テオ・アンゲロプロス
「映画の教室」by Masaaki Kambara
「映画の教室」by Masaaki Kambara
第926回 2025年12月20日
テオ・アンゲロプロス監督・脚本、トニーノ・グエッラ、タナシス・ヴァルティノス脚本、原題はTaxidi sta Kithira、マノス・カトラキス、マリー・クロノプロス、ドラ・ヴォラナキ、ジュリオ・ブロージ出演、カンヌ国際映画祭脚本賞・国際批評家連盟賞受賞、140分。
ギリシアを舞台にして、父親(スピロ)の突然の帰宅によって引き起こされる、動揺と騒動を描く。父親は革命をめざし戦ったが、挫折してロシアに逃れた。32年の月日がたってギリシアに戻ってきた。
ロシア船籍の船による帰国だった。船にはウクライナの文字が見える。息子(アレクサンドロス)と娘(ヴーラ)が出迎えている。息子は映画監督で、仕事での活躍が紹介されている。娘は冷ややかに対するが、息子は父親の映画を企画するほどに好意的だ。
百人ちかい年配の男たちが集まっていて、一人ずつ順番に、私だよというセリフを繰り返している。オーディション風景なのだと予想できるが、その後に起こる父親の帰宅を暗示する。花売りの老人に出会うと、父親の面影を認めて追いかけていく。
港まで来て見失うが、そこには花売りとそっくりな、老いた父親が下船して待っていた。顔をあわせると、キスはしないのかと要求されて、2人の子どもはあわててあいさつにかえた。帰ると母親(カテリーナ)が待ち受けていて、感慨深いはずなのに、そっけなくもみえる。
家には家族や友人が集まっていたが、父親は長年の不在からか、他人行儀なようだ。部屋を閉めて妻と二人になったあと、父親は来たときの格好に戻って、家を出ていってしまった。息子は追いかけて、母親と何かあったのかと問いかけている。
父親が向かったのは、これまでも利用したことのあるホテルだった。息子は多くは語らず、明日の約束だけをして別れた。翌日車で向かったのは、かつて暮らしていた村だった。
父親は帰郷の思いを深めてながめている。住居も残っていて、旧友(パナヨティス)も顔を見せる。革命をめざした仲間で、その後敵対する関係になってしまった者もいた。ギリシアを捨てて逃げた男を、良くは思わない村人も多く、本人の気持ちとは裏腹に、出ていけという声も聞こえた。
父親が逃亡したために、母親が代わりに捕まり、大変な思いをしながら子供たちを育ててきたのだという、叱責の声もあげられた。父親はここにとどまろうとするが、もはや国籍はギリシアにはなく、死者として抹消されてしまっていた。
住み着くと言い張っていた父親が、いなくなったといって大騒ぎをすると、警察が動員されて捜索が行われる。所有地内にあった小屋が、火をつけられて燃やされた直後に、父親は姿を消していた。
旧友も加わり探しはじめるが、鳥をまねて鳴らす口笛にあわせて、返事をする鳥の鳴き声が聞こえたことから、放置された家屋に潜んでいることがわかった。母親が向かうと姿を現した。逃げるとすぐに隠れてしまうのは、昔のままだと見透かされている。
警察は息子に父親を逃亡させないよう脅しをかけて、迷惑そうにして去っていった。反抗的態度に警察は、父親を国外追放にしようとする。弁護士をつけて対抗しようとするが、時間的に余裕はなかった。
父親はとどまり、息子たちは戻ろうとして母親に声をかけると、母親は私はここに残ると言った。息子は仕方なく二人を残してきた。警察は父親に強制退去を迫ってくる。ロシア船に乗せようとして強制的に連れ出すが、船は出てしまったあとだった。
母親と引き離しボートに乗せて船を追いかけ、ロシア人を乗せたいとアナウンスするが、船長は本人の意志を確かめなければ許可できないと答えた。仕方なく連れ帰り、今度は国境外の国際的中間点として、浮かべたブイに放り出してしまう。
父親は荷物を持ったままブイに浮かび、雨が降ると傘を差した姿で放置された。折から労働者を祝う会が大々的に開かれ、国外追放される老人が話題にされ、妻が舞台に呼び出されて、インタビューを受け、ひとこと思いを訴えた。
妻はいっしょにいたいと繰り返すと、聞き遂げられた。さらにはいっしょに行きたいとさえ言うと、息子も驚くことになる。32年の不在のあいだに、父親はロシアに3人の子どもを残していた。
