美術時評 2025年
by Masaaki Kambara
by Masaaki Kambara
2024年10月26日~2025年02月24日
2025/1/7
ドイツのグラフィックデザインの歴史を、四つの分野に分けてたどっていく。常設展ではバウハウスに学んだ地元のグラフィックデザイナーである、今竹七郎の作品が並べられていて、見比べてみようという企画である。
イラストレーションと写真という対立がある。文字が加わり、タイポグラフィという文字が絵画化されて扱われる。そんな分野をまたがって、自在に浮遊したポスター作家として、ハンス・ヒルマンHans Hillmannの仕事をおもしろく見た。ことに映画のポスターがいい。映画の内容をよく把握しての暗示力に驚嘆する。ヒルマンのアーカイブはネット上でも公開されていて、ポスター作品の全容を確認できる。
ドイツで上映されたので、なじみのないタイトルもあったが、映画を知らなくても、ポスター一枚で十分に伝わるものなのだと感心した。スチール写真を用いれば、名場面を何枚か散りばめればすむ。それをしないで手書きのイラストと、文字によって一瞬のイメージに落とし込む。一枚のイラストは静止画ではなくて、動画なのだと思う。
ゴダールの「ウィークエンド」(1)という映画がある。文字が揺れてイラストとなっている。写真も絵もない、文字だけなのに映画の内容をみごとにとらえている。よく見ると文字列の中央がぼやけているが、印刷ミスではない。映画を見た者にとっては、全容を思い出すことになるし、見ていない者には、見たいという気にさせるポスターなのだ。ポスターが広告である限りは、映画に誘うだけで役目は終わるが、それが芸術として継承されていくメカニズムに目を向けると、時代を超えた優れたアーティストの存在が見えてくる。ヒルマンもそんなひとりだった。
日本映画では「七人の侍」(2)と「羅生門」(3)が目を引いた。剣の捌きは日本人の目からすると不自然に映るが、色違いのシルエットが重ねられて、横たわる黒と白抜きになった横顔をはじめ、7人の姿を見つけ出そうと、頭を捻りながら、ポスターに釘付けになった。羅生門は4つの画面に分割され、手のひらと腕と顔と足が描き出される。口づけをする男女の表情の差を、映画内容にあわせて、ミステリアスに読み取ることになる。
フランス映画の「ピエールとポール」(4)もいい。無数の人が歩く姿を真上からとらえて、集合して顔を浮かび上がらせている。ロベールブレッソンの「スリ」(5)は大写しになった指先だけのシンプルなものだ。すべては服地から出された指の動きに尽きるということを伝えている。
映画のポスターだけではない。キール・ウィークのポスター(6)も、デザイナーが毎年代わって制作されている。白い三角形はヨットの帆を暗示するものだが、ヒルマンのデザインした1964年のものには驚いてしまった。文字はKieler Wocheというドイツ語と日付が下部に一列に書かれているだけである。年によれば鋭い三角形が連なると、ノコギリの歯のように見えてしまっているものもある。いかに三角を隠し込むかが勝負である。ヒルマンのものには三角はなく、三つの水色の四角が、少しずらして並べることでできる、余白の三角形によってこのセーリング週間が暗示されている。すきまにできる一本の白線が水平線に見立てられているのもあざやかだ。
キール・ウィークは、キールというドイツの都市で、例年開催されるフェスティバルである。このほかにカッセルで開かれる現代美術の芸術祭「ドクメンタ」のポスターも並んでいた。これについては思い出がある。1977年の旅行でカッセルを訪れたときに、開催中で足を運んだことがあった。この町にある有名なレンブラントの絵画を見るのが目的で、ついでに足を伸ばしたのだった。ヴィデオアートが多かったこと、学生ふうのヒッピーがたむろしていた記憶が残る。ポスターがあちこちに貼られていたが、印象には残っていない。今回再会したが地味なもので、確かにこれでは目立たないなと思った。そのほかでは1972年のミュンヘン・オリンピックのデザインもおもしろく見た。ことに無数のピクトグラムに、民族を超えて共通する視覚言語を模索する意志の力を感じた。
1960年代を中心にした西ドイツのデザインが企画内容だったが、これと隣り合わせの東ドイツではどんなポスターが制作されていたのかが気になる。同時代を生きた同じ民族が、イデオロギーのちがいでどんな造形意志を示したのかを、対比してみたいと思った。社会主義圏でもポスターは、プロパガンダとして重要なメディアで、歴史に残る名作も知られている。
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2024年12月21日~2025年03月09日
2025/1/8
7人の作家が地震の30年後を思い起こし表現する。はじまりは井上友一郎で、植木鉢が落ちて窓が割れている。野球のボールが転がっている(1)。1995年1月17日(火)の神戸新聞の朝刊(上図)が、展示されている。Windows95のパッケージも展示されている。これによって窓が割れている意味がわかった。
朝刊第一面の気象欄を見ると、兵庫県南部の予報として、「西の風一時やや強く、曇時々雨所によりにわか雪か雨、波高1メートル」とある。5時46分の地震発生には間にあわない朝刊は、実際には届かなかったところも多かったはずだ。何の意味もない新聞なのに考えさせられるものとなった。事件の起こった次の日の新聞は報道だが、事件当日の新聞は芸術であり、アーティストにとっては平穏のなかに、惨事の霊感を宿したものなのかもしれない。
次の部屋の米田知子も、「惨事の霊感」という点では共通点をもつ。ただ一日前の新聞と異なるのは、何十年も先の「過去の記憶」に向けてのインスピレーションという点だろう。更地になった宅地を映し出した一枚がある(2)。よく見かける光景だ。不動産屋の提供する写真情報にしか見えないかもしれない。タイトルにつけられた地名を見て、意味を読み取ることになる。タイトルを見ないで、読み取れるかを試す、霊能者テストでもあり、残念ながら私は失格だ。雑草が生えていると、売れ残りの人気のない物件としか見えないのだ。もちろん草木の生えない土地よりも、良質だということもわかる。
カーテンが引かれている窓を写した一枚には「教室 II ―遺体仮安置所をへて、震災資料室として使われていた」というタイトルがつけられていた(3)。これについては、私も反応を示した。個人的体験にしか過ぎないが、母が死んだとき火葬場で待っていたときの部屋にかかっていたカーテンを思い出した。奇妙なカーテンだったので、死と共有する記憶としてよみがえったのだろう。問題はカーテンや窓にその記憶が定着しているかという点にある。
薬が飛び散った一枚を見てやっと、地震の記憶が再現された(4)。毎日一個ずつ飲むカプセルが飛び散っている、ただごとではない光景である。もちろん効かない薬に患者が腹を立てて、投げ捨てた一瞬であってもいい。薬がその人にとって生命線であるとすれば、それがここで断ち切れたということを暗示する威力を示す。誰にも納得のいく暗示力なのだろう。
