ダ・ヴィンチ・コード、天使と悪魔、インフェルノ(2016)

ダ・ヴィンチ・コード

考えてみれば私はロン・ハワードの監督した映画ってほとんど見たことないのよね。弟のクリント・ハワードがなぜか好きで、「デビルスピーク」見に映画館に通ったこともある。そう、豚が女の人食べちゃうやつ。趣味が悪いなんて言わないでね、この映画男性版「キャリー」には違いないけど、ホラー映画としてけっこうよくできているのよ。さて「ダ・ヴィンチ・コード」、吹き替え版見た後字幕版も見ましたよ。どちらもものすごくこんでいるということはなくて・・。年配の夫婦が多いのが目立ったな。ストーリーわかりました?評判が悪いみたいだけど、私はそんなことはなくて、何度でも見たいと思ったな。150分は長いなあと思ったけど実際見てみるとそんなことはなくてあっという間。退屈しない。原作を読んでいるとは言え、やはり映画ではいろいろ変更されているのでわかりにくいところはある。だから二回目はその点に注意して見るとか。わかりにくくしてあるのはリピーター増やすため?解説本売るため?主流であるラングドン、ソフィー、ティービングの三人に関してはほぼ原作通り。脇であるアリンガローサ、ファーシュの方は変更してあるしわかりにくい。特にファーシュは、せっかくジャン・レノという大物出してきているのにもったいない使われ方。原作でも途中からどうでもいいような存在になっちゃっているけど、せめて映画ではもっと役割増やして欲しかった。後ろ向いてケータイかけているんじゃ存在感うすい。アリンガローサもどういう意図を持って行動しているのか、あれではわからない。まあ変更されている部分は、原作とは別に、ああなってこうなっているんだろうと想像する楽しみがあるからいいんだけどさ。トム・ハンクスにしろオドレイ・トトゥにしろ、役に合ってるとは思えなかったんだけど、見てみたらそうでもなかった。ハンクスは原作のラングドンより年齢が上に思えるし(実際ラングドンがいくつなのかは原作にも書いてないから不明)、トトゥはソフィーより若い。原作のようなロマンスムードはこの二人には生まれなさそう。親子に見えてしまう。もっとも余計なものくっつけなかったおかげで150分だれずにすんだんだけどさ。ハンクスは大スターだけど、「オレがオレが」的なところがない。その風景の中にぴったりおさまって、その一部になることができる。

ダ・ヴィンチ・コード2

それでいてラスト部分のような、すべての謎が解けてパズルが完成するようなシーンで、例えば歩くとかひざまずくとか、そういう何でもない仕草でセリフなんかなくてもドラマチックに見せることができるみたいな、そういうところには感心した。なかみの濃い人なんだと思う。トトゥは精一杯大人の女性に見せているという感じ。あのヘアスタイルはちょっと鬱陶しいし、化粧も濃い。もっと短くて軽やかな髪の方が似合うと思うし、素顔っぽい方が本来の彼女らしい。全体的にちょっと余計なものくっつけている感じなのだが、そうやっていてもやはり清純さとかすがすがしさのようなものがにじみ出ているのは若いせいだろう。足もびっくりするくらい細くて・・。ソフィー・マルソーの方がぴったりなのに・・と見る前は思っていたが、まあトトゥもよかったですよ。ただ彼女の英語はちょっと聞き苦しかったかな。見ていて楽しかったのはイアン・マッケラン。「ゴッド」のホエールほうふつとさせる名演技、はまり役。作者はジャン・レノをイメージしてファーシュを書いたそうだが、私にはそれ以上にマッケランをイメージしてティービングを書いたとしか思えないな。位とお金には不自由しない変人。ごうまんでいやなやつなんだけどユーモアもある。ラングドンに変なクイズ出して、正解すると「君の心は清らかだ」とか、イギリスの警察に銃を突きつけられて「撃つなら撃て、でも彼(執事)を先に」とかさ。ホント楽しいの。ファーシュがルーブル美術館のピラミッドを「パリの顔につけられた傷だ」と吐き捨てるのとは大違い。ファーシュにはユーモアがない、通じない。原作のティービングは赤ら顔で恰幅がいいからマッケランには似ていない。でもねえなかみはホント似ているし、彼も楽しそうに演じているの。マッケランには素の部分で反骨精神旺盛っていうイメージがある。カンヌでの会見で「キリストは結婚していたと思う。キリストがゲイじゃないと証明されたんだからいいじゃないか」みたいなこと言っていて、それまで隣りで神妙な顔していたアルフレッド・モリーナが大口開けて笑い出したのがとても印象的だった。いかにもマッケランらしい。不謹慎というのではなく、神よりも人間の方が大事ってことだ。シラスは・・ベタニーは・・目が赤くなかったぞ。

