アンジェイ・ワイダ
地下水道1957 / 灰とダイヤモンド1958 / 大理石の男1977 / ヴィルコの娘たち1979/ダントン1983 /鷲の指輪1992 / パン・タデウシュ物語1999/ カティンの森2007/
第553回 2024年9月1日
アンジェイ・ワイダ監督作品、ポーランド映画、原題はKanał、カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。ワルシャワ蜂起という歴史的事実を下敷きにして、ドイツ占領下にあるポーランドでの市内に張りめぐらされた地下水道での抵抗運動を描く。
隊長(ザドラ中尉)のもと中隊を編成してレジスタンスを試みる兵士たちの、勇気ある地上戦が展開する。やがて劣勢となり地下水道に逃げ込んで逃れようとするが、地上ではドイツ軍が待ち構えていて、出ることができない。隊長以下中隊が組織されていたが、人数が減り小隊と化している。地下水道での息詰まる、先が見えない恐怖が、緊張感を高めている。はじめ一団となっているが、入り組んだ地下水道では身動きが取れない。
若者の兵士(コラブ)が愛を交わした女(デイジー)と二人になって逃げ延びている。男は地上戦での攻防で傷ついて、胸を負傷しながら、朦朧とした意識で、水に浸かりながら歩みをすすめている。女が励ますが弱音を吐いている。入り組んだ狭い通路を這いつくばって登っていく。女が先になって男を引き上げながら進むが、男は力尽きて転がるように、もとの位置に落ちていった。自分を置いて、女にひとりで進むように言うが、女は降りてきて、別のルートを探ろうとしている。
光が見えてきて、最終地点の川にたどり着いたのだと思って歓喜した。最後の通路を曲がったとき、出口が見えたが、鉄格子が入っていた。びくともしない檻の向こうには、対岸の明るいのどかな光景が広がっている。なぜこんなところに鉄の枠が入っているのかと不思議に思うが、それが突然見えたときは、衝撃的で絶望的でもあった。ふたりの歩みはそこで終わった。諦めたのかあるいは、希望を残して引き戻したのかは、伝えられないまま、別の兵士たちの行方へとカメラは切り替わった。
地下水道にはドイツ軍が毒ガスを送り込んでいた。ポーランド兵たちは、隊長の指揮が及ばず、ばらばらになって逃げざるを得なかった。暗がりの中を進み、逃れ切ったと判断したときに、地上のマンホールのふたが開いていて、光がもれているのを見つけると、息苦しさから上がったとき、一斉射撃にあって、転げ落ちてくる。
別の兵士は地上から3本のぶら下がる手榴弾を見つけて、一本ずつそっと取り外している。3本目を外したとき、足を踏み外して爆発した。そのあとマンホールから地上に出るのに成功した兵士がいた。明るい光を浴びて、穴から真っ黒の顔をのぞかせる場面がある。アップになってほっとした顔だちのそばに長靴が見える。カメラが引かれると、ドイツ兵が銃をかまえて待ち構えていた。すでに捕虜となった仲間が、集められて立っている。かたわらには死体となった山も見える。兵士は身体検査がされ、武器を取られ、身につけていた金目のものも没収されている。
兵士だけではなく町の居酒屋にいた女や音楽家も混じっていた。行動をともにしているときには、ピアノ演奏をして雰囲気を和ませていたが、地下水道に入ると、爆音と毒ガスと閉所にいる恐怖心から、音楽家は精神に異常をきたしてしまった。
隊長はひとりの兵士に付き添われながら、無事に地上に出ることができた。部下たちが遅れてでもついてきていると思っていたが、ひとりのあとには誰もいなかった。地上に出て自分だけが生き残ろうとする、その男の策略だったのだとわかると、隊長は怒りをあらわにすると、発砲して殺してしまった。そして、またマンホールから地下水道に戻っていって、映画は終わった。
やりきれない思いを残しながら、強国による力の支配に抵抗する国の命運が、ポーランドという国名に結晶している。戦前はナチスドイツ、戦後はソ連による侵攻を経験した首都ワルシャワにあって、地下水道は出口のない閉ざされた極限状況を象徴するものだろう。男だけの息詰まる世界に、力強い意志の力を感じさせる、魅力的な女性を登場させることで、潤いのある映画に仕上がっていた。
第554回 2024年9月2日