森山未來と梅田哲也による共同制作「艀はしけ」は、30分の映像作品に、館内をめぐるツアーを30分加えての限定鑑賞で、何が起こるのかを期待させようとするものだった。岸を離れて艀が移動するのを、体感させる狙いがあったのだろう。日ごろ目にしない美術館の作業室で、クレーンが上下する音を、誘導されるがままに、無言のうちに聞き取ることになった。やなぎみわや束芋も、これまでの創作活動の延長上で、震災30年というテーマに沿っての展示だったようだ。
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1月31日(金)13:30〜
2025/1/31
夏目漱石の代表作の映画化。ひとりの女性をめぐる、男ふたりの友情の破綻を描く。主人公(野淵)の裏切りによって、友(梶)は自殺をしてしまった。いつまでも罪悪感が尾を引いて、最後には自身も命を絶ってしまう。裏切りは友と自分しか知らないことから、罪意識は深まっていった。友は知っていながらも何も言わずに、死をもって抗議したことで、自戒はさらにそれに輪をかけた。もちろん夏目漱石に通底しているのは同じなのだろうが、坊ちゃんや吾輩は猫であるとは違って、はじめて読んだとき、切ない気持ちになったのを思い出す。
はじまりは13年間連れ添った夫婦の日常会話からだった。夫は毎月欠かさず墓参りをしている。妻が同行しようとしても、拒絶してひとりで行くことにしていた。死者は主人公の友人だったが、そのこだわりの理由が、やがて解き明かされていく。
主人公と友とのふたりしか知らないものならば、ふたりが死んでしまえば、話は伝わらない。これを私たちに伝えるためにひとりの学生(日置)が登場する。ふたりの出会いは、沖に向かって泳ぎ出した主人公が溺れるのを、この学生が助けたことからはじまる。
学生は先生と呼んでいるが、主人公は教師ではない。その後たびたび自宅にやってきて、妻の料理にあずかるようにもなっていく。妻は人付き合いのない夫に、若くて親しい友人ができたと喜んでいる。学生は卒業論文の相談にもやってきた。学識があるのになぜ勤めをしないのか、不思議がっている。
裕福なので気の向いた仕事しかしないせいもあったが、自分は人に教えられる人間ではないと、自身を卑下している。学生は先生が溺れたのではなくて、溺れようとしたのではないかと思いはじめた。妻にも語らなかったことを学生に話しはじめ、遺書めいた手紙も彼に残した。学生は先生の死を前にして、守れなかったことを悔いて泣き崩れている。妻はただ悲しいだけで、夫の不可解な死を理解していなかった。
親友の絆は学生時代にさかのぼる。ともに帝大生だったが、二人が旅行をして、岬の絶壁から海を見下ろしたとき、友は帽子を落としている。大学生のステータスを失ったように見えるし、飛び込むのではないかという不安もいだかせる。友は貧困家庭に育ち、神経衰弱だった。主人公は友を愛し、下宿(戸田山家)に連れてきて、一緒に住むようになった。賄いつきの下宿で、母親と娘が暮らしていた。主人公は大きな部屋に、友は隣りの小さな部屋に落ち着いた。
友はぶっきらぼうで愛想が悪く、それに対して主人公は気さくに母子に接した。母親は主人公を好み、二人の部屋に、お茶菓子を持ってゆくときも、友の部屋を経由して、主人公の部屋に続くが、明らかにその接しかたがちがってみえる。娘は逆に友に興味をもったようで、穴の空いた上着を見つけると、縫ってやっている。貧乏なのを見透かされたようで、友は嫌がってそれを取り戻す。母親は娘に男の部屋に長居をしないよう、たしなめている。
主人公は学校からの帰り道で娘に出会った。ふと見るとうしろに友がいた。別のときには友と会って、後ろに娘がいた。娘は気まずそうな表情を浮かべていた。二人の仲を疑ったが、ある日友は告白する。娘に恋をしたようだと、苦しい胸のうちを語っていた。卒業を前にした日、主人公は母親に折り入って相談があると切り出した。娘を嫁にもらえないかと言ったのである。聞いていた私たちも耳を疑ったが、この衝撃的なひとことが、この映画の最も重要なポイントとなった。友に対する優越感と悪意が顔を見せたのである。友情と取り違えていたものだった。
母親は帝大生からの告白に喜んだ。父親もいない娘には、この上もない申し出だと思っている。娘のこころも確かめなければと主人公は不安を語るが、母親は意にも介していなかった。ここで私たちは「こころ」とは何なのだろうと考えることになる。そんな時代だったのである。喜びを隠せない母親は、娘が嫁にいくのが決まったと告げる。相手の名を言うと友は知らなかったと答えた。親友にも言っていなかったのかと、母親は不思議がるが、あとで驚かそうとしてか、照れてのことだったのだと、気楽に対している。
主人公はその日から苦悩がはじまっていく。友はおめでとうと言った。次の日、友は自殺した。下宿家では神経衰弱によるものだと解していた。友の父親がやってきて、ずいぶんとお世話になったと主人公に頭を下げた。約束どおり主人公は、娘と結婚をすることになった。妻の姿を見るたびに、友の死を思い浮かべることになる。明るかった性格が結婚後、暗く陰鬱になったのを、妻は自分が至らなかったからかと振り返っている。人間嫌いは自身の愚かさを知った、自戒の念からはじまった。ひとことで言えばエゴイズムということになる。
13年間耐え続けたのだと思う。やっとこころを解放できたのは、信頼に足る学生が現れたことによる。救世主のように思えたのだろう。こころのうちを長い手紙に託したのは、学生の父親が危篤で郷里に戻っていたときだった。父親の死を看取ったときに、手紙が届いた。苦しい胸のうちを語っていた。
駆けつけたとき家の前には、忌中という貼り紙がしてあった。妻を前にして学生は手紙のことは胸にしまって、何も言わないでいた。学生と私たち読者だけが、この苦悶を考えることになっていく。明治が終わり新しい時代が来るころの話である。明治天皇が没したとき、乃木大将が自決したという報道が、大きく取り上げられていた。友の死に殉じようとするのは、それを友情と確信したいがためだったのだろう。世の中には人の死にも動ぜず、平気で生きている厚顔無恥も多い。
2024.11.23(土・祝) 〜 2025.2.2(日)
2025/1/31
有吉佐和子に「鬼怒川」という小説がある。川の名はおどろおどろしいが、村の名は絹村である。シルクロード(絹の道)という透明感のある夢幻な響きに誘われて、日本人も西をめざしたのだと思う。かつてシルクロードブームがあった。火をつけたのはNHKの取材班だった。シルクロードから発掘された人類の足跡を通して、悠久のロマンへと誘う番組で、キタローの音楽がそれを後押ししていた。
久しく忘れていたシルクロードを懐かしく思い出しながら鑑賞した。大きく引き伸ばされた風景写真を背景にしながら、掘り出された遺品が並べられている。敦煌の莫高窟を筆頭に、その頃覚えた麦積山という名もある。お経の断簡(1)が並んでいる。インドにはじまった仏教が漢字なのに驚かされるが、それを日本人が読めるということにさらに驚かされる。もちろん意味はわからないが、見慣れた文字なのだ。韓国人には忘れて久しいものかもしれないし、現代の中国で出会う漢字よりも親しみのあるものだ。