ダ・ヴィンチ・コード3

この映画は過去の部分とかかなり挿入される。歴史的な部分の再現は(古代ローマとか十字軍とか)CG多用して、でも手もかかっていて見ごたえがある。一回見ただけでは何がどうなっているのかよくわからないけど、まあ何とか伝えようと努力しているのはわかる。でも個人の回想の部分は・・こっちの方が簡単だろうにあんまりよくないの。特にシラスの方は・・機械乾燥じゃなくて天日干しにして欲しかった・・って違うがな!!そうじゃなくてもう少し、いやもうほんのちょびっとでいいんです、めめっちょ(方言です)でいいんです。シラスとアリンガローサ司教との出会い描いてよ。そりゃ先を急ぐのはわかるけどさ。でも・・1分もかからん、30秒あれば描けるじゃん。彼は父親殺して監獄に入っている。ある時地震で監獄が倒壊し、脱走するけど疲れて倒れたところをアリンガローサに救われる。ムービー・ブックに写真が載ってるからちゃんと撮影したんでしょ。誰だよカットしたのは!誰だよベタニー様の出番削ったのは!あれじゃ何でシラスが寝ていてアリンガローサが看病しているのかわからないじゃないですかッ!原作読んでいない人のためにも描写お願いしますってば!・・ってもう遅いか。ベタニーせっせと素っ裸になっていましたな。ソニエールもなっていたって?いや、あんなジイさんどーでもよろし。服を脱ぐヒマあったらもっと別のことできたと思うが・・。ベタニー「ロック・ユー!」でもいきなり全裸で出てくるし、本人あんまり気にしないみたいだしぃ。シラスがなぜああいう行動を取り、それについてどう思っているのかは、映画では表面的にしか描かれない。ムービー・ブックによればセーヌ川を見つめ自殺を考えているが、自殺は罪なので実行できずにいる。頭の中をよぎるのは四人を殺した記憶。他に修道女もだけどさ。そういうのが省略される一方で、「肉の苦行」は念入りに描写される。前にも書いたけど私は映画を見る前にさんざん妄想していて、実際のシラスはその妄想とはだいぶ違っていたけど、でも別に失望はしなかった。妄想は妄想でこれからも楽しむからいいんでーす。映画はベタニーが出ているだけで、見ることができるだけでうれしいんですの。いかにもストーリーに都合のいいうすっぺらな背景しか持たされていないんだけど、それでもいいんでーす。

ダ・ヴィンチ・コード4

ソフィーは背景がいっぱい描写されているからその存在に説得力があるかと言えばそうでもないでしょ。ソフィーと祖父ソニエールとのかかわりを説明するシーンは何度も出てくる。お客が知りたいのはなぜ二人が疎遠になったかということだ。自分の家族のことを知りたくて調べていたらこっぴどくしかられて、そのせいで祖父が嫌いになったのならそれでいいじゃんよ。その後でソフィーが覗き見してショックを受けた秘密の儀式は原作にもあって、ラングドンが意味を説明するからいいけど、映画では何の説明もなし。原作読まないで映画だけ見ているお客にはソニエールがああいうことをしている意味が理解できない。だったらお客混乱させるだけのこんなシーンカットすりゃいいのに。そのぶんシラスのシーン入れろ!ところで映画では、原作にはないソフィーの不思議な能力も描かれている。男性にお金を渡して、麻薬を打とうとするのをやめさせるところ。ハンドパワー(?)でラングドンの閉所恐怖症を癒すところ。ティービングの執事に撃たれそうになった時鳥が飛んで、そのおかげで逃げ出すことができたこと。あのシーンには心の中で笑っちゃいましたよ。教会、ハト・・ジョン・ウーの「フェイス/オフ」じゃあるまいし・・。そうやってソフィーの正体をそれとなく描く一方で、飛行機の中でシラスに厳しく詰め寄るシーンも入れる。聖なる女性であると同時に、いささか暴力的な女性でもあるソフィー。人間なら矛盾した面を持っていて当然だけど、乱暴な部分を見せたことで彼女のイメージが混乱したことも確か。最後には彼女こそキリストの末裔だということがわかるのだが、わかったからってどうってことない。少なくともキリスト教ではない私には、キリストが人間だろうが神の子だろうがどっちでもいいことで・・。結婚して子供がいたからってどうだって言うのよ。そういうことを抜きにしても、真相の究明だの殺人だのと、いったい何をやっているのかね。世界は、歴史は、人間は、キリスト教だけで成り立っているんじゃないよ・・って言いたくなる。まあとにかく私はソフィーの素姓なんかどうでもよくて、シラスとか修道女のサンドリーヌの方に興味が引かれたな。この世にはサンドリーヌのように表面には出なくて、ずっとその役目を果たし、二重の生活送っている人が必ずいると思う。そしてシラスのように利用され、死んでいく者も。

