1969年
勇気ある追跡1969/チップス先生さようなら1969/ Z 1969/ハロー・ドーリー1969/イージーライダー1969/明日に向って撃て1969/ ワイルドバンチ1969/ミス・ブロディの青春1969/千羽鶴1969/心中天網島1969/橋のない川第一部1969/
第541回 2024年8月17日
ヘンリー・ハサウェイ監督作品、チャールズ・ポーティス原作、アメリカ映画、原題はTrue Grit、ジョン・ウェイン主演、アカデミー賞主演男優賞受賞。勝ち気な娘(マティ)が、保安官(コグバーン)の助けを借りて復讐を果たす西部劇である。牧場を経営する父親が、馬の買い出しに雇い人(トム)を一人連れて出かけていった。娘は牧場の経理を預かっていて、買い入れ資金を手渡している。鉄道ではなく、馬に乗っての移動だった。お供をしたのは、ならず者だったのを父が目をかけて雇っていた男であり、娘はなぜこんな男を同行に選んだのか心配していた。
旅先の酒場でいかさま賭博に出くわし、男が腹を立てたのを父はなだめるが、収まらず銃をもって戻ろうとするのを止めると、父親に向かって発砲して殺してしまう。突然のことで見ている私たちのほうが驚いてしまった。男は逃げて金目のものも奪い、手を出すことのできない、先住民の住む集落に潜り込み、盗賊一味に加わってしまう。
娘は冷静で葬儀の準備に町に向かい、父の遺体を引き取るが、町の保安官は犯人逮捕に積極的ではなかった。同行者に父の遺体をたくし、自分は町に残り自力で調査をはじめ、復讐を誓った。絞首刑の立ち会いに町に戻ってきていた、連邦保安官に目をつけて調査依頼をかける。
公開処刑を娘は気丈に見ている。裁判も傍聴し、終わって保安官に話しかけると、自宅に誘われ出向くと、家族はいないようで、中国人の老人と同居していた。手付金を渡すととたんに博打をはじめている。酒とギャンブルに明け暮れ、生い立ちについても聞くことになる。腕は良かったが、犯人が名高い無法者のもとに逃げたことから、躊躇し足もとを見られた。高額の支払いを約束することで、やっと重い腰を起こしてくれた。
犯人は別の犯罪でも追われていて、テキサス・レンジャー(ラ・ボーフ)が姿を見せて、連邦保安官に別途話を持ちかけていた。こちらの方の契約金が、娘の提示した額をうわまわっていたので、娘には黙って男二人で追跡の旅に出てしまう。娘はあきらめず、目的は同じことから、男たちの行く先についてまわり、足手まといになりながらも、3人による馬の旅がはじまっていく。
3人の奇妙な友情関係が築かれていった。荒野の探索が続き、野宿も続いた。娘が貴重な水筒の水で顔を洗おうとすると、近くの川に降りていくよう指示される。娘はひとり離れて、そこで犯人に出くわす。盗賊仲間もいて、囚われてしまう。50人もの追手がいると偽りを言うが、人質に取られて男たちは遠ざかることを余儀なくされた。娘は置き去りにされたと思って憤慨するが、レンジャーが隠れ込んでいて助けを出す。
盗賊一味との一騎打ちでは、保安官はひとりで4人の敵に対し、ライフルとピストルの二丁拳銃で応戦した。手綱は馬上でのみごとな銃さばきである。盗賊の首領も犯人も撃ち殺された。レンジャーは娘を救うが、銃撃戦で負傷して命を落としてしまう。娘は父の遺品となった大きな銃を構えたが、慣れない銃砲の反動で、ヘビの穴に落ち込んで噛まれ、毒が回っていく。ヘビがガラガラと音を鳴らしている。保安官が降りていって助け、馬に乗せて一刻を争うが、はては馬車を強奪してまで急いで、医者のもとで一命を取りとめた。
一件が落着し、弁護士がやってきて保安官に謝礼を渡している。娘に招かれて牧場に向かうと、父親の墓が建てられていた。娘はその隣にはママの墓が、そしていずれは自分の墓が建てられることになるのだと言って、身寄りのない保安官に、ここにいっしょに入らないかと誘っている。誘いを断ち切って、さっそうと馬で去っていく老人の姿が映し出されていた。ぶっきらぼうだが優しい。大酒飲みで片目しかなく、およそ善人とは思えない非情な一面も残した、悲しい男の孤独を、ジョンウェインが味わいのある演技で見せていた。将軍と呼んでいる、中国人の老人と同居する姿も、淡々としてほほえましく印象的だった。
第542回 2024年8月18日
ハーバート・ロス監督作品、アメリカ・イギリスのミュージカル映画、原題はGoodbye, Mr. Chips、ピーター・オトゥール主演、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞。17歳までの男子生徒をあずかる、イギリスのいなか(ブルックフィールド)の学校教師(アーサー・チッピング)が、有名な舞台女優(キャサリン)と知り合い結婚にまで至り、たがいの住む世界のちがいを克服して、愛を育んでいく話。教師は教育熱心だが堅物で、融通が効かず、生徒から嫌がられている。スポーツ大会に出場する選手には、授業を抜けることを許そうとはしない。
教師の受けもちは古典文学で、ラテン語の翻訳をさせて、生徒を鍛えている。夏休みに入り生徒たちは帰郷し、教師はポンペイ遺跡への旅行を計画していた。ロンドンの友人を訪ねてのちのイタリア旅行だったが、ロンドンで観劇に誘われる。主人公はギリシア悲劇の「メディア」を見たいと言っていたが、現代の音楽劇だった。
主演をするのは友が熱をあげている女優で、閉幕後の約束を取り付けていたが、忘れてしまっていて、別の男を同伴して食事に現れた。顔を合わせて思い出したようにテーブルに誘われ、主人公を紹介もするが、男同士の火花が散っていた。主人公は現代劇に興味はなく、辛口の批評を試みるが、相手にされず無視されていたようで、二人して引き下がった。
ポンペイの劇場跡を主人公は熱心に観察している。ささやき声が離れた観客席にいても、はっきりと聞こえるのを確かめている。舞台にひとりの女性が現れて、小声で話しかけてきた。顔は遠くて見えなかったが、近づいてくるとロンドンで出会った女優だった。失礼な批評を聞いたことで相手は、しっかりと覚えていた。舞台でのストレス解消にツアーで参加したが、団体行動を嫌って単独でここに来たのだという。
主人公は知識を総動員して遺跡を案内する。旅先での出会いは思ってもいない展開を見せていった。女優が教師に興味をもって、夜になっても行動をともにしようとするが、主人公は自重してその場を去った。「メディア」を観たいという話題が、帰宅後実現することになる。華やかな自分とはまったくちがう世界に生きる有名人からの誘いに、教師は浮き足だった。女優は虚栄に満ちた世界から脱出したいと思っていた。
ふたりが愛を育んで結婚へと至ると、新聞はこの話題を書き立てた。学校や生徒の知るところとなり、興味本位で眺めはじめていた。夫婦同伴での学校行事にも視線が集まる。女優は地味に振る舞おうとしても、どうしても目立ってしまう。一同で合唱しても、ひとりだけ振りも派手で、声がとおっている。やっかみも起こってくる。女優のこれまでのスキャンダラスな行動を取り上げて、本命は別にいて教師はそのカモフラージュに使われているのだという悪口も聞かれた。
陰口が妻の耳に入ってきたとき、がまんの限界を越えて、学園を逃げ去った。主人公は追いかけたが、姿を消してしまった。不釣り合いな恋愛だと誰もが判断したが、主人公は居所を突きとめて説得を続けた。妻ももう一度やり直そうと思ったのだろう。子どもたちのあいだに分け入っていく。学年行事の舞台でもひとり混じって踊りをリードしていく。生徒が夫人に愛を告白しにやってきて、教師の悪口を言っている。物陰でそれを聞きつけて生徒に愛される妻に嫉妬心も起こしていた。
