ヴィム・ヴェンダース
ゴールキーパーの不安 1972/緋文字1973/ まわり道1975 / さすらい1976/ アメリカの友人1/977/ハメット1982/ことの次第1982/パリ、テキサス1984/ 東京画1985/ ベルリン 天使の詩1987/ エンド・オブ・バイオレンス1997/ ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ1999/Pinaピナ・バウシュ 踊り続けるいのち2011/ パーフェクト・デイズ2023/
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第746回 2025年5月30日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、西ドイツ映画、原題はDie Angst des Tormanns beim Elfmeter、ペーター・ハントケ原作、アルトゥール・ブラウス主演、101分。
主人公(ヨーゼフ・ブロッホ)はプロのサッカー選手であり、ポジションはキーパーだが、活躍しているとは言えず見せ場もない。試合中に審判から退場を言い渡され、監督から肩を叩かれて、故障での休暇となったようだ。遠征地(ウィーン)にいたが、一人戦列を離れてホテルに向かう。途中で出会った女とゆきずりの関係にもなるが、映画館で時間をつぶしている。受付の娘(グローリア)が気に入った。特別席を取って印象づけようとした。客はまばらで女はどこでも空いていると答えている。
終演を待ってあとを追っていく。バスに乗り込むと、続いて乗って女の自宅までついていった。職業を聞かれてサッカー選手だと答えたので、安心したのかもしれない。一夜を過ごすことになるが、女がロープを首に巻きつけて、絡んできたときに、男のほうも力を加え、あっけなく女は死んでしまったようだ。指紋を丁寧に拭き取って、部屋を出て行く。
証拠になるようなものは残していなかったはずだが、男の上着のポケットに穴が空いていたことが気にかかる。その後バスに乗ったとき、穴からアメリカのコインが、何枚かこぼれ落ち、それを隣の老女に見届けられている。このとき男はサッカーのアメリカ遠征で持ち帰ったものだと、不必要なことをしゃべってしまった。老女は怪訝そうに男の顔を眺めていた。このコインは殺害した女にも見せていて、殺害後ポケットに入れたはずだったが、そのときから穴は空いていたかもしれない。
長距離バスに乗って、昔なじみの女(ヘルタ)のいる町にやってくる。それに先立って理髪店に行った。ここでも女の理容師に興味をもつ。女たちもこの男の職業を当てようとして、ボクサーなのではと推定した。精悍で頼もしく見えるが、暴漢に襲われて金を奪われてしまう。
なじみの女はレストランを経営していて、夫は不在だった。久しぶりだったようだが、女は男の活躍をテレビ放送で知っていた。幼い娘が一人いるが、二人が仲良くするには邪魔者のようで、外で遊んでくるようにと、母親から追い出されている。
男はホテルに一室を取るが、フロントで新聞はないかと聞いている。宿の主人は推理小説ならあると言って、何冊もかかえて持ってきた。ここでも担当するルームメイドに、ちょっかいを出している。新聞記事を気にしていたが、第一面に女の殺害の記事が、大きく報道されたものを見つける。
別の新聞では少女が三日間行方不明になっている記事だった。こちらはこの地域で起こった事件であり、話題になっていた。少女はことばが不自由なようで、メイドはこのことからさらに見つかりにくくなると付け足した。
警官に両脇から抱えられて、逮捕された男に出くわすと、犯人が見つかったのだと思った。主人公はそれがやがては自分の姿でもあるのだろうと、連想したはずだ。少女の遺体も見つかるが、死は事故であったことが判明する。主人公も橋から眺めていて、小川に少女の遺体が流れるのを見つけていたようだが、通報することができない。何事もなく淡々とした日々が続く。
女のレストランにいるとき、雨になって、警官が傘を借りにやってくる。自分も戻るのでと、一本の傘で警官と二人で帰って行く。警官は犯人逮捕の裏話を得意げに話していた。捜査の手はまだ伸びてはいないようだ。
これ以外にも、警官は何度か登場するが、思わず身構えているのは、私たちのほうだ。映画館で居眠りをしていて、起こされたときに腹を立てて、職員を殴りつけたとき、警官がやってきて身分証を提示させられている。ずいぶん外国を巡っているのだなと警官は言っている。
本人は動揺することなく、淡々としている。アマチュアのサッカー試合の観戦に行くと、熱心に見つめる観客を相手に、ゴールキーパーの役割と、その重要性について、熱弁をふるった。含蓄のある言葉が語られる。
ゴールキーパーの不安とは、キックを防ぐのに右に飛ぶか左に飛ぶかにある。扉に向かって歩く人は見ていても、扉は見ていないとも言った。さすがにプロだと思わせて映画は終わった。サスペンス映画としては成立せず、あっけない幕切れという印象が残ったままだった。
場面の切り替わりは、決まったように謎めいた中断と暗転が繰り返される。結論が保留されたまま、宙ぶらりんの状態が、不安を加速していく。殺人犯として捕まるのかどうかもわからない。少女の場合のように、事故ですまされることを望んでいるだろう。不安を感じているのは本人ではなく、じつは見ている私たちなのだという点がおもしろい。
はっきりとした殺害場面は出てこない。男が目覚めたとき、女は動かないでいたが、それを死体なのだと思っているのは私たちで、暗転にさえぎられて殺害されたのかさえもわからないのだ。その後、この男は動揺しているわけでもない。
それを淡々と無表情を装っているのだと、解釈してしまったのも私たちではなかったか。事件や物語は、読者や観客がつくりだすものだとすれば、ここでは何も起こっていなくてもよい。ただ男の情欲が高まっていただけで、好色はあちこちで女に声をかけていた。
とはいえ新聞の第一面が大写しになっていて、ドイツ語で書かれたその記事内容にゆっくりと目を凝らすことが、このミステリーの有力な手がかりなのである。イメージよりもことばが、まずは真実を伝えるものとなる。殺人犯のたいていは、新聞記事を探しまわるものだ。それは不安を解消するための、後戻りすることのできない、殺人者としての自覚と、自己確認でもある。
第747回 2025年5月31日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、西ドイツ映画、原題はIm Lauf der Zeit、リュディガー・フォーグラー、ハンス・ツィッシュラー主演、カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞、シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞受賞、176分。
トラックが止まっている脇を、猛スピードで突進して池に、落ち込んでしまった乗用車があった。自殺行為にしか見えない。トランクを出して肩まで浸かって男(ロベルト・ランダー)が逃げ出してきた。トラックの運転手(ブルーノ・ヴィンター)は呆れ顔で眺めている。トラックに乗せてやり、長い旅がはじまっていく。
トラックは各地の映画館を巡って、映写機の修繕をしながら、ときには映写技師の代わりもしていた。時代はサイレントからトーキーに移行して、映画館が数を減らした頃であり、それによって芸術性を無くしていったと、嘆かれてもいる。二人の男の奇妙な関係が続いていく。無声映画かと思わせるほど、二人は出会ってから長い間、口を聞かない演出も興味深い。はじめて口に出すのを、私たちは身構えるが、単なる日常会話だった。
