美術時評  2024/1/8

by Masaaki Kambara

ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家

2023年11月03日~2024年01月08日

広島市現代美術館


2024/1/8

 魅力的な展示空間だった。暗いなかで浮き上がるコップを写真に撮って楽しんだ。なんでもないガラスの食器なのに写真に撮ると、誰にでもすごい名作ができあがる。さらにそれを絵画に描く画家がいると、なんという光の処理なのだと、そのテクニックに驚嘆する。そこで何でもないと思っていた食器に、もう一度目を移すことになる。こんなみごとな写真や絵画になるのだから、この食器のほうにその秘密があるのではないか。大量生産された工業製品などではないと見直してみる。

 このような経験はしばしばある。なんと美しい人なのだろうと、写真や絵画でみて、本人を見てみたいと思う場合を考えてみよう。落胆する場合もあるが、やはりホンモノはすごいという場合もあるだろう。このときの両者の関係はおもしろい。通常はオリジナルとコピーの関係と考えてもいいが、必ずしもオリジナルがよくて、コピーが悪いということにはならないのだということに気づく。

 写真家はなんでもないものでも、美しく写し出せる人のことだ。醜いものでさえも美しく写せるということになれば、それは一種のマジックである。しかし私のような素人が写しても、美しく写せるならどうだろう。カメラがいいから、あるいは被写体が美しいからという答えが返ってくるはずだ。そんなとき繁々とモデルを見直してみると、今までとはちがう目で見始めている。なんでもないと思っていたグラスが、輝きはじめるのはそのときだ。そのまわりを取り巻いている光の存在を知ると言ってもいい。

 ぼんやりと見ているだけでは、光が輝くことはない。ものの表面から少し焦点をずらして、ほこりのようにおおっている空気の層に目を凝らしたとき、一瞬見えるものがある。それはまばたきの間のように短いことなので、定着してはくれない。焦点を結ばないと言ってもいい。写真のフィルターとシャッタースピードが、人の目を超えて、見えないものを見えるようにするのだ。

 展示作品には抽象絵画としかいえないものも混じっていた。粗めの粒子になったような場合は、絵画なのか写真なのか見分けられないものもある。そんな多様な変奏曲を聴きわけたあとで、ふたたびグラスに戻ってみると、見慣れたものに潜む奥深い真理に出会い、幸せな気分になる。人生に得をした満足感を得ることになった。

 工芸作家の語った、なにげないひとことが身に染みる。ガラスは自分たちには熱い液体なのに、見る人たちにとっては冷たい固体なのだという。写真家きどりをしてみた素人を戒めることばでもあった。

ひだまりの絵本画家 柿本幸造展

2023年11月11日~2024年01月14日

ひろしま美術館


2024/01/09

 絵本の展覧会をみることが多くなった。老化による幼児がえりだけではなく、美術館が絵本作家を取り上げる機会が増えたことも一因だ。これによって美術のすそのが広がっていく。それだけではなくて、これまでの美術史の書き換えが進んでいくように思う。今回、柿本幸造という実力のある作家に接することで、私の絵画史は豊かなものになっていった。

 はじまりでの活動の舞台は、子ども向きの雑誌だった。子ども心に深い印象を残したものがある。誰もがどこかでこの絵本画家に出会っている。額縁をもった絵画として、ぎょうぎょうしくたいそうに、展覧会に足を運んでみるのではない。日常生活の一コマで、あるいは学校での日々の学習のカリキュラムで、無名の画家として出会っている。

 生没年は1915-1998だから過去の人だが、現役の作家のように新鮮だ。1954年からの活動なので、多くの世代がどこかでこの人に会っている。今、70歳代の世代には、ここに展示された消防自動車には記憶がある。働く人たちの姿を子ども雑誌や図鑑でみた記憶だ。緻密な作画による鮮明な印象は、この画家の手だったにちがいない。

 代表作の「どうぞのいす」がいい。小学校の教室に並んでいる、かわいい木製のいすが主役で、そこには人や動物だけではなく、いろんなものが、腰をかけている。主人公が擬人化された動物の場合でも、そのまわりを取り囲んでいる背景が、大きく存在感を主張している。ときには人は豆粒のように小さく、目を近づけて探さないと見つからない。

 季節を描き分けたカレンダーもいい。1月から12月までの風物詩で、主役は背景のほうだが、主人公は人間である。名が体をあらわすように、柿色でおおわれた秋の情景が特にいい。軸となるのは、背景をなす寒い、暑い、涼しい、心地よいなどの、変化する自然を見つめる目だ。

 子どもたちの、純真なまなざしと表情が、季節のなかで、なにげなく小さく描きこまれている。それによって、人は自然のなかで生きているのだと、教えてくれる。今となれば、季節感のなくなった現代社会に向けての告発にさえみえる。もちつきやたこあげや運動会や遠足や雪合戦など、年中行事もそのうちに過去の遺物となってしまうのかもしれない。

第30回記念 ウッドワン美術館収蔵名品展 Best of Woodone ~大自然のきらめき、いのちの輝き~

2023年12月09日~2024年02月12日

はつかいち美術ギャラリー


2024/01/10

 額縁をもった堂々とした絵画が存在感を主張するコレクションだった。地場産業で身を立てた経済人が、地域に文化で恩返しをする。廿日市という町が生んだ木と人の交流を、産業に結びつけてウッドワンという企業体をつくり、美術品を集めて公開する。日本画と洋画が区別なく同列に並んでいるのがいい。そこにはジャンルによる対立はなく、一定のルールに従って、コレクションの個性を生み出している。