辺境に向かうと読めない文字(2)となるが、残された筆跡(ひっせき)に筆跡(ふであと)を見つけるとほっとする。漢字の通じない、はるかかなたにやってきたのだなと思う。それがアラビア文字に変わり、ギリシア文字を経て、アルファベットに至ると、またなじみのある文字になっていくという、現代日本人の不思議にも出会うことになる。シルクロードの終着点はローマだった。
龍に集約するようなモンスター(3)が掘り出されていて、その断片が展示されている。聖獣なのかもしれないが、おどろおどろしいものだ。絹の道は鬼怒の道でもあったのである。鬼を怒らせるような魑魅魍魎の棲む難所を経ないと、シルクの楽園にはたどり着かないことを教えてくれる。川の流れのように一筋の道は続いていく。
NHKはその後、海のシルクロードという、無茶な矛盾する名称の番組を展開させていった。確かに日本に達するには海上ルートを考えるのが必然だっただろう。仏教伝来も、鑑真の人気を支えているのも、それらがシルクロードの延長線上にあるからにちがいない。
大規模な敦煌壁画の模写が並んでいたが、これを絵画として伝えようとする現代中国の貢献に脱帽する。にもかかわらず、そのあいだにはさまれて展示された、剥落された壁の断片(4)に目が向かう。そこに天使のような、あるいは天女のような顔立ちを認めると、洞窟壁画のもつ、魑魅魍魎のすむ闇に垣間みた光明に思えて、感慨深いものがあった。
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2025年1月2日(木)~ 2月2日(日)
2025/2/1
蛇を見つけて遊ぶ、ゲーム感覚での美術鑑賞を提言している(1)。干支にまつわる作品をチョイスして、クイズにならないかと考えるのも、学芸員の仕事だ。正月を過ぎて年始に博物館を訪れて、その年の干支にまとわるイメージを発掘する。年賀状を書いていた頃は、今年は誰の絵を使おうかと頭を絞った。レパートリーの広さを競うものだった。
別の特集では、刀のコレクションに目を向けていた。名刀が並んでいる。若い女性が熱心にメモをとりながら鑑賞するのを、興味深くながめていた。刀の鑑賞がブームになっている。仏像めぐりと同じように、その現象をおもしろく受け止めている。日本刀に何を見いだすのか。書がおもしろいと思いはじめたのと並行して、私も遅ればせながら刀剣に目が向きはじめている。
切っ先に目が向かうと、腹の当たりがちくちくと痛む感じがする。決して手にとってみたいとは思わないのは、茶碗の鑑賞とは異なるものだ。ひたすら水平に広がる波形を見ている(2)。荒波を思わせるように小刻みに揺れる短刀がある。ゆったりとした静かな波形には、不気味なまでの平安を感じさせるものもある。波ではなく山並みに見えるものもある。夜明け前なのか、日没前なのかは、見ている個人の印象によるのだろうが、明らかに山のアウトラインが明るく照り返している。茶碗のまだらをみて、景色と呼ぶのと同じように、刀剣にも景色があるのだとわかる。そして名前もまたもっている。
常設展示では、野々村仁清のやきものを久しぶりにまとまって見ることができた(3)。尾形乾山の皿がいい。何気なく国宝や重要文化財と書いてある名品に出くわす至福は、東京でも京都でも、冬枯れた日に国立博物館を訪れるときの楽しみである。秋に開催される特別展で、国宝を見ても半分は人の頭を見てまわっていることを思うと、毎年一月二日からはじまる京都での干支展を、私は密かな狙い目にしている。それでも例年になく外人客が多いのは、京都ではここに限らずのことでもあった。
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2025年4月3日~5月18日
明石市立文化博物館
2025/4/14
行動範囲の狭くなった日々、一番近くにある美術館で、久しぶりにちひろに再会した。今回はちひろの絵から、自然との関わりを描いた作品を、選び出して構成している。何気なく子どもたちの背景に描かれているとしか思っていなかったものが、主役に踊り出して見えてくる。
そこには旧来の美術鑑賞の概念を乗り越えようとする意図が感じ取れる。体験型の展示もなされている。ピエゾグラフという印刷技術を用いて、デリケートな原画を展示することなく、触感までも再現しており、文化財保存にも貢献している。
それはキャプションの表示を見なければ、原画だと思ってしまうものだ。オリジナリティとは何かという問題を考える材料にもなる。もちろん水彩画や墨絵や鉛筆による原画も数多く展示されている。しかし完璧に修復がなされていれば、オリジナルといえども、複製に見えてしまうものだろう。シワや亀裂があるほうがありがたみがあるというオリジナル神話は、印刷美術の領域でははじめから崩壊していたのかもしれない。
絵本にしてもポスターにしても、原画展と称してありがたがってきた美術展を反省してみる必要がありそうだ。印刷美術にとっては、印刷物がオリジナルであって、原画は下絵のことなのだ。従来の価値観は逆転しているという点がおもしろい。
にもかかわらず、美術展という確立した価値観では、原画はできるだけ良い状態で保存すべきだと考えていたりもするので、矛盾するところではある。印刷物として普及すればするほど、原画の値打ちも高まってしまうという難問を抱え込むことになるのだ。
いわさきちひろには9000点を超える原画が残されている。ちひろ美術館の館長もつとめた黒柳徹子作の「窓ぎわのトットちゃん」の大ヒットを支えたのはちひろの挿絵だったようだが、ちひろ自身はトットちゃんを知らない。9000点を記憶している息子の松本猛さんが、文章に対応する絵を、見つけ出して振り当てたのだという。トットちゃんの出版は1981年、ちひろの死は1974年だった。
残された原画群は、子どもの表情の微妙な変化を満載した、辞書のようなものとして機能したということだ。子どもの表情だけではなく、自然の微妙な四季の変化にも対応していることを、今回の展覧会は教えてくれたようである。何に目を向けるかに秘密はある。
この画家の本質を、弱きものの中にある強さだと語られたことがあった。それは子どもにも、野生の草花にも昆虫にも対応する。1979年のいわさきちひろ展には、「野の花のこころ」という展覧会名が付けられた。野花(やか)というのは彼女が会うことのできなかった孫娘の名であると、かつて聞いたことがある。
2025年4月13日(日) – 10月13日(月)
大阪・夢洲 (ゆめしま)
2025/4/21
55年前に未成年で体験したときの、1970年大阪万博とは確かにちがっていた。それでも生涯で二度も大阪にやってきたという幸運は、喜ぶべきことなのだろう。とんでもない人混みだったという感慨は今回も変わらない。
待ち時間がもったいないので、内部見学はあきらめて、ひたすら外観をながめてまわる。入ってみると大したことはなかったという、見かけ倒しもあるだろう。見かけだけを見て回るとその落胆はなく、いろんなことがわかってくる。55年前はアメリカとソ連が張り合っていた。今はアメリカと中国(1)だろうか。パビリオンの規模にそれは反映している。
小規模国が一つ屋根に集合したCOMMONSというパビリオンがいくつか散らばっている(2)。国際見本市の様相を呈して物産展を思わせるなか、ウクライナの部屋で、「売り物ではない」not for saleという表示に出くわし、衝撃を受ける。