トラックは大型バスのように広かった。居着いてしまった男は、後部座席に移動して、そこに寝泊まりをするようになる。自宅に戻ろうとはしない。妻子もあったようだが、離婚をしていて顧みることはない。途中で父の家に近いと言って、単独行動をしている。父は印刷業を営んでいて、知的なレベルも高いようだが、良好な親子関係ではない。
男二人の異なった性格がぶつかり合っていくが、途中でもう一人の男が加わる。悩みをかかえており、出会って言葉を交わしたことから、トラックに訪ねてきて、入り込んでしまう。妻が自殺をして死んでいた。後部の部屋にいるのを見つけた運転手は、部屋の又貸しかと言って牽制したが、しばらくは居着いていた。
女っ気はなく男同士は同性愛のように見えなくもないが、肉体関係が描かれるわけではない。唯一女性が登場するのは、映画館の受付嬢で、運転手が誘いをかけている。特別席を二枚買おうとするが、同監督の前作でのゴールキーパーを思い出させるものである。映画へのこだわりは一貫して描写されている。
別れは突然やってくる。運転手は独身で孤独とも思っていなかった。もうひとりは人を頼り、ひとりで寂しくないのかと尋ねている。これまでも駅に来て車を止めると、ドライバーはここから鉄道で行ける都市名をあげてみるが、男は荷物はカバンひとつだと言いながらも、立ち去る素振りは見せなかった。
それがここにきて、手紙を書き置いて、トラックを去り、鉄道に乗り換える。トランクを持って出たが中には何も入っていない。途中で作文をする少年に出くわし、書いているノートと交換をした。列車の車窓にはトラックが追いついて並走している。
感情を排して淡々とした出来事のみが描写されているが、それぞれに感じる違和感は、その背後にある心の動揺を映し出したものであり、それを読み取るおもしろさが、この監督の魅力なのだと思う。もちろん無駄話と言って切り捨ててもいいのだが、長い映画である意味もまたそこにある。
運転手が自然人であることを示すように、トラックの中で素っ裸でいるところをカメラは追っていて、見ているほうはドキッとする。車を止めてトイレと言って、砂地の場所までいってしゃがんで用を足す場面では、ポケットティッシュを出して尻を拭くところまで丁寧に写し出している。原題の「時の流れのなかで」は、自然のままでという意味なのだろうが、それを「さすらい」と訳すと、あまりにも恣意的に聞こえてくるだろう。
第748回 2025年6月1日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、西ドイツ・フランス映画、パトリシア・ハイスミス原作、原題はDer Amerikanische Freund、ブルーノ・ガンツ、デニス・ホッパー主演、リサ・クロイツァー、ジェラール・ブラン共演、126分。
北ドイツの都市(ハンブルク)での話である。優れた贋作画家(ボガッシュ)の手になる絵画作品が、アメリカ人美術商(トム・リプレー)の手によって、オークションにかけられている。死んだことになっている画家本人の作だったが、晩年の作品ということで、高値がついている。
大儲けをするために仕組んだ芝居で、画家は何枚でも描けると言っているが、画商はあやしまれることを恐れてセーブさせている。ここでも無言のうちに顧客たちの目配せで、値段がどんどんと釣り上がり、落札したのはやはり、美術商仲間であるアメリカ人(アラン)だった。
隣には額縁を専門につくるドイツの職人(ヨナタン・ツィマーマン)が同席していて、絵具の発する色彩がおかしいと疑問を呈していた。アメリカ人に売るのだからわからないと言って、忠告も聞かず強気で望んでいた。
この額縁屋の眼力に感心した美術商はその後、関係をつけて仲間に引き込もうとして店を訪ねてくる。いつもカウボーイハットをかぶっている。ドイツ語は得意でなく、英語で話していた。額縁を作ってほしいと言って、小品を持ち込んでいる。額縁屋の人となりについては、オークション会場で、噂が流れていた。重い血液の病気にかかっていて、余命は短く、治療費もかさみ、金にも困っているとのことだった。
額縁屋には妻(マリアンネ)と幼い息子(ダニエル)がひとりいる。病状については心配で、本人も専門医を訪ねて検査結果を気にし続けていた。医者ははっきりとしたことを語らず、いらいらとしている。そこにもう一人別の男(ラオール・ミノ)から仕事の依頼が入る。フランス人だったが、ドイツ語がわからず英語で話している。
パリに行って専門病院で検査を受ける代わりに、一人の男(イグラハム)を殺害してほしいというのが仕事内容だった。依頼主が何者かはわからないが、殺害の相手はプロの殺し屋だという。素人の病人にそんなことができるわけはない。高額の報酬が提示されたが、なぜ自分の病気のことを知っているのかに、疑問が残る。
病気のことは隠してきたが、どこから漏れたのかが気になり、医者に尋ねるがわからず、さらに詳しい検査を頼んでいる。この先も長生きはできないと自覚していて、結局は引き受けることになる。パリ行きの手配はすんでおり、病院の予約も済ませてあった。妻にはパリで検査を受けると言いおいて出かける。
精密検査を受けたあと、ターゲットを教えられ、助手(ルドルフ)をひとりつけられて、地下鉄に乗り込んだ。男のあとを追って機会をうかがっている。助手のアドバイスを受けながら、コートに銃を隠し持って男に近づいていく。エスカレーターで二人だけになったときに、至近距離で背後から一発発射をすると男は倒れ込んだ。エスカレーターを引き返して、一目散に逃げていく。
打ち合わせのときに、殺害後ははしらず、慌てずに落ち着いて、行動するよう忠告されていたが、走り去る一部始終が監視カメラに映し出されていた。顔もはっきりと見分けがついた。素人の犯行であり、プロも警戒を欠いていたのだろう。見事に成功した。
ドイツに戻ると、第二の殺人依頼が入る。今度はドイツ国内(ミュンヘン)での暗殺だった。ここでも専門医の診察を受けることと抱き合わせにされている。パリでの検査結果がわかり、芳しいものではないことが報告されている。妻子に残す金の心配もクリアして、再び銃を受け取った。鉄道の列車内での実行だった。相手は大物でボディガードが二人付き添っていた。
気づかれずに殺害するのは容易なことではない。手をこまねいていたときに、手助けが現れた。額縁の注文依頼に来たアメリカ人美術商だった。主人公はわけがわからないまま、助けられて使命を果たすことになる。トイレで殺害して、人目を避けてドアから突き落とした。
ターゲットと付き人のひとりを殺害したあと、アメリカ人は自分のことは黙っておくよう言って姿を消した。彼は依頼主とは以前から知り合いだった。この男なら殺人者として使えると紹介したが、第二の計画は無謀だと判断して、身を乗り出したのだった。美術商とは思えない身のこなしである。ともに悪に身を染めた仲間同士なのだとわかる。第二の犯行を知ったとき、アメリカ人は素人には無理だと判断して、プロの殺し屋を雇えと憤っている。
額縁屋は報酬の半分を提示したが、美術商は拒んだ。自分は友人になりたいだけだと言ったが、自戒の念から友情は無理だろうと付け加えていた。アメリカの友人は、マフィアの抗争に巻き込むことになってしまったことを、悔いていたにちがいない。
妻にはミュンヘンでも検査を受けると偽ったが、疑惑をだきはじめた。顔を出すアメリカ人に、息子はうまくあやされていたが、妻は不信感を募らせている。郵便物が届き、しばらく置いていたが、開封すると大金だった。夫が悪事に手を染めていると確信した。病院に結果を確かめ、病気は悪化していないことも確認できた。パリでの精密検査の結果は、額縁屋を操るために、偽造されたものだったのである。
フランス人に報復の手が伸びる。自宅が破壊され敵に捕まって、ニセの救急車に閉じ込められていた。アメリカ人は額縁屋を守ろうとして、行動をともにしている。夫が騙されて窮地に陥るのを、妻は車で駆けつけて救おうとする。