アンジェイ・ワイダ監督作品、ポーランド映画、原題はPopiół i diament、英題はAshes and Diamonds、ヴェネツィア国際映画祭批評家連盟賞受賞。ナチスドイツに勝利したはずのポーランドで、戦後に必ずしも平和が訪れるのではないという、複雑な事情を暗示するように、ひとりの若者(マチェク)の悲劇を追っている。教会に潜んで待ち受けているグループがあった。居眠りをしていたが、手には自動小銃をもっていた。ジープの音とともに動きが激しくなって、乗っていた男たちが狙われて、撃ち殺されてしまった。
ともにポーランド人のようであり、見ていてどちらに感情移入してよいかもわからない。殺されたのはセメント工場に働く労働者で、やがてまちがって殺されたのだとわかってくる。狙撃グループに加わっていた若者と、その上官と思える人物(アンジェイ)を中心に、その後の話は展開していく。ワルシャワ蜂起に加わった仲間だったが、ポーランドが自立するには至らず、戦後になってソ連による共産党支配が拡大していく時代状況を背景にしている。
狙っていたのはロシアから帰ってきたという共産党幹部(シュチューカ)だった。亡くなった妻の姉妹がポーランドのこの町に住んでいて訪ねている。17歳になる息子がいて、そこに預けられていたが、不在で会うことができなかった。若者はまちがって殺してしまった同胞のことを悔いている。
この若者が暗殺しようとする幹部の息子ではないかと、一瞬思ってしまうが、息子は別にいて父とは敵対する活動に属していることがわかっていく。若者は隠れ込んだホテルの一室から、窓越しに殺された労働者の恋人の嘆きの声を聞いている。夜の教会を訪れたとき、殺された二人の遺体を目にして、自身の過失をおののいてもいた。
その後もこの幹部を標的にして、つけねらうことになる。ホテルに泊まるのを目撃して、フロントでのやり取りを若者が耳にした。上官とふたりで追跡していて、上官が電話をしているときのできごとだった。幹部は若者にタバコの火を借り、その顔を覚えた。若者は耳にしたホテルの階数と部屋番号を記憶して、フロント係がポーランド人だったのを利用して、隣の部屋を借りることができた。上官には自分が暗殺を引き受けると約束している。
上官が心配したのは、若者が若い娘をみると声をかけるという悪癖だった。ホテルの酒場で出会ったカウンター嬢が気に入ったようで、連れ添った上官がいることも忘れて、ちょっかいを出している。ストレートの酒を頼み、女がつごうとするとグラスをずらす。何度も繰り返して、女が腹を立ててしまうと、胸ポケットから携帯の大きなコップを取り出して、それに入れるように目配せをしている。
女はやっかいな客だと嫌っているが、その後もひつこく誘いをかけて、仕事が終わる時間を聞いて、部屋番号を伝えている。夜中の3時まで仕事があると聞き出すと、途中の10時に休みが入るので、10時半に待っていると言いおいて去っていった。ホテルとしては高級で、そこに部屋をとっているということも興味を引いたのだろう、娘はやってくる。
まさかと思っていたので、男は驚いている。暗殺の準備に銃の手入れもしていた。さとられないようにしながらも、身の上話をしていくと、娘も男が意外とまじめな考え方をすることに気づいた。はては急速に恋愛感情を高め、男の決断が揺るぎはじめる。女が男に興味をもちはじめ、いつもサングラスをかけている理由を尋ねたとき、男はワルシャワの地下水道で抵抗運動をしていたのだと言っていた。上官も気づいていて、厳しく目を光らせた。うわついた気持ちから上官が代わりに行こうとしたが、自分の仕事だと否定した。
殺害には成功するが、銃をもっているのを警備兵に見つかる。制止を振り切って逃げるが、背後から撃たれて死んでしまった。撃たれた瞬間に花火があがり、ポーランドがドイツとの戦勝を祝ったものだった。若者はあえぎ苦しみながら逃げ続け、瓦礫のなかでゴミにうずもれるようにして息絶えていた。女とは別れの抱擁を交わしていたが、男のようすから事情を察して、あきらめをつけていたようにみえる。女とのひとときに、壊滅した教会で詩文を刻んだ墓碑を見つけて読んでいる。逆さになったキリスト像が痛々しく映されている。灰に埋もれた底に光るダイヤモンドという一節が記憶に残る。それはここで出会った女のことで、瓦礫のなかでの、ゆきずりの恋の放つ一瞬の、愛のきらめきを意味するのだろう。先のない悲しい出会いと別れだった。