 広島県であるという必然は、おのずと収集に反映する。県立美術館をなぞらえてみえるのは、個人コレクションといえども、広島県という枠内に収まっているからだろう。公立館と共通して出てくるのは、洋画では南薫造、日本画では児玉希望だが、活躍した地は中央であっても、生誕地という地方の遺伝的要因は根強いものがある。加えて生まれは異なっても、広島で活動した、広島に住んだことがあるなど、郷土ゆかり組が次のグループをなす。

 さらにはコレクターの個人的趣味が加わり、この点で公立館にはない嗜好のもつ、欲望的資質をおもしろく見直すことになる。美人画などはこれがなければ、散逸の憂き目にあう。地域に貢献するなどという高飛車な表明がなければ、コレクションは、ひとつのこだわりを徹底させてもいいだろう。多くのニーズに応えるという公共性が、収集品をぼやけたものにしてしまうことも少なくない。

 コレクターに好みの画家がいて、地域との接点が見出せない場合がある。そのときに割り切って何でもありだと、開き直る方法もあるが、なんとかして接点を探る点に、収集の醍醐味はある。例えば宮島は多くの画家がやってきて描いているが、地域ゆかりの画家ばかりではない。しかし広い意味では、そこにやってきて描いたことで、地域ゆかりの画家になってしまうのだ。広島にきたことがありますかという問いを、物故者もふくめて問いかけてみることから始めればよい。

 そんなことを考えながら、今回のウッドワン美術館のベストコレクションの選出を、おもしろく見ることになった。もちろんそんな駆け引きを抜きにして、おもしろいものは理由なく、よいのであって、広島であろうが、岡山であろうが、関係はないのだ。そうでなければ西洋美術などは、集められなくなってしまう。

 美術館への徒歩での道すがら、整備された町のたたずまいを見ながら、すっかり忘れてしまっていたが、以前に一度ここを訪ねたことがあった。美術品を通して、旅人は廿日市という都市行政に出会うことにもなった。住民でもないのに、隣接の市役所の窓口を、近道にしながら横目で見ていた。次に行く宮島のポスターが貼ってあって、観光案内かと思ったが、読むと参拝者から一律に100円取るという税金の案内だった。

コシノジュンコ 原点から現点

2023年11月23日~2024年01月21日

あべのハルカス美術館


2024/01/21

 神戸での大がかりな展覧会を少し前にみていたので、もういいかと思った。案内にはこれまでで最大規模だと銘打っていたので、あれっと思う。神戸のも規模は大きかったので確認すると、コシノジュンコ展ではなくて、コシノヒロコ展だった。あわてて天王寺まで、最終日に駆け込むことになった。何とも恥ずかしい話である。両者のちがいもわからないのに、見る資格はないと笑われそうだが、服飾を通して人間を考えるというスタンスに、これまで強い関心と期待を抱いてきた。

 衣食住というが、食べることと住むことと同等に、着ることが、自己主張をしている。順番からみると、むしろ欲望の筆頭にあるとも言える。いい料理を食い、いい家に住み、いい服を着る。これらがなくても生きてはいけると思うが、少しでもいいものを味わいたいという欲望が人間にはある。

 ただ展覧会でみるというのは、こうした体感とは明らかに異なっている。ヴァーチャルリアルとしては、衣食住は同等なものであって、視覚体験というかたちで一元化されている。目を満足させることに特化した衣食住は、共通した方向性をたどっている。住まいが西洋文化に影響を受け、どっぷりと浸かり切った末に、日本文化に回帰したのと同じく、服飾でのジャポニスムが叫ばれる。西洋を感じさせる大きなボタンからはじまる原点には、大阪万博(1970)のユニフォームデザインがあった。そこから現点のスタイルまでの軌跡がたどられる。お祭りに反応するという点では共通する感性がある。

 能の持つ高度な精神文化を体感させるのが、大阪のヴァイタリティあふれる庶民文化から誕生したデザイナーであったという点が興味深い。この対極の同居が原動力となる。静と動の統合と言ってもいい。赤と黒を並べて、対極で見せる感性がいい。日本では漆の器の内外に施された背中合わせの美意識であるが、ナポレオン時代のフランスでは、それは軍人と僧侶の服装の色の対比だった。野望にみちた若者が悩む将来の選択肢の対極を暗示する色彩だった。

 最終日だったからか、ご本人も会場に姿をみせられていた。年譜によると大阪府立岸和田高校卒、今年84歳とのこと、コシノヒロコは3歳年上の姉である。単に服飾だけにとどまらず、大がかりな舞台との共演も、展覧会では伝えている。ことに岸和田のだんじりを想起させる和太鼓とのコラボは、エネルギーがひとつとなって、能舞台との対極の美を物語っていた。

船場花嫁物語Ⅱ

2023年12月09日~2024年02月12日

大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」


2024/1/24

 企画展では、船場に住む大阪商人が娘の嫁入り道具として持参させた衣装の数々が展示されている。娘を嫁がせる親の見栄を読み取ることもできるが、子を思う親心としてみると、豊かな人間文化のあかしとして見え出してくる。嫁ぐ先の家の家紋が染め込まれている。戻ってくることのできない決意を感じさせるものだ。

 大阪の文化のかたちを、住まいを通して体感させる博物館である。上記の企画展示だけでなく、常設展ははじめて訪れるものにとって、わくわくするヴァーチャルリアルを体験させてくれるものだった。はじめに10階に上がり、江戸時代の大阪の街並みを展望する。桂米朝のアナウンスが柔らかに心地よく、難波情緒と江戸情緒を伝えている。