ダ・ヴィンチ・コード5

ティービングが、歴史に立ち会える喜びを述べていたが、そんなことができるのはほんの一握りの人間。ほとんどは浮かび上がることもなく、時の底に沈んでいく。さてシラス・・父親は白子の彼を忌んで幽霊と呼んだ。彼も自分は幽霊だと思っていた。しかしアリンガローサは彼を天使と呼んでくれた。アリンガローサによってシラスは幽霊ではなくなった。自分のような者でも人の役に立てるのだ。神の戦士として戦うことができるのだ。警官に撃たれたシラスは「私は幽霊だ」と言って死ぬ。恩人のアリンガローサを撃ってしまった自分はもう天使ではいられないということなのか。すること(使命)があった時には天使(あるいは人間)でいられたけど、するべきことがない今では幽霊も同然ということなのか。それとも結局自分は天使でも人間でもなく、生まれてから死ぬまでずっと、何を成し遂げることもできない透き通った幽霊みたいな存在だったことに改めて気づいたのか。気がつけばまたもやあれこれ妄想している私・・。この映画はクライマックスがどこなのかあんまりはっきりしないという珍しい映画。ラングドンがクリプテックスを投げた時なのか、ソフィーがキリストの末裔だとわかった時なのか、それともラストシーン?私的にはモチ、シラスが息絶えたシーンがクライマックスですよ(それ以降はどーでもいい!!)。ソフィーがロスリン礼拝堂で実の祖母と再会するシーンは、原作と設定が違っているせいでちーとも感動できん。そりゃソフィーの兄も実は生きていた・・となると、ソフィーの存在価値は半減しちゃうからムリないんだけどそれにしたってねえ・・。ロスリン礼拝堂のガイドの青年が登場した時には、原作を読んでいるお客全員思ったはずよ、あッソフィーのお兄さんだ!ってね。その上ソニエールも本当の祖父じゃないってことになってるし・・別に変更する必要ないのに。いろんな謎を解き、犠牲者も出しながらロスリン礼拝堂までたどり着いたわけだけど、考えてみりゃ祖母がソフィーに電話一本かけりゃそれですむことで・・。2時間以上かけて見てきたことが、何の意味もないことのように思えてしまうってのはまずいよなあ・・。設定が違うと言えばファーシュ、アリンガローサ、ヴェルネもそうだ。変更だけで説明は省かれているので見ていても何が何だかよくわからない。

ダ・ヴィンチ・コード6

アリンガローサはかなり腹黒い感じになっていて、あんなふうに描写されたのでは実在のオプス・デイが不快に思って当然だ。原作では殺人とかそういうの絶対なしという条件でシラスを導師に貸したのに、映画では違う。アリンガローサがファーシュにこれから殺人事件が起きるという情報を与えていたってことは、シラスが人を殺すって見越していたわけで。だからシラスに「私達は裏切られた」なんて言うのはおかしいのよ。あの時点では誰にも裏切られていない。どっちかと言えばアリンガローサ、あんたがシラスを裏切ったんでしょーが!原作ではシオン修道会の四人だけでなく修道女サンドリーヌまで殺されたと知り、アリンガローサは驚愕するわけ。あんなに尽くした(財政的援助)のに心変わりした(オプス・デイのやり方は古くさい。今はもっとナウいやり方でないと信者はついて来ないんだぜい)バチカンから別れ話(手切れ金つき)を持ち出され、動揺したところを謎の導師につけ込まれたアリンガローサ。彼はむしろ被害者なのよ。でも映画では違う。バチカンとの別れ話なんて出てこない。ファーシュとアリンガローサの関係も不自然。不自然と言えばチューリッヒ保管銀行パリ支店長ヴェルネがなぜ態度を豹変させるのかも謎だ。結局彼は裏では誰かの指示を受けていたのか。ティービングの?アリンガローサの?しかも20年間も?せっかくユルゲン・プロホノフが出ているのに、こんなあいまいな使われ方じゃ気の毒。とにかく突っ込みどころ満載で、何でこんなふうにしちゃったのかしら。もっとマシなものにできたのに時間がなくて直しきれませんでした・・って感じなのよ。しかし・・それでもなお・・私にとってはおもしろい映画だったのよ。何度見てもあきないような。まずこの映画風景がいい。珍しくアメリカは出てこない。キリストの時代、十字軍の時代、アメリカってどうなっていたの?世界史の表舞台に出るような出来事ってある?ヨーロッパは・・描く対象に事欠かない。あれやこれや人間は自分の信じるもののために、あるいは自分の信じないもののために戦っている。ルーブル美術館、テンプル教会、ロスリン礼拝堂・・いろいろ出てくる中には合成のものや作り物もあるのだろう。でも私にはほとんどわからなかったな。

