美術時評 2018年1月◀ ▶
by Masaaki Kambara
2018年1月13日~3月11日
2018/1/26
江戸末の残酷なまでの嗜虐美には、目を覆うものがある。ファッション美術館でなぜ、月岡芳年なのかという素朴な疑問は、最初からあった。しかし、衣装はカラフルで、時代の世相を映し、ファッショナブルで、浮世絵世界を規定する卑俗さも持ち合わせている。
私などはあれほどの血生臭さを見せつけらせると、顔を背けたくなる。妻と娘を連れてきて失敗と思いつつ、様子をうかがっていると、意外な反応が返ってきた。
妻は登場人物の身のこなしにハマったという。娘は衣装の細部の凹凸に感動気味で、色をかぶせない空押しの技法に目を輝かせている。血みどろの情景など見えないかのような反応に、これは男と女の違いなのではないかと、思い始めた。
血を見慣れていない男の興奮が、血染めの美学などと称して非日常化するのに対して、血は女にとって平凡な日常のサイクルでもある。男には死と結びつく血も、女には誕生と結びつくものであるらしい。
確かに先入観を捨てて、登場人物の立ち居振る舞いを見ていると、かっこいい。五条大橋で出会った牛若丸と弁慶の身のこなしなどは、惚れ惚れするほどの一瞬だ。歌舞伎で見栄を切って息を止めた時、決定的瞬間が誕生する。歌舞伎よりも大衆演劇に通底する庶民的感覚が、支持層を広げていったのだろう。
NHKの大河ドラマの今年のヒーローである西郷どんも登場し、タイムリーであるだけでなく、そこには庶民的心情を汲んだ敗者に向ける思いが共有し、大衆的基盤に沿った時代考証の宝庫とも見える。
時事的関心は江戸の瓦版を引き継いで、世情を反映する。江戸の太平が姿を消して、血で血を洗う幕末の日常を身近にした視覚が、底流をなしている。
2017年11月18日(土)〜 2018年1月28日(日)
2018/1/26
藤島武二は女性と風景の魅力が心に残る画家である。個人的には『芳蕙』と『耕到天』を最高と見ているが、前者の出品はなかった。女性像ではなぜか影のある表情が、気になる。健康的な女性の場合でも、深読みをしたくなる魅力があって、思わせぶりな表情とも受けとめられる。
それは風景にも通じ、叙情性を秘めており、ウェットな情景を伝える限りは、風景もまた情感に満ちたものとも言えそうだ。女性を描くように風景を描いているのだという感じがした。
そんな女性像に魅せられたのが、竹久夢二であったようで、武二にあやかって夢二と名乗っている。そして同じく東京芸大藤島教室に学んだ後継者、小磯良平もまた武二の女性観を継承しようとする。師を越えてそこには都会的センスが加味されるとすれば、神戸という町が育てた人格からだったかもしれない。
藤島の場合、鹿児島出身という因子は欠かすことのできないものだろう。黒田清輝にはじまる西洋画のエリートが、アンニュイな時代の気分に浸ろうとしてアール・ヌーヴォーに手を出す。黒田が印象派を受け入れた時代であったとすれば、藤島は世紀末象徴派ということになるだろう。
写真で見る限り質実剛健、骨太の印象を与える風貌は、西郷さんとまではゆかないまでも、風土が育んだ気性に違いない。アンバランスな感性に支えられて、武二の女性像は魅力を放っている。
少し上向き加減に顎をあげる女性がいる。ポスターになったこの表情は、何気ない一瞬ではあるが、深い象徴性を帯びている。類似作の一点では目を閉じているものがあるが、こちらの方はルドンの「目を閉じて」を思わせて興味深い。同じ世紀末の時代、アール・ヌーヴォーとは一線を画して、ルドンの闇が立ち現れる。目を閉じたときの瞑想と恐怖は、闇が象徴する時代の感覚を雄弁に語っている。
それは女性像に伴った蝶や朝顔のモチーフとも連動するものだ。繊細で壊れやすいはかなさが、夢を加速する。片肌を露わにした叙情性は、ともに顔をクローズアップすることで、日本的感性をくすぐろうとしている。うっすらと開かれた唇が、エクスタシーを予感する。