 次に一階降りて見下ろしていた街並みを歩いていく。それぞれは商家であり、のれんをくぐって入っていくことができる。駄菓子屋呉服屋薬屋銭湯など、店先に誘われて、ついつい入って行きたくなるしかけをつくっている。裏通りに回ると、長屋の生活がみえる。玄関を開けるといきなり、三畳のたたみに出くわし、布団がたたまれている。生活一切が一目で見える。今で言えばワンルームマンションにあたる。明かり取りの天窓も作られていて、暗くはない。狭いが利便性を追求した、快適生活が思い浮かぶ。入居者のいない空き家もあって、リアリティが増してくる。

 もう一階降りると、明治以降の大阪を生き抜いた女性のすみかが、模型を通して再現されている。長屋でのくらし、近代的な団地生活、戦後の困窮のなかでのバス住宅などを通して、庶民文化の実相がうかがえる。八千草薫のナレーションが、ほのぼのとした語り口で、変動の時代の変遷を教えてくれた。

 街並みにはミニチュアの人の姿が配されていて、これに目をつけ出すとおもしろくなってくる。表情までつけられていて、田中達也の世界を思わせる。模型はたいていは上から眺めているが、視点を下げて道ゆく人の高さで眺めてみる。ちょうど江戸時代を見てきたのと、同じ理屈であり、手にしたスマホで写し出すと、さらにリアリティが加速されてきた。年甲斐もなく子どものようになって、はしゃいでいた。

横尾忠則 ワーイ!★Y字路

2024年01月27日~05月06日

横尾忠則現代美術館


2024/03/02

 Y字路のシリーズをまとめて見ることができた。原点になった西脇市で出発のシリーズが、ミステリアスでパワフルで、完成度も際立っているようにみえる。17点の連作だったようだが、その後さまざまに展開していく経緯を、興味深くみることができた。年輪を感じさせるということだが、その変容を味わうためには、数十年の時間の集積を必要とするものだ。つまり数十年をかけて完成された作品ということになる。

 はじめ暗闇から照り輝く夜景であったY字路が、昼間の光景に、さらには真っ赤に染まるたそがれの風景へと変容する。真夜中のストロボ撮影のような、浮かび上がる無人の静観から、メランコリックにたたずむ男の後ろ姿を配したもの、宝塚歌劇のレビューの幻想も加わる。作家の出身地である兵庫県から宮崎県や宮城県など、各地の実名の登場によって、同一の情景が発見されていく。抽象的概念ではなくて、リアリティのある実景だという点が重要だ。

 イニシャルへのこだわりでみると、Yは作家の姓「横尾」の頭文字である。同じように作家の名「忠則」の頭文字がTであるのは、滝のシリーズに反映しているかもしれない。Y字とともに滝のシリーズも、作家の見つけた重要なモチーフである。そしてそれらは自然が生み出したパワースポットであるという点で共通している。横尾美術館に使われている「Y+T」というマークにも、イニシャルへの、こだわりは認められる。

 さらにYとTとの関係を考えてみる。それらはともに宗教的に重要なしるしだった。ワイシャツとTシャツの違いは、単に襟がなす形の差だけではない。キリストが十字架にかかる姿でもあって、+もまた十字架の形として知られているものだ。Tの十字架が一般的だが、Y字の十字架はフォーククロスと呼ばれる。キリストがはりつけられて重みが加わると、TはYに変貌する。

 Yはキリストの肉体の重みを意味するものとなる。これがY字の秘密なのだ。肉体を持つことの苦痛は、精神だけで生きてはいけない人間存在を考える原点に属する。本来肉体を持たないはずの神が、受肉したのがキリストだとキリスト教では考えた。これはただの理屈にすぎない。そんな理屈を廃しても余りある神秘的な、秘教的と言ってもいい、直感と即物にねざした魅力ある作品群だった。

スーラージュと森田子龍

兵庫県立美術館

2024年03月16日~05月19日


2024/04/16

 伝統的な書の世界が、前衛的な抽象絵画と共鳴しあう姿を実感する良い機会となった。それは東洋と西洋の出会いであり、日本とフランスの外交であり、兵庫県とアヴェロン県との文化交流へと発展した。フランス人が兵庫県を知らないと同じ程度に、日本人はアヴェロン県のことを知らない。森田子龍とピエールスーラージュについては、もっとなじみのない名だっただろう。

 書に興味をもちはじめて間もないが、森田子龍については、ここ数年みる機会を得て、おもしろくなりはじめている。さまざまな見方があるのだろうが、書を見て字を想像する。当たらない場合のほうが多い。絵のタイトルにあたるものだ。抽象絵画の「無題」に比べれば、味わいのあるものとなる。絵を解釈する手がかりである。日本画家が好んでつけるタイトルに似ている。

 「」がいい。言われてみれば確かに蒼だ。しかし蒼くはない。黒いかたまりで、目がふたつ空いているので、顔のようにも見える。倉のうえに屋根がついた家屋の輪郭にも見える。「」もいくつかあった。ともに似ているのは、同じ字なので当然だが、絵としては異なっている。書家自身の名であり、古来より画題としての定番でもある。長い尾があるのは、龍が多様に変容するさまを思わせて興味深い。字からだけでは想像を絶するもので、絵をみていても、龍の文字は思い浮かばない。龍だとわかると、文字の変容を見定めようとして、同時に外形に鱗の跡を読み取ろうともする。

 絵であり字であるというのはおもしろいことだ。アルファベットの民族には理解できない感覚かもしれない。つまり純粋抽象ではないということである。形に意味を見つけないという立場は、美術を文学から独立させることからはじまった、近代絵画史のメインストリームのはてにたどり着いた原理だろう。そこから生まれるものは、素材感への偏重、マチエールの重視ということになるものだ。