にもかかわらず母親のロシアについて行くという決断が、ここでのポイントなのだろう。今頃になってどんなツラを引っ提げて帰ってきたのだという、妻の怒りを感じ取って父親はためらいを示したはずだ。しかしその怒りには喜びがこもっていたのである。
母親は父親に寄り添って、ブイに浮かぶ姿が写されて映画は終わる。このワンショットはいつまでも心に残るものだ。明け方は近く、次の日のロシア船に乗せられることになるのだろう。
夫婦の絆について、大いなるアイロニーを感じさせる一作であった。映画タイトルを伝説上、愛の成就する島として知られる「シテール島への船出」とした意図を読み取らなければならない。フランス語名で知られるが、もちろんギリシアに実在する島の名である。
第927回 2025年12月21日
テオ・アンゲロプロス監督・脚本、ギリシャ · フランス · イタリア合作映画、ディミトラス・ノラス、トニーノ・グエッラ脚本、原題はO Melissokomos、マルチェロ・マストロヤンニ主演、ナディア・ムルージ、セルジュ・レジアニ共演、122分。
映画冒頭での展開がとにかくおもしろい。人間関係が謎めいていて、隠された真実を探ろうとするが、手がかりは多くない。無口な主人公(スピロ)の数少ないことばと表情を読み取りながら、推理していくおもしろさを味わうことになった。
主人公ははじめ何者なのかがわからない。先生という呼びかけが聞こえ、やってきた客とのやり取りから、教育関係の仕事かと思われたが、蜂蜜を集めて旅をする初老の男だった。古いが門構えのある家に住んでいて、娘の結婚式の日から映画ははじまる。多くの客を招いてお披露目をしている。
新郎は軍人のようで軍服を着ている。結婚後はクレタ島への赴任が決まっていた。新婦は部屋に小鳥が入ってきたのを見つけると、執拗に追っていく。飛び去ってしまったようで、小鳥は消えてしまう。小鳥は写されないままで、何かを意味させていたのだろうが、思わせぶりで象徴的だ。
弟がいて大学受験を前にしている。集合写真を撮るというが、主人公である父親の姿が見えない。娘を手放すのが悲しいからか、ひとり感慨にふけっているように見える。写真を撮るときも正面を見ないで娘の顔をながめている。
母親(アンナ)はトレイに乗せた食器を、2階から降りる階段でひっくり返して割ってしまった。父親が目の前にいてそれを拾うのを手伝っている。これものちの暗示を含むものなのだろう。
父親はその後も姿を消して、客が帰ったあとに戻ってくる。玄関で新郎新婦、妻と息子が待っていて、どこに行っていたのか探していたと言っている。車が止まっていて旅立つようだ。娘を父親が抱きかかえていて、絆の強さをうかがわせる。
息子はタクシーを探してくると言い、新婚二人の車に便乗して出ていった。残された老夫婦の会話が気にかかる。これからどうするのかと妻に問うと、息子の受験があるのでアテネに行くと言い、そのあとこの家は売り払うとも言った。
息子がタクシーに乗って戻ってきたとき、妻は乗ったが自分は乗らなかった。別れを告げて車が去ったあとには、トランクが残った。それをもって駐車場に止めてあったトラックに乗り込む。荷台には人がかかえる大きさの箱が満載されている。
のちの場面になるが、蜂蜜を集めるのに蜂の入った箱を、一定の場所に並べる。箱を開いて網に無数の蜂がいるのを確認しているので、私たちもその仕掛けを理解することになる。風が吹いて箱の蓋が開いてしまうときには、あわてて重しの石を乗せに走っていた。
自宅をあとにしてトラックが向かった先には、仲間たちが待っていた。ひとりは結婚の祝いに出られなかったことを詫びている。蜂蜜づくりを生業としており、春のはじまる時期に、蜂蜜集めの旅に出ていた。年齢を重ねて、毎年のように仲間の数が減ってくるのを嘆いている。昨年は10人いたが、今年は半数になっている。5台ほどのトラックが連なって走っていく。
出発地にヒッチハイクの少女がいて、どこでもいいから乗せていってくれと、声をかけてきた。これから退屈な蜂蜜集めの話になるのかと思ったが、この謎めいた少女の登場によって、俄然おもしろくなっていく。そっけなく次に止まるところまでと答えて乗せてやる。給油所に来て放り出すと、車道にとどまっている。
いつまでもいるので、まだいるのかと言って、腹が減っているのかと聞くと着いてきた。そのあとも警戒心がなく、常宿のホテルにまで着いてくる。ツインのベッドに勝手に潜り込んでしまう。