第555回 2024年9月3日
アンジェイ・ワイダ監督作品、ポーランド映画、原題はCzłowiek z marmuru、カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞。レンガ積みで英雄扱いされた男(ビルクート)の、悲劇的結末をたどる。放送局から撮影機材を借り出して、卒業制作で映画の完成をねらう娘(アグニェシカ)がいた。1952年生まれだと言っていて、大柄で傲慢そうに見えるが、自分の知らない50年代のポーランドの時代状況に興味をもっていた。大学のスタッフは、大理石の男を追いかけるのをやめるように指導するが、言うことを聞かない。
最初に向かったのは、ポーランド国立博物館だった。放送局の取材だと偽って、収蔵庫に入り込んで、一般の目に触れなくなっていた、お蔵入りの大理石彫刻に目をとめている。それは強靭な肉体をもって労働に向かう男の姿だった。国家の建設に向けて、目は希望に輝いている。監督を務める娘は強引で、博物館員の目を盗んで同行したスタッフに、隠し撮りを指示している。カメラマンは放送局専属だったのだろうか、退職まぢかいベテランで、娘に手を貸してやっている。
大理石の男の歩みをドキュメンタリー映画に仕上げようと、取材が開始された。当時のニュース映像も見つけられ、試写室で見ながら、ストーリーを組み立てていく。戦後、急速に社会主義国に転換していく、政治的思惑があって、レンガ職人が利用されていったこともわかってくる。スターリンの肖像写真がさかんに登場する時代である。レンガ積みの速さを競う競技会が開かれ、この男のチームが優勝すると、マスコミ捜査をされて一躍時の人となり、もてはやされることになる。
宣伝用のカメラも回されていて、レンガを積んでいく一部始終が写されているが、撮り損ねると動作を停めて、もう一度再現するよう指示を出している。楽団も用意され、音響効果で盛り上げるのも記録映画のためであり、主人公はそれに踊らされる自分に気づきはじめる。反抗的な言動に監視の目が注がれていく。
労働者の理想像として、彫刻のモデルにもなるし、各地で開かれるデモンストレーションにも招待され、レンガを積み重ねる技を披露していく。ある日、主人公がレンガを手にしたときに、大声をあげて、倒れ込んでしまった。燃えるようなレンガを握ったことで、大やけどを起こしてしまった。故意による事故であり、主人公がもてはやされるのを妬んでの犯行だったのだろうか。仲間の一人が疑われたが、真相はわからなかった。
仲間と二人で事件の究明に呼び出され、個別的に面談を受けている。相手が先に入ったまま、出てこない。不思議に思って部屋に入ると、仲間の尋問は終わって、すでに帰っていったと言われる。主人公は不信感をいだいて、男の行方を追うことになる。目に見えない大きな重圧を感じていく。
並行して映画制作が続いているが、娘も関係者を見つけて取材に向かうなかで、大理石の男について語ることのタブーに気づきはじめる。アメリカ映画が目の敵のように語られている。そんななか、アメリカ映画の影響を受けた著名監督(ブルスキ)に体あたりをして、同じようにして制作されたドキュメンタリー映画の、限界と可能性について学ぶことになる。
主人公の生き別れてしまった妻も訪ねて、インタビューをしている。正義感を燃やした主人公についてゆけなかったことから、語ることを嫌がっていた。主人公が訪ねてきたこともわかったが、別の男と家庭をもっていて、悲しい別れを繰り返すことになった。取材をするには主人公を探すのが第一だが、見つからないままだった。息子がひとりいて、やっと造船所に勤めていることを突き止め会いに行く。そこから父親の居どころをたどろうとしたが、すでに死亡したという答えだった。
死因については語られないままだったが、社会から忘れ去られた頃の主人公の姿をカメラは映し出していた。投票所には、わが子なのだろう、幼児の男の子の手を引いて訪れていた。彼がかつて栄光に輝いた大理石の男であることを知っていた者から、なぜ投票するのかと聞かれている。今は誰からも気づかれない存在になってしまったが、ポーランドが自立するためという明確な答えを返していた。