 スーラージュの絵はこれまで、黒へのこだわりを東洋の書との関係で、感じ取っていたが、具体的には森田子龍との交友があったということを知った。黒一色だが、余白を廃して画面いっぱいに広がるのは、それが文字ではないからだ。よくみると筆跡や刷毛目が、浮上してくる。つまり形ではなくて、マチエールを見せようとしている。にもかかわらず黒とはいえ、墨ではなく油絵具なのは、このフランス画家が油彩画の自負に根ざしていることを思わせる。

 墨で描かれた小品の抽象絵画があった。興味深く見たが、墨という表示がなければわからなかったかもしれない。同じ黒とはいえ、発色が異なっているはずだが、墨を簡単には使いこなせないという感覚があったとすれば、それが画家としての最低限の礼儀だっただろう。シミやカスレやニジミに、墨蹟の深奥があるのなら、それは書かれた文字の意味を超えている。そこにわきまえと尊敬がある。もちろん学ぶことは必要であり、それによって、自身の限界と可能性を知ることが、さらに重要なものとなる。

アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 THE MEMORIAL

神戸ファッション美術館

2024年04月13日~06月16日


2024/04/17

 吸い込まれそうな空気感のある風景である。青い空に湧き上がる雲の表現は、真似のできない風格を備えている。五島列島出身と聞くと、からだに染みついた記憶なのかと思えてくる。私には一度だけ五島列島の福江島に遊んだ体験がある。家族がまだ若く、夏の夕暮れの戸外でのバーベキュー料理をしながら、眺めた空の雲を思い起こしている。タイムスリップしたように現れた、古いキリスト教会の意外性を断ち切る、空と雲でもあった。またそれは今住んでいる神戸の坂道から見上げた空と雲でもあり、どんな前景にも対応できるオールマイティの背景なのだと思う。

 控えめな背景画が主役に躍り出てくることがあるのだという奇跡を、ここに体感することになった。映画はアニメも含めて監督のものだと思ってきたが、ひとりの背景画家の立ち位置を通して、異なったアプローチが可能となる。映画監督の歩みを通して映画史をたどるのが、基本なのかもしれないが、それは専門的な立場からのことで、一般映画の場合、俳優を中心に、娯楽として映画を楽しんでいるのが通例だろう。

 同じようにカメラマンの生涯でたどる映画史もあれば、背景画を手がけた画家の生涯で、アニメの歴史を綴り直してもよい。それによって映画が多様な才能が集まってつくり上げられた、総合芸術であることに気づくことが、何よりも重要なのだと思う。さらには映画音楽を手がけたプロの作曲家によっても、それは可能だろう。

 今回展示された背景画をフィルモグラフィーにそって、山本二三をたどってみようと思った。年代順になおすと、次のとおりである。未来少年コナン(1978)ルパン三世(1980)じゃりン子チエ(1981)名探偵ホームズ(1982)天空の城ラピュタ(1986)火垂るの墓(1988)NEMO/リトルニモ(1989)もののけ姫(1997)はとよひろしまの空を(1999)ファンタジックチルドレン(2004)時をかける少女(2006)ミヨリの森(2007)川の光(2009)くまのがっこう(2010)世界樹の迷宮4伝承の巨神(2012)世界樹と不思議のダンジョン(2015)天気の子(2019)。

エルマーのぼうけん展

明石市立文化博物館

2024年03月23日~05月19日


2024/5/7

 残念ながら私には「エルマーのぼうけん」を読んで育ったということもなければ、これを読んで子どもを育てたという経験もない。展覧会を通じてこの物語に出会ったにすぎない。さらにいえば挿絵をもとにして、原作を思い描くという、通常とは逆の、うしろめたい邪道に身を置いている。

 会場には原画の展示にあわせて、鑑賞者に体感させる仕掛けも盛り込んでいるが、原画のほうが白黒の鉛筆画の小品であるとはいえ、圧倒的にいい。原作者への敬意にねざして、具体的なイメージを実現するのだが、美術館でみせるには、文学である以上に美術である必要がある。

 ここで原作者と画家との関係が興味を引く。それは信頼感に根ざしてはいるが、他人である場合はビジネスの関係にすぎないだろう。利潤を追求する場合もあるだろうし、交友を深める場合もある。売れると仲たがいがはじまるかもしれない。もちろんひとりでどちらもこなすのが理想ではあるのだが、個性のちがう両者が出会うことからしか生まれないものもあるだろう。

 作者はルース・スタイルス・ガネットで、大学を卒業した22歳に、退屈しのぎに書き始めたのが「エルマーのぼうけん」(1948)だという。両親はともにジャーナリストだったが、離婚をして、父が再婚したのが、画家のルース・クリンスマン・ガネットだった。彼女が義理の娘の物語に挿絵をつけることになる。父が再婚をしたとき娘は8歳、義理の母は35歳、挿絵の仕事を手がけたとき、画家は49歳になっていた。もちろんキャリアは義理の母のほうがうわまわっている。

 父を愛するふたりの女性という点では、両者は対等であり、かつ微妙な関係にある。互いに意識しあいながら、歩み寄ろうとする姿も予想できる。原画を見ながら、娘に寄せる思いを考えてみる。たぶん自分はエルマーに近づく心優しいドラゴンだったはずだ。白黒に抑えて、できるだけ目立たないようにしているのは、絵本ではなく、挿絵に徹しようという意志の現れだっただろうか。