順調に回りはじめた頃、主人公に次期校長就任の話が持ち上がる。喜ぶが開票の蓋が開くと、ライバルの名が挙げられた。ナチスが侵攻する時代だった。その対応策としての指名だったようで、教育者としては認めがたい、この男の下では勤めたくはないと、主人公は辞職を決意する。妻も同意するが、現校長がやってきて、この時代子どもたちを統率できる人材としてとどまってほしいという理事長の意向が伝えられた。現場の教師として生きる決意をする。
その後ドイツとの戦況の悪化から新任の校長は、別の才能を評価されての配置換えを余儀なくされ、主人公の校長就任が舞い込んでくる。喜んで妻に知らせようとするが、妻は兵士の慰問で舞台に立つために出かけていく。大声で叫んだが聞こえないようだった。生徒たちは聞きつけて新校長を祝う雰囲気のなかで、妻の訃報がもたらされた。表には出さず、いつものように淡々と授業を続けていた。夫人の死を聞いている生徒は、すぐに帰ってくださいと訴えている。空襲警報が鳴りはじめても、授業を中断することを嫌い、教育を寸断する敵の策略だと言っていた。
戦争が終結して校長のポストを去ることを決意する。過去を思い起こしながら最後のスピーチを行なっている。新入生をつかまえて、校長室に呼びつけ、競技会に出させなかったことを謝罪している。子どもはきょとんとしている。同じ名前だったのだろう、父親あるいは祖父がこの学校の生徒だったかとも聞いていた。少年が何気なく棚の上に置かれた、アポロンの裸体像を手にしている。亡き妻からのプレゼントだった。教師には手の出ない高価なアンティークであり、身分不相応なことから骨董商に返そうとしたが、妻を亡くした今から見れば、かけがえのない遺品にもなっていた。
第543回 2024年8月19日
コスタ=ガヴラス監督作品、アルジェリア・フランス映画、イヴ・モンタン、ジャン=ルイ・トランティニャン主演、ミキス・テオドラキス音楽、アカデミー賞編集賞・外国語映画賞、カンヌ国際映画祭審査員賞・男優賞受賞。Zと呼ばれる国会議員の死をめぐっての真相を追ったサスペンス。フランス語をしゃべっているが、フランス本国ではなく、民主主義を否定する第三国での話として描かれている。ドレフュス事件との比較がされていて、フランスにとっても他国の出来事とは思えないというメッセージが聞こえてくる。
イヴ・モンタン演じる主人公は、元オリンピック選手であり、立派な体格で堂々としているが、無防備ですきだらけだったとも言える。前半で姿を消して、その後も回想場面で登場するが、主役は事件の真相を探る予審判事にバトンタッチされていく。演じたトランティニャンがカンヌ映画祭で男優賞を受賞している。
暗殺説の謎を追跡するなかから、何重にもなった権力機構の実態が浮かび上がってくる。主人公は体制に批判的な勢力のリーダーとしてカリスマ的な存在であったが、集会に向かうなかで急に現れた暴徒によって後頭部を殴打される。しばらくうずくまるが立ち上がって、暴行にあったことを報告しながら、力強い演説を続けていた。
その後、群衆にまぎれて三輪トラックが通り過ぎたときに倒れ込む。目撃者の供述はさまざまで、つまずいたときに頭を打ったという者、トラックに轢かれたという者、トラックにひそんでいた男によって頭を殴られたという者などがいたが、警官もいたはずなのに見て見ぬふりをしているようだった。妻も呼び出され、夫婦関係がよくないことも知られてしまうが、表面上は顔には出さないでいる。
新聞記者が真相解明に手を尽くし、証言者を探している。予審判事が権限をもっているが、各方面から圧力が加わっていく。脅されても真実を語ろうとする証言者も出てくる。正義感は真相究明に、一存で死体解剖にまで踏み切ると、証言とは異なった、負わされた傷の実像が読めてくる。警察を抱きこみ、司法権力も味方につけて、大掛かりな暗殺計画があって、隠蔽されていったのが明らかになっていく。暗殺グループが形成されていたことが突き止められ、警察や憲兵隊など制服組のトップが、次々と告訴されていくのは圧巻だった。
それは若き判事の功績だったが、詰めのところでくつがえされてしまう。容疑者にも申し合わせたように謎の死が続く。国家権力に逆らえば、こういうことになるという、悲観的な警告を伝えるものとなった。影に黒幕がいるはずだが、姿は見えない。権力とはそういうものなのだろう。ピラミッド構造になっていて、頂点はあるはずだが、どこからが上で、どこからが下かはわからない。
テンポのよいテーマ曲にあわせて、たたみ込むようにして事件が展開していくのが、スリリングで私たちを引き込んでいく。リズミカルなカメラワークが、一瞬を写して切り替わっていく。残像をつなぎ合わせて、事件を再構成していくのに骨が折れるが、それが醍醐味となるものだ。見えない権力機構が、じわじわと押し寄せてくる恐怖を描き出しているが、あれっという意外な展開が随所に盛り込まれて、サスペンス映画としてのみどころになっていた。
謎めいたZの文字が示す象徴性は、ギリシア文字に潜む神秘に由来するのだろうが、本名を明かさないでZ氏という頭文字で知られている。Zは英語やフランス語では最後の文字だが、ギリシア語でははじめから6番目の文字にあたる。殺害されたのちデモ隊が追悼の抗議をおこなったとき、地面に2本の平行線を書いてその両端を結んでZの文字を浮かび上がらせていた。官憲が蹴散らして消え去ることになるが、抵抗の怒りのような勢いを、剣さばきに置き換えれば、怪傑ゾロを思わせるものでもあり、興味深く見ていた。
第544回 2024年8月20日
ジーン・ケリー監督作品、アメリカのミュージカル映画、原題はHello, Dolly! 、バーブラ・ストライサンド、ウォルター・マッソー主演、アカデミー賞美術賞・ミュージカル音楽賞・録音賞受賞。突端から驚かされる。1890年のニューヨークの街並みの写真からはじまるが、往来には大勢の人々が群がっている。静止画が長く続いたあと、背景から少しずつ動きはじめ、全体が動いたのが圧巻だった。つまりセピア色をした当時の写真ではなくて、大規模なセットだったのである。
ニューヨークで結婚斡旋のほか、頼まれごとは何でも引き受ける未亡人(ドーリー・リーヴァイ)が、いなか(ヨンカーズ)に住む名士(ホーレス・ヴァンダーゲルダー)と再婚するまでの話。いわば仲介業の何でも屋であるが、名刺をつくっていて、仕事がないかと、歌いながらくばり歩いている。男は家業が成功して、ひと財産を築いていた。40歳を過ぎたが独身で、そろそろ結婚をしようと考えている。主人公が紹介したのはニューヨークで帽子店を営む女性(アイリーン・モロイ)で、本人は乗り気になっている。女性のほうも財産家であることから期待していた。
男には姪(アーメンガード)がいて画家の卵(アンブロース)と恋愛をしているが、生活力がないことから叔父が猛反対をしている。従業員にはふたりの若者がいて、昇給をちらつかせて、ニューヨーク行きで留守の間の仕事を頼んでいた。主人公が別途やってきて、ふたりに声をかけてニューヨークに誘うと、恋愛を期待してその気になっている。若者たちに帽子店の女主人のことを話すと、興味をもってふたりは彼女を頼って出かけていった。叔父に結婚を反対されたふたりも、家出をしてニューヨークに向かった。