ダ・ヴィンチ・コード7

出かけずして世界中の壮大な建築や貴重な美術品を見ることができるなんて、映画ならではだ。人はこんなにもすばらしいものを作り出すことができる。音楽もとてもよかった。最近では必要以上に大きな音だったり、落ち着かない気分にさせられたりと、興をそがれることが多いのだが、この映画の音楽は全体的にマイルドで、神経にさわるようなものではなく、それがとてもありがたかった。近頃では珍しく音楽によって感動することができた。特にラスト、最初見た時は聖杯の位置が(原作と違って)はっきりわかりやすく映像化されていて、その流れるような映像と感動的な音楽との相乗効果で胸が熱くなった。二度目に見た時もやはり同じ感動を味わったが、別の発見もあった。事件が解決し、ホテルに戻ったラングドン。ヒゲをそっていて手元が狂い顔を切ってしまう。その血が洗面台を流れるのを見てあることに気づく。急いで自分の新刊著書を調べる。彼はそこにローズ・ライン(子午線)のことを書いた。今はイギリスのグリニッジが標準だが、古くはパリにもあった。そしてその一部はルーブル美術館を通っている。ローズ・ラインの下に聖杯は眠っている。ラングドンは自分でもその重要さに気づかず著書にローズ・ラインのことを書いていた。ルーブルの館長ソニエールが突然ラングドンに会いたいと連絡してきたのは、彼の著書を読んでびっくりしたからだ。ソニエールがラングドンの著書を読んでいたことは、彼が殺された後、彼の執務室でファーシュが本を手に取って問題のページを見ていることでわかる。原作ではまだ原稿の段階で、ラングドンの知らない間に編集者がソニエールに見せたことになっている。映画のように出版ずみということは・・本を読んで聖杯のありかに気がつく者がいるかもよ。まあそれはともかく、最後の最後で聖杯の真のありかと、ラングドンがこの事件に巻き込まれた本当の原因がこれで見ている者にわかり、するするっとパズルが完成し、この映画は誠に気持ちよく終わるのである。うまいなあーと感心させられる。洗面台に流れる血も原作にはないが、いい表現だと思う。ムービー・ブックによればルーブルの地下に人知れず眠るマグダラのマリアの棺の彫像は、ソフィーにそっくりの顔らしい。今度見る時はその点に注意して見てみよう。

ダ・ヴィンチ・コード8

人によってはこのラスト部分の意味がわからないらしい。私も原作を読んでいなかったら、読んでいても映画を一回見ただけではよくわからなかったと思う。やっぱりリピーターの獲得狙っているのかな。原作や解説本の売り上げ狙っているのかな。・・宗教は難しい。宗教のせいでどれだけの人が命落としたかわからないし、逆にどれだけの人が救われたかもわからない。自分以外のもののことを考えることができる人間であるからこそ宗教は存在する。人間がいなかったら、あるいはいても知能がなかったら宗教も神も存在しない。一人でも知能のある人間が存在すれば宗教・神は存在できる。人間がいればその人数分、宗教・神が存在する。全く同じものを信じるのはムリだ。全く同じものを信じていたとしても、その信じる人間の方に必ず違いがある。キリストが人間で、結婚して子供がいたと証明されたとして世界は引っくり返るのかな。「抹殺者」の中で言っていたように多くの信者はそれを信じないのではないかな。人は自分の信じたいものを信じる。こんなこととくらべたら怒られるかもしれないけど、振り込め詐欺に引っかかる人がいっこうになくならないのもそのせいでしょ。どう考えたっておかしいんだけど、自分の頭の中にそれを信じたい部分がある。お金で子供が助かるなら・・って。また「SPIRIT」の中で言っていた言葉で、武術を宗教、流派を宗派に置き換えると・・「どの宗教・どの宗派がすぐれているということはない。どの宗教も宗派もすぐれたものである。問題はそれを信じる人間がどうかということである」になる。ラングドンがソフィーに言う「大事なのはただ一つ、君が何を信じるかだ」という言葉があるが、この場合大事なのは「君が」なのかしら「何を」なのかしら。ソフィーの言う「私は人間を信じる」という言葉。重きを置いているのは「私は」なのかしら「人間を」なのかしら。よくわからないけど私には「君が」や「私は」の方に思えるな。「自分が」どう思うかが大事。同様に何を思っているにせよ「自分以外の人間」も大事。自分だけが、自分の宗教だけが、自分の宗派だけが正しいなんて思うのは間違いだ。さてそれでは私はどうだろう。確固たる信念も宗教観もあるとはとても言えない私だが「信ずるものがあったとして、それを信じている私自身は人間としてどうなのかな」と思う方ですな。

天使と悪魔

「ダ・ヴィンチ・コード」のDVDは三種類出たのかな。一番高いものでは劇場公開版より30分長いのが見られるというので、欲しかったけど、1万円くらいするのであきらめた。クリプテックスのおまけなんかいらないから、もっと安く長尺版が見られるようにしろッ!きっとその中ではシラスとアリンガローサの深い関係が描写されているはずで・・ああ!今回の「天使」もまた高い長尺版出すのかしら。おまけは・・ヤキゴテセットだったりして。映画を見る前、古本屋で原作買って全部読んだ。読んでから見るか、見てから読むか・・決まってないけど、今回は読んでから見た方がいいような気がした。「ダ・ヴィンチ」でわかったけど、原作も映画も薀蓄だらけ。今回もきっとそうだろう。字幕見てすぐ理解できる情報量には限度がある。あまり若いとは言えない私・・流していいものと気にとめておくことの選択がすぐできない。みんな覚えておこう・・とがんばっちゃう。それで2時間以上は疲れる。それを軽減するには・・予習しかないね。さて、田舎にいるせいか「ダ・ヴィンチ」ほどの熱気を感じない。テレビでの宣伝や関連本の発売・・やっているんだろうけどこっちまで届かない。ダ・ヴィンチに代わって今度はガリレオ。でもダ・ヴィンチ同様映画ではさほど重要じゃない。イルミナティだの何だのと騒いでも、どうもぴんとこない。つまりブームに乗れない。私がこの映画で気になるのはユアン・マクレガーが出ていること。これが最大の興味!!こういう知的な大作って彼のイメージからははずれてる。しかも聖職者!?曲者ステラン・スカルスガルドが出ているのも気になる。「マンマ・ミーア!」は結局見逃した。と言うか、彼がああいう映画に出ていることが今でも信じられないんだけど・・。公開一週目、平日昼間、お客は16~18人。シネコンで一番大きな部屋だと思うけどガッラガラ。土日にはもっと入るのだろう。始まるや否やあの懐かしい曲が!そのことにまず大感激。でも・・全編通して音楽がやたらうるさいんだよな、何で?一番大きなスクリーン・・ってことは音響設備も一番いいんだろう。でも・・じわじわ~っとくるものがない。「ダ・ヴィンチ」のサントラ買ったのはじわじわ~っていう感動があったから。にじみ出てくるもの、わき起こってくるものがあった。