アメリカの友人も手を貸そうとするが、妻は疑心暗鬼のままである。敵を倒して奪った白い救急車と、それに続いて赤いワーゲンが、遠出をして浜辺を走っている。メルヘンのようなのどかな光景である。妻の乗る赤い車の運転を、代わって暴走したはてに、海岸にまでたどり着いて、夫は命を落としてしまった。妻を道連れにした自殺行為のようにみえる。
友が救急車を燃やし、証拠隠滅を図っている最中に、赤い車は走り去っていたのだった。アメリカ人は友が逃げ去ることで、友情を裏切られたと感じている。悲劇的な最後となったが、殺人に手を染めた者にとっては、必然的な結末だったかもしれない。
第749回 2025年6月2日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、アメリカ映画、原題はHammett、ジョー・ゴアズ原作、フレデリック・フォレスト主演、ジョン・バリー音楽、フランシス・フォード・コッポラ製作総指揮 、97分。
舞台はサンフランシスコ、探偵作家(ダシール・ハメット)のまわりで起こった事件を描いた物語。作家が書いている原稿での出来事なのかもしれず、虚実の二重構造になっているように見えるのがおもしろい。作家は原稿に追われている。
書き上げた原稿は持ち歩いていて、ポストに投函するだけでよいのだが、事件に巻き込まれて紛失してしまう。もとは探偵であり、実際の事件に巻き込まれても問題はなく、見栄えもありアクションスターとして活躍をしている。
知人(ジミー・ライアン)がやってきて、中国人娘(クリスタル・リン)を探しているのだと言う。写真を見るとなかなかの美人だった。探偵は興味をもって、知人と二人でチャイナタウンに出かける。尾行する男の発砲で騒ぎとなり、人混みの中ではぐれてしまい、知人を見失ってしまった。その後も姿を現さない。
同じようにライターを名乗る男(ゲーリー・ソルト)がやってきて、同じ娘を探しているのだという。チャイナタウンでのヤクザ組織の売春の実態を暴きたいと、その目的を語った。この男もいつのまにか姿を消す。組織からの圧力が加わっているのだと警戒をする。
主人公は単身で、中国人組織のアジトに向かう。紛失した原稿はこの男のもとにあった。ちらつかせるが返そうとはしない、ライターが撃ち殺されるのも目撃した。中国人ボス(フォン)と顔を合わせるが、用心棒の大男には歯が立たず、暴行されて意識を無くしてしまった。ボスもまたこの娘を探していた。少女の頃、売春目的で高額で手に入れたが、裏切って逃げられていた。
アジトには知人も囚われていたが、二人して脱出することができた。自宅に戻ってみると、探している中国人娘が来ていて驚かせる。娼婦だと言わんばかりに、作家に迫ってくる。同じアパートには作家のパートナー(キット・コンガー)も入居していて、気を揉んでいる。
中国人のアジトから逃れたとき、自宅にかくまっていたはずの中国人娘の死を、警察から知らされる。無惨にも顔がつぶされていた。娘は死んだはずだと思っていたが、じつは生きていて、死んだのは替え玉だった。娘の捜索を依頼に来た知人と共謀して、6人の町の有力者を脅していた。
さらに共謀者であるはずの、男との関係を解消して、娘は知人を撃ち殺してしまう。逆境を生き抜いてきた、したたかな女だったのだ。作家に声をかけて仲間に誘おうとするが、その手には乗らず、金にも女にも興味を示さずに、この物語を小説に、完成させようとする姿があった。女は財産を手に、ひとりで立ち去った。9歳で売られてきた娘は、17 歳で億万長者になったと誇ってみせた。21ではという問いに、死んでいるだろうと、作家は答えていた。
第750回 2025年6月5日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、西ドイツ、ポルトガル、アメリカ映画、原題はDer Stand der Dinge、The State of Things、パトリック・ボーショー主演、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、127分。
映画制作の破綻に至る話。ドイツ人の映画監督(フリッツ)がアメリカ映画をポルトガルで撮影しているが、資金面で中断してしまう。はじまりは荒野を子どもを含む男女が歩いている。会話を聞いているが辻褄があわない。不思議な世界が映し出されて非現実なのを、やがて映画の撮影なのだということがわかってくる。SF映画(ザ・サバイバー)で魅力的な映像美が展開するが、中断してしまう。監督は撮影の継続を求めて、交渉をしにアメリカに向かう。
監督不在のあいだ、スタッフは手持ち無沙汰で何をするでもなく待っている。時間つぶしの無駄な会話と行動が、映し出されている。そこにはまとまったストーリー展開はなく、ドラマも成り立ってはいない。刺激的な性描写もあるが、あらすじを綴れるものではない。
監督はアメリカで事情を探っていく。監督に抜擢したプロデューサー(ゴードン)に詰め寄るが、自分はユダヤ人なのに、ドイツ人の監督を推薦してやったのだと、恩きせがましく語っている。
監督が手持ちカメラを回しはじめると、顔が写るのを嫌がって手で遮っている。後ろめたさがあることを意味しているのだとわかる。映画制作には多額な費用が必要であり、資金をめぐるトラブルで抗争に発展していた。二人が車から降りたとき、プロデューサーは、走ってきた車からの発砲で射殺されてしまう。
監督も手持ちカメラをまわして犯行を記録しようとしていたが、やはり銃弾を受けて倒れ、カメラだけが空回りをして、空を映し出していた。カメラを構えるポーズは、銃を構える姿をなぞっているのが印象的だったが、あっけなく撃ち殺されたということである。
それに先立って、プロデューサーと監督との問答で、映画論が加熱していた。映画にとっての物語の有無について、やりとりが続いたが、監督は物語を否定しており、それがそのままこの映画に反映しているように見える。原題は「ことの次第」と訳されたが、物語を排して「なりゆき」にまかせることを意味しているのだろう。
物語のない映画は、壁のない建築のようなものだと言っている。それはヴィム・ヴェンダース自身がハリウッド映画に進出してのジレンマであり、これと並行して製作していた「ハメット」と表裏の関係をなしている。壁がなくても建築が成立することは、その後、西洋文化の呪縛を逃れて、この監督が日本映画に見出したものにちがいない。障子がつくり出す陰翳礼讃には、壁の重厚さはなく軽やかだ。
プロデューサーはこの映画が白黒映画であることをあげて、この時代には時代錯誤であり、誰もこんな古くさい映画は見ないという、通例の評価を持ち出している。カラー映画をアメリカ人監督で撮ればよかったと悔やんでいるが、白黒映画が伝えるものは多い。それは世界が光と影でできていることを教えてくれる。
はじまりのSF映画を思わせるモノトーンの神秘は、無声映画時代の監督フリッツ・ラングへのオマージュのように見える。ハリウッドを訪れたとき、監督は自分と同じ、この巨匠の名が刻まれたネームプレートを、足もとに写し出して敬意を表していた。
第751回 2025年6月6日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、西ドイツ・フランス合作映画、原題はParis,Texas、ライ・クーダー音楽、ハリー・ディーン・スタントン主演、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞、147分。
赤い野球帽をかぶって、くたびれたネクタイ姿でひとりの男(トラヴィス)が、荒野を歩いている。手には水の入ったタンクをもっているが荷物はない。水を飲み干してしまって、やっと人家のあるところにたどり着く。倒れ込んで医者にかかるが、ひとこともしゃべらない。ポケットにメモ書きがあって、本人かと聞くが何も言わない。