帽子店では女主人が若い女店員とふたりで、若者の訪れを見守っている。窓越しに二人がようすをうかがうのを知り、金持ちの子息のようにみえ、火遊びを楽しもうとした。そんなとき雇い主が遅れて帽子店にやってくると、二人はあわててタンスやテーブルの奥に隠れた。顔を見られることはなかったが、男を連れ込んでいることを察せられて、結婚を前提にしてやってきた男は心情を害することになる。ふしだらな姿を思い浮かべると、結婚相手として疑問を感じはじめた。
帽子店主は艶やかに着飾って、若者を連れて、ダンスパーティに出ようとするが、彼らは踊ったことがない。主人公がようすをうかがいに来たとき、ステップを教授すると、ふたりはまたたく間にマスターして、みごとな相手役をこなせるようになった。主人公が男に結婚させないように仕組んだのには理由があったようだ。自分がこの男とその財産に引かれたからで、亡くした元夫に、申し訳なさそうに許しを乞うている。
かつての幸福だった日々を回想して、主人公は夫が財産を、若者の将来に希望を与えるように使うのだと言っていたことを思い出している。ダンスパーティにはコンテストがあり賞金の出ることから、主人公は全員を送り込むよう仕向けた。帽子店主を断った男には別の女性を見つけていた。わがままな相手であり、食事もダンスも進まずに物別れに終わる。女は帰りがけに、待機していた主人公に合図を送って、出番が来たことを伝えている。すべては仕組まれていたのだった。
食事を運ぶホテルのボーイたちの間では、主人公が戻ってくるのだと話題になっている。かつてはここで花形だったのだとわかる。財産家の夫とともに常連客だったのだろう。久しく離れていたようで、時間が来て階段の上に姿をあらわすと、彼女を囲んでウェイターたちが総動員で、華やかなダンスがはじまり、「ハロードーリー」の主題歌がうたわれていく。
バーブラ・ストライサンドの声量のある歌唱力とともに、ルイ・アームストロングの歌声を、耳と目にすることもできる。激しい踊りが続いて、最大の見せ場となっている。去ろうとする男を引き止めて、食事に誘う。客たちのダンスがはじまると、そのなかに姪のカップルも、帽子屋のカップルも見つかった。相手の男をみると、従業員の若者だった。
男は怒りを爆発させると、姪も従業員も謝罪するのではなく、男を見限って離れていった。男はひとりになって広い邸宅にいる姿があった。孤独を感じていると、救いの手を差し伸べたのは主人公だった。このとき住み慣れた住居の外装を塗り替える仕事を依頼していた。主人公が聞くと、急いですることでもないが、これによって職を失った若者を救うことになるからと答えていた。女は再婚を亡き夫に認めてもらおうとして、懇願している。
男は女にプロポーズし、去っていった若者は帽子店主と結ばれて、新たな同業主となって独立し、もうひとりも主任のポストに格上げされ、姪もめでたく画家と結ばれることになった。家の外装が終わると、売れない画家の支援に財産が使われることになれば、めでたしめでたしとなるはずだ。他愛のないドタバタ喜劇の様相を呈しているが、ダンスがストーリー展開をうわまわって、激しい踊りと、スローテンポのバラード曲がうまく組み合わされて、ミュージカル映画としての華やかな娯楽性が、盛り上がりを見せていた。
第545回 2024年8月21日
デニス・ホッパー監督作品、ピーター・フォンダ制作、アメリカ映画、原題はEasy Rider、カンヌ国際映画祭新人監督賞受賞。若者ふたりがバイクを走らせて、自由を求め短い生涯を終えるまでの物語。ふたりは対照的で、ひとり(ワイアット)は知的な相貌をもち、ピーター・フォンダが演じている。キャプテン・アメリカと呼ばれ、長身で神経質そうにみえる。星条旗をプリントしたヘルメットと上着を身につけ、しゃれて目立った改造バイクに乗っている。もう一人(ビリー)はがっしりとしていて図太そうで、粗暴な役柄をデニス・ホッパーが演じている。
ニューヨークをスタートして、延々と続くハイウェイをゆく。目的地があるわけではないが、フロリダに行って旅を終えようという声が聞こえていた。はじまりは大麻の密売で大金を得て、それをバイクの給油タンクに隠し込んで、旅立つところからだ。受け渡しには、航空機が頭上で低空飛行を繰り返し、轟音が鳴り響く場所が選ばれていた。
逃げる旅なのか、求める旅なのかはわからない。途中での見知らぬ男女との出会いや別れを繰り返すが、まとまったストーリーがあるわけではない。行き当たりばったりの末、殺されてしまうことで必然的に結末となってしまった。殺害理由は髪が長いことと、土地の大人たちには自由をもとめる若者が気に食わなかったことだけだったようにみえる。身なりを見てモーテルも断られ、野宿をしている。
アメリカはこれまで自由を求めてきた歴史だったが、自由を手にした人間には冷酷だったというのは、途中で出会ったジャック・ニコルソン演じる弁護士(ハンセン)のことばだった。街で騒いで刑務所に入れられて、そこで出会った男だった。飲んだくれだがまともな考え方の持ち主で、ふたりと意気投合してしばらく旅を続けていた。
一台のバイクは改造車で、背もたれを付けて、二人乗りにしている。はじめはヒッチハイカー(ジーザス)のサインを目にして止まり、乗せてやっている。給油の際には気を利かせてタンクを開いて手伝うが、相棒は隠し込んだ札束が見つからないかと気が気ではない。ハイカーは仲間たちのとどまる場所に案内すると女性もいた。原住民の血が混じり、一族の結束は固く、深入りすることはできず、別れて二人は先を急いだ。
メンバーは代わり、女が加わって楽しい旅が続いていく。町で浮かれ騒いで留置され、そこで出会ったのが弁護士だった。行く先々でマリファナを吸って、出会った男女にすすめている。弁護士ははじめての経験で、恐る恐る手を出すが、酒に溺れているので効かないと言いながらも、いつのまにかハイになっている。
そんな3人の姿を快く見ていない大人たちがいた。一休みにカフェを訪れたときのことだ。地域を取り締まる役人も仲間にいたようだが、冷ややかな視線を注いで、州のはずれで狙いうちをしようと示し合わせている。聞こえるように罵倒の声を繰り返すと、3人は何も注文できずに出て行くことになる。別のテーブルには3人の娘がいて、若者に興味を示してサインを送っていたのも、大人たちには気に食わなかったにちがいない。
その夜、野宿をしているときに、ふいに襲われて、見ている私たちも暗闇のなかで一瞬何が起こったのかと思った。気がつくと弁護士は撲殺されていた。犯人が誰かもわからないまま、その場を去った。ふたりは有り金を使ってしまおうと、娼婦を買うがひとりは沈み込んでいて、その気になれず誘い出して、折からはじまっていた謝肉祭に紛れ込む。教会の前でマリア像を前にして問答を繰り返している。こんなときにもキリスト教に回帰するのかと、西洋の感性が興味を引く。
一夜明けて荒野のハイウェイを走行中に、やってきた車から長い髪を嘲られて、無視していると突然ライフルで、一撃のもとに撃ち殺されてしまった。先を走っていた相棒がUターンをして、死を確認して、上着を顔にかけたあと車を追うと、引き返してきた車とすれ違いざまに、二度目の発砲があって、バイクが炎上して、こちらもあっけなく死んでしまった。アメリカの自由の象徴である星条旗を背負っての最後で、給油タンクのドル紙幣とともに燃え尽きたということである。バイクが走行するシーンにはさまれる歌曲が、セリフの少なさを補い、スタイリッシュな映像美を盛り上げている。