天使と悪魔2

でも今回は・・上からドッカンドッカン降ってくる音楽。後ろからしつこく追ってくる音楽。安らぎというものがない。感じるのは焦燥。映画もそう。あれもこれもすっきりさっぱりばっさり削り落としている。と言ってスカスカでないのはさすが。これとこれは一つにまとめて、このセリフはこの人じゃなくあの人に言わせて、過去は取っ払って能率よく簡略化。見通しがいい。その手際には感心させられた。「ダ・ヴィンチ」より12分短いし。でもそのせいか忙しいこと忙しいこと。謎解きと観光・・ここと思えばまたあちら、えり首つかまれてローマ中引きずり回されているよう。トイレ休憩も食事休憩もなしってか?原作を読んでいるからどこが省略されているのかわかる。原作ではセルン(欧州原子核研究機構)の科学者ヴィットリア(アイェレット・ゾラー)は養父レオナルドとともに反物質の抽出に成功するが、レオナルドは殺され、反物質は盗まれてしまう。当然ヴィットリアは養父を殺した犯人を憎む。復讐したいと思う。だから熱心に動き回る。しかし映画では殺されるのは同僚。父親と同僚では憎しみの度合いが違う。そのぶんヴィットリアのキャラがうすまる。原作では一緒に行動するうち、ヴィットリアとラングドン(トム・ハンクス)の間にある種の感情が生まれる。ヴィットリアが暗殺者にとらわれ、命が危ないとなれば、ラングドンは気がかりで仕方ない。しかし映画ではそういうシーンはなし。二人の関係は友人・協力者程度。この映画にはお色気が欠けている。私はその方が好みだけど。ゾラーを見ながらオドレイ・トトゥのソフィーとは違う扱いされているなあ・・と。ソフィーには女らしさ、愛らしさ、危なっかしさ、背負った運命の重さなど、いろんなものがくっつけられていたが、ヴィットリアには・・。物語の進行役、ラングドンの薀蓄の聞き役くらいの役目しか与えられていない。いつもさっさと行動していて(貴重な古文書ためらいもなく破り取るとか)、そっけない。背景の一部のようで、終わっても顔が思い出せない。正直言ってヴィットリアのような女性にはあまり魅力を感じない。映画では大がかりな実験をうつす。危険な実験でもある。この反物質が盗まれ、クライマックスでは大爆発を起こす。実験の成功や真理に一歩近づくことと、平凡だが安全な日々を送れることのどちらが大事と言えば、もちろん後者である。

天使と悪魔3

少しくらい不便でも、わからないこと(宇宙の起源とか)があってもいいじゃないか。しかし科学者はそうはいかない。まあ何かを知りたいと思うのは人間の本能でもある。ただこのヴィットリアのように、意欲的ではあるがまわりへの配慮がやや欠けたキャラ見せられると・・。反物質が悪用されたら大変なことになるから捜し出して欲しい。彼女はそのためにラングドンらと奔走するが、もし爆発して大きな被害が出たらどうしようとか、どうやって責任取ったらいいのとか、私がやってきたことは正しかったのかしらとか、そういう恐怖・心配・迷いは全くない。今回のこと(悪用されそうなこと)は別に彼女だけの責任ではないが、私から見ると彼女は何も感じなさすぎる。事件が解決しても「ご迷惑をおかけしました」とかそういうのもない。誰かに似ているなあ・・ああ「フライトプラン」のヒロインだ。信念を貫き絶対あやまらない。りっぱな人には違いないが、何かが欠けてる。とは言え、映画のヴィットリアはまだマシな方だ。二回目を見た時、たいていのシーンで彼女は後ろへ追いやられていた。つまり扱いが控えめだった。原作だと騒ぎがおさまると早速ラングドンとラブラブである。いい気なものだ・・と言うか、結局女性に与えられる役はそれしかないのだ・・美しく官能的であるべし。その後書かれた「ダ・ヴィンチ」に彼女が登場しないってことは、ロマンスは長続きしなかったんだろう。さて、セルンから盗まれた反物質は、どうやらバチカンの某所に隠されているらしい。物質を浮かせている装置のバッテリーが切れると爆発を起こし、大変なことになる。おりしも教皇が死去し、コンクラーベが始まるところ。広場には信者、観光客、マスコミが詰めかけている。ところが次期教皇の有力候補である四人の枢機卿が行方不明になっている。誘拐され、1時間ごとに殺されるらしい。犯行声明を出したのはイルミナティ。もう存在しないはずの秘密結社。原作ではラングドンらの必死の努力も空しく、四人とも殺されてしまう。そのため教皇に選ばれるのはコンクラーベの進行役モルターティ枢機卿である。映画ではシュトラウスという名に変更され、アーミン・ミューラー=スタールが演じている。原作と違い、四人目が助かるので、その人が教皇になる。候補者達の殺され方はいずれも残忍なので、四人目は何とか助かるという変更にはホッとさせられた。