とにかく電話を入れることで、この男が何者かがわかってくる。弟(ウォルト)が時間をかけて駆けつけてきて、兄だと確認した。4年間行方不明になっていた。記憶喪失のように見えるが、弟のことばにはうなづいていた。しかし何も喋ることはなく、長く沈黙が続き、弟も業を煮やして声を荒げると、やっと口にしたことばは、パリだった。
弟には何のことかがわからない。パリに行くのだと言っている。フランスのパリかと問うとちがっていた。一枚の写真を出して、弟に見せていた。テキサスにもパリという地名があって、そこに地所を買っていたのである。ここではパリという語がキーワードになっている。両親が生活をはじめた場所だった。男の父親も妄想家で、妻をパリ出身だと偽って、みんなに言いふらしていた。
さらに兄の失踪の秘密についても明かされていく。弟夫婦には子どもはなく、兄の子ども(ハンター)を預かって育てていた。もうすぐ8歳になるが、今では弟夫婦をパパとママと呼んでいる。本当の父親のことは知らせてあり、兄が弟のもとに身を寄せることで、対面することになる。
弟はロサンゼルスで広告看板の製作を仕事としている。兄を連れ帰るが、飛行機に乗ろうとして拒否し、レンタカーで二日をかけて戻ることになる。いったん返した車だったが、同じ車に乗るのだと主張して、言うことを聞かない。潔癖なまでの精神疾患が疑われるが、やがてほぐれていく。着替えを買いに弟が町にまで出ている間に、モーテルから姿を消して、夢遊病者のように、荒野を歩き続けていた。探し出した弟は、怒ることなく優しく兄を受け入れている。
自宅に連れ帰り、じつの父親だと言って、兄を子どもに紹介する。違和感があり、子どもは距離を置いている。子どもの送り迎えは母親(アン)の車での仕事だったが、兄が迎えに行くので歩いて帰ろうと持ちかけると子どもは嫌がった。下校時に待っていると、子どもは一緒にいた友だちの車に乗せてくれと言って、帰ってしまった。
弟夫婦は気を使っている。弟は子どもがはやく父親に慣れることを願っているが、妻は子どもの気持ちが離れていくことを恐れている。5年前に写した8ミリ映画を上映することで、親子の姿を思い出させる。息子は父と目を合わせて心を和ませるが、弟の妻は複雑な思いを抱いて見ている。
兄はふさわしい父親になろうと身なりを整えて、子どもの気をひこうと努めている。子どもの心がほぐれていく。弟夫婦におやすみのことばのあとに、パパ、ママを付け加えたあと、兄の耳もとでもおやすみパパと言った。友だちにも父親が二人いるのだと言うようになった。
弟の妻が秘密にしていたことを、兄に語りはじめる。兄の妻(ジェーン)のことである。兄の失踪のあと、息子を預けて姿を消していた。自信を無くしての育児放棄だったが、その後も義理の妹には、隠れて電話を入れていて、子どものことを心配していた。兄は自分のことは何か言っていたかと問うと、はじめのうちわと答えた。それもこの一年は音信不通だという。
母親は子どものための預金通帳も作っていて、月によって額は異なったが、毎月入金していた。妻は入金場所から母親の住む都市名(ヒューストン)を突き止めていた。兄はそれを聞くと探しに行こうと考えた。弟の妻の不安も感じていたのだろう、この家を去る決意をする。息子にも別れを告げるが、彼は母親に会いたいと言い出す。父親と二人しての母親探しの旅がはじまっていく。
心配している弟夫婦には、息子自身に電話を入れさせて、兄が口を挟むことはなかった。息子にとっては母親の記憶は4歳までのことしかなかったが、父親から渡された写真を手がかりに、都市の雑踏のなかで赤い車に乗った女の姿を見つける。父親に連絡して追跡をはじめる。追いつくが赤い車は二台あって、左右に分かれた。
息子の直感に頼ってたどり着いたのは、いかがわしい歓楽施設だった。息子を車に残して入っていくと、のぞき部屋での仕事をしていた。客の方からはガラスになっていて女が見えるが、女の方からは鏡になっていて客は見えない。夫は妻であることを確認することになるが、衣服を脱ぎはじめるのをとどめて、話を聞き出そうとしている。客との直接の肉体的接触はなく、客との時間外でのデートも店から禁じられていた。
男は長居はできなかった。やり取りをする電話の受話器を外したまま、黙ってその場を立ち去った。子どもは母親はいたかと聞くがうなずいただけで、それ以上のことは答えられなかった。母親を連れ戻すことは諦めたようだったが、次の日にもう一度訪れて、ガラス越しに最後のことばを交わすことになる。
女は声から昨日来た人かと問うてきたが、ちがうと答えて、知り合いの話として、これまでのいきさつを語りはじめる。年齢差のある夫婦での、夫が妻へ向ける偏愛と、美貌の妻との落差、そして妻が浮気をしているのではないかという嫉妬心が、やがて狂気をはらんでいった。
女は夫であることに気づき、その名を呼ぶ。顔を見るために部屋の明かりを消して、夫の顔を確認する。ガラス越しに手を伸ばすがふれることはできない。息子が来ていると言って、ホテルの名と部屋番号を教えている。男の出した結論は、息子を母親の手にゆだね、自分は身を隠すという選択だった。
母親は息子を訪ね、無言のうちに母子は抱き合っていた。窓に映るシルエットを、路上で父親は見上げていた。必ずしも納得のいく結末ではなかったが、ストーリー展開がよくわかるという点で、これまでのヴェンダース作品とは一線を画すものだった。
兄の心の秘密を中心に見ているが、妻のこと、弟夫婦のこと、息子のことと、それぞれの立場に立って考え直してみると、それぞれには心の葛藤とドラマがあることがわかる。息子は出した結論に悔いはないのか。妻は去っていく夫を追いかけなくていいのか。弟は子どもに諦めがつくのか。弟の妻は子どもを取り戻そうとしないのか。それぞれが可能性をもってドラマ化されていくことができるものだ。
パリとは似ても似つかないイメージ世界ではあるが、けだるいような引きずる音楽がかぶさって、独特の映像世界を見せてくれた。肉声ではない、電話ごしやトランシーバーごしのやり取りと、視線を顔から外して、背を向けて音声だけを頼りにする、コミュニケーションの不在についても、一考の余地があるのだと思った。納得のゆかない歯がゆさは、そんなところにも一因している。
第752回 2025年6月7日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、西ドイツ・アメリカ映画、原題はTokyo-Ga、93分。
小津安二郎に捧げるオマージュとも取れる、ドイツ人映画監督による東京紀行である。1950年代の東京を舞台にした「東京物語」の冒頭場面と、ラストシーンをそのまま使って、その間に1980年代にやってきた、東京をドキュメントしている。
ドキュメンタリー映画だから物語はない。あらすじを追っていくことはできないが、物語以上におもしろい。ストーリーはないがドラマはある。東京という生命体の肖像を、目に映るイメージとして、多角的に見つめている。それは1950年代にはなかったもので、同時に今これを見ている2020年代とも異なっている。
70年前の東京を感慨深げに見ることになるが、それはこの映画が制作された80年代を思う、現代の感慨でもある。東京物語ではなかった、新幹線が真新しく写されている。東京駅を出発して、在来線と並行して走るシーンがはさまれている。テレビゲームが普及した頃で、遊ぶ子どもの目は血走っている。
アメリカ文化を丸ごと受け入れた時代であり、できたばかりのディズニーランドにも行こうとするが、行かなくてよかったと思い直している。代わりに向かったのは若者たちが路上で踊りまわる、原宿での実像でそこにもアメリカが丸ごと息づいていた。