購買競争に明け暮れる平和に向けての、痛烈な批判に思えてくる。もちろんロシアからの参加はない。覇を競う大層な仕かけが多いなか、何気ない植物標本に心を奪われた(3)。環境にやさしい未来とは、こちらのほうなのだという主張が聞こえてくる。
何軒かがのきを連ねる長屋もある。前評判の聞こえた列強に比べると、並ばずに入れるのがいい。貴賓室のような休憩室に座っているとほっとする(4)。大げさな木造建築の雄を誇る、「大屋根リング」(5)を歩きながら、円環運動の意味を考えてみる。どこにも行かない足踏み運動にも似て、ここにとどまろうとするモニュメントでしかないという評価が、価値を低下させる。会期の終了後、壊すか残すかの議論がある。
エッフェル塔や太陽の塔は万博が残したモニュメントだった。リングは同じようにモニュメントになるだろうか。環状線や山手線のように内と外を隔てているが、それ自体は境界や壁という意味しかないのかもしれない。湾曲する美観はローマ時代の競技場や水道橋を見ているようなテクノロジーの勝利を示すものだが、基本的には「道」でしかない。
それも円環運動であるので、どこかに行くという、目的をもつものでもない。道に費用をかけるというのは、ローマ時代の価値観を踏襲したものだ。夕日や海を背景に浮かび上がると、主役に躍り出るが、実際には夕日や海を盛り立てる脇役でしかないものだ(6)。木組が美しい。内部構造を隠すのではなくてさらけ出す。
堂々として神々の時代の日本へと回帰する美観を呈している。肉体美と言ってもよいものだろうか。高みへと上り詰める出雲大社や伊勢神宮の、神々のいた頃の美意識を反映するように見える。木の文化を象徴するとすれば、未来に向けて永久に残すのではなく、人の心に宿し記憶のなかで、息づかせるほうがふさわしいとも思える。炎となって消え去るファイヤーストームの美学を持ち出すこともできるだろう。
リングから見るパビリオンの外観は、さまざまに変容する。韓国館に巨大な白い壁面がある(7)。スクリーンになっていて、これまで見たことのないような巨大な映像が、高画質で映し出されている。その規模は本家アメリカ(8)を上まわっているように見える。
商魂が見せ物ではなく、いつのまにか売り物になってしまっているパビリオンもある。安いツアー旅行でみやげもの屋ばかりを連れまわされるのに似ている。かつて買うまで出してもらえないような恐怖を味わったことがあった。
文化財を期待したものには、物足りなかったかもしれない。国宝を集めて奈良と京都と大阪の博物館に展示するようだ。前回は会場内に万博美術館というのがあった。今は移転して国立国際美術館になってしまったが、世界の名品が集まった。さらには世界の民族資料が集められた。これは移転せずに「みんぱく」となって残っている。太陽の塔は民族学博物館の巨大な野外展示品のようなものだろう。
現代アートには目が向いたようで、ところどころにオブジェが散らばっている(9)。古代の美術品は赤い糸で結ばれて、パロディにされてしまったようだ(10)。戸谷成雄かと思わせる、黒い原木の森には目が開かれた(11)。ヴァーチャルリアルな立体映像にうんざりした者には、手ごたえに残る記憶となった(12)。
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2025年03月29日~05月25日
2025/4/22
ときおり忘れていた頃にクレー展がやってくる。懐かしい思いで鑑賞するのだが、かつて見たものとの再会というのでもなく、はじめて出会うような新鮮さがクレーにはある。多作な画家であり、小品でも完成度が高いため、まだまだ紹介されていない作品があるのだと思ってしまう。
抽象絵画に分類されるが、ぼんやりしているのにくっきりとしているという、不思議な感覚に襲われる画家である。輪郭線ははっきりとしているが、それを取り巻いて微妙なグラデーションが、リズミカルに律動を奏でている。
同世代でクレーに引かれた者は多い。美術にめざめた頃にクレー展があって、衝撃を受けた。大阪にいたので天王寺のの大阪市立美術館でのことだ。高校生だったのでどれだけ理解できたかは疑問だが、美術が決して理解の問題ではないことも体感した。
神戸大学の大学院で美術研究を続けていた頃、研究仲間のひとりが、クレー研究にスイスに行き、そのまま帰ってこなかった。今では私と同じく70歳を超えている。心配していたがそのうちクレーセンターの研究員の肩書きで登場し、今回の展覧会図録にも論文を寄稿していた。
奥田修さんというが、クレー研究では第一人者である。ご自分でも制作をされるが、私の手もとにも結婚祝いにもらったオブジェが一点ある。久しく会っていないが、元気で何よりと思いながら、長い年月を思い起こした。
時代を超える美術-若冲からウォーホル、リヒターへ-
2025/3/30(日)~6/15(日)
2025/6/3
はじめてくる美術館には、こころときめくものがある。県立美術館の誕生した最後の県だという。できたばかりの初々しさに、これまで幾度となく接してきた。開館記念展に感銘を受けると、その後も引き続いて訪れるようになる。近年の経験では、大分県立美術館が開館したときに、開館展以来、遠路はるばる何度も訪問したことがあった。
鳥取の場合も柿落としの第一回展にやってきて、美術にとって必須の、リアルというキーワードを再考することになった。西洋と日本の美術史を並行しながら、この課題を見つめていく。西洋のなじみの作家に抱き合わせて、日本の作家を並べる。さらに鳥取県の作家を組み込むことで、県外から来た部外者にアピールする。
こんな作家がいたのだという驚きは、スタンダードな名列に、飽き飽きとしてきた私たちを刺激するものだ。前田寛治や辻晉堂という作家名が頻繁に出てくると、鳥取県ゆかりの作家だとわかるが、具体的な作品が目の前に並ばないと、実感はできないものだ。
前田寛治をまとめて見てみたいと思うと、この美術館での次回展を期待することになる。辻晉堂は黒光りをした木彫が10点ほど並んでいて感銘を受けた。しばらく前に全国規模の大がかりな展覧会があり、見落としていたのを残念に思う。
写真では塩谷定好と植田正治が並ぶ。やがてまとまった回顧展に結晶するだろう。写真展は島根県立美術館が先行しているように見えるが、出身県を優先するならば、追いつけ追い越せと、ライバル心が湧いてくるにちがいない。植田正治は記念館があるので、これまでの蓄積があるだろうから、大規模な展覧会が期待できる。
話題は3億円のアンディ・ウォーホルの購入でさらったので、その経済効果でどこまで取り戻せるかということになる(1)。そんな経済のことよりも、美術品の不可思議な価値基準を考えることが重要だろう。少なくともコピーはオリジナルよりも高価だ。これまでの美術神話が逆転されている。著名な海外の現代作家が、何でもない日常品を描いたり、そっくりに作ったりする。
さらに今回はそれに輪をかけて、もう一段割り込んで、日本の現代作家(森村泰昌)が複製を作って、美術館玄関に並べていた(2)。ミュージアムショップの前なので売り物にさえ見える。著名作家なのでウォーホルとまではいかなくても値打ちものであり、二重構造になっている現代美術の、ランキングやマーケットの事情を知ることになる。