娘もまた挫折を味わっていた。真相究明に圧力が加わったのか、放送局から借りていた撮影機材を取り上げられてしまった。父親はカメラがなくても取材はできると、娘を励まして、主人公を探し出すことを説いた。父の愛に涙して、息子の口から父が死んだと告げられたとき、落胆してすべては終わったように見えた。二人が大学の長い廊下を並んで歩く姿を写し出して映画は終わるのだが、放送局勤めの教授は、それを不思議そうにながめている。卒業制作は完成できなかったが、死因をめぐる究明が、スクラムを組んでの、第二章のはじまりのように見えた。
第556回 2024年9月4日
アンジェイ・ワイダ監督作品、ポーランド映画、原題はPANNY Z WILKA。友の死を前にして、参列した墓地で突然倒れた男(ヴィクトル)がいた。精神的に落ち込み、死について考え込むようになると、診察にあたった医師は、3週間の休暇を勧めている。男は指示に従って、いなかに住む叔父の家に向かった。駅を降りて途中で立ち寄ったのは、昔なじみの地名(ヴィルコ)に今も住む、娘たちの家だった。そこで再開した15年ぶりの男女の関係を追う。
多くの娘たちがいて混乱するが、じょじょにそれぞれの関係が解きほぐされていく。入れ替わり立ち替わり登場するが、6人姉妹だったようだ。前触れもなく訪れた主人公に、彼女たちは当惑している。すでに結婚をしたものは、主人や子どもたちを紹介している。男は見あたらない娘の名(フェラ)を呼ぶが、姉妹は口籠もりながら、死んだのだと伝えている。男が一番愛していた相手だった。
母親の命日に大勢が集まることになり、主人公も叔父叔母とともに参加した。軍服を着た男も混じり、気乗りのしないまま、憂鬱げに時を過ごすことになった。かつて娘たちはそれぞれにこの男に興味をもっていた。現代の姿を見て、やつれたと言っているので、昔ははつらつとして、注目のまとだったのだろう。
見覚えのない少女がひとりいて、一番末の妹(トーニア)だった。この娘もまた男に興味を持ちはじめる。姉たちと違っていたのは今の男に惹かれていたことだ。かなりの年齢差を感じながら、親しくなると結婚をしたいと打ち明けている。男は歳の差を納得させて思いとどまらせようとする。
はじめて出会ったとき、叔父の家に着くのが遅くなるので、馬を借りてその日は退散するが、翌日にお茶を飲みにくると約束した。翌朝、遅くまで眠っていると、末の娘が姉の使いで手づくりのジャムを届けにやってきた。叔母が対応するが、ずいぶん大きくなったと感心しているので、長らく会っていなかったのだろう。娘は窓越しに眠っている男の姿をのぞきこんでいる。叔母は娘が男に関心があるのだと、好奇の目で黙認していたが、目をあわせると何でもないようにして去っていった。娘心の読み取れるシーンである。
子どもは女ばかりだったが、年長の娘が婿を取ったようで、この家に繁栄をもたらしたとして評価は高い。ただ倹約家で妻が、人を呼んでパーティをひんぱんにするのが、気に食わない。台所での夫婦のいさかいを、主人公は目にとめて、妻を慰めている。
妻は優しくされると、15年前を思い出し、今まで隠していた本心を語り、愛を告白している。男は驚いて感情が昂ぶり、見つめあってあやしい雰囲気になるが、女のほうが目を逸らせて出ていった。台所の奥には手づくりのジャムのびんが数多く並んでいて、主人公が目をとめると、好意を寄せる人に贈るためのものだと言っていた。
姉妹のひとり(ヨーラ)は社交的で、夫だけでなく、男関係が派手だった。主人公もそのひとりだった。読書ばかりして部屋に閉じこもっている娘もいた。主人公の愛した娘の墓参りをしようと同行を請うと、末の娘に役目が割り振られていた。娘は二人きりになるのを喜んだが、姉たちは妹の気持ちを見抜いていたようだった。哲学書を読んでいるのだと気取ると、主人公はデカルトやヘーゲルやカントの名をあげて、難解なのを笑っている。
娘は真剣に男を思うが、男は昔からのなじみであった、姉たちとの仲のよい再開の姿を見せることになる。馬で遠出をする約束もしたが、当日の朝になると娘が来ているのに、男は眠くてなかなか出かけようとはしない。男の移り気な姿を目にすることになると、娘の心は痛んだ。