 邪推はやめよう。どうでもいいゴシップネタを考えながら見てしまうのも邪道なのだろう。こんな芸能レポーターのような興味を起こしてしまう自分がつまらなくなってくる。ピュアな子どものような輝く目で、出会えなかったことを悔いている。もちろん与えられなければ、適齢期の子どもが自分で見つけることはできない。かしこい親になり損ねたこととともに、教育の力を痛感することになった。今ごろになって知った手遅れを恥じるが、もっとはやく出会いたかったという感慨は、許されぬ恋に似たときめきでもあって、決して悪くはないものだ。遅まきながら原作を読んでみようと思った。

記憶:リメンブランス ─現代写真・映像の表現から

2024年03月01日~06月09日

東京都写真美術館


2024/6/2

 写真と記憶の関係を考えるには、よい企画となった。記憶とは写真のことではない。写真に導かれて記憶が生み出される。もともとあったものがよみがえるのではなくて、生成されるというほうがよいのだと思う。篠山紀信の2歳から13歳までの、写真館で撮影された「誕生日」が興味深い。そこでは写真家は被写体である。セルフポートレートというわけでもない。まだ写真家になる以前のものだ。毎年、誕生日に写真館で子どもの写真を撮り続けた、両親が子どもを写真家に育てあげたのである。ピアニストやバレリーナにしても、子どもが自覚する以前に、整備された環境があった。もちろん大半の子どもはそれに気づかないことではある。

 ポートレートは記憶をたどる、あるいは記憶を形成する重要なアイテムだが、人間の登場しない家や、自然に残された傷跡に、記憶の真相があるのだと、やがて気づくようになる。壁に貼られたポスターが、壁とともに朽ちてしまった風景には、かつて栄えた文明が埋もれて、発掘されたような驚きがある。

 「風化」という記憶を妨げる美意識がある。それは忘却と名付けてもいい破滅願望のことだ。廃墟を探る旅がはじまる。冒険者というほうがよい名称が、写真家に課されていく。ロマンチストであることが、ときに死を顧みない無謀を支えている。米田知子の一連の写真は、記憶を残す風景に目が注がれている。それは一種の信仰に近い。過去の記憶を洗い流そうとしても、かすかな傷跡は残るものだ。自殺者の住んだ部屋に借り手がつくには、風化を待たなければならないが、いつまでも記憶は残り続けるものだろう。忘れたいという願望と、忘れてはならないという良心が交錯する。その葛藤にある風景である。

 伊藤博文が暗殺をされた駅のホームを写した一枚(1)がある。キャプションがなければ、気づかないで通り過ぎる風景だろう。ふつうはそこにはのちに石碑が立つものだ。古戦場の跡にしてもいいし、英雄の誕生地であってもいい。墓碑を建てることによって、そこには骨が埋もれていることを知らせる。誰も掘り起こしたりはしないが、仮に石碑を取り除いたとする。それでも骨が埋まっていることは確かで、犬ならばそれを容易に嗅ぎつけるのかもしれない。

 雑草がたくましく咲きほこる風景がある。よく見る朽ちた鉄条網と同化している(2)。生と死が同居する光景だが、束縛のつめあとが、今は雑草の生命感に支えられて生き延びている。北朝鮮と韓国の国境線の非武装地帯も、この写真家を刺激する地霊が息づいているものなのだろう。そこに足を運ぶ決断にまずは唸らされるが、そこからしかはじまらないという信念がうかがえる。まずはそこに立って感じ取ることからスタートする。思っていたものであったときは、報道となるが、異なっていたときに、アートとなるのだろう。それらは悲しいけれども美しい。それがメッセージなのだと思った。

 マルヤ・ピリラの「インナー・ランドスケープス」と題した一連の写真もまた、悲しいけれども美しい(上記写真)。カメラ・オブスクラの原理を逆説的に用いた「明るい部屋」である。高齢者が孤独に生活をする部屋に、倒立した外光が入り込んで光り輝いている。それは未来の希望のように見えるが、過去の栄光の記憶でもある。実際は暗い部屋の壁にうがたれた一点からのぞき見た、今現在であるという点に、写真術がメディアの特性としてえぐり出す、残酷なメッセージがある。

 同じタイトルをもつSatoko Sai + Tomoko Kuraharaの内なる風景がある。焼きものの容器の内部に写真が転写され、風景が閉じ込められている。それが自分の茶碗であるなら、その手のひらに収まる宇宙の内側には、これまでに形作られてきた記憶が広がっているということだろう。そのとき茶碗は自分の脳でもあり、それを自分の身体が手にしているという奇妙な風景が見えてくる。

 小田原のどかのコーナーは興味深いものだった。作家不詳「上野彦馬像」をめぐる考察は、黒い彫刻のように積み上げられた、重厚なテキストを読む作業をともなっていた。旅行者が簡単に手を出せるものではなく、おみあげにもらったポスター大の論考は、帰宅後じっくりと読み込むことにした。

(1)米田知子

(2)米田知子

時間旅行 千二百箇月の過去とかんずる方角から

2024年4月4日(木)~7月7日(日)

東京都写真美術館


2024/6/2

 宮沢賢治が1924年に書いた「春と修羅」をよりどころにして、写真史を綴る。それを100年とは言わず、1200月と言っているところに、この企画の詩情がある。写真は「年」を単位としてとらえるものではなくて、「月」をとらえるメディアだというメッセージがあるようだ。四万点に及ぶ写真コレクションがエビスに集まっている。そこから選び出して時間旅行を楽しむ。美術館員の至福の時間を、私たちが共有することになる。

