ)は若き作曲家で、さらに腕を磨きたい。妹(デルフィーヌ)はバレエ教室を開いているが、いなかで埋もれたくない。二人してパリに出ようと計画を練っていた。芸人の一団も次にはパリに向かうので、二人組(エチエンヌとビル)の車に乗せてもらうことにしていた。姉妹は鉄道での予定だったが、男たちは下心があって、送る約束を取り付けた。
姉妹には別に出会いがあり、それぞれに淡い恋心なのだが、実らせたいと考えていた。姉は道端で持ちものをぶちまけたときに、拾うのを手伝ってくれた旅行者(アンディ)で、職業も知らないまま、たがいに一目惚れをした。男のほうは女が拾い忘れた楽譜の一枚をもっていて、それを返さなければと思っている。男はアメリカ人の音楽家で、演奏旅行にフランスに来て、昔の友人(シモン・ダーム)を訪ねてきていた。
友人は最近この町に落ち着いて、楽器店を開いていた。悲しい過去をもつ思い出の町だった。同じ音楽学校を出ていたが、才能には大きな差があったようだ。実は作曲家をめざすこの娘は、この店の客であり、知人に有名人がいるので紹介しようと言われていた。友は楽器店を訪ねて再会をする。手にしていた楽譜をピアノで弾いてみると、店主はどこかで聞いたことがあるが、思い出せなかった。
妹の恋心は、さらに漠然としたものだった。画廊で見かけた肖像画が自分とそっくりなのに驚き、この未知の画家にあこがれをいだく。店主によれば描いたのは若い兵士(マクサンス)で、モデルがいるわけではなく、まだ見ぬ理想の女性であり、現実世界に探し続けていたが、今はドイツに戦いに出てしまったという。
若者が町に駐留中に行きつけのカフェがあった。女店主(イヴォンヌ)に肖像画を画廊で展示しているので、見てほしいというが、店を空けることができないでいた。彼女には双子の娘と、その下に小学校に通ういたずら好きの息子がいた。ふたりの姉は交代で、弟を学校に迎えに行っていた。芸人の二人組もこの店に出入りして、女主人を通じて子どもたちとも知り合いになった。
カフェに集まる客を集めてパーティを開いたことがあった。一人暮らしの老人の常連客がいて、温厚な紳士にみえたが、娘たちの舞台が評判を呼んで新聞の第一面を飾ったとき、第二面にはその男の顔写真が、バラバラ死体の殺人事件の犯人として掲載されていた。パーティで大きなケーキを切り分けたのは、この男だったので、知人たちはゾッとしている。
女店主がカフェを開いたいきさつが語られる。この町には悲しい思い出があった。愛する男と結ばれることなく、自分はメキシコに行って結婚すると偽りを言って別れていた。楽器店の店主もまた、この町での恋が実らず、相手は結婚をしてメキシコに行ったのだという。忘れがたい思い出を胸に秘めて、この町に戻ってきた。
この地名と双子の子というふたつのキーワードを耳にしたとき、私たちは両者を結びつけることになる。二人が再会のきっかけになるのは、カフェで楽器店主の名が女店主の耳に聞こえたときだった。娘が出入りする楽器店の店主だとは思いもつかなかった。珍しい名だったので、間違うことはなく、女はいても立ってもいられなかった。ダームという姓だったが、結婚して夫人になるとマダム・ダームとなると言って笑ったこともあった。男はメキシコにいるはずの女と再会をすることになる。
娘のほうは姉の再会が、楽器店で果たされる。入っていくと聞き慣れた自作曲がピアノで聞こえてきた。見ると探していた旅行者だった。店主が紹介しようと言っていた音楽家に、先に出会ってしまっていたのである。二組の男女は結ばれたが、妹のほうは約束通り旅芸人とともにパリに向かおうとしていた。ドイツから戻った兵士が、カフェにあいさつに来た。
兵役を終えてパリに行くことを女主人に伝えて去っていった。カフェには妹もいて母親との別れを惜しんでいたが、すれ違いのまま、顔を合わせることはなかった。男が女の顔を見れば、あるいは母親が男の描いた肖像画を見ていればと思ってしまう。
青年はパリに向かう道を歩きながら、ヒッチハイクで止まる車を探していた。手には大切なキャンバスを一枚持っていた。旅芸人の一座が通り過ぎたとき、一台の車が止まって、乗車のサインを出している。男は乗り込んでいった。妹は男の手にした絵を見ることになるのだろうか。余韻が残されたまま、そこで映画は終わった。
全編を通じて、セリフはフランス語の歌詞によって伝えられ、「シェルブールの雨傘」に続くフランス版ミュージカルとなった。ドヌーヴをはじめここでも歌声は、吹き替えだったが違和感はない。ダンスによる視覚言語のみごたえは、ジーン・ケリーとジョージ・チャキリスが登場することで、往年のミュージカル映画を思い起こさせるものとなった。見慣れたダンスの振り付けは、アメリカ映画の伝統が息づいたオマージュと見てよいだろう。