結局は時が来て、何事もなく、娘たちから去っていく。転地療養は功を奏したのだろうか。叔母は甥との再会と彼の結婚を期待して別れを告げた。老いて病弱の叔父は、次にやってきたときには、もういないだろうと、感慨をあらわにしている。娘たちに暇乞いをしたとき、娘のひとりからは、次はまた15年後かとからかわれていた。男は別の娘には、明日帰ってくるかもしれないと答えている。船で対岸に渡るのを、男関係の激しい娘がひとり、主人公を見送っていた。
男の不毛な、生活に向ける悲観的態度は、15年前の従軍によって築き上げられてきたものだったのだろうが、そのありかを具体的に示そうとはしない。そんななかで、私たちは閉ざされたすっきりとはしない世界観と、歴史的状況を推察することになる。4人の姉妹との関係は、相手が結婚していても変わらず、昔のままだった。食卓を囲んで女たちだけが集うのをカメラは追いながら、希薄な男の存在を浮かび上がらせる。給仕をする脇役の老人と、逃げ腰の夫たちに混じって、主人公もまたそこにいた。
第557回 2024年9月5日
アンジェイ・ワイダ監督作品、フランス・ポーランド合作映画、原題はDanton、ジェラール・ドパルデュー、ヴォイチェフ・プショニャック主演、セザール賞監督賞、英国アカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞。フランス革命後のジョルジュ・ダントンとマクシミリアン・ロベスピエールの確執から起こる、恐怖政治のありさまをドキュメンタリータッチで追っている。
ダントンへの民衆の人気は絶大で、ロべスピエールにとっては、何とかして失脚させたい相手だった。委員会組織を仕切ることで、裁判で有罪に持ち込み、仲間とともに処刑台に送られ、首をはねられてしまう。相手は委員会の名で、司法権と警察権力を掌握していた。そんな権力争いとは裏腹に、パリの市民たちは毎日のパンにも事欠いて、貧困生活にあえいでいた。
ダントンは民衆を味方につけているので、怖いもの知らずでいた。人気という語がおそろしいのは、それが流行と同義語で、すぐに消え去るということだろう。民衆の心は簡単に翻ってしまうものだということを、一度限りの取り返しのつかない、命と交換に体験することになる。追手がきても逃げることなく、連行されていったのは、裁判で論破する自信があったからだった。裁判所に駆けつけた聴衆は、その弁舌に聞きほれたが、やがて裁判官の判断で、退場をさせられてしまうのは、ロベスピエールの意向を反映してのことだった。
目に見えない重圧が仲間たちにも及んでくる。もともとはともに戦った仲間だったので、共通の友人も多くいた。ダントンに付き従っている仲間に声をかけて、裏切らせようと図ったり、命を救ってやろうとしたりもしている。最後はダントンを先頭に6名が次々と、ギロチンで首をはねられる姿を映し出していた。ゆっくりと降りてくる重々しい血塗られた刃は、恐怖政治そのものだった。一瞬のもとに落下するのだと思っていたが、こんなにゆっくりと落ちてくるのかと、ギロチン台を見ながら身震いがした。
民主主義を旗印にしながらも、独裁制へと移行する、愚かな人間の欲望の姿が浮き彫りにされている。ロベスピエールの妻が幼い息子にしつけをするのは、無理矢理に人権宣言の条項を覚えさせることだった。年端も行かない子どもが丸暗記でベソをかきながら覚え込んでいる。間違うと手を強くたたかれている。
ダントンを葬ったあと、悔いるように寝込んでしまったロベスピエールの枕もとで、覚え込んだ条項を暗誦する姿は、それが伝える内容とともに空々しく響いている。さらなる革命の完成をめざしてきた理想が、崩壊するのを予感しながら、映画は幕を閉じた。ダントンは老けこんで見えたが、まだ35歳の若者だった。死を前にしてもひるむことはなく、堂々とした言動を、ドパルデューがみごとに演じていた。
移りやすい民衆の気持ちに頼ることの恐れと虚しさが、これでもかこれでもかと伝わってくる。大声をあげたものになびくのは世の常なのだろうが、ダントンは民衆のためと称しながらも、見失っていたものも多かったようだ。権力は簡単に敵対者を抹殺できるのだということも教えてくれる。