もちろんそれぞれは本歌取りのパロディであって、洗剤が入った何でもない化粧箱(Burillo5点)が、美術品となったという驚きがここでは重要だ。考えてみれば何でもない鮭の切り身が絵になることと同じことなのかもしれない。問題は何が描かれているのかと言うことではなく、いかにリアルに描かれているかにある。小箱にしてクッキーをいくつか入れたブリロが、売店に並んでいた(3)。思わずおみやげにいくつか買ってみようとさせる、商魂を感じさせるものだった。
幕開けのパネルにゼウクシスのブドウと、パラシウスのカーテンの話を引用して、作品展示がはじまったが、ブドウの絵もカーテンの絵も今は残っていない。ウォーホルの場合も、コカコーラやキャンベルスープとともにブリロが美術品となったという神話が重要で、2000年後には古代ギリシアの絵画のように、話だけが伝えられているような気がする。
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佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2025 公開リハーサル
2025/7/16
リヒャルト・ワーグナー作曲、原題はDer fliegende Holländer、1842年。
大変な迫力である。マイクを使わずにこんなに大きな声が出ることにまずは驚かされる。きわめて初歩的なオペラの感想だが、ナマの舞台を見るのは滅多にない。バイロイト音楽祭は毎年欠かさず、FM放送で聞いているが、オペラは音楽ではない。
ワーグナーの出発点にあたる28歳での作曲のようだ。亡霊のようにさまようオランダ人船長の救済物語である。生きさせられ続けるという拷問から逃れるすべは、7年おきに認められている上陸にある。このとき魂を救ってくれる娘との出会いが期待されるのだが、何度も失敗しているようだ。
この伝説を少女の頃から信じ、自分こそがその救済主なのだと思い込んでいる娘がいた。ノルウェーの船長(ダラント)の娘(ゼンタ)だったが、そんな夢をいだきながらも、現実には恋人(エリック)がいた。それが海とは対極にある、狩人であるというのがおもしろい。
この生身の男との板挟みのなかで、ドラマは出来上がっている。簡単に言えば、夢見る女を引き止めようとする、哀れな失恋男の話ともなるが、オペラは格調高く推移していく。
なぜ「さまよえるオランダ人」なのかというと、たぶん17世紀のオランダの繁栄が下敷としてあるのだろう。この時代、新興国のオランダは世界の海に乗り出す、海洋国として名を馳せた。徳川時代の日本にまでもやってきていた。そのときの船の名がリーフデ号だったということも、私たちは知っている。
故国を離れて難破して命を落としたオランダ人も多かったはずだ。藻屑の泡となった魂は、故国への帰還を切望していたにちがいない。それがこんな伝説を生んだのだろう。戦地で命を落とした兵士にも等しく、望郷の思いは普遍的なテーマとなるものだ。
この亡霊のようなオランダ人船長が、幽霊船に金銀財宝を山のように積んでいたということから、オランダ人に出会った船長が、自分の娘と結婚をさせて長者になろうと企てる。財宝など関係ないと言いながら、底辺にある欲望が見え隠れする演出が見どころとなる。
何度も繰り返し上演されている演目であるので、解釈はさまざまだ。手もとにあるビデオソフトを確認すると、4本が見つかった。1989年フィンランドのサヴォンナリンナ芸術祭でのもの、2003年ウィーンでの小澤征爾指揮によるものと、2005年ブリュッセルでのもの、2019年フィレンツェでのものである。続けて見比べると違いが見えてきて興味深い。
オランダ人と船長の娘がはじめて顔を合わせる場面がある。このとき長い沈黙が続くが、それをどう読み取らせるかが、演出家の解釈である。ともに美男美女である場合は、見ている私たちは二人が結ばれることを期待するが、そうではない場合、話は複雑になる。何だこんな人だったのかという失望は必ずある。父親は金に目がくらみ、必要以上に娘は美人であると吹聴していた。
オランダ人の頭が禿げていたり、顔を血だらけにした演出に出会うと、身を引いてしまうが、それでもこの人を救おうということになれば、娘の使命感は高まって見える。恋敵の狩人に、目を見張るような美男を起用すれば、話はさらに複雑になるだろう。最終的には娘の誠は、命を捧げてまでもオランダ人を救うということになるのだが、この辺の倫理観はキリスト教徒ではない日本人とは、無縁のことかもしれない。
今回の演出では、はじまりの序曲の間に、少女時代の娘を登場させて、パントマイムによって視覚効果を高めていた。乳母がさまよえるオランダ人の伝説を伝えると、それ以来少女は夢中になった。自分がこの悲しい男を救うのだという、少女時代からの夢は実現した。
それによって悲劇的末路をたどったとみれば、恋敵の狩人にとっては不可解な、女性不信を加速するものとなっただろう。ビジュアルを通しては、不要なことを考えてしまうことを思うと、どんな美女なのだろうと思い浮かべながら、 FM放送で歌声だけを聴いているのが、音楽鑑賞としてはいいものかもしれない。70歳を過ぎてからオペラの舞台に目覚めるというのも困ったことではあるが、さまよえる魂にとって、心に残る貴重な体験となった。
2025年6月14日[土] - 8月17日[日]
兵庫県立美術館
2025/8/6
もちろん二人展として、個別の作風を楽しんでいいのだが、この展覧会のねらいはオムニバス映画ではなくて、ミステリーなのだ。しかけられたトリックにワクワクとしながらの鑑賞となった。
パリとニューヨークという美術の拠点が入れ替わる時代を背景とした、二人の日本人画家の出会いとすれ違いのサスペンスである。百年前の1925年に二人はパリで会った。美術展であるので両者の作品を並べることで見えてくる、客観的事実が重要だ。それは物的証拠でもあるが、解釈は多様であり、読み取る側の思い入れが加わると、興味は倍増する。
おもしろいのは日本人画家なのに、日本では不在だという点だ。パリとニューヨークで顔を合わせるが、それもどの程度の付き合いであったかは、推測の域を脱してはいない。つまり証言者が極めて少ないということだ。そして日本でも同じ時刻に同じ場所に居合わせたという、状況証拠も浮上する。
新発見の色紙(1)では、3人が寄せ書きをしていて、牛がテーマにされている。ひとりは日本画家で、伝統に即してみごとな技法を披露する。その上に国吉康雄の牛がかぶさる。動きのある型破りの描写である。牛なのに馬のように飛び跳ねようとしている。さらにその上に藤田嗣治がかぶせるが、ぼんやりと「牛めし」の文字が読み取れるだけで絵は見えない。
描いていないのではなくて、消えてしまったとのことなのだが、この肩透かしの対しかたが、さらに型破りの作為のようにも見えなくはない。時間がたてば消えるような、特殊なペンを用いていたのである。藤田は国吉よりも3歳年長だったが、パリに渡って時代の寵児になっていた。
国吉は16歳で単身アメリカに渡るが、絵画の才能をニューヨークで開花させる。美術の中心であるパリに学ばなければと憧れるが、無名の画家にとって、藤田の名はまぶしすぎたのだろう。対等につきあいのできる存在ではなかったはずだ。