第546回 2024年8月22日
ジョージ・ロイ・ヒル監督作品、アメリカ映画、原題はButch Cassidy and the Sundance Kid、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード主演、バート・バカラック音楽、アカデミー賞撮影賞・脚本賞・作曲賞・主題歌賞受賞。実在した二人組の強盗の悲劇的な末路を描く。反体制的なヒーローが主役になるという点では、アメリカンニューシネマに属する映画である。
ひとりは強盗団(壁の穴)を組織する頭脳犯のボス(ブッチ・キャシディ)であるが、気の合う抜き打ちの名手(サンダンス・キッド)と、ふたりで別行動をしていた。銀行強盗で名の知られた一味だったが、アジトに帰ってみると、仲間のひとりが列車強盗を計画して、リーダーになろうともくろんでいた。ボスとの一騎討ちとなるが、すばやく先攻されて、打ちのめされてしまう。ボスは列車強盗など効率が悪いと突き放していた。仲間の裏切りには腹を立てたが、それも悪くはないなと思い直し、仲間をまとめて挑戦することになった。
現金を輸送する車両を狙ったが、大会社の給与が運ばれていた。警備をしている社員がなかなか扉を開こうとはしない。社長に忠実な社員の姿に驚いている。列車が止まったことで、別の車両から降りてきた老婦人を盾にして脅すと、おびえる声を聞きつけて、扉は開かれた。味を占めて二度目も行われるが、今度は貨物車の扉が開かれると、大きな金庫が用意されていた。ダイナマイトを用いて爆破したのはよかったが、札束が宙に舞い上がり、回収できなくなってしまい、みごと失敗に終わった。
二度まで屈辱を味わわされた社長は、すご腕のガンマンを雇って、追手を組織する。報復はメンツの問題だったのだろう。対抗策として、突然現れたもう一つの機関車から、馬に乗った追手がかたまって出てくると、強盗団は歯が立たず、まとまって逃げはじめる。危険を分散して二手に分かれるようボスは命じるが、敵は分かれずに、ボスと相棒のいるほうだけを追いかけてきた。ここから二人の逃亡の旅がはじまっていく。
追手が組織されたことを知ると、ボスは、それにかける費用が気になって、その分をこちらにもらえれば強盗はやめるのにと、うがったことを言っている。ときおり悪党なのに、憎めない表情を浮かべるのがユーモラスに描かれている。追手に追い詰められて崖から眼下の川に飛び込む場面がある。なかなか踏ん切りのつかない相棒に剛を煮やしていると、泳げないというひとことがかえってきた。せっぱつまったなかで、ボスは大笑いをしている。思い切ってふたりして飛び込み、急流に飲まれながら逃げのびるシーンは圧巻である。
相棒には恋人(エッタ・プレイス)がいた。追われる恐怖を忘れるように、訪れて愛をかわしている。26歳の独身教師だったが、ボスとも仲良く、相棒がいなければ恋愛関係となっていたとも言いあっている。自転車のサドルに乗せて、恋人どうしのように走りまわるのを、相棒が嫉妬の目で見ている。主題歌「雨にぬれても」がかぶさるゆったりとしたシーンは、つかのまの幸福を示すものだ。自転車が馬に代わって登場した時代で、平和の象徴のように見える。アクロバットのようなおどけた、自転車乗りの腕前も披露していた。
ふたりの逃亡は、恋人をともなって、はるかボリビアにまで向かうことになる。馬車で立ち去ると、自転車は投げ捨てられて、車輪だけがむなしく回っていた。3人づれだと敵の目をのがれると考えたからだった。彼女はスペイン語もできた。相棒もしゃべれると言っていたが、現地にたどり着くと、からきしダメであることがわかった。逃亡は追手から逃れるためだったが、そこはあこがれの地でもあった。強盗から足を洗って、まっとうな生活をめざそうとするが、手持ちの資金で農地を買ったとしても、労働ができるような人間ではなかった。
結局は銀行強盗となって、金を奪うことしかできなかった。銀行に押し入ったときにしゃべる最低限のスペイン語を、彼女から教えられている。いなかの素朴な人たちを相手に悪事は、簡単に成し遂げられた。むつかしいのはスペイン語だけだった。銀行強盗に成功して味を占め、敵の数は知れたものだとあなどったが、やがて銀行は軍隊まで動員して対抗することになる。たった二人を相手に、広場を囲んで大勢の銃殺隊が配置されていく。
何も知らずに逃げ去ろうとして、閉じこもっていた建物から、広場に駆け出たときに、時が止まったように二人の静止画がストップし、一斉射撃の音声だけが聞こえて、映画は終わった。二人は銃撃で傷ついていたが、オーストラリアに行こうと夢を語りあっていた。そこでは英語が通じるというのが、目的地としての選択理由だった。
恋人は二人が死ぬところは見たくないと、かねがね言っていた。巻き込まれて銀行強盗にも手を染めてしまったが、追い詰められた頃に、アメリカに戻ってもいいかと二人に尋ねている。二人はともに引き止めることはできなかった。死は覚悟していたが、相手がすご腕のガンマンではないのだとわかると安堵するのだが、こんなに大規模な相手だとは想像もつかなかっただろう。あらためて自分たちが大物だと判断されたことに、満足のいく最後だったにちがいない。
第547回 2024年8月23日
サム・ペキンパー監督作品、アメリカ映画、原題はThe Wild Bunch、ウィリアム・ホールデン主演。バイオレンスに満ちた西部劇、激しい銃撃戦は、回転式の機関銃まで飛び出して、西部劇を逸脱してエスカレートしていく。鉄道駅をねらっての強盗団(ワイルドバンチ)からスタートするが、折から禁酒団体のデモ行進と重なってしまい、防衛する側の厳しい反撃にあって、最小限の金袋を馬に乗せての逃走となった。団体からは駅の防衛体制に批判が寄せられている。
追手が組織され追跡されるが、強盗団は逃げのびて金袋を開いてみると、金貨と見えたのは穴の空いたワッシャーであり、いっぱい食わされてしまった。ボス(パイク)の指導力に不満の声が起こっている。歳もとったので大きく稼いで足を洗いたいと、古くから付き添ってきた仲間(ダッチ)を相手に弱音を吐いている。足に傷を負っており、馬にまたがるのに失敗している。
今は枯れてしまったが、若き日の情事を回顧して言うには、人妻と恋に陥って、夫に見つかり、女は撃ち殺され、自分は足を撃ち抜かれたのだった。追手を率いるのはかつての仲間(ソーントン)だったが、今は鉄道主任のポストを得て、執拗に職責をはたそうとする。
逃亡中に急に馬が砂地に足を取られ、全員が滑り落ちてしまう事故が起こると、若いメンバーが腹を立てて仲間割れを起こしている。強奪の失敗から引き起こされたいらだちだった。メキシコとの国境近くにまで逃げのびる。そこで最後の仕事として、ボスが選んだのは列車強盗だった。巧妙に仕組んだ手で、列車に積まれていた武器を手に入れる。箱詰めのなかを開けると銃だけでなく、機関銃やダイナマイトも入っていた。ダイナマイトによる橋の爆破で、馬上の戦士たちが落ち込んでいくシーンも迫力に満ちている。