法廷劇としてのセリフのやり取りもみどころではあるが、ダントンは法廷で語りかける相手をまちがっていたようだ。傍聴席に向かって、その反応を第一に考えていたのである。聴衆が騒ぎ出しても、解決とはならない。報道陣を入らせないという判断も、権力は簡単に行使することができる。裁判官の判断で退場させられれば、言うことも言えないまま、処刑されてしまうのである。
第558回 2024年9月6日
アンジェイ・ワイダ監督作品、ポーランド・イギリス・フランス・ドイツ合作映画、ラファウ・クルリコフスキ主演、原題はPierschonek z Orem w Koronie。ワルシャワ蜂起が挫折し、その後のポーランドで共産党支配が強まる中での、ひとりの若者(マルチン)のたどった悲劇的結末を描く。
負傷した若者を抱きかかえる娘(ヴィシカ)がいた。娘は上着を脱いで、傷ついた男の体を横たわらせている。離れ離れになることを覚悟して、指輪を外して男の指にはめてやった。下着姿の娘に目をとめた敵兵が、娘を男から引き離して、抱きかかえて連れていこうとする。男は挑みかかろうとするが、男の身の危険を感じた娘が押しとどめた。その光景を見た同胞が、正義感から立ち向かうと、銃口が向けられ射殺されてしまった。
男は生き延びて、抵抗運動を継続しようとするが、戦うには戦略が必要だった。部下もいるリーダーだったが、血気にはやる仲間を見ると、早まった動きを抑えている。真正面から共産軍と戦うか、共産主義を受け入れるか、あるいは受け入れたように見せかけるかという三者の選択を提示している。いずれにしてもシベリア行きという、過酷な選択肢がのしかかっている。
武装解除して捕虜になった、国内軍のメンバーは集められて、貨車に乗せられてシベリア送りにされている。共産主義を受け入れたように見せかけて、生き延びた主人公は、複雑な気持ちをもって、感慨深げにそれを眺めていた。ポーランドではユダヤ人狩りでナチスドイツがおこなったと同じやり方で、戦後はソビエト軍によって収容所送りが繰り返されていた。
軍服を脱いで腕章もはずして、一般市民に化けて、病院に潜り込む。支援組織が動いて病院から連れ出されて、民間の仲間の家にかくまわれる。残党に捜査の手が伸びてくる。民家の女主人は自分の息子が武装蜂起に参加したまま、まだ戻ってこないのだと言う。名前を告げて知らないかと聞いている。
男は共産軍に悟られないように、地下活動を続けていくが、裏切りに見えた部下からは冷ややかな目で見られている。娘からもらった指輪は、身につけたままでいた。鷲の紋章をもった指輪だったが、それに目をとめた仲間がはずさせて、鷲の部分をやすりで削って、男に返している。敵に見つかることを恐れたためだった。鷲はナチスのマークであるのだと私は思っていたが、ポーランド王家の紋章でもあり、民族の誇りを自覚するためのものだった。
男は共産軍に身を置くなかから、彼女と再会することになるが、指輪を返したとき削られた鷲を目にとめると、娘はそれを投げ捨てた。ポーランドを捨てたことへの、無言の決裂だったのだろう。若者は娘に別れを告げ、武装解除に応じたとき、二人が隠していた一丁の拳銃を、見つけ出して引き金を引いた。銃声を聞きつけて娘が駆けつけると、若者は息絶えていた。引き裂かれた不甲斐ない自己に嫌悪する、先の見えない絶望は理解できるが、衝撃的な最後だった。
長い戦いは、酒場の場面で、前作を思い起こすように、テーブル上の酒の入ったグラスに火を灯して死者の追悼をして、懐かしい名前(アンジェイ)が呼ばれている。あれっと思ったが一瞬思い出せなかった。35年前の映画「灰とダイヤモンド」の1シーンで、印象的な記憶に残るものである。カラーになってよみがえったが、戦後の民族の苦悩はまだ引き継がれているということである。
第559回 2024年9月7日
アンジェイ・ワイダ監督作品、アダム・ミツキェヴィチ原作、ミハウ・ジェブロフスキ主演、ポーランド・フランス映画、原題はPan Tadeusz。ナポレオンがロシアに攻め入ってくる時代の、ポーランドでの話である。若者(タデウシュ)が叔父の家に帰ってくる。パリでの勉学を終えてのことだった。由緒ある家系(ソプリツァ家)の跡取りだったが、父親(ヤツェク)は謎めいて行方不明で生死が分からず、弟が家を守っていた。屋敷はがらんとして誰もいない。2階の部屋が開かれていて、窓から長い板が立てかけられている。庭に降りていった娘(ゾーシャ)のまばゆい姿を目にとめて、一目惚れをしてしまったようだ。
