ベルナルド・ベルトルッチ監督作品、イタリア映画、原題は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス原作、ジュリオ・ブロージ、アリダ・ヴァリ主演、ヴェネツィア映画祭ルイス・ブニュエル賞受賞。原題は直訳すると「蜘蛛の策略」となる。時おりあれっと思う、意味不明なショットがはさまれて、鏡写しにされた迷宮に落ち込むような、不思議な映画だった。
反ファシストをかかげて先頭に立って戦い、36歳で暗殺された英雄(アトス・マニャーニ)がいた。同じ名をもったそっくりの一人息子が、父親の住んだいなか町(タラ)を訪ねて、その秘密を探り出す話である。駅に降り立つと、大きなカバンを下げて、街なかまで歩き、ホテルの場所を訪ねている。道すがら父の名をつけた通りもあれば、会館名にもその名が使われている。広場には町の英雄として、父親の胸像が置かれている。ホテルで名を言うと驚かれ、同じ顔をしていることがさらに驚かせた。
若者は呼び出されてやって来たようで、その場所を告げると、15分ほどだと言って、自転車を貸してくれた。古びた邸宅にたどり着くと、ひとりの女性(ドライファ)が現れ、父親とそっくりだと言って、感慨深げにしている。自分は愛人だったのだと、自己紹介をした。父親は反逆者として追われたので、妻子はこの町を離れていたのだった。
女は暗殺の真相を知りたがっていたが、息子は大して乗り気ではなかった。女は敵対する大地主を手がかりとして伝え、それによって調べていくと、3人の男が近づいてきた。申し合わせたようにもてなして、食事に誘っている。二人目では無理矢理食べさせられるが、三人目でははじめからことわった。
息子は深入りせずに、次の朝には帰るつもりをしていたが、納屋に閉じ込められたり、突然殴られたり、不審な出来事が続くと、父親の生きざまに興味を抱いて、調査を続けていく。3人が共謀して、父親を殺したことを突き止めるが、さらに意外な真相を知ることになる。3人は父と同志であり、父親も含めて4人の共謀なのだというのだ。息子は三人が裏切って父を殺したと推理していた。父が自分自身を殺害するのに加わっているというのはどういうことか。
父はオペラの鑑賞中に、背後から襲われ暗殺されていた。ムッソリーニの暗殺が、自身の暗殺に置き換えられたのである。国家権力により抹殺されたという疑いがでてくるが、証拠づけるものはない。父親は封のされた手紙をもっていて、それには劇場に入れば命はないという脅迫が書かれていた。謎めいているが、封が切られていないということは、読まれなかったと言うことだ。
3人の容疑者の職業は、ハム屋(ガイバッツィ)や教師(ラゾーリ)や映画館の主人(コスタ)とさまざまだが、思想的な背景はわからない。町にはムッソリーニがやってくるというので、暗殺計画とともに警戒も強まっていた頃だった。
オペラ劇場のこけら落としに訪れることを聞きつけて、暗殺を企てていた。権力機構の締め付けに対して、父親は憲兵に語っただけだと言いながら、仲間を裏切ってムッソリーニ暗殺計画を明かしていたことを告白している。その頃には父親はすでに、英雄として神話化されていたので、それをくつがえすことはできない。そこで思いついたのは、父親が暗殺されるという、さらなる神話を生み出す演出だった。父親自身が考えついたことで、罪滅ぼしでもあったのだろう、3人を加えてひと芝居を打つことになった。
オペラの舞台で向かいあうボックス席にいて、終演近くなると3人が姿を消して、父親の背後にまわり、拍手の音にかき消されるように、殺害するということになった。大勢の観客が目撃者となって、暗殺劇は承認を得るものとなるのである。父親の裏切りも、おもてに出ることなく、権力に反旗をひるがえして、抹殺された英雄像として、讃えられることになった。
息子は知らなくていいことまで知ってしまったのかもしれない。この町を去ろうとして駅で、パルマ行きの列車を待っている。20分遅れだというアナウンスが聞こえる。ベンチに座っていると、今度は35分遅れだというアナウンスに変わった。駅の売店に入り、今日の新聞を買おうとすると、忘れられたようなこの町には、届かない日もあるのだと言っている。