そこでも追手は執念深く追跡してくる。メキシコを統治する将軍(マパッチ)が組織する兵が、武器を欲しがっていた。それに抵抗運動をする現地のインディオもまた、それをねらっていた。強盗団のメンバーには、肌の色の異なる現地人もいて、その手引きによって武器の一部を奪われることになる。ボスが目をかけていた若者(エンジェル)だったが、かつての恋人が金に目がくらんで、将軍に身売りをした姿を目にすると、憤りから発砲して彼女を殺してしまった。将軍に抱かれており、狙いをはずせば将軍にあたってしまうという状況だった。
これに追手の一団を加えると、三つ巴の争いになっていく。ボスは手に入れた武器を有利に運用しようと、将軍に小出しにしながら売りつけていく。金貨の入った包みが、武器と交換されて数を増やしていく。仲間を手分けして交渉に当たらせるが、インディオの若者を使者に立てたとき、発砲事件を根にもっていたことと、銃を横流ししたことから捕らえられる。将軍の怒りは、若者を自動車につないで引きずりはじめた。ボスの相棒が同行していたが、助けることができず見過ごして引き戻した。
ボスが仲間とともに将軍のもとに乗り込んでいく。若者が気にかかったこともあったが、執拗な追手から逃れるためでもあった。着いてみると若者への、残虐な仕打ちはまだ続いていた。ボスは怒りをつのらせるが押し殺し、将軍は取引相手でもあることから、ボスを歓待している。仲間とともに、あてがわれた女との一夜を過ごして、4人は覚悟を決めたように、銃を手に横に一列になって、将軍のもとに向かっている。
瀕死の状態にある若者の引き渡しを申し出ると、解き放たれると同時に、喉をナイフで切り裂かれて戻された。ボスの怒りは爆発する。多勢を相手に、壮絶な銃撃戦がはじまる。軍の幹部を一撃のもとで仕留めて、手榴弾を投げ、機関銃も乱射されていく。機関銃は抑制が効かず、敵も味方もなくひとりで連射されている。人数差を考えれば無謀な戦いで、ボスも相棒も命を落とした。油断をしたすきに、女や子どもに撃たれてしまった。
双方がともに全滅し、死体の山となった残骸を、追手がやってきて、旧知の仲間の死を感慨深げに見つめている。手下たちは、明日になれば死臭がただようと言いながら、死体の残した銃や金目のものを、争いながらかき集めていた。老いた主人公の最後は、西部劇という形式そのものの終焉を意味するものなのかもしれない。自動車が馬に代わって登場する時代であり、ロープにつないで引き回す拷問も、交代したとはいえ両者は同じ役割を果たしていた。
第548回 2024年8月24日
ロナルド・ニーム監督作品、原題はThe Prime Of Miss Jean Brodie、マギー・スミス主演、アカデミー賞主演女優賞受賞。舞台はスコットランドのエジンバラ、教育熱心な独身の女性教師(ミス・ジーン・ブロディ)が、伝統を重んじる学校から追われるまでの話。十代なかごろの感受性豊かな、女子生徒の心をつかんで人気があるが、衣服も派手で自由奔放で男性関係も多く、問題をかかえている。見ている方は、はじめ革新的な生き方に拍手を送り、応援をするのだが、やがて疑問を感じるようになっていく。
子どもたちを相手に自分の恋人が戦死をしたという話をしている。感動して生徒のひとりが涙を流しはじめたところに、女性の校長が教室に姿をあらわす。泣いているのを認めると、叱りつけたのかと疑い深い目で見つめている。プライベートな恋愛話を、急に歴史の話に変えて、その場をつくろっていた。校長はこの教師のクラスだけに、問題をかかえる生徒が出てくるのをみて、教師の教え方を疑問視して、目を光らせていた。
男性教師とのつきあいが活発なのも、規律を損ねるものだ。ふたりで教室にいて生徒たちにあやしまれるシーンもあった。相手は美術教師(テディ)だったが、ばつが悪く2年後に14歳になると習うことになる先生だと、生徒たちに紹介している。妻帯して子どもが6人もいたが、言い寄られると、否定はするのだが抱きすくめられると拒みきれないで、突然扉を開いた生徒にキスをしているのを見られてしまう。生徒は隠しているが、仲間の追求をかわせずに、しゃべりはじめると子どもたちの興味は、ますます拡大していく。
美術教師は主人公にモデルを頼むが、なかなか首を縦に降らない。自分の代わりに、モデルにふさわしい生徒を見つけて、送り込んでいる。アトリエとして借りている部屋には、妻と子どもたちを描いた家族の絵も置かれているが、すべてが女性教師の顔に似てしまっている。親衛隊のひとりであった生徒(サンディ)が反乱を起こし、美術教師のモデルになって恋愛関係となる。ヌードモデルまでするが、描かれた絵を見たときに自分でないことを知り、男の本心を見破っている。
音楽教師(ゴードン)とのつきあいもあった。生徒が面白半分に、二人のいきさつを、赤裸々につづった手紙を、図書館の本に挟みこんであるのが発見される。校長の手に届き、二人を呼びつけて真相を究明する。真実であるだけに、男は権力を前に言い返すことはできなかったが、女教師は猛烈に反発する。二人が黙っていれば誰も知らないことだと、男の弱気をなじっている。筆跡はふたりの子どものもので、悪質ないたすらだと反論するが、そんな手紙が書かれるような教育のありかたが問題だといって、辞職を迫っている。
女教師の情熱は、恋愛だけでなく政治の指導者にも向けられ、ムッソリーニやフランコ将軍を英雄視して、生徒に吹聴しはじめる。イタリアびいきははじめ、教室の壁に気に食わない肖像写真の上にかぶせて、ジョットの壁画の写真を貼っている。生徒に偉大な画家の名を言わせて、レオナルド・ダ・ヴィンチだと答えるのを否定して、ジョットだと言っている。美術に通じていることもよくわかる。
イタリア旅行の思い出をスライドを使って生徒に語ると、子どもたちはうっとりと聞き入っている。ムッソリーニは、イタリア文化万歳を叫ぶ専制君主だった。スペインでの独裁者についても、彼女にとっては国を守るために立ち上がった英雄だった。スペインに戦士として兄を残す娘(メリー)を洗脳すると、彼女は高揚してスペインに向かい、命を落としてしまう。皮肉なことに兄はフランコに反旗を翻す闘士だった。少女の死を伝える新聞を手に、女教師に批判的な生徒がやってくる。生徒の目の輝きを信じたが、それが、自分の誘導によるものだという自戒はなかった。
教育は生きがいであり、生徒は自分の味方だという信念は、子どもたちを縛り、思い通りの役割を振り当ててきたことの、しっぺ返しとして、賢明な生徒によって裏切られていく。美人であることから、甘やかしてきた同僚の男性教師の罪も重かった。校長から辞職を迫られ校長を恨むが、これは自分の一存ではなくて、理事会の意思だと伝えられた。はじめに辞職を迫られたときは、女教師の言い分に納得したが、ここでは私たちもこの判定は、受け入れざるを得ないと思うようになる。ムッソリーニもブランコもヒトラーも、ミスブロディと同じように、当時の純真な若者にとって、魅力的なものに見えたにちがいない。
第549回 2024年8月25日
増村保造監督作品、川端康成原作、新藤兼人脚色、京マチ子、若尾文子、平幹二朗、梓英子主演、英語名はThousand Cranes。亡き父のふたりの愛人に翻弄される息子(三谷菊治)の物語。父も母もなくして鎌倉の屋敷に、ばあやと住んでいるが、東京に通勤するサラリーマンであり、早めに家も道具も処分したいと考えている。父の愛情を受けた愛人のひとり(栗本ちか子)が、顔を見せては息子の結婚の世話を焼いている。お茶の師匠をしていて、お茶会に誘われて、出向くところから映画ははじまる。
