ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品、カルロ・ポンティ制作、ヘンリー・マンシーニ音楽、イタリア・フランス・ソビエト・アメリカ合作映画、原題は I Girasoli、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演。
メロドラマの傑作であると同時に、戦争がもたらした男女の悲劇でもある。ロシア戦線に向かったイタリア人兵士(アントニオ)が、毛皮をみやげに買ってくると言いおいて出かけていったまま、戦後になっても戻ってこなかった。役所で行方不明だと言われても、妻(ジョバンナ)は納得がいかず、生きていると信じて、ロシアにまで探しに行く。その頃はソ連の名で、自由に行き来ができなかったが、単身でモスクワに乗り込んだ。
はじまりと終わりは、広大な大地に咲き誇るひまわり畑であり、そこには故郷を離れて命を落とした、無数のイタリア人兵士が眠っている。人の背丈ほどあるひまわりは死者の魂の復活のように見える。聞き慣れたテーマ曲がかぶさり、抒情性を高める。ソ連の担当者が付き添って、戦没者の集団墓地を案内している。簡単にあきらめられず、その後も夫の写真を手に、あてもなく探し続ける。
きっかけはロシアから戻った帰還兵の列車に、夫は乗ってはいなかったが、掲げていた写真を見て声をかけてきた男がいたことからだった。雪の中をともに敗走した仲間だったが、途中で力尽きて別れたのだと言っている。妻は置き去りにしたことに憤慨するが、そのあと誰かに助けられているかもしれないと、慰めを語った。
社会主義の体制下、大工場に働く工員が、一斉に帰宅する列のなかに、イタリア人の容貌をみとめて、声をかけている。ロシア人だと答えて否定するが、食い下がるとイタリア人だと認めた。なぜ帰国しないのだと詰問すると、男は顔を曇らせた。生き残って住みついたイタリア人がいることを確信して、さらに捜索を続ける。
ほとんどの人は写真を見て、首を振ったが、農村に入って知っているという女性が現れた。粗末な家だったが、案内してくれた。庭にいるロシア女性(マーシャ)が洗濯物を取り込んでいる。かたわらには幼い娘(カチューシャ)がいた。目があったとき、恐れていた予感が的中したような、不安な表情を浮かべている。写真を出して近づくと、予感は確信に変わった。
もちろんことばは通じない。戸棚を開くと、生活のようすがうかがえる。下の段から汚れた靴を取り出して、さかんに説明しようとしている。凍死しかかっていたのを自分が助けたのだと言っているのだ。状況を察しながらも、悲しみが怒りをともなって加速してくる。ロシア女は時計を見ている。6時15分を過ぎている。夫の帰宅が迫っているようで、イタリア女は誘われるままについて行くと、駅のホームに列車が入ってきた。都会の大工場で働く工員だったのだろう。降りてくるなかに男が乗っていた。いつものように、妻を抱きかかえようとした手が振りほどかれると、ホームの先にはイタリアに残してきた懐かしい顔があった。
遠くから見つめあいながら、女はこみ上げる涙をこらえている。からだを震わせて、動きはじめた列車に飛び乗ってしまう。男は突然のことで呆然としてながめていたが、あとを引きずることになる。その日から思いつめるのを、ロシア妻は不安げにみつめている。引っ越しをして思いを断とうとするが、妻は夫が去るのではないかと、不安を払拭できない。
イタリアに向かうことを、男が決意すると、二人して申請を出す。イタリアに残した高齢の母親が病気だというのが申請理由だった。女性の係員から満席で2席を確保できないと言われると、妻は子どももいるので自分は残ると言って引き下がった。キャンセル待ちのすえ、男はひとりイタリアに向かう。売店では懐具合を考えながら、毛皮をみやげとして買っている。母親から居どころを聞いて、電話を入れる。ロシアから訪ねてきたことを驚いているが、会いたいという男に対して、拒否している。自分も結婚をしていて、主人は今は勤務に出ているが工員であることを明らかにした。私たちには、会わないためのつくり話のように聞こえている。