天使と悪魔4

暗殺者役はニコライ・リー・コス。「ダ・ヴィンチ」でのシラスのような役回りだが、シラスのような過去も苦悩もくっつけられず、さっぱりしたもの。手際がよく金のためと割り切っているので、対象外のラングドンやヴィットリアには手を出さない。原作だともっと欲望でぎらついていて、ヴィットリアに危機が迫ったりするが、こっちはそういうのなし。手を出してると時間くう。作り手はさっさと次へ行きたい。暗殺者は仕事を終え、報酬も口座に振り込まれ、用意された車に乗ってにんまり。でも次の瞬間車は爆発する。作り手は、(暗殺者が)ラングドンやヴィットリアと戦った末、墜落死するという地味な(←?)原作での死に方より、ハデな爆発見せたかったらしい。それはいいけど犯人はどうやって爆弾を用意し、車に取りつけたのか。部下がいるのか。いいや、誰もおらんぞよ。秘密の抜け道(パセット)使って密かに行き来していたのか。でもあれ一方通行のような・・。それに忙しいのにそんなヒマあったのか。お金はどうやって工面したのか。いつ口座に振り込んだのか。今は銀行へ行かなくてもパソコンで出し入れできるのか。この映画で「ダ・ヴィンチ」と共通しているのは、ラングドンだけ。トム・ハンクスはちょっと老けたと言うか、たるんだと言うか、むくんだと言うか。それはリヒター役スカルスガルドも同じで、「不眠症」でも書いたけど膨張してます。生身の人間だからいつまでも同じでいるのは無理なんだけど、どうしても前の・・若い頃のイメージがちらつくね。この二人にくらべれば、ユアンはまだ若い。今回は当然のことながら髪も服装もきちんとしているし、ヒゲも生えてない。純粋で清らかで透明な感じ。原作を読んでいて一番好感の持てるキャラはカメルレンゴ(教皇の侍従)であるカルロ。グリーンの瞳に神の光を宿した信念の人。原作だとBBCの記者が登場し、事件を嗅ぎつける。イルミナティの存在を隠すのは無理・・と判断したカルロは、コンクラーベを中断させ、マスコミを逆に利用し、礼拝堂内の枢機卿達、広場の民衆、視聴者達に訴えかける。科学によって宗教は危機に立たされているが、科学は万能ではない。科学だけが人類を幸せにするのではない。彼の言葉は心からのもので、堅苦しく古くさい宗教観からも抜け出している。誰にでも理解できるわかりやすい言葉で誠実に語るから、人々は心を動かさずにはいられない。

天使と悪魔5

この部分・・宗教と科学は両立できる・・は、この小説の中でも最も感動的で説得力がある。したがってこれが映画の中でどう描かれるのか、すごく楽しみだった。しかも、カルロにあたるパトリック役はユアンだ!きっと大きな見せ場になるだろう。でも・・ああ、演説はあったもののあれでは・・。イルミナティや反物質によってバチカンが非常に危険な状態にあることが、マスコミにもれ始め、人々が混乱しているのを鎮めるためカルロは行動を起こしたのだ。その行動までの積み重ねは読んでいてわかる。でも映画では・・彼は枢機卿達の前で演説する。民衆やマスコミ関係なし。しかもそのタイミングがいかにも唐突。原作を知らず見ている人は、なぜ彼が演説し始めるのかわからないのでは?あ~ん、せっかくのユアンの見せ場がぁ~!この演説とクライマックスでの英雄的行為のせいで、カルロは民衆の心をぎゅっとつかんでしまう。枢機卿達さえも彼が教皇になってもいいのでは・・と考え始める。さて、映画ではカメルレンゴの名前はカルロではなくパトリック。しかもアイルランド出身ということになってる。だからラングドン相手に英語でしゃべっても不思議じゃないってことなんだけど、イタリア人ではないってことは重要なことなんですよ。つまり原作でカルロにくっつけられている出生の秘密が、パトリックにはつけられないのだ。何でこの設定削ったのかな。教会から猛反発くらうから?でも今回の撮影だって、パンフによればバチカンの協力はいっさいなし。法律的に問題ないはずの場所さえ、いくつかは妨害されたそうな。・・話はちょっとそれるけど、最初に映画を見て感想を書き始めたものの、途中でほっぽり出して、あっという間に二ヶ月以上たってしまった。字幕版を見たわけだが、どうもぴんとこない。それで吹き替え版を見に行った。その時はお客が五人で、ちょっとわびしかったんだけど、これが実にいいんですよ。字幕を見ても意味がわからなかったものが、吹き替えだとスーッと頭に入ってくる。そりゃ二度目だからってこともあるけど、とにかくわかりやすかった。有名だ話題性があるってだけの理由で素人声優なんか起用せず、本職の声優使っているからだろう。で、このはっきりくっきりの吹き替え版をもう一度見るぞ~と意気込んでいたんだけど、ぐずぐずしているうちに公開そのものが終わっちゃった。