息子を除いて全員が女性であり、お見合いの場にもなっていたが、男は乗り気ではない。コートを羽織ったサラリーマン姿で場ちがいだったが、着くと和服が用意されていた。途中で千羽鶴の風呂敷づつみを抱いたふたりの女性に道を尋ねたが、そのひとりが師匠の一番弟子である、見合い相手(稲村ゆき子)だった。
この茶会でもうひとりの父の愛人(太田夫人)に出会う。娘(文子)と二人で参加していたが、師匠は招待もしていないのに、押しかけてきたのだと、憎々しげに言っている。息子は母親を泣かした、父と愛人をともに嫌っていた。茶の師匠のほうは、胸に大きなあざができ、そのことで父は遠ざかってしまったようで、息子も気味が悪く敬遠していた。丸く黒いあざを見せるシーンは衝撃的である。
もうひとりの愛人も、父を奪ったことから憎んでいたが、茶会が終わったあと、息子が帰るのをひとりで待ち受けていた。娘は先にかえしたという。ぜひ会いたかったのだと告白し、父親とそっくりになった姿を感慨深げに見つめている。父親への深い愛情が読み取れた。夫人と呼ばれていたが、夫は娘を残して先だったのだろう。父親から愛されて、感謝するだけではなくて、息子に父の面影を見つけて、繰り返し近づいてくる。
妖艶な美人であるが、一人では生きていけない弱々しさをもっていて、息子はいつのまにかその魅力のとりこになってしまう。男の胸に倒れ込むようにして抱かれると、罪深い女の性を嘆くが、若い男は自分は父親の代わりでしかないと思いながらも、突き放すことができない。娘は気丈で、息子になびいていく、危なげな母の姿を嘆いている。娘にいさめられて、どうしようもない道ならない姿を自戒する。娘に訴えて男と会わないよう男の会社まで、出向いてもらった。その後も母の使いで何度となく息子と顔を合わすことになる。
病弱だったが雨の日に娘に隠れて、鎌倉の屋敷にやってくる。憔悴していたのは思いつめた恋心のように見える。息子は父の代わりでもいいので、会いたいと思うようになっていた。茶室に招き入れ、二人は結ばれる。情事を見ていたのは、もうひとりの愛人である茶の師匠だった。わがもの顔で屋敷に出入りして、使わなくなった茶室のそうじもおこなっていた。
娘に電話をして、母親を向かいに来てもらうよう伝えている。魔性の女だと言って、息子には近づかないように忠告し続けてきた。夫人の健康は日増しに悪化していく。娘がひとりで看病をしていたが、ある日突然の訃報が知らせられる。娘がいうには病気ではなく、睡眠薬を大量に飲んだのだった。喪が開け落ち着いた頃に、息子が夫人宅を訪れると、ひっそりとしたなかで娘が対応した。男は娘に母親のおもかげを見つけていく。
愛する人の突然の死に、輪をかけるように、勧められていた見合い相手が、結婚をしてしまい、夫人の娘も同じく結婚してしまった。息子が出張で家を開けていたあいだのことだった。知らせたのは世話を焼いていた、茶の師匠だったが、また別の見合い相手を探してみると男を慰めている。男は娘のことが気にかかり、夫人宅を訪ねると、処分されて引っ越してしまっていた。娘は東京で就職をしたというが、行く先はわからない。
なすすべがなく日々が過ぎ、ばあやが夫人の娘がやってきたことを告げると、男の顔は輝いた。母親の遺品だといって志野焼の茶碗を持参していた。飲み口には生々しい口紅の跡が染み付いたように、茶の心とは対極にある俗物性が読み取れる器だった。結婚したと聞いていたので祝いを言うと、きょとんとして、そんな話はないと否定した。おせっかい女のはかりごとだと判断し、見合い相手の結婚のほうも疑問視されている。茶室に招き、父の遺品である唐津焼の、男性的な茶碗を出してきて比べている。ふたつが並ぶ姿は、夫婦茶碗のように見える。
その後も何度か娘が訪ねてくるのは、男への愛を感じはじめていたからだろう。男もはじめは母親の代わりだったが、ふたりはともに独身であり、何のはばかりもないことに気づく。そこでもまた茶の師匠の邪魔が入る。娘もまた母親と同じ魔性の血が流れているのだと、責め立てられて、いたたまれなくなった娘は茶室を去った。
母の遺品である志野茶碗を割り、男もまた唐津茶碗を割って、血のしがらみを絶ち、過去との決裂を意思表示したようにみえる。男は職場を探しあて、休んでいることを知ると、下宿にまで訪ねるが、旅行に出ていつ帰るかわからないという答えだった。女は娘は自殺したのだと言ったが、男は信じなかった。胸のあざは幼心に恐ろしく記憶されていた。この生々しさは茶碗に残る唇の跡とともに、官能と恐怖を誘う小道具となって目に焼きついている。男は憤り女に向かって、魔性の女とは、お前のことだと断言していた。父を愛し息子も愛した女が、性を奪われ醜く生き残ったがゆえに、こちらのほうが気にかかり、私には美しい自死よりも、哀れに思えてならなかった。
第550回 2024年8月26日
篠田正浩監督作品、近松門左衛門原作、中村吉右衛門、岩下志麻主演、富岡多恵子ほか脚本、キネマ旬報ベストテン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞受賞、英語名はDouble Suicide。紙屋の旦那(治兵衛)が遊女(小春)に恋をして、二人して心中をする話である。
情けない男の姿にいじいじさせられるが、弱く不甲斐ない男を通して、人間存在の偽りのない真実と尊厳のありかを考えさせられる。歌舞伎の伝統を下敷きにして、吉右衛門がこのダメ男を好演している。男には女房(おさん)とふたりの子どもがいるが、若い女郎にのめり込んでいる。家業は思うようにいかず、女を身請けするのに金がない。金を積んで思いを遂げようとする恋敵(太兵衛)がいて、商売がうまくいっていない紙屋をあざけりにかかる。
侍の姿をして女郎屋に上がり込んだ男が、この女を指名している。嫌っている恋敵から逃れられるので、女将もほっとしているが、紙屋が侍の姿に化けているのだと、恋敵は見抜いていた。嫌がりながらも武士の相手をすることになるが、編笠を外して顔を見ると、紙屋の変装ではなく、ほんものの武士だった。評判の女郎を聞きつけて、人目を忍んでやってきたのだという。
女がふてくされていると、女将はこの女には惚れた相手がいることを明かす。武士は事情を聞いて、借金を返して自由な身になるまで手を貸そうと、それまで専属の旦那になってやろうと言い出す。女は心変わりをしたように、話に乗っていく。女の裏切りを物陰に潜んで聞いていた紙屋が姿を見せ、脇差で窓の格子越しにふたりの仲を裂こうとした。身を交わされて両手を格子につながれてしまい、みっともない格好で往来の人々に見られている。恋敵が通りかかり、隠している顔をのぞき込み、その姿を確認する。あざけって大声で紙屋の名前を言い放つと、武士が出てきて、けちらされてしまった。
紙屋が顔を見ると自分の兄(粉屋孫右衛門)だった。女郎狂いになった弟を、武士に変装してようすをうかがいにやってきたのだった。女郎の本心を知ると、紙屋はこれまでだまされてきたことを、兄の前で悔いた。女を見限って店を去り、金輪際女とは会わないことを誓った。肌身離さずもっていた、女からもらった恋文を破棄し、兄はその姿を見て安堵した。女のほうからも同じようにしたが、そのなかに一通の女文字で書かれた手紙を目にとめている。女はすぐに取り戻したが、手紙の末尾に紙屋の妻の名前が読めた。