食堂に立ち寄って興味をもったのは、食事そのものではなく、ショーウィンドウに並んだ食品見本だった。そこからそれらを製造している工場を訪ねていく。数少ない日本の伝統が根づいた職人文化だった。できたてのみごとな海老の天ぷらを前にすると、口に入れたくなってくる。寄り道のようにみえるが、ロードムービーを手がけた作家の嗅覚だったのだろう。日本人も知らないような知識に接し、長い取材だったが突っ込んだアプローチに感銘を受けた。
職人たちが食品見本に囲まれて、食事をとる休憩時間を、撮影したかったが、許可が降りなかったのを残念がっている。まちがって食品見本を食べ出さないかとの遊び心だったが、断られたのは個人の弁当の中身を見られるのを嫌う、日本人の恥の文化に由来するものだったにちがいない。
本来の目的は、小津の時代にあった日本が残っていないかということだったが、職人との出会いは小津作品に関わった、俳優と撮影助手へのインタビューを通しても見えてくる。笠智衆がインタビューに応じて、小津安二郎を神格化している。自分は俳優として不器用であり、この監督によって見出されたのだと言う。カメラマン(厚田雄春)もまた敬愛する監督の手足となり、職人に徹してきたのだと、故人を思い出しては、涙ながらに語っている。
職人技は冒頭のパチンコ屋での取材でも見つけている。電動でのパチンコ台は、目まぐるしい玉の動きを映し出している。チューリップが開くと、見ている私たちもワクワクしてくる。東京にやってきた外国人が、真っ先に目が向いたのは当然だっただろう。
さらに閉店後に一人孤独に、台に向かって釘を調整する、釘師を映し出すことで、舞台裏でのみごとな職人芸を見とどけることになる。微妙な釘の打ち込みが続いている。これによって次の日には、同じようには玉が穴に入ってはくれないのである。
手に負えない腕白小僧は、小津映画にも頻繁に出てくるが、その光景を人の行き来する地下街に見つけている。偶然見かけたもののようで、歩こうとはしない子どもを、母親が手を焼いている。立ち上がらず寝そべって引きずられていくのを、カメラはユーモラスに追いかけていた。まるで酔っ払いだ。
何に出くわすかがわからないが、この時代の東京を丸ごと受け入れることで、変わったように見える外観も、底流ではつながっているのだと、知ることにもなった。夜のスナック街を、小津調のカメラワークと色彩で、再現してみせている。今も残る裏町の路地文化である。
桜の満開の下でシートを引いて集い、飲み食いをする笑顔の光景は、年中行事として今も健在だ。東京物語は都市化する日本を、哀感を込めて批判的にとらえたものだったが、案外変わらないまま続いているものにも、目が向いていったようにも思った。
同じドイツ人の監督仲間(ヴェルナー・ヘルツォーク)と東京タワーで顔を合わせていたが、こちらは変わり果てたものは見限って、未知なるものへと向かうよううながしていた。新しく発見された世界最古の洞窟壁画の、ドキュメンタリー映画でも知られる監督である。にもかかわらずヴェンダースは、変わらないものを追い求めたようにみえる。
冒頭の東京物語のはじまりは、尾道から東京に旅立つ老夫婦の、荷物の準備が写されるが、ロードムービーの幕開けを伝えるものだ。どこまで続くのかと思って見ていたが、笠智衆のとぼけた演技までだった。旅道具を忘れていないかを、えらそうに指示している。見つからないのが、自分のカバンに入っているのを発見して、あったあったと言っている。
よく見かける老夫婦の会話であるが、笠智衆はインタビューで老け役について、35歳で60歳の役をやっていたのだと言う。80年代のインタビューで登場したのは、東京物語から抜け出たような本人で、変わらないままの姿がそこにはあった。30年後のインタビューだと考えると、まさにミラクルである。
北鎌倉にある小津安二郎の墓参りをする笠智衆を撮影している。黒い角張った墓には、名前はなく「無」の文字だけが読み取れる。誰の墓かもわからないはずで、ヴェンダースはこのことばの意味を考え続けることになる。インタビューの音声は日本語でかすかに聞こえるが、すべてはナレーターがドイツ語に置き換えている。咀嚼しながらヴェンダース自身のことばとして語られることで、説得力をもって伝わっていた。
冒頭で長く引用された「東京物語」には意味がある。ロードムービーのはじまりを示しているだけではない。障子は開け放たれていて、隣家の女性が声をかけていく。ラストシーンでも登場して、ひとりになった老人に向かって、寂しくなりますなあと語りかけている。
西洋建築なら壁があるところに、日本の家屋では障子があって、開け放つことができる。この監督は、壁のない建築をストーリーのない映画になぞらえたことがあったが、ストーリーがなくても映画が成立することを、小津安二郎の映画を通して、日本建築を見ながら学んでいたのだと思う。東京物語といいながら、はたして物語はあったのだろうか。
第753回 2025年6月8日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、フランス、西ドイツ合作映画、原題はDer Himmel über Berlin、英語名はWings of Desire、ブルーノ・ガンツ主演、ソルヴェーグ・ドマルタン、オットー・ザンダー共演、カンヌ国際映画祭監督賞、ブルーリボン賞外国作品賞受賞、127分。
ベルリンに現れた天使(ダミエル)が、サーカスの女(マリオン)との出会いを通じて、人間になろうとする話である。天使は目には見えないが、ベルリンで起こる事件を見守っている。脈絡もなくさまざまな人間が登場するが、ともに敗戦国ドイツの荒廃した首都の側面を象徴して、暗部を引きずっているようだ。彼らの悲壮な様相を、天使は微笑みを浮かべて静かに対するが、ときには肩に手をかけて、ビルの屋上から、悲観した男を突き落としてもいる。
冒頭では戦火の跡を残すベルリンの、廃墟となった塔の頂に立って、下界を眺めていた。自殺者が崖っぷちに立つ姿を連想させてもの悲しい。深刻げにのぞきこむ一瞬に、私たちのほうが身をすくませてしまう。スーツとコートを着ているが、背中には羽が生えている。この存在に気づいているのは子どもたちだけで、じっと天空の方向を見つめている。
サーカスの一団にブランコ乗りの娘がいた。その姿は天使に似ている。観客に混じって天使も、アクロバットなその演技を楽しんでいる。爆撃後の空き地にテントを貼っての興行だった。ときには天使は席を立って、舞台に出ていって娘の演技に近づくが、誰の目にもそれは見えてはいない。
子どもたちが目を輝かせているにもかかわらず、興行的には振るわず、サーカス団の存続は危ぶまれている。娘も一団から去ることを余儀なくされてしまう。天使が娘に寄り添っていくが、仲間の天使(カシエル)がその姿を心配げに見ていた。
天使はこれまで沈黙を守っていたが、仲間の天使には饒舌にしゃべっている。人間に対するこれまでの禁欲が、堰を切って開放されたように見える。天使は能動的には働かず、いつも人間の喜怒哀楽に寄り添いながら、静かに見つめ続ける存在だった。人に恋するなど考えられないことだ。
天使の好んだのは図書館だった。これまでも館内のあちこちに天使がいて、憩いの時間を過ごしていた。邪魔にならないように、思い思いに場所を確保している。危なかしく落ちかけるように、手すりのすれすれに座っていたりもするが、誰の目にも見えてはいないものだ。
刑事コロンボが実名でベルリンに登場するのがおもしろい。天使の存在を感じ取っていて、話しかけてくる。ベルリンの人たちもコロンボのことはよく知っていて、声をかけている。アメリカ人の目を通して、ベルリンの素顔を浮かび上がらせていく。前作で東京のイメージを、ドイツ人の目を通して見ようとした手法に対応しているようだ。