娘は戻ってきて窓から入り、男の姿をみて悲鳴をあげる。あわてて男は逃げ出して階下に戻ると、帰ってきた叔父と再会して、抱擁を交わしている。娘は対立する家系(ホレシュコ家)の孤児だった。この若者と娘との紆余曲折を経て、結ばれるまでの物語である。時代は簡単には二人を結婚にまで結びつけなかった。かつては城まで持っていた貴族だったが、今は財産をなくしていた。資産家の伯爵(ホレシュコ)がこの土地に目をつけ、さらにこの娘を嫁にしようとねらっていて、男との三角関係ができる。
娘は男と出会ったときは、14歳だった。娘の世話をする女性(テリメーナ)がひとりいて、貴婦人に育て、社交界にデビューさせようと注意をはらっている。この女が年齢差はあったが、若者にも恋愛感情をいだいていて、複雑な人間関係が展開していく。動乱の時代は、ロシア軍に対する武装蜂起も加わって、敵味方入り混じっての銃撃戦が繰り返される。貴族社会の家同士の確執だけではなく、宗教人(ローバク司祭)も混じっての泥沼状態が続き、父親の謎も解き明かされていく。
ロシア軍支配の目を避けて、主人公も伯爵も国外逃亡を余儀なくされ、娘とは長期間の別れとなる。戻ってきて念願の結婚を果たすが、娘は質素な民族衣装を身につけていた。軍服を着て娘をスケッチする兵士が混じっていて、顔を見ると伯爵だった。世話係の女は、年齢的につりあったこの伯爵と言い交わす仲になっていたが、このとき娘の結婚に便乗して、自身もあでやかな衣装を着て、結婚相手を伴っていた。それを目にした伯爵が詰め寄っている。女はまだ伯爵に未練があるのか、今の結婚をやめてもいいと言い出している。
恋愛物語として一貫しているが、映画としては戦闘場面が見せ場になっている。ポーランド史の歴史的認識がなければ、誰が誰と戦っているのかもわからないだろう。ポーランド人かロシア人かの区別さえ、私たちにはつかないものだ。もちろんポーランド人どうしの殺し合いもあるのは、日本でも戦国時代のことを考えれば、たやすく理解できる。
陸続きである国の境界を、どこに定めるかという問題になっていくが、ポーランド語を話す人々という、単純な理解ではすまされない。植民地での言語教育は、10年も続けば解消されてしまうのである。日本語を話せる老人がまだアジア各地に残っているというのは、誇りにもならないことだ。翻って考えれば、日本人なのに英語がしゃべれないというのは、嘆くことではないのかもしれない。
第560回 2024年9月11日
アンジェイ・ワイダ監督作品、ポーランドの映画、原題はKatyń、アルトゥル・ジミイェフスキ主演。ラストシーンでポーランド将校たちが次々と頭を撃ち抜かれて、大量虐殺されていくのは、ホラームービーを超えたおぞましさがあった。人間はどこまで残酷になれるのかという問いが、発せられる間もなく、次の犠牲者が同じようにして、機械的に処理がされていく。穴が掘られて、遺体が放り込まれ、ブルドーザーで土がかぶされていく。
戦争犯罪は遺体が掘り起こされて、頭部を確認すると、至近距離で後頭部から撃ち抜かれていることによって明らかになった。ポーランド将校の犠牲者は一万人をこえていた。カティンの森とは犯行がおこなわれた地名である。悪名高きアウシュヴィッツに対応するものなのだろう。ソビエトによりドイツ軍が排除されていく、ポーランドでの時代状況のなかで起こった事件であり、ナチスドイツの悪魔のような姿を、誰もが思い浮かべたかもしれない。
犠牲になった主人公(アンジェイ大尉)が克明に記録していた日誌が見つかると、虐殺はドイツではなく、ソビエトによることが判明する。世界の平和をめざした社会主義の、自由を蹂躙する実像が浮かびあがってくる。はじまりはポーランドの難民が、ドイツ軍に追われて橋を渡って逃れるところからである。橋の向こうからも、同じように追われる民の姿があった。こちらは新しく参戦したソビエトに攻められてのことだった。