亡き父親の妹にあたる叔母が、心配して訪ねてくる。旦那は仕事もせずに布団にもぐり込んでいたが、妻に起こされてあわてて帳場に座った。兄も同行してきたが、夫婦はいとこ同士の結婚だったので、みんなが血筋の一族だった。叔母が聞きつけたのは、女郎が身請けされたといううわさだった。兄は弟があのとき心を改めたと思っていたので驚き、真実を確かめについてきていた。
男はきっぱりと否定して、あの時以来自分はずっと家にいると言い、妻に同意を求めている。妻もそれを伝えて、本人が一筆したためることで、叔母も納得した。妻は夫がこれからは家業に精を出すと疑わず、寝屋をともにしようと、背を向けて寝ている夫の顔を見ると、泣きはらし涙で顔を歪ませていた。別れた女にまだ未練があることを知って愕然としている。
女とは自分以外の誰からも身請けはされないと誓いあっていた。男が去ったことを聞きつけた恋敵が、金に任せて迫り、それを承諾したのだと裏切りを責めたが、妻は女が死ぬかもしれないと言い出す。もし死ねば自分のせいだともいう。男は意味がわからずに問い返すと、打ち明けない約束だと言いながら、女にあてた手紙のことを夫に告白した。
その手紙の頼みを聞き遂げて、女は一芝居を打って、身を引いたようにみせかけたのだった。男はそれを真に受けたのである。妻や子どものことを思えば、身を引くのが一番だというのは、常識的な判断だっただろう。妻は自分の手紙で女が死んでしまえばと思うと、夫に身請けできるよう、夫に内緒で貯めていた小判と、それでも足りない分は持参した衣類を用意して、金に替えようとしている。身請けしてしまうと自分はどうなるのか、女中になるしかないことになるが、そこまでは考えが及ばなかった。
コミカルにさえ見えるやり取りを打ち消すように、妻の父親(五左衛門)が現れて娘の衣類が持ち出され、すでに箪笥から多くがなくなってしまっていることも確認して、男を見捨てて娘を連れ帰ってしまう。母親とはちがい、亭主との血のつながりはなく、非情だった。妻は夫に引きとめてくれと懇願するが、夫にはもはやその力は残されていなかった。魂の抜け殻のようになって、運命に導かれて、女を探しあて心中をとげる道行が続いていく。
寺の墓場で二人は最後の契りを結び、男は女を刺殺したあと、神社の鳥居で首を吊った。神仏に頼ったということだが、黒子が首吊りに手を貸している。それは見えないはずの人間の影の姿である。ふたりの思いは通じ、橋のたもとでひとところに集められたが、むしろの上で死体となって並ばされながらも、反対方向を向いて横たわっている。決してひとつになることはなかったのである。
筋立ては近松劇の重厚なドラマツルギーに頼っているが、現代風にアレンジされた演出が、映画としてのみどころになっている。大阪が舞台だが、岩国の錦帯橋や倉敷の美観地区が出てくるのも楽しい。最初と最後で太鼓橋を渡りながら、人物が消えたり現れたりするのが印象的だ。時が止まったように、行き来する人々が停止した中を、主人公がひとり歩いていく孤独感も、みごとに表現されていた。
室内のセットは、床に一面に散りばめられた書が斬新で、篠田桃紅によるものだろうが、監督とのプライベートなつながりを暗示する。冒頭では人形浄瑠璃の舞台裏を映し出して、監督との打ち合わせの電話が挿入されているのが興味を引く。運命を導くように、黒子が脇役から自立してひとり歩きしていくように見せるのも暗示的で、粟津潔の美術と武満徹の音楽とあわせて前衛精神に裏打ちされ、効果的に目に映る。しかしなによりも考えさせられたのは、女郎と妻を岩下志麻が二役をしていることだった。男はしょせん同じ女に惚れていたのだと見ると、人生の悲哀を感じ取るものとなるだろう。
第551回 2024年8月27日
今井正監督作品、住井すゑ原作、高宮克弥、大川淳主演、モスクワ国際映画祭ソ連映画人同盟賞受賞。明治天皇が亡くなり、涙する時代の話である。エッタと呼ばれた部落民に対する差別を、少年の成長とともにたどり、感動的なドラマに仕上がっている。村の名(小森)を言えばその地域によって被差別民だとわかる。父親は名誉の戦死をとげ、妻(畑中ふで)と二人の息子が、祖母(ぬい)とともに農業を営んでいる。地主に土地を借りての貧困の生活だったが、小学校では仲間から差別を受けていた。兄(誠太郎)は言い返して取っ組み合いのけんかになり傷を負わせたが、相手は地主の子どもだった。
男性教師からけんかの理由を問われるが、黙っていることから、水の入ったバケツを持たされて廊下に立たされた。強情に何も言わないのを見兼ねて、新任の女性教師(柏木はつ)が間に入って取りなそうとするが、受け入れず意地を張り続けた。偏見は教師にも根強かった。弟(孝二)が帰宅して報告すると、祖母が駆けつけて、校長に談判をしている。同じ人間なのに、これまで差別を受けてきた事実を訴えるが、校長はまともな対応はせずに逃げ腰だった。
女性教師がこの地域の子どもに欠席が多いことから、家庭訪問を試みるが、家族が総出でワラジづくりをしていたり、学校よりも家の仕事の手伝いのほうが先だという、親の考えが根強く、子どもたちもそれを鵜呑みにしていた。先の兄弟のいる家でも、兄は早く義務教育を終えて、大阪に出て働きたかった。都会では差別はないと思ってのことだったが、いざ就職活動をすると、部落出身であるというだけで、門戸は閉ざされていた。
弟はそれに対して学校での勉強をおろそかにせず、将来の進路を聞かれると、教師になると答えていた。兵隊たちが演習でやってきたとき、母親がさつまいもを蒸して持っていき、喜ばれたとき問われると、兄は兵隊、弟は教師だと答え、父親が戦死したことも伝えられた。何度となく「破戒」という小説は読んだかという問いが出てくる。部落出身の主人公が教師になるバイブルでもあり、希望を与えるものとなった。
弟は成績優秀で、クラスの裕福な女子生徒(杉本まちえ)との間に、淡い恋心がめばえる。薄暗い校庭での整列のときに、娘が手を握ってきたことで、夢見心地になっている。その後、クラスの仲間から冷やかされもするが、露骨な身分差別に我慢がならず、兄と同じように暴力をふるってしまい、男性教師の怒りを買い、不等な扱いをされる。娘からも呼び出され、手を握った理由を、部落民は夜になると手がヘビのように冷たくなると聞いたので、それを確かめたかったのだと言った。
非情な現実に打ちのめされ、進学志望も断念してしまう。修学旅行では男性教師は進学組を集めて楽しげに騒いでいる。その姿を冷ややかな目で見ていた、落ちこぼれの生徒たちに、弟は混じっていた。宿に着くと落ちこぼれたちは、成績優秀な弟との部屋の同室を希望したが、寝静まると出ていってしまった。部落民と相部屋になるのを嫌がったのである。男性教師は部屋に戻れと一度は命じたが、それ以上に強くは言わなかった。
兄が大阪に就職したあと、弟はさまざまな事件に遭遇する。温かい目で見守ってくれていた、女性教師には力はなく、弟を励ましながら、結婚をするからだろうか、学校を去ることを告げている。同じく身分差別を受けていた仲のよい友人(永井武)が、放火を疑われ、そのことで気を病んで死んでしまう。父親(藤作)は飲んだくれで、息子を学校にも行かせずに、仕事を手伝わせていたが、死なれると泣き崩れて、火事の被害が及んだ村人たちに、息子は死んで詫びたのだと、泣きながら訴えていた。
この男と祖母とは古くからのなじみで、部落民に誇りをもち、団結をめざしていた。土地を借りて農業をしたいと、祖母に相談を持ち込んでいる。飲んだくれだったので、米の水のほうが欲しいのだろうとからかって、農業はそんなに楽なものではないと答えていた。