第526回 2024年7月27日
ジョン・スタージェス監督作品、アメリカ映画、原題はHour of the Gun、ジェームズ・ガーナー、ジェイソン・ロバーズ主演。この映画をおもしろく見るには予備知識が必要なようだ。まずはワイアットアープがどういう人物かということ、次にこの映画は「OK牧場の決斗」の後日談なので、先に10年前に同じ監督が制作した、この西部劇の名作を見ておいた方がいいということ。
もちろん、映画は何の前知識もなく、完結させるべきものだが、無知な人間を置き去りにする場合も少なくない。殺し合いを嫌う平和主義者にとっては、決闘は何の興味もない野蛮な話である。日本でいえば、宮本武蔵をおもしろがるかどうかということだ。まずはこの人物名を聞いたことがあるという程度の鑑賞者が、見えたままに記述してみるとこうなる。
保安官ワイアット・アープの復讐劇である。弟(モーガン)を殺害されて、その一味をひとりずつ探し出して追い詰めていく。保安官であり法の支配を守るのだが、友人(ドク・ホリデイ)はその姿を見て、首を傾げている。地位も名誉も捨てて、恨みだけを募らせていく姿は、哀れなものでもあった。はじまりは何の説明もなく、決闘場面である。どちらが悪人なのかもわからないままだ。
身を隠すこともなく撃ち合うので、当然死者は出る。町からゆっくりと歩いてきたグループは、横に一列に並んでいて、一人だけがライフルを手にしている。撃ってくれと言わんばかりに無防備だ。二人が撃たれて傷を負った。相手のグループは、囲いのある牧場にいたが、三人が撃たれて死んでしまった。
保安官のバッチをたよりに善悪をみきわめようとするのだが、それが正しい判断なのかはわからない。連邦保安官と地域の保安官とは違っていて、両者が敵対すると、ますます悪人を探すのに苦労する。そもそも悪人はいるのだろうか。最後に相手の首領(アイク・クラントン)を撃ち殺すが、主人公よりも善良そうな、温和な顔立ちをしている。どうみても悪党とは思えない。演じたのはロバート・ライアン、主役はジェームズガーナーだった。
***
「OK牧場の決斗」を見たあとで、もう一度思い起こすと、前作では主人公は友人に比べると、常識的で冷静な判断ができる人格として、描かれていたように思う。ここではもうひとりの弟まで殺害されて、復讐の鬼と化していた。友人との立場が逆転してしまったようにさえ見える。友人は飲んだくれではあるが、冷静に判断できる知性を備えていた。
日本語ではOK牧場と名づけられてはいるが、柵に囲まれた小さな区画で、その中にいる3人が狙い撃ちをされた。他の仲間は家の影に隠れ込んでいた。一家の3人の名前を記した棺おけが葬儀店のショーウィンドウに並べられて、凶悪な殺人者の手にかかったことを伝えている。
裁判の場面がそれに続くが、保安官に殺人の容疑がかけられる。友人の態度も横柄であるし、首謀者の受け答えの方が、誠実に聞こえる。手を上げていたのに撃ち殺した、銃を持たないことを示すのに上着を広げていたのに撃たれたという証言も出てきたが、判事は死体の銃痕の確認から、その証言を退けた。職務上の防衛とみなされ、無罪となるがその後、一家の3人を殺された報復がされていく。
弟二人が敵の不意打ちの銃弾に倒されると、対抗して相手の生き残りの3人を一人ずつ手にかけていく。血で血を洗うという様相を呈する復讐劇は、いくら相手が極悪非道であるとはいえ、共感できるものではなかった。
逮捕するという名目であったが、殺害を目的としているとしか見えない。逃走犯には多額の懸賞金もかけられていたが、殺されることによって無駄なものになってしまった。追手として主人公に同行する者の目にも、理解しがたいものだった。友人の咳はひどく、療養所生活をしていたが、最後の首領追跡にも、同行することになる。
ひとりずつ殺害したあと、首領はメキシコに逃れたという情報を受け止めると、もはや町に被害が及ぶことはなく、あきらめて帰るかに思えたが、主人公ひとりメキシコ行きの列車に乗っていた。感づいた友人もそれに乗り込んでいき、ふたりは絆を確かめあった。
首領があっけなく、撃ち殺されてしまうのを、友は冷静な目で見つめていて、批判することもなかった。弟たちは背中から撃たれて死んだが、主人公が相手より先に撃つことはなかった。手下のひとりを殺害するときは、数えさせて相手は2で、自分は3で引き金をひくのをルールにした。相手は尻込みしているのに無理矢理銃を弾かせたように見える。将棋の名人が飛車角抜きで、対戦して腕を誇るのに似て、感心できるものとは言えないが、一般にはこんな力自慢が好まれるものだろう。主人公はバッジを捨てて、出世の道を棒に振った。決闘の行われた町の名が「トゥームストーン」(墓石)というのも、皮肉に響いてくる。