ヒトラーの悪夢をまだ引きずりながら、広場に立つ鳥の両翼をもつ記念碑が、双頭の鷲と天使の翼をダブルイメージにしている。白黒映画としてスタートするが、一部カラーのシーンがはさまれてのち、これまで脇役であった天使が、主役に躍り出るとカラー映画に変わってしまう。影の存在であったものが、肉体をもった実在に変貌したことを意味しているようだ。それは同時に影として永遠の生命を確保していたものが、死までを生きる、限られた存在になったということでもある。
最後にこの映画が3人の映画監督に捧げられていた。小津安二郎を筆頭に、フランソワ・トリュフォー、アンドレイ・タルコフスキーの名を並べたが、ヴェンダースの映画を読み解くための、重要人物である。日本映画への憧憬が、黒澤でも溝口でもなく、小津だったという点に注目することができる。東京物語になぞらえたベルリン物語であり、ともに敗戦国の復興を背景にして、アメリカ人が目を光らせている。
第754回 2025年6月9日
ヴィム・ヴェンダース監督、フランス・ドイツ・イギリス映画、原題はThe End of Violence、ビル・プルマン主演、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞、122分。
映画のプロデューサー(マイク・マックス)が、殺人事件に巻き込まれ姿を消した。バイオレンスを主題にした映画で成功していたが、女優のひとり(キャット)が撮影中の事故で、顔に傷がついた。訴訟を考えているという情報が入ると、あわてて病院に見舞いにいく。暴力とは何かと問いかけていたが、名プロデューサーがやってくると、優しくされることで、女優はうれしくなって、訴訟はしないと言ってしまった。
忙しく立ちまわっており、電話が重なることも多い。妻(ペイジ)は相手にされず不満を募らせている。別れを告げて家を去り、グアテマラに旅立とうとしている。やっとつながった電話で、話し中に急に途切れてしまう。殺人を思わせる会話が続いていた。
二人の男に襲われて、プロデューサーは殺害されようとしていた。今にもひきがねを引こうとする緊張感が伝わってくる。一方がライフルをかまえて、他方がはやく撃ち殺すようせきたてている。報酬にはベンツをもらえることになっているようだ。
失敗すれば自分たちも殺されるとも言っている。拉致をして目隠しをして、話をしているうちに、一方の男はプロデューサーの優れた才能を評価することになり、この男が好きだと言い出し、撃てないと拒否しはじめた。他方の男が銃を構えて、興奮したまま撃とうとしている。
どうなったのかがわからないまま中断して、その後の警察官の会話から、二人の男は射殺され、頭が粉々になって吹き飛ばされていたことがわかる。現場検証によると、至近距離からの発砲だとされた。プロデューサーは容疑者にされることになる。
同じ場にいた若い担当刑事(ドッグ)が、かなり遠方から強力な軍用の兵器によるものかもしれないと推定すると、戦争映画の見過ぎによる妄想だと笑われていた。プロデューサーがいたはずだが、姿を消していた。
NASAの施設から、監視カメラで殺害の一部始終が確認できた。無数のカメラが細部を撮影していて、何時間も前の事件も、巻き戻すことによって再現可能になっている。モニターが同じ時間帯で起こっている、複数の出来事を記録している。ひとりの監視官(レイ・ベーリング)がモニターをチェックしながら、異変があれば操作をして拡大したり、過去にさかのぼったりして、確認作業に余念がない。
プロデューサーの場合も、迫っていた二人の男が、急に姿を消してしまう姿が、映し出されていた。それはモニター室からターゲットに焦点をあてて、照射したように見える。人工衛星で監視するだけではなく、攻撃までしているのかという恐怖を感じさせるものだ。その後、捜査中の刑事と話をかわしていた、この監視官がいきなり撃ち殺される場面が出てくるが、弾丸はどこからやってきたのかがわからない。
担当刑事は傷ついた女優を探りあて捜査をすすめるが、やがて彼女自身に興味を抱きはじめる。撮影現場にまで押しかけて話を聞いている。レストランのセットだったが、見たことのある光景は、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」(1942)を再現したものだとわかる。もの悲しい夜のたたずまいだが、孤独なのに変に明るい。刑事は女優に引かれるが、それぞれの名を、犬と猫に対応させているのがおもしろい。
NASAの監視施設は天文台を装っていて、山奥の人目につかないところにあった。監視員は隠れての一人だけの勤務で、徒歩でやってきていた。手伝いをするのにメイドが、母子で雇われている。秘密裡のことで国家機密を扱う、重要な使命であることを、上司の係官がやってきて、その働きを評価し感謝している。
監視員は過去の監視映像にたどり着く。二人の男に焦点があてられるやいなや、倒れてしまっていた。次にプロデューサーもターゲットにされるが、逃げ去るようすを映し出していた。知らなくてよいことまで知ってしまったことになり、その後、突然の悲劇に見舞われてしまった。刑事との接触も監視されていたということだ。さらに大がかりな施設があることは確かだが、それはこの映画には登場しない。
プロデューサーは気を失っていたのを救われるが、スペイン語なのかことばが通じなかった。どこにいるのかもわからないまま、農家にかくまわれる。家族に溶け込んで生活をともにするが、彼らは新聞から殺人の容疑者として追われていることを知っていた。
プロデューサーはふとした偶然から国家機密を知ることになり、FBIから狙われていたのである。名乗り出ることは身の危険を意味していた。メールのチェックをしようとパソコン店に訪れ、立ち去った直後にFBIが駆けつけて、店を封鎖してしまった。驚くべき行動の速さである。
プロデューサーは妻の前にも姿を現さなかった。妻の身に危険が及ぶことを避けたからだった。二人は海を望む豪華な邸宅に住んでいたが、夫婦のコミュニケーションはなかった。広い敷地内を携帯電話で話している。その都度、夫の仕事の通話は遮られている。
夫の失踪後、妻は別の男を引き入れていたが、そのことを知ると夫は姿を現す。忍び込んだ夫を前に、妻は銃を構えて対し、引き金を引いても罪にはならないと開き直った。夫は財産も屋敷も与えると言うと、妻は財産の半分は現金で送ると答えた。夫は遅まきながら、妻への愛を蘇らせたがすでに遅かった。立ち去ったあと発砲すると、別室にいた愛人は、なにごとが起こったのかと、驚きの声をあげていた。
監視員には父親がいて、本に囲まれた生活をしている。タイプライターが必需品で、息子はパソコンをすすめるが応じることはなかった。息子が撃ち殺されたことも知らずに、淡々とした生活が続いていく。
監視員のもとにメイドを派遣したのは上司だったが、夫を亡くした妻(マチルダ)とその娘(フロリンダ)がいた。メイドとは恋仲になっていたが、深入りをしたために命を落としたことを、船上で伝えている。
同じ船には逃亡中のプロデューサーも乗り合わせており、赤い風船を手にした幼い娘とデッキで顔を合わせて、片言のスペイン語でことばを交わしていた。顔も知らないままのすれ違いだったが、メイドにも殺害の手は伸びていた。毅然とした姿は、娘を抱きかかえることで、人混みの中で殺害はできず、何事もなく船は進行していった。
監視社会は全てを見通している。その姿はちょうどこの映画で、観客がことの全容を見ているのに等しい。しかも必要に応じて、狙いをはずすことなく、ターゲットを抹殺することができる。そんな夢の兵器が開発されたという話なのだが、時代はそれに向かって進んでいることは確かだろう。
映画という装置もまた、それに一役を担うものとして、開発されたものだったように思う。そこにはもはや力と力のぶつかりあいはなく、暴力の終わりと言ってよいものだ。あっという間もなく、抹殺されるところには、暴力の入り込む余地はない。