アメリカは国力を増して、やがてニューヨークはパリを凌駕して、美術の中心になっていく。国吉の評価もアメリカのリベラリズムを背景にして、高まっていった。
時代の皮肉は立場を逆転させる。藤田が国吉を頼ることになる。かつてパリで相手にされていなかったなら、根に持っていただろうし、親切にされていたなら、恩義に報いようとしたかもしれない。あるいはそんな世俗的な感情は超越したものだったか。
もちろん二人は敗戦国の国民だった点では、相憐れむ共感も生まれただろう。藤田は戦争に加担して日本に戻り、戦後、故国を追われて、ニューヨークを経由してパリに戻る。国吉は敗戦国民であるにもかかわらず、アメリカを代表する画家に成長していた。
エコール・ド・パリがかつて藤田を支えたように、戦後のアメリカの自由主義は国吉を味方につけて、世界に羽ばたいたように見える。明暗のコントラストが逆転している点が、ドラマチックでありスリリングでもある。
藤田の傷心を救ったとも見えるが、それはともに異国の地で自身のアイデンティティを築き上げようとする、同志が共感しあった姿だったように思う。思想上の隔たりは、素直には分かち合うことができなかったという点が興味深い。
国吉晩年の白塗りの人物像には、藤田へのオマージュが読み取れるし、藤田のデッサンでの人物像の、黒くかすれるような肌のぼかしは、国吉に特徴をなす翳りを持った、疲れの表情(2)に似せようとしている。藤田の媚を売る少女の流し目と、国吉のあどけないのにしたたかな、幼児の豊満(3)と比較してもおもしろい。
藤田が分身のように描きこんだ「猫」と、国吉が象徴化させた「馬」(4)とを比較させてもよい。それはペットと家畜ということだが、翳りゆくパリと、躍進するニューヨークの姿でもあって、対比を成していて興味深い。
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2025年7月19日~9月 7日
明石市立文化博物館
2025/8/7
砂が混じった油絵のマチエールがいい。専売特許をなす重厚さが浮かび上がってくるが、その秘密はどこにあるのだろうか。絵本とは結びつかない厚みと重みが誕生する。印刷本をパラパラとめくる軽やかさではなく、何十巻とある百科事典を積み重ねたような、開くのをためらう、重量と安定感が見えてくる。
深海を思わせる闇(1)からはじまり、光の王国(2)へと変貌を遂げる作風には、子どもの誕生が大きく関わっているようにみえる。若い日の苦悩があればこその変身なのだろうが、私たちの目は闇に漂う光の粒のほうに、魅力を感じてしまう。
秘密は下地に敷き詰められた、海の砂にあるのかもしれない。自然は感性の宝庫である。浜辺の砂にはすでに、無限のポエムが内在している。命なき砂の詩情をうたった「一握の砂」には、太古の昔から、あるいは生命の誕生から備わっていた原理がある。
それは原始の洞窟壁画(3)の表面の凹凸に似ている。そこでは私たちの鼓動に、確実に語りかけてくる、目に見えないオーラが発せられているはずだ。油絵はそれを覆い隠す、ねっとりとしたヴェールなのだと思う。戯画化されたモナリザ(4)には、それを探ろうとしたレオナルドの、試行錯誤の跡形が見えていた
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2025年7月3日(木)~9月21日(日)
2025/8/31
写真という分野の特性を見定め、その可能性を開く作品を、具体的に展示することによって、鑑賞の質を高めてくれる試みだった。写真史や写真論にとっては、教科書的なものかもしれないが、初歩的な鑑賞者にとっては魅惑に満ちていた。ことに画家への対抗意識が、無意識のうちに見えてくるのが興味深い。
写真史の草分けの人物に、イポリット・バヤールがいる。成功して富を得たダゲールへの恨みつらみが、一枚の写真に結晶した(1)。それはまさに写真という魔術に由来するものだった。
ダゲールの写した肖像写真でも、被写体となった人物は不気味で、死者のように沈黙に閉ざされている。それを逆手にとって、遊んでみせたのがこの作品だ。今日流に言えば、セルフポートレートとして読み直してもよい。
目をつむった写真家が映し出されている。写真には説明があって、恨みのこもった、死者の肖像なのだという。自分のデスマスクを写真に撮ることはできないが、文章にはそれが可能だったと書かれていく。
写真のもつ虚構性が、まことしやかにマジシャンのように提示されている。手書きの手紙が添えられることで、真実の証明がなされている。トランスフィジカルというタイトルにふさわしい一点だった。
彩色をして額縁に入れて絵画風にしたもの(2)、絵画の構図になぞったもの(3)、写真ならではのぼんやりとした顔立ちを、聖女ヴェロニカに見立てて宗教画にしたもの(4)などをおもしろく見た。
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2025年07月03日~09月28日
2025/8/31
写真家であるが、写真の本質を探ろうとする試みが刺激的で、画家が対象を見つめる人であるとすれば、写真家は一歩引いて、対象を見つめる画家を、見つめる人ということになるだろうか。そのスタンスは、ハスに構えた天邪鬼のように見えるが、肩透かしをくわわすことで攻撃的でもある。
魅力的なのはイタリアという安定した美の伝統を、風土として受け入れていることで、すべてが変奏曲となって、イタリア文化を現代に蘇らせる。ボローニャで写されたシリーズ写真には、モランディのアトリエに残された花瓶や壺が映し出されている。モランディがそれらを見ながら、絵画作品に結晶させたものだ。
モランディの絵画を写さずに、モチーフに使った小道具を写すことで、モランディを超えようとさえしているようだ(1)。もちろん絵画そのものへのオマージュはある。美術館で絵画作品に対する鑑賞者を背後からとらえた写真シリーズがある。
ヴェネツィアのアカデミア美術館で映された一枚では、ヴィーナス像の暗部が、鑑賞者の頭で隠されていて、ポルノグラフィーのような処理がされているのがおもしろい。同じ対応は山岳風景を前にした、何人かの後ろ向きによっても喚起される(2)。
みごとなアルプス風景なのだが、実景であれば、ありふれた光景にすぎない。山岳風意ではなくて山岳写真なのだとわかると、おもしろみが増してくる。写真家は一歩引いただけのことだが、これが写真家のスタンスなのだということを教えてくれる。旅行会社のショーウィンドウを前にした光景だとすれば、ふつうに見かけるものかもしれない。
フラアンジェリコの「受胎告知」の背景を思わせる風景(3)や、エッシャーの影を盛り込んだトリッキーな空間構成(4)に出会うと、この写真家のなかに脈々と続く絵画の系譜を感じ取った。最近見た映画に感化されていたのだろう、雪の中の行軍と思ったが一列の木立だった。
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2025年08月28日~12月07日
2025/8/31