彼らは八方塞がりでどこへも行けないことになる。幼い娘(ニカ)をつれて自転車で、夫の安否を訪ねる妻(アンナ)の姿があった。逆走するので、通りかかった知り合いの車が危険を知らせて声をかけるが、聞く耳をもたなかった。娘を見失ってしまうが、道端の犬と戯れている。まだ危機感を感じる年齢ではなかった。夫はポーランド人の将校だった。ソビエト軍による占拠で、捕虜になっているのを発見すると、軍服を脱いで逃げのびるよう頼みこむが、そんなことはできないと拒絶された。
ソビエトは将校に目をつけて逮捕し、ドイツは一般兵士を捕虜にするのだという。とにかく無事な姿を確認することができ、夫は娘を抱き上げて、守るよう妻に言い置いて、二人を逃した。ワルシャワはソビエトに占拠され、母子は夫の実家のあるクラコフへと逃れようとする。将校の家族は見つけ次第、遠方の収容所に送るよう命令がくだっていて、二人も簡単には移動ができなかった。
夫の知人の家にかくまわれていたが、追手の手は伸びてくる。主人は一人暮らしでポーランド人なのだろうが、ソビエト軍に属していて階級も上であった。ソビエト兵が捜査に踏み込んできたときも、軍服を着ることで、階級章が見え、ねじ伏せることができた。友の運命を知ったように、妻に別れて自分の妻になって、この危機を乗り越えてはどうかと提案している。
妻は夫はまだ生きていると断言して、申し出を断った。男の思いやりなのか、欲望なのかはわからなかったが、納得して引き下がり、追手はまたやってくると言い、逃げのびる道を用意してやった。この家にはもう一組の将校家族がかくまわれていたが、こちらのほうは兵士に見つかり、強制的に連行されて連れていった。
何とか二人は無事に夫の実家にたどり着いた。母親は息子が大事にしていたというぬいぐるみを与えて、孫を喜ばせている。父親はクラコフ大学の教授だったようで、総長にだけ任せておくわけにはいかないと言って、職場の集まりに出かけていった。こちらはナチスドイツの占領地域で、反抗的態度をとる大学は目をつけられていた。
ナチスの幹部が壇上に上がって、高圧的な指示を出している。反論をすれば即射殺だと威嚇する。総長をはじめ父もまたトラックに乗せられて、連行されていった。強制収容所に送られることになる。手紙がきて安心していたが、ある日小荷物が送られてくる。手紙を開くと持病の心臓病での死亡を知らせるものだった。
主人公からもまた手紙がきたが、ともに検閲を気にしての内容のようだった。ポーランド人の将校仲間(イェジ)とともにいて、体調がよくないときに、暖かいセーターを譲ってくれた。ポーランド将校の死亡を知らせる放送が、毎日のように聞こえている。新聞に死亡者名の一覧が掲載されているので、妻は新聞を持ち帰り、名がないことを母親と喜びあった。
夫と懇意の将校の名が出ていて、夫の身についても心配していると、その将校が訪ねてくる。死亡者として名を見ていたので驚くが、友の死を伝えにやってきたのだった。セーターを譲っていて、そこにつけられていた名札から、間違われたのだという。妻はあきらめがつかず、信じないで待ち続ける。夫の残した日記が遺品として戻ってくると、そこにはボロボロになった文字をかき消すように、無念の思いが染み出していた。
友人の将校はソビエト軍に組み込まれるが、その非道な実態を知ると、自ら命を絶つことになる。戦後になってその後の一家の歩みも伝えられるが、幼い娘は大きく成長していた。一族の若者(タデウシュ)が町の壁に貼られた政府のポスターを、剥がしたのを警備兵に目撃され、追われると逃げるのに手を貸す娘がいた。ともに家族が虐殺された身であり、互いにひかれあったようだ。安全を確認して翌日に再会の約束をして分かれるが、帰り道で若者は再度見つかって背を向けて逃げるが、発砲され射殺されてしまった。
ドイツは敗北したが、ポーランドに戦後の自由が訪れたわけではなかったのである。赤と白の二色からなるポーランド国旗は引き裂かれて、半分は捨てられ赤色旗として、建物の入口に掛け直されている。ひとりのソビエト兵士は切り裂いた、半分の白の布地をふところに入れて持ち帰っている。
主人公の名(アンジェイ)は何度も登場する監督の名であり、最後に出てくる若者の名(タデウシュ)も、以前の映画での主人公の名を用いることで、一連の映画の連動性と一貫性を伝えていた。監督80歳になってもまだ残る、怨念を感じさせるものだった。