ホームにでて線路を見ると雑草が生えていて、何年も列車が来ていないことがわかる。謎めいた時の停止を感じさせて、映画は終わった。来るときは確かに列車に乗って来たはずで、私たちは彼がそこから降り立つのを見ている。はたして主人公は帰ることができるのだろうか。
ボルヘスの書いた原作名は「裏切り者と英雄のテーマ」という短編小説である。父親の鏡像のように、鏡写しになった息子自身のなかに、英雄と裏切り者が同居している。広い邸宅に一人でいた父の愛人は、19歳になる美人の姪を呼んで、三人で住もうともちかけてもいた。
広場の胸像を通り過ぎるときに、暗示的なカメラワークが見られた。息子の背に隠れていた胸像が急に姿を現わし、通り過ぎると胸像に遮られて、息子の姿が消えてしまう。まるで両者が入れ替わり、父親が息子に変身して、先を進んでいったように見える。
はじまりの駅に降り立つ場面も、何が起こるのかと、不可解なカメラワークが興味深い。ひっそりとした駅に、ふたりだけが降りるが、ひとりはバッグをホームに投げ出して、誰なのかと思うと、続いて水兵が降りてきた。奥の車両からは主人公が、大きなカバンを手にして歩いてくる。駅前を同じ方向に歩いているが、大通りの両端だったのが、水兵が急に横断して、何か言うのかと思ったが、ベンチに座ってしまった。主人公は振り返ってその姿を確認して、歩みを進めた。
思わせぶりなシーンだが、水兵はその後どうなったのだろうか。終盤近くで、主人公に向かって走り去りながら、別れのあいさつをする男が、セーラー服を着ていたように見えたが、意味不明な登場だった。乗り遅れないように駅に急いでいたのだとすれば、息子はこの町にとどまるのだということを暗示するものとなる。
シーザーの暗殺やシェイクスピア劇からの引用やオペラのセリフが下敷きにされていて、意味不明としか見えない背後には、奥深い知的遊戯が隠し込まれているのだろう。息子が眺める遠景には、行く先を暗示するように、塔のそびえる邸宅の外観が映し出されていた。この町名がタラというのは、「風と共に去りぬ」で主人公が、帰ることを決意する故郷の名でもあるのだ。
老人ばかりの住む異様な町が、印象的なショットで記憶される。ホテルの道を聞いて、教える老人は、わけのわからない道順を告げている。自転車を押して帰宅する道をはさんで、ふたりの老人が言い争っている。酒場に行くと老人ばかりで、70歳を過ぎた二人が名乗り出て、精力を誇ってみせる。
朝起きてドアを開くと突然殴られるが、相手は青年だった。少年がホテルに一人いる。訪ねていった邸宅にはメイドの少女が一人いる。主人公は少年だと思っていて、足の指を化粧をしているのか、整えているのを不思議がって見ると少女だった。
納屋に閉じ込められたとき、マッチの火で見ると、壁画が見えた。アントネルロ・ダ・メッシーナの聖母マリアに似ていたが、魅力的な姿が尾をひいている。大地主の家に行った時に、手下から追われて、橋の下にできた水溜りを、自転車で通り過ぎる姿が、印象に焼き付いている。トンネルを出てくると、小型車が待ち構えていて、三人組の一人だったが、その出会いも謎めいている。
演説をしてこの町をあとにするのだが、広場に集まった人々は、雨も降らないのに傘をさしている。ホテルで自転車を借りるが、壁に掛けられてあるのを外している。映画館主が息子を誘ったとき雨模様になったので、野外に設置された、巨大な白いスクリーンを巻き込むのを手伝っている。それぞれは脈絡のないシーンだが、現実離れのした造形感覚をともなっている。絵画的でありストーリーを超えていて、シュルレアリスムに接したときのように、驚きをもって深く心に刻まれるものとなった。
タイトルの「蜘蛛の策略」が何を意味しているのかは、私の中で意味不明のままだが、主人公だけでなく、見ている私たちもまた、蜘蛛の糸にとらわれて、身動きの取れない状態になっていることは、確かなようである。三人組は、夢を見ているときのように、歳を取らないまま、息子の時代にタイムスリップしていた。町の有力者から依頼を受け演説をするのだが、父の真相を知ってはいたが、偽って父を称えることで、息子もまた裏切者の共犯となるのである。
前年に製作された「暗殺の森」と合わせて、ベントルッチという監督が、ただものではないことはよくわかる。状態の悪い古いビデオを、小さなモニターで見たので、色彩のことについて語れないのが残念だ。映画はスクリーンでというのを痛感させる作品なのだと思った。