男はあきらめをつけて帰ろうとするが、ストで列車が動かず、明日の朝まで待つことになる。駅前で女に声をかけられると、ホテルを聞くが、自分の家に来ないかと誘われる。商売女だったようで、部屋に落ち着くと、もう一度電話を入れる。ストで明日まで帰れないので、どうしても会いたいと言うと、女は応じた。急いで化粧を整えている。男はアパートの場所と部屋番号を聞いて、不満げな商売女に支払いをすませて、再会へと急いだ。
夜もふけ天候の急変で停電になっており、暗いなかで顔を見合わせた。毛皮をみやげだと言って渡している。女に過去の約束がよみがえってくる。ロウソクのもとで、シワや白髪を見つける。会話が過去を思い起こすと、情感は高まって、寄り添い抱きあうまでに至る。
男は説明をする。自分は死んでいたのだと言う。引きずりながら必死になって、ロシア娘が救ってくれたことを伝える。女は言う、回復したときに、お礼を言って帰国することができたはずだと。すべてはふたりを引き裂いた戦争のせいであり、男はこのまま離れたくないと言うが、女はロシアにいる妻子はどうするのだと問い詰める。そのとき隣りの部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえた。女が結婚をしていると言ったのは、事実だったのである。子どもも生まれていた。男は名前を聞くと自分の名(アントニオ)だった。自分への愛情を確信して問うと、女は未練を断ち切り、否定して聖人の名だと答えた。
あきらめをつけるしかなかった。ミラノ駅での朝の別れに、画面は切り替わり、男は窓越しに女を見つめている。終着駅の旅情が湧きあがってくる。ホームに立って女も男を見つめている。走馬灯のように二人の出会いから、結婚をへて出征までの映像が思い出される。ここは出征を見送った駅でもあった。映画の冒頭で流れていた光景だが、それらが他愛もないものであればあるほど、心に残るものとなる。
抱きあうふたりはまだ出会って日が浅い。生い立ちを知らせあっている。耳に口づけをしたときに、男が女のイヤリングを飲み込んでしまう姿を、ユーモラスに写し出している。徴兵されるのが決まっていて、限られた短い期間をひきのばすには、結婚をすることだと女は提案するが、プレイボーイを自称する男はそれを拒否している。
場面が変わると、ふたりは教会で結婚式をあげて、旅行に出かけている。結婚によって12日間引き伸ばされる。ふたりは指折り数えながら、濃密な日々を送った。新居で24個の卵を使って、男がオムレツを作った。ふたりで食べ終えると、もう卵はこりごりだと言って、窓を開けると、卵を満載した籠が置かれていた。母親が来て顔も合わさずに、置いていったのだった。
期限が切れると、今度は男が狂気を装って、兵役逃れをしようとしている。捕えられて病院に送られる。妻が面会に来て、二人きりになると、安心して抱き合った。壁の穴からそのようすがのぞかれていて、芝居なのがばれてしまった。裁判にかけられるか、ロシア戦線に従軍するかの選択を迫られることになる。徴兵拒否はどこの国でも重罪である。
妻は義母に嫌われていたが、夫が帰ってこない間も、気を使いながらいたわり続けていた。ロシアで家庭をもっていたことを知り、妻は自暴自棄になり男遊びをしている。部屋に飾っていた写真も破り割いた。義母がやってきて、その姿を見届けると、非難するように手を挙げる。夫は死亡したと義母には伝えていたが、それまで黙っていたロシアでの真相を伝えた。それによって、息子の不甲斐なさを申し訳なく思いはじめている。
行き来する微妙な心の揺れが、みごとに演出されている。男は飲み込んでしまった金のイアリングは、そのうち出てくると言ったが、出てこなかったのだろう。結婚をして新しいものをプレゼントしていた。女は再会の時、化粧を整えながら、さりげなく耳につけていた。イタリア人はよくしゃべるが、しゃべらないソフィアローレンの演技が見どころだ。こみ上げる涙をこんなにもうまく演じる女優は、彼女とキャサリン・ヘプバーンだろうと、私は思っている。もちろんそれを引き出した監督とカメラマンの腕前でもあるのだが。
初期の代表作「自転車泥棒」と同じく、情けない男の生きざまである。英雄でもなく時代のうねりに巻き込まれた、ごく普通の人間の偽らざる真実であるという点が重要だ。徴兵拒否ができずに、いやいやながら戦争に駆り出される姿は、日本では今のところ映画での話でしかない。この平和をかみしめながら、何度となく見続けてきた映画である。