第755回 2025年6月10日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、ドイツ・アメリカ・フランス・キューバ映画、原題はBuena Vista Social Club、エディンバラ国際映画祭観客賞、クリティクス・チョイス・アワードドキュメンタリー映画賞受賞、105分。
キューバ音楽の魅力を紹介するドキュメンタリー映画である。はじめて聞く者にとっても、引きつけてやまないものを持っている。それぞれはすでに著名な歌手であり、演奏家なのだろうが、知らない者には、すべてがテンポよく、前向きで陽気で、喜びに満ちたものにみえる。どのようにしてこんな音楽が誕生したのかという疑問から、驚きと感動が湧いてくる。
ひとりひとりが生い立ちを語りはじめている。貧しいなかで、まずは生活を成り立たせることが第一だった。才能を見い出された者も少なくない。映像によるドキュメンタリーなので、歌手の場合は容姿と声を見比べることになるが、目をつむって聞いていて、目を開いたときの驚きは隠せない。年輪を感じさせる、皺に覆われた老人である。なかには90歳だと言っている音楽家(コンパイ・セグンド)もいる。精力家で5人子どもがいるが、今からでも6人目が可能だと豪語している。
かつては名を馳せたが、今は現役を退いた者、身を隠した者が探されて集められた。若い演奏家も加えてバンドが編成される。アルバムをつくるのが目的だったが、コンサートにまで展開していった。アムステルダムでの二日間の演奏会ののち、ニューヨークへという合い言葉が交わされ、一日限りだったがカーネギーホールでのコンサートが実現した。
ニューヨークを訪れて、子どものようにはしゃいでいる。夜のにぎわいに興奮し、自由の女神にも向かおうとしている。観光の光景とコンサートライブとが交互に映し出されるが、サウンドは一貫して切れ目なく音楽を奏でている。
ボーカルが主役のように見えるが、演奏家との掛け合いによって、高みへと昇り詰めていく。際立った美声を誇る老人(イブライム・フェレール)は、ごくふつうの労働者か農民に見える。子どもの頃に目をつけられて歌手になったのだという。才能がまずは第一なのだと理解することになる。
女性ボーカリスト(オマーラ・ポルトゥオンド)は、野生的でパワフルであり、夏木マリに似ている。先の柔らかな男声とのデュエットは息があっている。それぞれは思い思いの服装をしている。スーパーマリオに似た帽子と口ひげをはやした歌手(ピオ・レイヴァ)もいる。学生服のような詰め襟姿を、ゲリラ兵だと自称している。
キューバ革命の名残りをとどめるものだ。ゲバラとカストロがゴルフをしたという話題も出てきて、どちらが勝ったのかが気にかかるが、ゲバラが勝ったと言っている。国民的ヒーローとしてゲバラの肖像写真が街中に貼られている。社会主義革命の歴史から、カール・マルクスの文字も目につくものだ。
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブはBVSCの略称で知られるが、このドキュメンタリー映画によって、世界中に知れ渡ることになった。このメンバーのひとり(ライ・クーダー)が、監督との関係をもち映画制作に加わっていた。もちろん人気が沸騰したのは、個々の音楽家の持ち味と実力によるもので、この映画でなくても、誰かが世に紹介することになったに違いない。ただ映画というメディアによることで、今この時を生きる、一度限りの貴重な証言にもなることができた。
ピアニスト(ルベーン・ゴンサーレス)の即興演奏も素晴らしい。年齢は80歳だと言っている。肩の力は抜けているが、指の動きは軽やかで、鍵盤には年輪があり、哲学的ですらある。トランペッター(マヌエル・ミラバール)の奏でる透明感は、孤高の響きを伝え、何台もの音が重なるなかにあって、孤独な静寂を感じさせる。
コントラバス奏者(オーランド・ロペス)もそれに劣らず哲学的で、メロディアスで主役にさえ見える風格を保っている。何もない部屋の真ん中で、ただひとりたたずんで、静かでありながら、力強く弦を震わせる姿がいい。
ギタリストに混じってリュート奏者(バルバリート・トーレス)も見つかる。中世ヨーロッパからはじまり、キューバにまでたどり着いた、この楽器の年代史が語られている。古楽器が土地に根づいて、新たな響きを獲得することになった。パーカッションや打楽器の奏者も、ラテン音楽に独自のリズムを刻むものとして、ひとり立ちをする。まだ若い奏者だったが、その楽器への熱い想いが語られた。
第756回 2025年6月11日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、ドイツ・フランス・イギリス映画、原題はPina、ヨーロッパ映画賞ドキュメンタリー賞、英国アカデミー賞外国語映画賞受賞、104分。
著名なドイツの舞踊家ピナ・バウシュ(1940-2009)とその舞踊団(ヴッパタール)の活動を追ったドキュメンタリー映画。それぞれの舞踊手の氏名も、作品タイトルも知らせることなく、踊り続ける姿が連続する。休む暇もなく目まぐるしく動く手足は、日常の身振りに似ているが、どこか異なっている。
同じ動きが繰り返されるのが特徴だが、軽やかな踊りではない。歩くことと、倒れることと、立ち上がることが基本となる動作であるようだ。バレエに培われた抽象的な舞踊のイメージを解体して、新しいダンスを模索する。現代舞踊に具体的フォルムを導入することで、日常と地続きな空間を確保した。
男性がネクタイを締めてスーツを着るのに対して、女性は薄いドレスを羽織るだけで、その組み合わせが官能的に見える。20人を超える群舞で、同じ動きをはじめるとラジオ体操のようだが、これもドイツ舞踊の特徴かもしれない。
最初にバウシュ自身の短いインタビューが入り、特徴的な群舞が続く。ひとめでこの振付家のものだとわかるものだ。その後は若い頃の姿が8ミリ映像で流され、彼女を信奉する舞踊団のダンサーたちが、集まってそれを見ている。
彼らの国籍はさまざまだ。それぞれにインタビューが入るが、ドイツ語だけではなく、フランス語や英語のほか、聞きなれないヨーロッパ言語も続く。アジア出身の舞踊手もいて、韓国語も聞こえた。日本人の顔立ちに見えた女性は、英語で答えていた。
ユーモラスな演出には、つい笑ってしまう。マイボディイズストロングと言う英語のあと、女性ダンサーがボディビルダーのようにポーズを見せている。みごとな腕の筋肉に驚いていると、後ろに隠れていた男性が姿を見せて、デュエットになって踊り去っていった。二人羽織(ににんばおり)だったのである。
同じ動作が繰り返されると、何度目かには笑ってしまう。男女が情熱的に抱き合って動かない。別の男がやってきて、男の腕を動かせてお姫様抱っこをさせる。女が男の腕からずれ落ちて倒れる。立ち上がってもう一度抱きあうと、再び男が現れて腕の位置を変える。また落ちて抱っこが繰り返されるが、速度がだんだんと早くなっていく。5度目にもなると、呆れて私も笑っていた。
まじめな顔をしての動作なので、笑うところではないのだが、なぜかコミカルだ。無表情で淡々とアクションを繰り返すようすは、現代社会の不毛を暗示するようであり恐ろしくもある。無意味な愚行が繰り返されてきた、過去のドイツの歴史に、思いを馳せることにもなる。
一列になってゆっくりと歩いていく行進も、同じ動作を繰り返している。パロディと言うなら、軍隊の行進と重なって見えてくる。見せものとして、観客を前にした舞台上だけではなく、生活空間にも進出していった。
小道具として椅子が、ひんぱんに登場する。舞台に見立てられた、広い部屋に椅子が並んでいる。女がその中で踊りまわっている。踊るのに邪魔で、女が椅子にぶつからないように、男が先回りをして取り除いていく。女はぶつかることにはお構いなく、思いのままどちらに向かうかもわからない。踊りの速度が増すと男の動きも加速化する。ここでも何度も繰り返され、男がついていけなくなってくると笑ってしまった。
