クリストファー・ノーラン
メメント2000 / インソムニア2002/ バットマン・ビギンズ2005 / プレステージ2006 / ダークナイト2008 / インセプション2010/ダークナイト・ライジング2012/インターステラー2014/ ダンケルク2017/Tenet テネット2020/ オッペンハイマー2023/
メメント2000 / インソムニア2002/ バットマン・ビギンズ2005 / プレステージ2006 / ダークナイト2008 / インセプション2010/ダークナイト・ライジング2012/インターステラー2014/ ダンケルク2017/Tenet テネット2020/ オッペンハイマー2023/
クリストファー・ノーラン監督・脚本、アメリカ映画、原題はMemento、ガイ・ピアース主演、ロサンゼルス映画批評家協会脚本賞受賞 、113分。妻が殺されて自分も頭を殴られて、記憶障害に陥った男(レナード・シェルビー)が、犯人を見つけて復讐をはたす話である。
じつにおもしろいテーマだ。記憶とは何かを考えさせる映画である。記憶が記録と対比をなして考察されている。昔のことはよく覚えているが、最近のことはすぐに忘れてしまうというのは、老人なら誰でも納得できる話だ。忘れてもいいようにメモに書いて残す。ここではポラロイドカメラが用いられて、撮影するとすぐさま裏返してメモを書き込んでいる。ペンが手もとになく、探しまわる場面もあり、10分すればすべてを忘れてしまうのだという。医学的論拠をもった、現実にありうる設定である。
何枚もたまった写真と、それに付されたメモ書きを頼りに、全体像を再構築していく。写真を撮ったことも、メモを書き込んだことも、本人は忘れてしまっている。自分が書いたものなのに、間違った読み取りをすると、善人も悪人だと誤解することになってしまう。映し出された肖像写真の余白に名前が書かれていると、その人物の名前となる。付されたメモに殺意を読み取れると、復讐の標的となるのだ。思い出すのではなく、新しい物語を創り上げていくのである。
男は保険の調査員だった。人を疑うことにかけては、鍛えられたプロなのだ。麻薬密売の話にも展開して、サスペンス仕立てのハードボイルドに引き込まれていく。紙に書き込んでも、消えてしまったり紛失したりすることから、それを怖れてからだに刺青にして、情報を彫り込んでいる。異様な世界が映し出されるのだが、精神錯乱に陥ったようなトリッキーなストーリーと、あっと驚くような、どんでん返しもある。何が真実かがわからず、藪の中という「羅生門」の世界が再現される。
主人公にまとわりつく、ひとりの男がいて、何度となく突然姿を表して驚かせる。悪人と思っていたのが、刑事であったり、刑事と思っていたのが、さらなる悪人であったりと、目まぐるしく酔いを伴ったような迷宮に陥ってしまう。同じように記憶障害の男(サミー)と、その妻のまことしやかな物語も語られるが、主人公の妄想による作り話だったようにも見える。
語った尻から忘れてしまう男にとっては、すべての話は非現実だと言ってもよい。妻は糖尿病であり、記憶障害の夫がインシュリンの注射を打ってやっている。妻は時計を15分さかのぼらせて、続けて3度注射を頼んだ。自殺行為だった。夫は3度ともはじめて打つような顔をして実行した。このことによって妻は死んでしまった。
時間を遡る場面の組み替えは、同じシーンを繰り返すことになるが、最初に衝撃を与えておいて、それを説き起こしていく探偵小説の手法を、効果的になぞっている。同じ場面が二度登場すると、時間がさかのぼっていたのだと気づくが、いきなり場面が切り替わるので、慣れないと戸惑ってしまう。
カラーとシロクロの切り替えも、できごとの前後を、時間を逆行させて、交差させるので、映画独特の不思議な効果を示していた。これまでの古い映画だと切れ目に「今から3日前」などの文字を入れて、回想場面であることをことわって、見るほうも身構えることができたものだ。実験的な映像効果を大胆に試みた意欲作は、高く評価されるものだろう。
真実がおぼろげなベールに包まれているという暗示は、冒頭でのカメラワークが象徴していた。ポラロイドカメラの印画紙が揺らされて、ぼんやりとした像を結びはじめるところが、アップにされて映し出されている。混沌とした世界から、像が出現する神秘を見せようとするのだが、ここではいくら振っても何も見えてこなかった。記憶喪失者の脳の中身を映し出しているのだと思った。このことが物語の真相を語っているようで興味深かった。
クリストファー・ノーラン監督作品、アメリカ映画、原題はInsomnia、アル・パチーノ主演、ロビン・ウィリアムズ、ヒラリー・スワンク共演、118分。アラスカのいなか町(ナイトミュート)で起こった事件を、ロサンゼルスから同僚と二人で応援にやってきた、敏腕刑事(ウィル・ドーマー)の不可解な行動を追う。
落ち着き払った円熟した風貌は、現地の若い女性刑事(エリ・バー)にとっては、あこがれのヒーローだった。この刑事が担当してきた事件簿を、教科書としてすべて読み込んでいた。今回も捜査方法を学び取ろうと、言動の逐一を目をこらして見つめている。事件は17歳の少女が暴行にあい、死に至ったもので、駆けつけると数日間が山で、すでに一日は過ぎてしまったといって、休むことなく行動を開始する。
凄腕を見せるだけの映画かと思って見ていたが、思わぬ展開が待っていた。この刑事が霧に覆われたなかでの追跡で、誤って同僚刑事(ハップ・エッカート)を撃ち殺してしまったのである。犯人だと見間違っての、誤射による事故だったのだが、霧で誰の目にも触れていなかったことから、犯人が撃って逃げたということにしてしまう。