 日本がたどってきた100年の近代史だけではなくて、エビスの自分史も忘れてはいない。エビスビールの文字が読める過去の風景写真が証言する。ビール工場の今は亡き煙突が勇姿をほこっている。1924年に限定した写真が集められると、それだけで伝わってくるものがある。写真家の興味はさまざまなのに、まさに時代の証言ということになる。焦点を結ばないぼかしの効いた風景は、実景なのに記憶の風景として、かえってリアリティをもってよみがえってくる。

 1924年は大正が終わり、激動の昭和史がはじまる年号である。写真にはさまれて杉浦非水のポスターが、写真では写しきれない誇張された、その時代のもつ願望を描き出している。20年代は都市の時代を象徴する。地下鉄開通の興奮が、こぼれ落ちるほどの乗客の列によって伝えられる。デパートの開館が、高層建築のような雄大なパノラマとしてそびえ立っている。

 都市はその後、余裕をもって写真家の目を通してユーモラスに、あるいは揶揄されて批判的にえぐり出されていく。地下鉄の出口を写した一枚には、地下鉄入口という表示が読み取れる。桑原甲子雄の写し出した東京は、示唆に富んでいる。街並みを歩く写真は、多くが後ろ姿なのに、さっそうと前向きにとらえた3人組の女性がいる。

 壁に映し出された影(1)と、ショーウィンドウに反射した風景(2)は、ともに二重露光によるネガとポジの関係になっているが、写真表現の実験として、その遊戯感覚が都市空間にフィットする。巨大な人物写真(3)が、現実の人間と隣り合わせて映し出されると、ともに写真空間となることで、それもまた二重露光の実験写真に成りすませる。もちろん暗室で誕生した正真正銘の二重露光(4)も加わって、豊かな虚実の写真史を築き上げていく。ラースロー・モホイ=ナジの写真は時代の証言者ではないが、現実を隠しておびえ続けるリアリティが底辺にはあるように見える。

(1)

(2)

(3)

(4)

シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝

2024年04月24日~09月01日

森美術館


2024/6/3

 黒人文化の豊かな実りに接することができた。黒人霊歌やジャズの巨匠たちの面影を浮かべながら、このアーティストに拍手を送った。民芸運動との出会いを通して、普遍的な土への回帰をはたす。それは自然の恵みである土壌だけではなくて、土着であり土俗でもあった。奴隷は土霊と同一の響きをもつことで、地につながれた魂の叫びを悲鳴として受け入れている。彼らの筋力は、粘り強く生き抜いた民族の血の中で、はぐくまれてきたものだと、身勝手な第三者の思いは羽ばたいている。

 最初に黒光りのする前衛陶芸があって、作者名をみると木喰とあった。そうか木喰仏には黒人パワーが宿っているのだと直感した。黒人作家にとって常滑に住み着いての陶芸活動が、意味するものは大きい。土を丸ごとすくい取るようなパワーは、自身の陶芸作品にも生かされるが、アメリカに持ち帰ろうとする壁一面に広げられた常滑のやきものそのものによって伝えられている。床に敷き詰められた黒いタイルを歩かせる展示法とあわせて、森美術館の企画力の勝利にみえるが、このアーティストに秘められた潜在意識を引き出したにすぎないものなのだろう。

 黒人文化を丸ごと壁一面に広げたライブラリーの再現も、長年をかけて築き上げられた知の系譜を思い知らされることになる。一生かかっても読みきれないほどの、文化としての黒人の情報がそこにはあった。たまたま手に取った製本された雑誌を開くと、篠田桃紅が紹介されていた。書のもつ黒々とした反骨の前衛精神に、常滑の土を思い浮かべた。この黒人アーティストが陶芸に代えて出会うことの可能な地域性を直感した。

 二種類の雑誌が、ソファーにかけて自由に閲覧できるようになっている。一方はライフ誌のような大判の写真誌(EBONY)で、どの記事を見ても黒人しか登場しない。ブラックビューティを礼賛するもので、掲載された商業広告も黒人のタレントが起用されている。もう一方は手に収まる文庫本サイズの小冊子(JET)だが、同じようなヴィジュアル誌をコンパクトにした普及版にみえる。

 こうした出版文化の背景には、経済的にそれを支える基盤が読み取れるが、黒人事業家の存在が欠かせないものだろう。著名となったこの美術家も一役を担ったようで、同じ名をもった世界有数の高額所得者を思い浮かべる。もちろんブラック企業ではない。マルチメディアを駆使しての自身の制作活動だけにとどまらず、文化育成や啓蒙活動を続けている。それは公民権運動に向けてのレジスタンス精神に裏打ちされている。

 朽ちた教会で作業をする黒人労働者を写し出した映像作品が、大型プロジェクターで壁一面に上映されていた。取り外されたドアを持ち上げては投げ下ろすパフォーマンスが繰り返されると、労働ではなく舞踊なのだと知ることになる。そのたびに土埃が舞い、工事現場特有の効果音が鳴り響く。取り壊されようとする教会なので音響効果は保たれ、工事音がミサの響きのようにこだましている(1)

 場面が変わると、別の作品かもしれないが、一続きのものとみることもできる。作家本人だろうか、後ろ姿で登場して、絞り出すような声で、黒人霊歌やゴスペルの響きを伝えている。それは歌というよりも、絞り出された祈りという方がいいもので、両手を真横に広げた後ろ姿は、キリストの磔刑を思わせるものだ(2)。ゆっくりと前に進んで、またもとの位置に戻ってくる(3)。カメラが引かれると、教会の地下であったことがわかる。残された板の隙間から、陽光が降り注ぎ、光に埋まれて一瞬、天国の情景を現出する(4)。歌い終わると静かに画面から脇へと姿を消す。能楽にも似たゆったりとした歩みは、荘厳で格調の高いものだった。