天使と悪魔6

一ヶ所だけ吹き替えのセリフであれッ、おかしいな・・というのがあって、それも確かめたかったんだけど・・もういいや、DVDの発売待とう。で、話を戻すけど・・もう公開終わったしネタバレしてもいいよね・・この映画見て一番不思議だったのは、動機があいまいなこと。反物質の抽出や爆発といったはったりで見る者の心を奪おうと、あるいはローマ見物で楽しませようとしているけど、見る人すべてがいだく疑問・・なぜパトリックはこんなことをしたのか(←ネタバレですよ)というのをはっきりさせていない。スイスのセルンにある反物質とバチカンはどうつながる?答・・殺された科学者は元司祭だった。軽い説明だなあ・・。手がかりになりそうな彼の日記の扱いも軽い。日記のなかみがどう・・と言うより、証拠のビデオテープ発見するきっかけとして使われている。それはともかく前教皇は反物質の存在を知っていた。原作の方では教皇は研究に非常に好意的で、援助すらする気だった。それがカルロに危機感をいだかせた。教皇は間違っている。破壊兵器にもなりかねない反物質は、教会を・・人類を危機に陥れかねない。しかし教皇は意外なことを話し出す。教皇が科学を受け入れるのには理由があった。その昔、科学技術のおかげで貞潔の誓いを破らずに、愛する女性との間に子供をもうけることができた。つまり人工授精である。それを聞いたカルロは大きなショックを受ける。深く尊敬し、父とも慕っていたのに・・教皇は誓いを破ったただの詐欺師だった!思いつめたカルロは教皇を毒殺する。彼はただの侍従で、教皇に選出される資格はないが、道がないわけではない。コンクラーベを利用して有力候補を始末し、反物質を利用してバチカンを危機から救えば、人々は自分を支持するだろう。自分が教皇になって教会の・・宗教の危機を救うのだ。ただ、カルロは知らなかった。教皇が密かにもうけた子供が自分であることを・・。正直言って原作の方は、犯人とわかってからのカルロの主張にあまり説得力がない。礼拝堂で枢機卿達やテレビカメラに向かってやってのけたすばらしい演説と、こちらで述べる主張とが、どうも一致しないのだ。片方は公平で愛に満ちているのに、片方は心が狭く一人よがり。自分のしでかしたことをいささかも悔いてはおらず、正義を行なうためには犠牲も必要という高慢な態度。前の演説と非常に矛盾する。

天使と悪魔7

演説があのように人々の心をうつということは、彼が常日頃からそう考えていたということで・・。それが(犯行がばれてからの主張は)何でただの自己弁護、問題のすり替えみたいになっちゃうのか。そこが読んでいてとても失望した。これが映画だとほとんど全部省略されてしまう。教皇が子供をもうけたことも、その子供が実は・・というところも全くなし。カルロの・・いや、パトリックの弁明・弁解もなし。ただ教皇が科学寄りの姿勢取ったという、ただそれだけの実に軽い理由で、行動起こしたことになっている。これではいくら何でも説得力がない。だから原作を知らず映画を見た人の感想が「結局動機は何だったの?でもハデな爆発あったしローマ見物できたし楽しめたからいいか」となるのだ。その後の焼身自殺も見せ方としては平凡である。やっと見つかった反物質は今にも爆発しそう。パトリックはヘリに積み、空中高く飛び、パラシュートで脱出する。この、ヘリで上へ上へというところは、この映画で最も美しく感動的なシーンだ。この時のユアンは天に昇っていく天使。流れる音楽も好き。他のところではうるさくしつこい音楽も、ここだけは心にジーンとくるいい曲で・・サントラ買っちまったぜ、ベイビー!原作だとラングドンも乗り込んできて、カルロを当惑させる。だってパラシュートは一個しかないんだも~ん(後先考えないラングドン君)。カルロ脱出後ラングドンは何とパラシュートなしで飛び降りる。そして助かる。映画ではラングドンは下で見ているだけ。そりゃそうだわさ、いくら何でもそんなのやったらお客引いちゃう・・ありえね~!だからヘリの中はパトリックだけ。ユアンを見ていられる幸せ・・ホッ(ため息)。まあとにかくバッテリーが切れ、大爆発が起きる。この爆発の描写は非常によい。パトリックの捨て身の(実は計算ずくの)行動のおかげで最悪の事態は免れる。降下中の彼は爆風のせいでかなり傷つく。その前にヤキゴテで胸に火傷もしている。原作だとカルロはむしろ火傷のせいでダメージ受けていて、痛みをやわらげるためにモルヒネを打たれる。彼は自分が事件の黒幕だとばれ、思いもかけない出生の秘密も知り、自殺するんだけど、油かぶって火をつけてからも叫ばない。精神的な動揺やモルヒネによる混乱・無感覚状態のせいだろう。映画だとモルヒネ関係ないから、火をつけてからギャーとなる。

