美術時評 2017年12月◀ ▶
by Masaaki Kambara
2017年12月27日~30日
神戸大丸9階(大丸ミュージアム)
2017/12/28
小学校の頃にあれだけのびのびと描いていた絵が、だんだんとつまらなくなっていくのはなぜなのだろう。この疑問は誰もが考えることだ。今回小学校1年から高校3年までの800点近い絵を見ながら感じたのも、そのことだった。ここでの弊害が「遠近法」であることは、一目瞭然としている。低学年から順番に見ていくと、多少の差はあるが、小学校4年生頃から奥行きが意識されてくる。遠くのものは小さく、近くのものは大きく描かれるようになる。
客観的な空間が理解できるのは、確かに成長にちがいない。それは自分自身を客観的に把握することができるようになるということなのだから、社会性の確立という点では大人への成長を意味している。しかしそれは一方で個性をなくして、社会の一員として同じ人格をもつということでもある。突出を避けて、忠実な兵士を養成する訓練にも近い。
遠近法を学ぶということは、世界に同じ見方を強いることでもあって、図面を引くように、完璧な一点をめざして、方向性を確立する。その訓練は自由を捨てることによって成立する。誰もが面白がっていた美術から離れていくのもその頃である。万人に開かれていた美術の窓が閉じられて、一部の専門家の手に委ねられる。今回、各学年で選出された特選作品からその推移を追ってみよう。
小1の「ゆきだるまがどっさり」は、画面にまとまりがあり過ぎるきらいはあるが、中央の大きな顔はこの頃の子どもにしか描けないものだ。自然に描いていて何の屈託もない無邪気さが現れるのだから、子どもは天才だとしか言いようがない。シンプルなのに生きる喜びに満ちている。この時期、絵画は生まれてきてよかったという自己表明に違いない。
小2の「ハロウィンの気きゅう」は、画面を大きな顔だけで埋め尽くしている。すべては正面向きで奥行き感覚はない。自分にとって大切なものだけを画面いっぱいに描く。無邪気さの段階から、怖れの感覚が芽生え、それを絵にしようという意志が開花する。喜びだけではなく、悲しみも絵になるというのが、第2ステップとなる。
小3の「力もちのブルドーザー」は明確な対象に目を向けて、その周辺を含めて絵になることを理解している。目に映るものを平面に貼り付けたコラージュとして絵が成立しており、空間としての統一はまだ見られない。
小4の「チェックローズ」は、コラージュとして画面を構成するのは、前の学年と同一だが、余白を大きく取るという点で、進化と深化が見られる。空白を嫌って埋め尽くすというのは、原始的な本能の名残である。年齢的には大人びて、オシャレ過ぎる気もする。
小5の「古くからある長田神社」では、固有名詞のもつ個性への興味が芽生えてくる。建物を描くが柱は傾き不安定だが、力強い線と色彩によって、他の何者でもないそれ自身がもつ特性を、しっかりと見つめるようになった。
小6の「横尾の町なみ」は、同じくある一定の場所を描こうとするが、さらに空間を広げ町なみにまで達する。遠近法で描くのに適切な場の発見はあるが、3次元描写の方法を十分に把握できていない点が、かえってこの時期にしか描けない個性を引き出した。
中1の「木漏れ日」は、遠近法を理解し、影をつけることで、ものが浮き上がって見えることの発見と驚きが、伝わってくる。光を意識することで写実という新たな概念が、絵の目的となった。絵画を光の問題としてとらえようとするのは、これまでの学年にはなかった動向だ。
中2の「くれなゐのジレンマ」。遠近法を学んだあとで、絵画の自由度を図るなかで登場するのが、想像力の問題だということをよく言い当てている。写実と幻想の背景には、この時期特有の不安定な心情が具現化している。絵画は心の問題を扱うものだという視点が生まれる。
中3の「じいちゃんにはかなわない」は写実をベースにしながらも、表現性を強く打ち出すことで、絵としての個性を実現しようとしている。テーマ性を重視して、身近ななかにも周辺に目を向ける社会性の芽生えも同時に感じ、絵の力を信じ、問おうとする。
高1の「斜陽」は、何気なく見かけた片隅に重ねられた箱のつくる形の面白さに気づき、光の処理によって絵になる光景となった好例である。固有名詞ではなくアノニム(無名)に普遍性を見つけるのが絵画だと主張する。
高2の「冬空」は、視点を低くして見上げることで、対比的に青空へと鑑賞者の目を誘導する。遠近法を効果的に利用し、北斎の実験にも似た西洋絵画の理解と学習の成果をうかがわせる。
高3の「静物(白の構成)」は、もはや子どもの絵では決してない。何気ない光景でさえなく、計算し尽くされた絵画空間の構築をめざす。絵画礼讃のなかには完璧すぎて、この先の展開が見通せない閉塞感も伴っている。
そしてもう一度小1の絵に戻ると、おおらかな自由度を前にして、絵画の可能性に改めて気づくことになるのではないだろうか。
2017年10月28日(土)~ 2018年2月4日(日)
2017/12/28
ボストン美術館のコレクションのデモンストレーションとして見るのが、一番適切な鑑賞法だったと思う。東西の名品を小出しにしたもので、一貫したまとまりはないが、財力を背景に収集してきたアメリカの欲望の形を知るには良い機会となった。
古代ではエジプトだけが紹介されるが、作品よりもそれがアメリカに入ったいきさつの方に、注意がそそがれる。古代エジプトの収蔵品はボストン美術館がハーバード大学との共同で発掘した成果だった。
驚いたのはエジプト政府が、発掘品の半分をボストン美術館の所蔵品となる約束を交わしたことで、当然なのかもしれないが、アメリカの古美術収集の一端を見た気がした。
東洋美術の収集では、モースやフェノロサの名とともに岡倉天使の名が、クローズアップされており、ともにボストン・コレクションの充実に貢献した。起業で財をなした富豪が、美術品を収集して、美術館に寄贈する。
取っ掛かりは明治のはじめに日本にやってきた学者たちが、学問そっちのけで日本の古美術を買いあさったことにあった。西洋文化がいっときに日本に流入し、価値観が変わり西洋一辺倒のなか、日本美術が大暴落するなかでの狂騒だった。中国美術までも日本から流出したものもある。
13世紀の九龍図巻は、今日の中国にも残らない名品だ。墨のもつ深い精神性が、中国画の伝統を伝える。墨の深い味わいは、印刷インクでは再現できないものだ。加えてぼかしのなかから、かすれの狭間で出現する龍の顔に、怖れともつかない厳かな気分がただよう。
10メートルに近い一巻に、封じ込められた9体の龍がひしめき合っている。数百年の時を隔てても、褪せることのない墨の魔力を前にして、原色を閉じ込めたかのような中国の発明の驚異にあらためて感じ入る。