第527回 2024年7月28日
ジョン・スタージェス監督作品、アメリカ映画、原題はGunfight at the O.K. Corral、バート・ランカスター、カーク・ダグラス主演。ワイアット・アープが悪党一味と対決し、最後はOK牧場の決闘で勝利を得るまでの話である。
兄弟はみんな各地で保安官の仕事をしている。主人公が近隣の町にやってきた。そこには先に三人のならず者がやってきて酒場に入っていった。三人はひとりの男(ドク・ホリデイ)を追っていた。男は町のホテルに泊まっていた。女(ケイト)が世話をしているが、男はひどい咳をしている。女は追手が来たことを聞きつけて、男に逃げるように言うが、聞く耳をもたない。
男はギャンブラーに身を持ち崩しているが、もとは優秀な歯科医だった。咳がひどくて患者が嫌がるので廃業して、その後悪の道に足を踏み入れてしまう。主人公とは顔見知りだったが、ここで窮地を救われることで、恩義を感じ、その後交友関係が続いていく。かつて歯の治療もしたことがあったと言っている。決闘のときには強い味方にもなるが、悪名が高いことから、保安官の立場を悪くすることもあった。
男は逃げることなく、酒場の三人のもとに向かう。酒場では銃を預けることになっていて、たがいに丸腰だったが、三人のひとり(エド・ベイリー)が、左足に銃を忍ばせているというのを主人公が教えていた。主人公は町に入ったとき保安官(コットン・ウィルソン)を訪ねるが、かつての勇者の面影はなく、ならず者を抑えることもできないでいて、無法の町と化していた。
男は相手が銃を抜くと、それよりも早くナイフを投げて胸に刺さり、絶命した。酒場にいた保安官の仲間が、すぐさま逮捕をした。評判の悪い男だったので、町中の男たちが集まってきていた。縛り首にの準備を見て取ると、主人公は助けて馬で逃してやる。自分が保安官をしている町には来ないよう伝えたが、男は聞かなかった。るその後、主人公の手助けをして、どこかで借りを返さないといけないと待ち構えていた。
ふたりの男の友情物語がはじまっていくが、ともに身近に女性がいて、恋愛を天秤にかけて選択を迫られていく。主人公は町にやってきた女賭博師(ローラ・デンボー)に引かれている。逮捕をして留置するが、やがて愛を感じていった。友人のギャンブラーを上回る腕前をもっていた。
目をつけると女の日課にしていた馬の遠乗りも把握していて、馬が故障したときに姿を見せて、10キロも歩くのかと言って、二人して馬に乗ることにもなる。たがいのすさんだ生活を捨てて、カリフォルニアに行って新生活を約束するが、そのときに兄弟のひとり(ヴァージル)からの窮地を知らせる連絡を受け、肉親の絆を断ち切ることができなかった。
友人の相手は酒場女だったが、男が保安官の助手に甘んじる姿に耐えきれず、敵方の男(ジョニー・リンゴ)と関係をもってしまう。男に振り向いてもらうための浅はかな女心だった。男の怒りは爆発するが、咳き込んで発作を起こすと、女の本心が現れて、寝ずの看病をしている。主人公が助太刀を求めてやってきたとき、病身の姿を見てあきらめるが、友情を裏切ることができず、決闘に加わっていく。
無法者(クラントン兄弟)に対抗するために、兄弟が保安官をしている町(トゥームストン)に集まり、力を合わせることになる。兄弟は4人、下は19歳だった。集まった家には食卓を囲む中に夫人も幼い息子もいた。子どもが寝かしつけられると、綿密に作戦が練られていく。夜中の襲撃にあって弟が命を落とすと、主人公は決意を新たにするとともに、弱体を感じて友に助けを求めようとする。友は病いに伏せっていたが、土壇場になって駆けつけてくれた。
決闘はOK牧場での夜明けとなった。味方は4名、敵は6名いた。町の保安官は敵方にいたが、戦う意志はなく、途中で馬で逃げ去ろうとしたとき、敵から撃ち殺されてしまった。4人は横に一列になって歩いていく。敵は5人しか見えなかった。ひとりは幌馬車に身を潜めていた。銃撃戦がはじまり、火を放つと火まみれになってひとりが飛び降りてきた。味方も手傷は負ったが、敵は3人が死ぬことで、決闘は勝利で終わった。
勝利感とは裏腹に、町を行き来するときに、いつも通り過ぎるのは無縁墓地だが、無名の死者が無数に眠る無常感を漂わせて、無意味な殺し合いのむなしさを伝えていた。バックグラウンドでは聞き慣れた主題歌が、それに重ね合わされていく。友には病気の治療をうながして気づかっていた。主人公はこのあとどうするのかという問いかけに、カリフォルニアへという答えを出していたように聞こえた。もちろん実在の人物なので、その後のことはわかっているはずだが、必ずしも史実に従うこともないのかもしれない。