暗い中を手探りで歩くが、スクリーン上に映し出されていたのは大きな顔である(1)。映画監督でもある作者が、写真展として提示したのは、印画紙に定着したイメージではなくて、フィルムに透過された光だった。
静止画だと思いながら見つめていると、ミシンの手が動きはじめるのに驚かされる(2)。動くのはいつも人間だ。ひとりだけの部屋で動くのだから当然だが、これまで私たちは写真を静物画として安心して見ていたのだと気づく。
気配という語がある。息づかいと言ってもいいが、写真には消え去っていたものだ。よく見ると動いている。耳をすませても鼓動は聞こえないが、ときおりドクドクと音がすることがある。写真がはじめて映画になったときの驚嘆はそうしたものだっただろう。
写真展としては珍しい体験だった。目を凝らしてゆっくりと聞き分けないといけなかったのだろうが、追い立てられるようにして、短時間で出てきてしまった。目をつむって水中にいて、呼吸困難になって、一目散に顔を上げたのに似ている。瞬時のことだったのに、恐ろしく長い悪夢となった、静止画が脳裏に定着していた。
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2025年07月02日~11月09日
2025/9/1
最初の展示室にこれまでの仕事が模型でまとめられていて、これがかなりおもしろい。数えると1000ピースもあるようだが、時間をかけて楽しんだ。設計図が並ぶ建築展に比べると、一般の鑑賞者にはありがたい。
すべてが大規模な建築に実現されるわけではないが、建築家の夢のありかがうかがえる。正夢であることもあるが、夢のままで終わってしまったものが多く、悪夢となったものもあり、それらが平等に模型となって、一律化されるところに、この展示の意味がある。
大阪万博の大屋根リングに接して、この建築家に興味をもった。信念を持って無駄遣いをしているなという印象だが、建築家にとっては必須の条件だろう。関西人が安藤忠雄に親しんできたものとは、異なった対しかたを求められているように思う。北海道に生まれ、東北に散らばっている建築に接する機会は、関西人に多くはない。
青森県立美術館ができたとき、それに前後して開館した十和田市現代美術館と、抱き合わせにして旅行計画を立てたことが、何度かあったが実現しないままきている。私にとって東北は、ヨーロッパに出かけるよりも遠かった。魅力があったのは、私たちの世代が共通して刺激を受けて育った、寺山修司や土方巽のせいだったように思う。
展示の出発点は、青森県立美術館(2006)の設計案からである。これはこの展覧会の到達点である「森」という概念のはじまりを暗示する。そして森美術館での現代の展示と語呂合わせをなすものとなる。
青森では第2席となったので、実在する美術館は青木淳の設計によるものだ。それに連動した十和田市現代美術館(2008)でも、候補者として名を連ねたが、西沢立衛に敗れている。
敗北しても粘り強く、次回に備える不屈の精神に、雪に閉ざされた北国の気質が見えるのかもしれない。閉じられた円を開かれた円環に変えるのだという。奇跡は反語のもつ負のパワーによって、支えられている。
発想は何でもないのだと言わんとして、洗濯バサミ(1)やマッチ箱(2)やポテトチップス(3)が並べられている。子どもの頃、おもしろがった将棋の遊びを思い出した。駒を山積みにして、音を立てずにひとつずつわきに寄せていく。うまくしないと山は崩れ去る。
子どもの遊びを実現するのが建築家の仕事だが、そこにはめんどうな力学の計算や、材料の知識や、法律への精通も必要となる。遊び心だけでは人の命は守れない。そこに東京大学工学部建築学科卒という信頼感があるのだろう。丹下健三以下、脈々と続く伝統である。
その意味では超エリートなのだが、負けをいっぱい経験することで、エリートの錯乱からアウトサイダーの視覚の誕生を期待したいと思った。実現しなかった建築史は、最高におもしろい。六本木の「丘」にそびえる未来の「森」(4)を舞台に、壮大な夢を見せてくれた。建設業者が大林組だったなら、さらにおもしろい。
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2025年07月12日~09月15日
2025/9/1
ピクチャレスクと称してはいるが、これまで陶芸の魅力を引き出してきた、先達の仕事を網羅し、その伝統を引き継ぐ若い世代の仕事を紹介している。新人の選定は難しい。
河井寛次郎はやはりいい。ピクチャレスクというよりも量塊をともなって造形的だ。バーナード・リーチからのスタートだったが、絵画からの展開を感じ取りながら、それを全く否定する素材の論理を築き上げた人だったのだとわかる。
ピカソとルオーのやきものが混じるが、画家が立体に興味を示す橋渡しと見ると興味深い。ともにパナソニック美術館のコレクションの一部であり、いつもはワンケースに閉じこもっていたが、今回は拡張されて、展覧会に抱き込まれている。
ルオーの絵が平面を超えて立体化する歩みを、陶芸作品と抱き合わせて考えている。額縁にまで彩色する思考を、陶芸への視線と重ね合わせようとするのを、おもしろく見た。絵の具が土のように盛り上がって、額縁につながっている。
2025年08月23日~11月24日
2025/9/2
言語のちがいによって、文化の優劣を考えさせられることになる、作品群が集められていたように思う。もちろん現代ではまだ英語が支配的だが、インドネシアの映像が、日本語教育に燃やす情熱に接すると、奇妙な感覚に襲われる(1)。
それが優越感に思えるとすれば、気をつけてかからなければならないだろう。子どもたちが初等教育として受け入れていれば、民族支配とみなされるのだろうが、ここでは若者たちが日本語を身につけようとしている。医療現場での対応であったり、ホテルマンのしぐさ(2)であったりと、技術分野での先進性に由来するものだったようだ。
日常のコレオとは、身についた振り付けという意味合いをもったものだ。振りが言語に伴って後づけられていく。さまざまな手の表情を映し出した写真が並んでいる。顔の表情に代わるもので、文字が添えられるが、これが一番難解だ。
顔が信頼のおける、唯一の人類の共有できる財産だと知る(3)(4)。老若男女、民族や肌の色を超えて、笑顔に接するとホッとする。怒りや慟哭にも共感できる。そして支配者はそのことをよく知っていて、弱者をコントロールしてきたのだということも、この展覧会は見せてくれた。
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2025年8月23日(土)- 11月24日(月・振休)
2025/9/2
さまざまな分野に興味を羽ばたかせて、最終的にパフォーマンスに落ち着いたという印象である。ニューヨークという土壌が育て上げた才能と言ってよいのだろうが、おもしろがってくれる客の質が問われるものでもあるため、日本にいても大成しなかったように思える。
ほとんど英語ができないでの渡航から始まったようだが、言語に向ける感性がとてもいい。笑いをとるお笑い芸人のように、客を前にしたパフォーマンスに、才能を認めることができた。
決して笑ってはいけない。淡々とした無表情がいい。能面の様に神秘的ではなく、温かみをもって突き放される。実際のパフォーマンスではなくて、記録となった映像作品(1)と、使用されたセット(2)が展示されている。