 教会に置くオルガンとスピーカーの組み合わせや、酒場のカウンターのレイアウトなどには、アフロ民藝と名づけた、通俗性を基盤に置いた荘厳なイメージが広がりを見せている。ライブラリーのように日本酒のトックリ並べられている。カウンターにはコルトレーンのレコードが置かれていた。ジャズを聴きながら、民藝ふうの酒器を傾ける、ゆったりとした姿が絵になっている。壁面に引き延ばされてながらく続く瞑想へと誘う生垣や、バスケットボールの跡形を残して立てかけてられた床面消火用ホースを使った抽象絵画もみごとだ。トコシッピという、かつてのミンゲイソタに対応した造語もいい。

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遠距離現在 Universal / Remote

2024年03月06日~06月03日

国立新美術館


2024/6/3

 遠距離恋愛をもじって遠距離現在なのだろうと、おもしろがりながら入っていった。若者でにぎわっていたが、多くが東洋人だったのは、解説文を読む視線から判断がつく。日本語のほかに、英語、中国語に加えて、ハングル文字の四つのパネルが並んでいて、視線が交差するのをおもしろくてみた。近くて遠いは、遠くて近いの言い換えなのに、それぞれが意味する対象は違っている。英語とハングルの距離感を、日本語を媒介にしたときの違和感に置き換えて考えてみる。遠くて近いは男女の仲なので、それは遠距離恋愛に対応するものだ。

 一見してわかるものもあるが、多くは解説文を読まないと、おもしろみが伝わらない。その複雑さもまた遠距離恋愛に通じるものだろう。しかしこのネックは、理解すると俄然おもしろくなってくる。10人たらずのアーティストの競演なのだが、遠距離現在をユニバーサル/リモートという語で置き換えると、共通項が見い出せる。

 監視社会を告発した中国人アーティスト(徐冰)による映像作品「とんぼの眼2017」が目を引いた。凶悪事件が起こると必ずと言っていいほど登場するのが、監視ビデオだという時代になった。知らないうちに写されているという体験は、グーグルマップで自宅を検索したときに出くわす家人の歩く姿に驚いたときからはじまっている。ヴァーチャルリアルな恋愛物語が、ミステリアスにつづられている。

 他愛のないものにみえても、平和ボケをしていては気づかないことが多いのだ。すべてが監視されている管理社会をおびえる声が、無数の人口をかかえる国家から起こってくるのが興味深い。もちろん犯罪とレジスタンスは網の目をかいくぐっておこなわれるものだ。監視映像を巧妙に組み合わせて、フィクションを生み出す。断片は真実だが、全体は虚構であるという国家の支配原理にも似た構造に、身震いすることになる。

 チャ・ジェミン「迷宮とクロマキー2013」は、配線工事(1)のようすを写し出した映像作品だが、労働なのかパフォーマンスなのかはわからない。電線をナイフで切り裂く動作(2)は、空手の演舞のようにみえて、芝居がかっている。電線は室内(3)から屋外に続く。細い路地を一筆書きのように電線をはわせて移動する姿(4)は、アリアドネの糸を思わせて、路地を真上からとらえてなぞってみたい衝動にかられる。電線が尽きるとどんな終わり方をするのかと、気になっていたが、終端を気にすることなく、作業員は立ち去ってしまった。労働だとすれば、投げ出された職場放棄であるが。パフォーマンスだとすれば、結末に余韻を残したミステリーということになる。

 トレヴァー・パグレン「米国家安全保障局(NSA)が盗聴している光ファイバーケーブル」もまた、海底に張り巡らされている電線の、国境を超えた無国籍の恐怖を伝えている。国と国を結ぶ橋は、どちらが建設するのかという、単純な疑問も起こってくる。遠距離現在に対しては、近距離不在あるいは近親憎悪という語も思いあたる。

 ティナ・エングホフ心当たりあるご親族へ2004」という写真のシリーズも、死者が暮らした部屋の壁面や残された家具を写し出すことで、不在となった遺物にまとわりついた過去のぬくもりを探ろうとしている。近親が不在であるという現状を証言するだけのものなのに、不法放棄された違法を忌み嫌うような暗部を提示している。にもかかわらず明るい画像処理が、淡々とした日常性を、平凡に語っているのがいい。

 エヴァン・ロス「あなたが生まれてから2023」は、あなたが生まれてからコンピュータに取り込まれたキャッシュの画像を展示室いっぱいに網羅した作品。ここでのあなたは、作者の次女のことのようで、きわめてプライベートな事情を、どこまで私たち第三者が共有できるかという興味をそそる。情報の海に投げ出されたような視覚世界を見ながら、ほとんどがはじめてみる新鮮さに、遠距離現在を感じ取るが、ときおりトランプと思しき人物を発見することで、共有の糸口をつかめる。

 木浦奈津子こうえん2021」は、絵画表現なのに、遠くて近い印象を与えるものだ。写真のような写実ではない点に、手描きの魔術を感じ取る。その温かみは人間というフィルターを通した、恋愛に近い密度を体感できるものだった。映像メディアを駆使したセレクションのなかで、過去から受け継がれた連続体として、現代を見ようとする企画者の意図をうかがえる、見ごたえのあるものだった。

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ホー・ツーニェン エージェントのA

2024年04月06日~07月07日

東京都現代美術館


2024/6/4

 シンガポールという土壌から出てくるインターナショナルな視点を、興味深く再考することになった。東南アジアという地理学のくくりを自明のように用いている不思議がまず指摘される。そしてパソコンを用いて、aからはじまってzまでのシンガポールにまつわる情報事典が検索可能となるが、検索用語がアルファベットを下敷きにされているのも、東洋人にとっては不自然なのだが、それを言い出せばコンピュータ技術そのものを、否定することにもなり、自己崩壊してしまう。