朝になって食料を買ってくると、眠っていた娘は起き出してきて、勝手に食べている。タバコを買ってくるので金を貸してくれと言って男のポケットに手を突っ込んで、紙幣を取り出した。
帰ってきたとき幼なじみに偶然出会ったと言って、見知らぬ男を連れてくる。止まるところがないので一晩泊めてやってくれと頼む。夜になってライトを消してしばらくすると、隣のベッドでゴソゴソとしだし、娘の喘ぎ声が聞こえるに至る。
主人公は部屋を飛び出して、向かえのカフェに行き、朝になって男が出ていった頃に戻っていく。宿代を3人分請求されている。勝手にさせたまま腹立ちもしないのは、理解しがたいものだ。
トラブルはできるだけ避けたいという防衛本能なのだろうか。野望を失ってしまったのちの、無気力と受け止めることができるかもしれない。娘が肢体を見せつけて、主人公に誘いをかけても関心を示さないでいた。
娘はやがて姿を消してしまうがその後、町で若い男と連れ立っているのを見かける。急ぎ足で逃げると追いかけてきて、探していたのだと言う。娘は先に主人公の日程表を見ていて、時間と場所の予想をつけていた。
二人は行動をともにすることになる。主人公が実の娘を訪ねたときには、トラックで待っていた。長女で親の言うことを聞かないことから家出をしていた。結婚をして夫婦でガソリンスタンドを経営している。
父親はかつての無理解を詫びにやってきたのだった。長女も打ち解けているようだったが、トラックで待っていた娘が、外は冷えると言って入ってくる。夫がその姿を見て、不思議な顔をしている。そこで中断してその場を去ることになる。娘はトラックには戻らず、バスに乗りこんでいた。
フェリーでの移動のとき、ひっそりとしたデッキで主人公が、急に娘に迫って覆いかぶさっていく。驚いた娘は拒絶するが、こんなのは嫌だということばを繰り返した。やがて二人は自然な流れで結ばれることになる。
長期入院をしている旧友を訪ねることから、主人公の経歴が知られる。大学時代の仲間で、ともに進歩的な活動をしていた。3人が集まりひとりは資産家になっていた。海辺に出ると、資産家はいつのまにか素っ裸になって海に泳ぎ出した。コートを着る時期であり、病人は寒さに震えている。
主人公は教師をしていたが、やめて家業を継いで蜂の旅人になったのだった。若き日の夢が挫折していた。無気力の要因はここにあったのだろう。美人の女子大生がいて、みんなして狙っていたが、主人公の妻になったことも明かされた。
主人公は妻を訪ねて、連れ戻しにきたのだと言って、過去へと誘い抱き合うに至る。息子ももうすぐ帰ってくると言い、妻が3人分の食事を用意しはじめると、主人公は逃げるように去ってしまう。
場面が切り替わり、蜂箱の脇に寝そべっていたところが映し出されるので、主人公の夢見た願望だったことがわかる。取り返しのつかない、引き返すことのできない決意をしてしまったのだった。
娘との旅は、思い出の劇場を訪ねる中でも、違和感となって受け止められる。劇場に一泊させてくれと旧知の仲間に頼むと、妻も会いたいだろうからと自宅に誘う。このとき娘が連れとして出てくることで、空気が変わる。舞台上で娘は裸体になって、主人公と抱擁をして、ライトが当たって脚光を浴びている。
娘は飛び立たせてくれと言う。それは女王蜂になるために、働き蜂に課された任務だった。プロローグとして、誰に語っているのかはわからないが、はじまりに先立って女王蜂の話がされていた。
娘は去っていった。主人公は茫然として、並んだ蜂箱を一つひとつ叩き壊していく。無数の蜂が飛び交って、主人公を襲ってくる。顔を覆うマスクも手離していた。大写しになった手に群がりはじめると、やがて動いていた指は止まってしまった。蜂の生態を人の生涯と比較することで、感慨深い物語となった。
随所に盛り込まれる、意表を突いたできごとは、ショック療法とも言えるこの監督の特徴だろう。花嫁が急に小鳥を追いかけ、主人公が急に娘に抱きつく。長い暗転が続き、闇の中で男女の交わりを予想させる音だけが聞こえる。
一人にされた娘が、立ち食いの屋台で待っていて酔っ払い、男の手にかじりついて血だらけになるシーンなどは、その最たるものだ。暗示的でいつまても尾を引き、考えさせられることになるが、決して結論には達しないのである。