自然をバックにしても、舞台上と同じようにダンスは続いている。川に入り水浸しになりながらのパフォーマンスだった。草原のなか、椅子も同じように置かれて、女がゆっくりと足をかけて、それに乗って倒しながら踊り続けている。男はそれを追いかけて、倒れた椅子を起こしてまわる。モノレールの走る高架下や、煙突の見える工場の敷地でのソロダンスも加えられる。何気ない日常が異化効果を示しはじめ、意表をつく空間演出が、亡き舞踊家の意志を継ぐものとなっていた。
第757回 2025年6月12日
ヴィム・ヴェンダース監督作品、日本・ドイツ合作映画、原題はPerfect Days、役所広司主演、柄本時生、中野有紗、アオイヤマダ共演、カンヌ国際映画祭男優賞、エキュメニカル審査員賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演男優賞受賞、124分。
背中にザ・東京トイレットと英文で書かれたツナギに着替えて、朝の暗いうちから出かけて、公園のトイレ掃除を仕事とする男(平山)の話。場所は浅草で東京スカイツリーが間近に見えている。アパートでの一人暮らしであり、淡々とした日常が繰り返されていく。東京物語でありながら、ライトバンと自転車でめぐるロードムービーと見ることもできる
車はアパートの前に止めていて、仕事道具一式を載せている。そばには自動販売機があり、決まってコーヒーを買うが、それ以外に朝食は取っていないようだ。勤務先まではカセットテープを流していて、夜明けの時刻に対応するように「朝日のあたる家」が聴こえている。
昼は公園で持参したパンを、かじるのが日課になっている。ベンチには同じようにいつも、近所の女子事務員が制服姿で食事をしている。たがいに気にはなっているが、知らんふりをしている。
勤務が終わると銭湯に行く。開店とともに入っていき、一番風呂である。夕食は決まった店で取り、なじみの顔になっている。いつものように黙ってハイボールが置かれると、にっこりと笑う。顔見知りにあえば、会釈はするがほとんどしゃべることはない。
笑顔がひんぱんに見られるので、人生は楽しんでいるようだ。トイレ掃除の仕事は熱心で、トイレを磨くことに誇りをもっている。公園の公共トイレとは思えない、信じられないほど美しい、夢の場所である。外から見ると透明ガラスなのに、入って鍵をかけると、霧がかかったように見えなくなってしまうミラクルトイレもある。
ふたりが組になっての作業だが、相棒の若者(タカシ)は仕事にはルーズで、水商売の女ともだち(アヤ)のことばかりが気にかかっている。給料が安いので、相手にされないと嘆いている。主人公には結婚はしていないかと問いかけ、ひとりでは寂しくないのかと疑問を投げかける。悪い人間ではないようで、知恵遅れの友だちが慕ってくるのを、優しく対している。
主人公が車で聞いているカセットテープが値打ちものであることを知ると、売り払うよう持ちかける。若者に連れられて中古店に持っていくと、一本15000円の値段がついていた。売るつもりはなく、若者には代わりに、持ち合わせの現金を手渡してやっていた。
カセット音楽がブームになっていて、女ともだちが同乗すると、柔らかなアナログの音に感動している。気に入ったようで黙って、テープをバックに入れていた。のちに返しにくるが、主人公と二人で車のなかで聞いている。戸惑いながらも悪い気分ではなかった。聞き終えたあと、娘は頬にキスをして走り去っていった。
若者は相手にされていないようだった。責任感も希薄で、一方的に電話をかけてきて、勝手に退職してしまう。シフトをどうするのかと、主人公は珍しく声を荒げている。穴埋めができず、夜までかかっての日々が続き、会社に強く訴えることで、女性の清掃員がやっと見つかった。これまでの若者とちがって、てきぱきと作業をこなしている。
主人公は古いコンパクトカメラを携帯していて、ここでもアナログへのこだわりが見えるが、単に古いものを大事に使っているだけのことなのかもしれない。写真店に持っていって紙焼きを頼むのも、休日の日課である。このときにフィルムを一本買って、その場で入れ替えをしている。現像の終わったフィルムを持ち帰り、ネガは順番に保管し、紙焼きは気に入ったものだけを残し、あとは破り捨てている。
押し入れを開けると、これまでの写真が年代順に、ケースに入れられて保存されていた。写されているのは、ほとんどが昼食時のベンチで写された、木々のこもれびであり、ゆらめくような影の存在に惹かれ続けてきた。ぼんやりとした世界から光が差し込んでくる、モノクロの幻影が、目覚め前の布団のなかで、登場する。主人公の心に重くのしかかった影なのだろうが、その真相はわからないままだ。
休みの日には自転車でコインランドリーに行き、古本屋に立ち寄り一冊100円の文庫本を買う。幸田文の「木」を選んだとき、女店主はこの作家はもっと評価されないとと苦言を呈することで、主人公の審美眼を認めていた。何もない部屋に、本だけはきっちりと整理されて並べられている。眠るまで寝床で読書するのが日課になっている。
ときおりスナックで夕食を取るが、ママに好意を寄せている。歌がうまく演歌のようにサビをきかせて、「朝日のあたる家」を歌っている。ある日、開店時間を待って訪ねると、見知らぬ男(友山)がいて、深刻な話し合いをしていた。しばらく待ってドアを開くと、二人の抱きあう姿があった。
あわてて逃げ去って、缶ビールを三本買って、海岸で飲んでいると、呼び止めたのは、先ほどママと抱き合っていた男だった。主人公に見られたことに気づいて、追いかけてきたようだった。7年前に別れた元夫だと自己紹介をした。ガンに侵されていて、転移もしており、最後に会っておきたいのだと打ち明けた。心境は元妻への謝罪とも感謝とも言ったが、打ち消していた。
男は元妻のことは頼むと言う。主人公はそんな関係ではないと否定する。さらに謎めいた問いかけを発している。影は重なると濃くなるのかというのだ。答えようがなく、さあとしか言えない。思いついたように男を誘って、日の暮れかけた海岸で、街灯の光のもとに連れていく。前後に並んで、地面にできた影が濃くなっているかを、確かめようとする。二人の男の戯れる姿は、さらに影ふみをしようと言って、共感しあうものとなっていた。
平凡な日常がときおり揺れ動く。アパートに戻ると、ひとりの娘が戸外で待っていた。しばらくはわからなかったが、娘の名(ニコ)を呼ぶ。大きくなったのでわからなかったというセリフを聞いて、実の娘ではないかと思ったが、叔父さんと呼んでいる。母親が主人公の妹(ケイコ)だった。親子喧嘩での、はじめての家出であり、そのときには叔父さんのもとに行こうと決めていたのだと言う。
その日から住み着いてしまい、トイレ掃除の仕事にもついて行った。カセット音楽にも興味を持つが、アイフォンに移せないのかと問うている。ある日戻ると母親が待ち構えていた。兄とも久しぶりの再会だった。まだトイレ掃除の仕事をしているのかと問うが、軽蔑しているふうではない。
住む世界はちがっていたが、容認しながらも肉親の先行きを心配している。兄は妹を強く抱きしめて別れを告げ、娘は母親に従って帰っていった。車に乗ってきていて、運転していたのは父親だったのだろうが、あいさつをすることもなかった。
複雑な家庭事情は察するしかないが、最後に主人公が運転するときの表情を長く映し出している。笑いの表情がじょじょに悲しみへと変化していく。日常生活の平安を喜んでいるが、はたしてこれでよかったのかと思い起こす、初老の独身男性の苦悶が読み取れる。
誰も老いを喜ぶものなどいないという意味では、これまでの人生を思い起こしたときに、誰もが見せる感慨なのかもしれない。この深みのある、アンビバレンスな表情の演技によって、主人公を演じた役所広司は、主演男優賞に輝いた。