天使と悪魔8

ここは一つ原作のような神秘的な味つけが欲しかったところだ。まわりの者はカルロの感動的な演説と英雄的な行為見ている。ヘリで天に舞い上がったのにいつの間にか地上に戻っている。民衆はパラシュートのことは知らないので、奇跡が起こったとしか思えない。一緒に乗り込んだラングドンのことなんか誰も気にしない(ヴィットリアは別だが)。その後バルコニーで炎につつまれるが、(叫ばなかったので)焼身自殺だとは気づかない。しかもあとには何も痕跡が残っていなかった。実際はモルターティが灰を集め、雨があとを洗い流したのだが、まわりにはカルロが天に昇ったように見える。これもまた奇跡のように思える。映画だと爆風で気を失ったパトリックがパラシュートで民衆の目の前に降りてくるので、奇跡もへったくれもなし。神秘的要素がうすれてしまう。何でこんなところでわざわざリアルさ出すのか。シラスが生身の人間であると同時に幽霊のようにも見えたのと同じムードを、パトリックにもくっつけて欲しかった。もちろん彼の場合は幽霊ではなく天使ですけどウヒ。まあとにかくホント忙しい映画で、人間部分がうすっぺらに思えて、こりゃ「ダ・ヴィンチ」よりだいぶ落ちるわい・・なんて感じた。でも二回目はこちらも悪くないかも、「ダ・ヴィンチ」より好きかも・・なんて思えてきて。今までさんざん不満や悪口書いてきたけど、それでも。何たってユアン!・・彼を見ることができてうれしくてうれしくて。たいていのことはどうでもよくなる。それだけに、ああそれだけに(しつこいようですが)パトリックにくっつけられるべき重大要素が何で何でな~んでばっさりカットされたのか納得いかないんですの。カットされたせいで(←しつこい)動機はあいまいになり、パトリックの存在が軽くなった(断言)。もちろん作り手には何かそれなりの事情(教皇に隠し子なんてことにしたら暗殺されちゃうかもとか)、信念(整合性より娯楽性だぜ!)があるのだろう。後で気づいたけど、パンフにもメイキングブックにもストーリーはほとんど書かれておらず、感想を書く助けにはならなかった。「ダ・ヴィンチ」関連本にはちゃんと脚本載っていたのになあ・・。今作は前作にくらべると興行成績がだいぶ落ちたが、まあ三作目も期待してます。ベタニー、ユアンの次は誰でしょう!私の場合、ハンクスやヒロイン役の女優はどうでもいいのですぅ~。

インフェルノ(2016)

これは映画館では見てないし、原作もまだ。実は見ながらいつになったら変な男性が出てくるのかな・・って思ってたのよ。あと、ラングドンがこんな目にあったっけ?という疑問も。そのうち、あ、私が読んだのは「ロスト・シンボル」なんだ・・ってやっと気づいたわけ。ラングドンには48時間の記憶がない。気がついたら病院にいる。ボストンにいたはずなのにここはイタリアのフィレンツェ。頭が痛くなったり幻覚が見えたり。映像がまたチカチカ、パッパッ、めまぐるしく揺れまくり。興味をかき立てられると言うよりうんざりさせられる。おなじみの美しい音楽と、名所旧跡の美しい風景・・見どころはそれだけですな。今回は主役級の大スターが続々・・なんていう楽しみもなし。地味。ベン・フォスターは冒頭死んじゃって、あとは回想とか映像の中だけ。しかもヒゲだらけ。そう、私がこの映画に引かれたとしたら彼が出ているってことだけ。その彼があれでは・・。ヒロイン、シエナ役フェリシティ・ジョーンズを見るのは初めて。マリア・シュナイダーにどこか似ていて・・時々「危険なめぐり逢い」と重なる。あっちもイタリアだったし。シムズ役イルファン・カーンとブシャール役オマール・シーには見覚えがあるが、どちらも「ジュラシック・ワールド」に出ていたらしい。それにしてもメチャクチャな内容だ。ピンチに陥ったラングドンの前にシムズが現われたけど、どうして居どころがわかったのだろう。イニャツィオって誰で、どうなったのだろう。説明あったっけ?どうしてラングドンの記憶を失わせたのだろう。都合よく失わせ、ちょうどよく戻せるものなのか記憶って(国会じゃあるまいし)。ウイルスに感染しているかもしれないのに、ああやって動き回り、多くの人と接触するものだろうか。途中でブシャールが裏切り、それだけでは足りないとシエナも裏切る。クライマックスも・・ウイルスを中和して一件落着・・あの~仕かけられているのが一ヶ所だけって何でわかるんですか?あれだけ用意周到な相手なら・・。結局解毒剤は開発してなくて、ゾブリストもシエナも死ぬ覚悟はしてたのかな。トム・ハンクスはさすがに老けましたな。恋人シンスキー役シセ・バベット・クヌッセンはダイアン・ベイカーとマーシャ・メリルをミックスしたようなタイプ。それにしても・・「インフェルノ」と言えば私の中ではダリオ・アルジェントのやつだな、やっぱ。