地主に頼みにいくが、部落民には土地を貸さず、お前たちは家長が名誉の戦死をとげているので特別だと返された。祖母には校長に示したような勢いはなかった。だらしない怠け者の男と、働き者で気丈な女との対比が際立っている。演じたのは伊藤雄之助と北林谷栄だったが、息のあった絶妙な間をもつセリフのやり取りがみごとだ。
兄弟の母親は、祖母にとっては嫁だったが、父親が戦死をしたことから、再婚話がもちあがっていた。祖母も本人も断わるが、ひつこくやってくる男がいた。地主のもとにいた男だったが、長山藍子の演じた魅力的な未亡人をねらっていたのである。暴挙に出たところを、助けたのは飲んだくれの男だった。男を追いかけて暴力に及ぶ。その後警察に捕まったことを聞きつけると、祖母と嫁は不安を隠せず、地道な生き方を望んでいる。
男はどこから工面したのか、高性能の消火ポンプを買って、村に寄付をしている。村の対抗での競技会が開かれ、消火ポンプで、棒の先端に掲げられたくす玉を落とすのを競うものだった。部落民の住む村がみごとに優勝するが、認められず優勝旗の取り合いが起こり、燃やされてしまった。部落民が優勝することは、許されないことだったのである。弟は最後まで優勝旗を、取られまいとして抱きしめていたが、消防団員が無理矢理に取り上げていった。
その後、突然カラー映画に変わるので驚かされるが、太陽が昇るのをカメラがとらえた瞬間だった。数分間のカラーの場面が続いて、太陽の輝きを映し出して映画は終わった。希望の光を意味するのだろう。最後のテロップは、身分差別撤廃の運動が全国に拡大して、水平社に結集したという歴史的事実を記録していた。
第552回 2024年8月28日
今井正監督作品、住井すゑ原作、丸山持久、山本聡主演。学校を出て就職をしてからの兄弟の歩みを追う。ここでも部落出身へ差別の重圧は、学校の頃と変わらずに押し寄せてくる。兄(畑中誠太郎)は大阪で米問屋に勤めていた。部落民であることをわかっていて、店の主人の理解のもとで7年の月日が経っていた。
弟(畑中孝二)も兄を追って大阪に出て、工場に勤めている。まじめに働いても同僚が、面と向かっては言わないが、部落民といっしょに働くことを嫌い、上司を通じて解雇を言い渡される。兄は弟と会って理解のある、得難い主人(安井徳三郎)に恵まれた幸運を喜んだ。兄に徴兵の通知がくると、主人はこれまでの労を感謝して、衣服を新調してやり、半年先の入隊まで引き続き、店の番頭として勤務を続けるよう頼んでいる。折から米不足で全国に米騒動が広がる頃だった。
米騒動で押しかける民衆に、兄は適切に対処した。店の女将は部落民が米騒動の先頭に立っているのだといううわさを、兄に向かって言う。それは略奪ではなかった。大阪にまで米騒動が及ぶのを心配して、店の米を蔵に隠してはいた。しかしこの店では高騰した米を今までの値段で売ってやっている。それは主人の思想によるものだろうが、兄がその考えを支えていた。
兵役で兄の抜ける穴埋めに、娘に早急に婿をとって、男手を増やす必要があった。叔父がやってきて話をすすめると、娘には好きな相手がいるとのことだった。おじはその相手を知りたがったが、それが兄のことだとわかると驚き、母親に伝えると、露骨に血が穢れることを怯えている。父親とは異なり、母親の偏見は激しかった。娘と引き離そうとして兄は解雇させられる。
実家に戻ると祖母(畑中ぬい)が、恩のある店のお嬢さんに手を出したことで、兄をいさめている。母親(畑中ふで)は相手の不理解を挙げて、祖母にはじめて逆らって、息子を擁護した。間に立って兄の就職を世話した母親の親戚すじに、事情を報告しようと、二人して家を出ているときに、兄を追って娘が逃げてきた。頭を隠していたが、見ると髪の毛を短く切られて、人目につけないようにされていた。祖母もその仕打ちに驚くが、追いかけておじが巡査をともなってやってくる。いっしょに戻らないと、兄は犯罪者として警察に捕まるのだと脅して、泣きすがる娘を無理矢理に連れ帰ってしまった。
祖母は兄がいなかったことでホッとしたが、弟は祖母とともにそれを目撃して、自分のことと重ね合わせていた。弟はかつて手痛い屈辱を味あわされた、初恋の相手(杉本まちえ)に出会っていた。手を握られ愛のあかしと思ったのが、部落民の手がヘビのように冷たいことを確かめるためだったという、残酷極まりない経験が、深く心を傷つけていた。弟は娘が川の対岸を歩いているのを、ぼんやりと夢のように見ているが、渡るのに橋がなかった。身分差別の深い溝が悪夢となってはばんでいたのである。回顧するように第一部の映像が挿入されるが、橋のない川が、現実なのか夢なのかの区別がつかない。
娘は教師になっていた。夜汽車でかつての女性教師(柏木はつ)と偶然出会い、ふたりの事情を知っていたことから、会って詫びることを勧めている。娘は部落民の生徒をかかえていた。書店で「破戒」があるのかと店員に尋ねているのを、店の奥にいた弟が目撃していたが、名乗りをあげることができないでいた。
弟は高等小学校まで出たが、教師の道は断念して、工員勤めをしていたときに、工場の入口に露店で靴の修理をしている旧知の部落民(永井藤作)に出会った。相変わらず飲んだくれだったが、息子が火事を起こして村を去り、大阪で靴屋をしていた。出世をしたのかと思ったが、店を構えているわけではなかった。二人の娘がいたが、親に売り飛ばされ、姉は「おやま」として身売りをしていた。飛田や松島という大阪の遊郭の名が聞こえている。彼女には同じ部落民の男との恋愛が続いていたが、男は胸を病んでおり、ふたりして心中をしてしまった。
ヤクザがやってきて、まだ借金が残っていると親にねじ込んでいる。死んだのだからと突き放すがすごまれ、妹が代わりをすると言い出す。大阪に出ていきたかったのだろう。弟は工場を解雇されると、部落民に職業選択の自由はなく、この男のもとで靴屋の手伝いをはじめていた。恩師の仲立ちでふたりは再会したが、身分差別は依然としてつきまとっていた。弟が不在のときに娘からの手紙が届いていた。母と祖母はこれ以上深入りすることは、兄と同じように悲劇を生むと判断して、開封することなく、手紙を火にくべてしまった。
兄は従軍をして、部落民であることからシベリアに送られて、4年がたっている。弟は同じ部落民の寺の息子の社会主義思想に同調して、行動をともにし、村に押し寄せてくる差別と戦っている。息子は寺を継がず、東京に出て画家になっていたが、進歩思想を身につけて村に戻ってきた。部落の少年が西洋料理店で食い逃げをするのを、金を払ってやって助けている。住職の父は帰宅を喜んだが、警察に追われる身であることを悲しんだ。
米騒動での犯罪を問われた、飲んだくれの靴屋は、警察が来て連行されていった。取り返そうと村人は、竹やりをもって立ち上がったが、男たちが不在になった村に、雇われたヤクザ者がやってきて、家を壊して焼き討ちにしてしまった。指名手配になっていた寺の息子は、デモの先頭に立って、指導力を発揮していたが、警察がやってきたときに身を隠し、地下に潜った。
人種差別について、何も解決したわけではない。これからも続く運動を暗示して、ひとまず映画としては幕を閉じたという印象だ。差別の実態を伝えることで、知る必要のない偏見まで知ってしまったということもあるだろう。映画化と上映にあたって、暴力的な反対運動も展開したようであるが、完成にまで導いた制作チームに、敬意と感謝を込めて鑑賞した。