2018年2月10日〜4月15日
トヨタ博物館
2018/3/29
車にはあまり興味はないのだが、60年代に興味があって訪れた。しかし見て回るとぴかぴかに磨かれたクラシックカーは圧巻。60年代への興味も吹っ飛んで、草創期のセレブな自動車にのめり込む。とにかくでかい。車体も高く、そこから降りてくるパラソルをさした貴婦人の姿が、私の目には見えている。
それが60年代、70年代ともなると、生活臭がし始めてくる。優雅に動いていたはずのゆったりとした形が、効率的かつ省エネに座を奪われる。ぎりぎりの団地サイズに収まりをつけようとする姑息さが目につき、それがカーデザインにまで反映している。
歴史のヴェールをまとってはいるが、すべてが新車かというほどの、磨き込まれた輝きを前にすると、博物館という役割が希薄になる。トヨタという企業体が運営するのだから、当然といえば当然だが、巨大な展示スペースに膨大な数の自動車が並ぶ光景は生産工場か、販売を目的にしたショールームを思わせ、博物館という概念を越えるものだ。
もちろんこんなスペースを都会の真ん中に見つけることは不可能で、その分名古屋からは地下鉄の終点から、リニアモーターカーまで乗り継いで訪れることになる。芸大通という駅名から、愛知県立芸術大学は、こんな僻地にあるのだと知った。多くの作家を輩出した名門である。もちろんトヨタの方が、世界的ランキングにあるが、トヨタ博物館前という駅名にならないほど、ミュージアムとしての知名度は低いということだ。
訪問者も限られているが、見ごたえは十分にあり、美の殿堂を思わせ、満足感を与えてくれる。たまたま昨夜BSで「真夜中のレーシングカー」というこの博物館を舞台にしたドラマを見たが、そこでももっぱらナイト・ミュージアムの神秘をうまく引き出して、動かない展示品が暴走を予感させるファンタジーとなっていた。こんな博物館があったのだというデモンストレーションには貢献したはずで、これからは観客は増えてゆくだろう。
博物館にはその名にこびり付いた体臭がある。それは美術館とは一線を画すポリシーを保つものだ。しかしここでは博物館という自動車の性能やエンジンを解体して、機械としての側面を見せる歴史教育を投げ打ってまでも、カーデザインを見世物とするキュレーションが読み取れる。そこには車を美術品として見ようとする信仰心がうかがわれ、私には好感がもてるものとなった。ガソリンの匂いが全くしないのだ。
そこではすべてが形と色に集約されている。車の発明から編年順に追い、社会の反映をそこに見ようとする。車だからトラックやトラクターやバスがあってもいいのだが、自家用車とレーシングカーに限定することで、くっきりとした時代の潮流が読めてくる。
イタリア人の美的センスに驚嘆し、アメリカ人はそれに対抗するのはやめて、大は小を兼ねることを第一に考えることになる。これに反して日本車は小は大を兼ねないのかと、禅問答を繰り返す。スピード感は流線型を正当化するが、実際のスピードよりも、スピード感を求めたというのは、アートとしての志向に身を委ねたということだ。
色と形に全てを集約するのは、美術の本質であって、技術や思想を通して個人や社会を見つめ直す実験でもある。今までにない新しい表現を求めて、こんなにも変貌してきたのだというのがよくわかる。その限りにおいて近代絵画史の変遷を見るように、20世紀を10年刻みで説き起こすことも可能になっている。
常設展示ではこの歩みを視覚化し、企画展では60年代をターゲットに、生活文化の中に車をぶつけて見せた。学術的成果とまではいかないが、車を通して時代を読み解く有用性を気付かせてくれた。図書室も充実して、車に関する洋書や雑誌が、十分に研究者に提供されている。
タイヤを付けた車両は、鉄道への挑戦である。ゴム靴の足に響く屈伸力のようなリニアモーターカーには、のんびりとした浮遊感を体感させようとする意図も見えてくる。本来は未来の乗り物なのにスピード感はなく、ゆったりとした歩みは、自動車産業の自戒の念でもあったようにも解釈できる。そのかすかな振動は悪くはない。ゆるキャラの歩みにも似て、速度を目指した現代社会の反省にも思える。
加速化するレーシングカーから見える疾走する風景ではなくて、それとは対極にある車体の高いオープンカーから見渡す安定した風土を見つめ直すことになる。地球環境の再認識とも取れるが、車は大地を離れることはできないのだ。研究の方向は、車社会の過去の検証だけでなく、スピード感から脱した21世紀の車づくりを見守りたいと思った。