酒場のカウンターにアルコール類が置かれている。空き瓶は片付けられようとしている。床に置かれた扇風機が吹く中を、寝そべって一枚一枚のペーパーを、呪文のように唱えながら、飛ばしていく。
意味のあるアクションとは思えないが、壁面にスリットの亀裂ができて、その中に姿を消してしまう。やがて片手だけが壁の別の箇所から出て、時計の長針のように円を描いている。ロマンスという文字が書かれる。順を追ったパフォーマンスなのだが脈絡はない。
予想できる流れはなく、意表をつく意味不明なアクションを、私たちも楽しんでいる。あきれながら立ち去ろうとするが、釘づけになっている。見終わってもう一度セットに戻って、小道具を確かめる。からだごとすっぽりと入って、モップをかけはじめたときに用いた、金属製の丸いゴミ箱を見ながら、これに入っていたのだと確認する。
穴を使ったパフォーマンスもおもしろい(3)。2メートルの丸い深い穴が掘られている。横から見ているので深さはわからない。家具がクレーンで下げられて、穴にすっぽりと入っていく。釣り上げられて、次に本人がロープをつかみながら入っていく。
頭まで入ってしばらくすると、穴にはトランポリンが置かれているようで、飛びながら等間隔を置いて顔を出す。しばらく続けていると、手にはメガホンをもっていて、叫びはじめる。上がってきてまた家具が穴に入っていく。
無意味としか見えない行為が続いていくが、どうなるのか目を離せないという点では、共通したものだ。人間が登場しないものでも、金属棒に上下で力を加えて、耐久実験をしている映像作品があった(4)。
ここでも切り離される時間に法則はなく、私たちは見つめているしかなく、立ち去り難い不思議な磁力に引き付けられているような気がしてくる。実験室での史上初の試みに出会ったような、期待と充実の場が演出されていた。見逃してはならないという、目を皿にして待ち構える緊張感は、無意味であればあるほど、記憶に定着するものだということもわかった。
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2025年9月6日(土)~ 11月24日(月)
2025/9/24
現代に生きる民藝というポイントの展覧会である。柳宗悦、バーナードリーチ、富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎というビッグネームの展覧会は、これまで繰り返し見てきた。今回はそれに加えて、それぞれの血筋を追うことで、裾野をのばそうという試みに見える。
新人というわけではないが、民藝理解のための第二段階となるものだろう。民藝ふうを保ちながら、師匠の様式を受け継ぎ、なおかつ自身の造形を加える。それを作家性と呼ぶなら、民藝が嫌ってきた概念かもしれない。
無銘性という概念は、民藝運動にとって重要だが、無名性とはちがっているような気がする。今回の展覧会で、導入部に並べられたのは、朝鮮半島で生み出された、まさに無名の工人によって製作された器物である。
とはいえ時が経って無名になってしまったということもあるだろう。当時は有名だったが、今に残っていないということもあっていい。風雪に耐えて、作為的な手の跡が消え去り、自然の造形だけが残ったのかもしれない。
リーチを見ながら、荒けずりな造形性は個の表現にちがいないが、デザイン感覚に裏打ちされた、本来は相容れない対極の価値観が同居しているような気がする。リーチの造形の延長上に、ルーシーリーやハンスコパーを置くことで、民藝のくくりを広げようとしているようにも見える。彼らの安定の悪いうつわは、民藝への反逆のようにみえる。
どう見ても民藝とは似ても似つかないものが持ち出されているという印象だが、血の系譜を考えると、同じ血筋なのだと主張することはできる。親子なのにこんなに違うものかという驚きは、日常生活では茶飯事あることだ。
親を乗り越えようとして、子が対極の美を提唱することがある。それも親のスタイルを意識してのことだとすると、無関係で生み出されたものではないことになる。そして両者の対立は3代目に受け継がれて、解決の糸口が見つけ出される。
こうした継承のあり方が理想だが、何の疑問もなく親のスタイルに追随したり、ただの逆恨みに過ぎない場合には、発展は見込めない。今回は8名の作家に絞られて、紹介されていた。私たちがそれぞれの作品を、民藝の文脈で見直すことは重要だが、それぞれの作家に民藝運動の評価を、短くてもいいので、ことばで語ってもらうことが必要だった気がする。
ポスターに選ばれた黒い「土瓶」(駒井正人 2020年 )は、現代の民藝にふさわしいもののように見える。昔ながらの鉄瓶に見えるとすれば、土に根差した民芸品そのものであるし、しゃれたデザイン感覚は、現代の感性にアピールしようとしている。
もしこれが真っ白であったなら、ちがった見え方がしていただろう。土の匂いのする野暮ったさと図太さが、民藝をイメージづけてきた。にもかかわらず原点となった朝鮮半島のやきものは、汚れの混じった白い肌を持ったもので、素朴なかたちを特徴としている。
自然にできたおおらかさと言ってもいいが、そこに施された紋様は、消え入りそうな華麗な草花であり、この組み合わせが私たちの心に響いてくる。言ってみれば形は縄文なのに、紋様は弥生なのである。
縄文と弥生を対極の美意識として見てきた歴史がある。弥生土器は縄文のもつ荒くれた造形性を否定して、デザインのもつ日常性を対抗させてみたように目に映る。しかしそれが同じ日本の土壌から生まれた同質のものだと見れば、すでに縄文の中に、弥生の美が内包されていたとも言える。
民藝を一つの美意識ではなくて、民族の血の中に眠る二つの感覚を通して見直して見ると、視野はひらけてくる。ここで選ばれた8人の現代作家は、民藝という血によって結びついているのだとすれば、変容の底辺で支えているものがあるはずだ。
民藝を宗教だと考えればわかりやすいかもしれない。創始者である柳宗悦が残した膨大なことばかある。それをバイブルとして、製作が受け継がれていく。柳は美術家ではないので、実製作を行う者にとっては実現不可能な、ときには反発もいだくものもあるはずだ。
それも含めて聖典を鵜呑みするのではなくて、創作の礎にしてきた系譜があり、そうした血によって継承されてきた歴史に道すじをつけようとしている。プロローグは、朝鮮半島で生まれたやきものだったが、それに対してエピローグで挙げたのは、柳宗悦の息子のひとり、柳宗理の名だった。さすがにプロダクトデザインまでは、展示されなかったが、この企画者が民藝の展開として、そこまで考えようとしていたことがよくわかる。
血を強調することは、ときとして道を誤ることがある。歌舞伎や落語が血によって受け継がれてきただけではないことからもわかる。陶芸の世界もこれに似て、開祖から十五代以上続くのを競い合ってもいる。
民藝を横文字にして、インターナショナルなものにする意味はそこにある。リーチがイギリスに戻って展開したリーチポタリーの紹介が、新鮮に目に映った。肩を張らずに日常に埋没する必要がありそうだ。民芸ではなくて民藝だと、漢字にこだわっているうちは、まだまだほど遠い気がする。