美術時評 2018年3月◀ ▶
by Masaaki Kambara
2018年2月14日(水)~4月8日(日)
2018/3/31
寛永の美が、いかにして独自の文化を築き上げていったのか。野々村仁清の冒頭に飾られた椀によって語り尽くされている。大きさからすると少し大きめの茶碗サイズであるが、陶芸による籠の挑戦でもあって、もちろんこれではお茶は飲めない。穴の空いた器という禅問答のような造形に、不条理の美学を感じ取る。
真っ白なボールはプラスチックでできたデザイナーの発案であるようで、現代の造形と言い張ることも可能だ。スポットライトで映し出すと、鮮やかな照明器具にさえも変貌している。何と斬新なという驚きは、色絵を誇る仁清にして可能な、形を見せようとして色彩を切り落とした潔さにあるようだ。それは桃山の気分を憧れる格好の逸品だと思った。
展覧会のテーマは、寛永の雅とある。江戸に入り、桃山が遙か遠くに退く中で、もはや戻れないと知りながら、豪壮を内に秘めた白無垢の世界を築き上げる。探幽は永徳を、遠州は利休に想いを馳せる。そして仁清もまた大胆と無骨というには遅れてきたという自覚が、自ずと表明されていく。「きれいさび」と言ってしまうと一言で終わってしまうが、そこには管理社会の平和装置としての美術の役割を自覚した、意志の力が滲み出ている。
誰にも対応する許容性は、教養という名がふさわしい身の処し方や、立ち居振る舞いの中に、集約されていくものだ。天才というよりも秀才に違いなく、破天荒を面白がる桃山の風潮は、影をひそめることになる。探幽を筆頭とするエリート集団に接して、私などは何の魅力も感じないが、探幽縮図を見ながら、秀才が努力を重ねる姿を前にして、これに感心してはならないという芸術論が頭をもたげてくる。
一匹狼のように諸国を放浪する自由がもたらす美の結晶に密かに想いを馳せる。雪舟のように、あるいは宮本武蔵のようにである。寛永年間はすべてが国を治めるという幕府のもとで、一元化されていく姿が読み取れて、どこかで物足りなさが残る時代だったのではないかと感じた。乱世への思いが狩野派をよそに琳派となって結晶したのだと思った。
2018年1月8日(月)〜3月31日(土)
2018/3/31
映像に集約されるが、マルチメディアを駆使するタレント性が、際だっている。静止画の写真パネルとスクリーンとモニタ映像を通じて、独特な世界観が伝えられる。キリスト教に根ざしたヴァンパイアの登場は、日本人とは無縁のものだが、ファッショナブルでスタイリッシュな映像美は、テンポのいい音楽がかぶさって、見ごたえのあるものだ。若者たちが狭い空間に座り込んで見入っているのが、印象的だった。
すでに没後5年を経過しているが、現代の若者の感性をとらえているようだ。非日常的な劇的空間に誘われるが、重苦しくはなく、インパクトの強い割には、さわやかなフィクションとして記憶される。白塗りにされた顔は見分けがつかないが、演劇的世界に誘う。
日本流に言えば、歌舞伎の顔の白塗りや大駱駝艦の舞踏と比較してもいいかもしれない。ドラキュラやジキルとハイドを思い浮かべると、西洋的風土に根ざした正統なイコノグラフィーに支えられていて、アメリカ社会が強くヨーロッパ中世を引きずっているのがよくわかる。
この日は、根津、ワタリウム、サントリーという道順優先の美術館めぐりとなった。古美術にはさまれて対極にある体感は刺激的で、マイク・ケリーをサントリーに展示して、客層を逆転させてみても面白いのではと思った。若者にはもっと古美術に触れてほしいし、年寄りは若者文化を理解する必要があるはずだ。根津に常連の和服の婦人たちが、ワタリウムの狭いエレベーターに乗り込む姿を、想像してしまった。それはこの界隈のもつオシャレな視覚になじむものに違いない。