 国家主義と社会主義のはざまで起こる苦悩は、スパイという非合法の存在を考えるなかで、浮かび上がってくる。三木清をモチーフにした獄死に至る知的エリートの謎を、アニメーションを用いてクリアにしていく(1)。現実はベールに包まれておぼろげなのに、アニメはくっきりとした輪郭線をもって明示される。映像体験では八畳の和室に集う四人の活動家に交じってメモを取っている自分がいる。密室を抜け出ると、天上にも地下にも別世界が広がっていて、遊戯空間を楽しむことができた。

 小津安二郎の「晩秋」からの引用では、父親役の笠智衆はおぼろげだが、アニメになったキャラクターはクリアであり、それを前後に2枚のスクリーンを重ねることで、現実と虚構の対比を鮮やかにする(2)。手前のスクリーンは紗幕になっていて、背景は紗幕を通しても映し出されている。

 香港映画のアクションスターを主役にしたスパイサスペンスは、シリアスな場面をつぎはぎにして、予告編を何本も続けてみたような満足感と、すっきりとはしない違和感とをゆききしながら、不思議な映像体験をさせてくれた(3)。ダイジェスト版のもつ時短映像の不毛を感じさせることで、退屈な日常への回帰が叫ばれる。

 「時間のT」はさまざまな映像作品として、作家自身がヴァリエーションを楽しんでいる。それは正確に時を刻めば時計であるが、狂えば映像作品となる(4)。英語だとTは、タイムであると同時にタイガーでもある。時であり虎でもあれば、やはりTなのだろうが、分類は英語である必然性はない。

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翻訳できない わたしの言葉

2024年04月18日~07月07日

東京都現代美術館


2024/6/4

 テーマはコミュニケーション、人は理解しあえるかという普遍的な課題にいどむ。旧来の美術鑑賞のわくを大きく逸脱しているが、ガラス越しではない真剣勝負をいどませるという点では、体験型のワークショップの重要さに気づかせる教育的配慮といってもいいものだ。まともに向き合えば時間がかかる。通り過ぎるには忍びないという旅行者泣かせの感慨にふける。体験型から対話型へという課題が、言語学習一般にはつきまとう。

 翻訳というまどろこしい現実を前にすると、神はなぜ人のことばを分けてしまったのかという、バベルの塔の話になっていく。インタビューでは子どもに親のことばが正しいかを聞いている。現地に生まれた二世が、親よりも早く言語を習得するというのは常で、親は子に教わることになる。フランス語のoeuvreなどは発音できないし、聞き取りもできないのに、子どもの感受性が超能力に見えてくる。「成長」とは獲得することではなくて、失っていくことだと思わせる一瞬である。もちろんそれを「老い」と置き換えれば、当たり前のことではある。

 久しぶりの東京だったが、若者たちに混じりながら、東京にいるだけでこんなに素晴らしい刺激を得られるのかと、彼らをうらやましがる、嫉妬心が湧き起こってくる。現代美術館では今、四つの展覧会を同時にやっていて、それらすべてを一日で見ようというのだから無謀な話である。にもかかわらず一ヶ所で見られるのは、旅行者にとってはありがたいことだ。

 地下鉄の清澄白河駅から歩くのが、苦痛な年齢になってきた。美術館の前に広いバス停があるので、立っていた監視員に聞くと、バスは廃止されてしまったのだという。若者でにぎわっているとはいえ、現代美術という領域では、たかが知れている。東京都がどれだけ予算をつけるかが問われる。文化行政力の話に移行するが、交通手段の確保はそのパラメータとなるものだろう。

サエボーグ「I WAS MADE FOR LOVING YOU」/津田道子「Life is Delaying 人生はちょっと遅れてくる」

2024年03月30日~07月07日

東京都現代美術館


2024/6/4

 二つが一つになった展覧会だったが、ついつい両者を結びつけたくなってくる。サエボーグという人工物を思わせるグループ名には、隠された生命体というニュアンスが含まれている。タイトルは「私はあなたを愛するためにつくられた」のだと言っている。柔らかいぬいぐるみをかぶった生命体である。それはぬくぬくの排泄物(1)であり、着ぐるみに入った人体(2)だったが、それらに触らずに目だけで確かめようとするところに、美術鑑賞の醍醐味があった。

 バリアにおおわれた虚構世界を楽しむという点で津田道子の「人生はちょっと遅れてくる」は、秀逸なはぐらかしをしていて、質のよいサスペンスに出会ったときの驚きに近い。タイムラグというずらされた時間に接したときの、なんともいえないもどかしさが視覚化される(3)。それは放り投げたものが、時間通りに落ちてこない違和感であり、日常生活でもときおり体験するものだ。

 雷では耳と目でタイムラグがある。もしそれが同時であれば、頭の上に落ちたのだということで、このタイムラグが安全弁でもあるのだ。重力とはそんなもので、いつもはそれを気にしないで生きている。突然顔がすげ替えられていても気がつかない。それは目の錯覚という語ですますことで、あまり突き詰めては考えないでいる。

 怪奇現象を恐れるための回避行動でもある。ここでは食卓に集う家族に起こる怪奇現象を見せようとする(4)。あるいは自分の取った少し前の行動を、いま目の前で見せようとする。それが過去なので納得がいくが、前後を入れ替えて、少し先の未来も描き出されるとすれば、ぞくっとするだろう。そんな奇妙な体験に誘ってくれる、貴重なひとときだった。

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