現場検証をした女性警官が、銃声音や銃弾の角度からあやしみだす。やがて疑惑が浮上する。ロサンゼルス市警での不正が明るみに出て、刑事がこれに関わっていたことから、隠蔽するための計画的犯行ではないかという事情が見え出してくる。一方で主人公は犯人を絞り込んでいき、殺された少女が愛読していた作家(ウォルター・フィンチ)に目をつけて、捜査の手を伸ばしていた。
作家は刑事が同僚を撃ち殺したことは、目の前で起こったことなので、当然知っていた。刑事に近づいてきて、交換条件を持ち出してくる。殺された少女のボーイフレンド(ランディ・ステッツ)を、犯人に仕立て上げようというのである。刑事は心を痛ませるが、自身の犯行も隠したい。取引に応じてしまうと一方で、捜査の手はさらに伸びてくる。
撃ち込まれた弾丸が調べられ、拳銃が特定されることを恐れて、作家の家に忍び込んで、通気口をはずして隠していた。作家の銃だと見せかけようと考えたのだった。作家が取り調べを受けると、刑事は面と向かって対することになるが、隠した拳銃のことに気づいていて、暗に知らせてくる。家宅捜査に先立って許可が出るのを待つ間に、一歩早く主人公は作家の家に駆け込むが、隠した場所に銃はなかった。続いてパトカーが来ると、私たちははらはらとしながら成り行きを見守ることになる。
女性刑事は捜査のヒントを得ようとして、単独で作家宅に乗り込む。穏やかな表情が豹変して、暴行魔と化していった。主人公が駆けつけて、助けようとするものの、強力なライフルを持ち出して応戦する。立てこもっていた小屋に飛び込んで、二人は格闘の末、同士撃ちとなる。作家は水に落ち込んで沈んでいったが、主人公は傷を負ったまま小屋を出て、女性刑事に抱かれて命を落とした。
彼女は主人公の犯行を決定づける証拠品を見つけ出していたが、情に溺れそれを水面に投げ込もうとしたとき、主人公が制止した。女は発砲の真意を確かめようとするが、男はなぜそんなことになったのか、わからないと答えている。私たちにももちろんわからない。いずれにしても、不正を貫くことに疲れ、眠らせてほしいといって目を閉じた。最後に言ったのは「道を見失うな」という一言だった。「不眠症」という映画名は、白夜が続くアラスカの、特殊な環境をものがたるものではあるが、主人公に課された悔恨の重圧をも意味していた。
ほんとうは誤射だったのかもしれない。このドラマの結節点は、そのあとで主人公が相棒が死んだことを確かめて、大声で「撃たれた」と叫んだところにある。ひとつのことから、すべてははじまった。撃ったのではなく、撃たれたと言ったことから、あともどりのできない奈落へと落ち込んで、はては命を落とすことになった。刑事役のアルパチーノと、犯人役のロビン・ウィリアムズの、息詰まる駆け引きが見どころである。密かに会って交わした、船上での裏取引の会話を録音したテープを、船が離れたときにかざして見せる犯人の姿は、引き返すことのできない鎖の役割をはたしていた。そこには確かに道を見失った男の姿があった。
クリストファー・ノーラン監督・脚本、アメリカ・イギリス映画、原題はBatman Begins、クリスチャン・ベール 主演、サターン賞ファンタジー映画賞・主演男優賞・脚本賞受賞、141分。コミックを下敷きにした、ファンタジーあふれる大活劇で、内容的には子どもには難しいものかもしれないが、十分に楽しめる。
はじまりは男の子(ブルース・ウェイン)が井戸に落ち込むところからである。同じ歳ごろの女の子(レイチェル・ドーズ)とかくれんぼをしていて、宝物の取り合いもしている。井戸の底にはコウモリの巣があり、おびただしい数が飛び交っている。傷ついて寝込んだ少年の悪夢に登場してうなされてもいる。
父親(トーマス・ウェイン)は大富豪であり、6代続いた大邸宅に住んでいた。両親と一緒にオペラに行くが、舞台に出てきたコウモリにおびえて、途中で席を立つ。両親に伴われて劇場を出て、ひつそりとした夜道で、強盗(ジョー・チル)に出くわした。父親は言う通りに財布を渡すが、抵抗したと見 られて発砲され、母親ともども撃ち殺されてしまった。
執事(アルフレッド)が息子を慰めている。自分がオペラを最後まで見なかったのが悪かったのだと、自身を責めて悔いた。一方で犯人を憎み、殺意を抱きはじめる。裁判が公開されて、まだ少年だった息子は傍聴をした。弁護士は容疑者を擁護して、犯罪を犯さないと生きてはいけない社会のせいだと強調している。
殺人犯が服役を終えて出てきたとき、息子はおとなになっていた。憎しみは継続していて、銃を隠し持って近づいたとき、発砲され犯人は殺されてしまった。別の人間によって殺害されてしまったのである。悪の組織(カーマイン・ファルコーニ)が明るみに出てくる。息子はまだひ弱で、悪党を前にして勇気を出して乗り込んでも、体力も武力も劣っていた。映画の冒頭では、少年の頃と並行して、からだを鍛える若者の姿が映し出されていた。両者の関係はわからないままだったが、やがて悪に打ち勝つために、少年がみずからに課した意志の姿だとわかってくる。
ヒマラヤ山脈なのだろうか、東洋の拳法を身につけようとして、修行にやってきていることがわかる。忍者も登場し、渡辺謙の演じる拳法の達人(ラーズ・アル・グール)に教えを受けようとしているようだ。若者を導いた同国の指導者(デュカード)も同席していた。両親を死なせたことを悔いる若者に対して、悪かったのは父親が戦おうとはしなかったからだと断言する。息子はその指導に従って、自身を鍛えてきた。
度胸を試そうとして死刑囚を引っ張り出してきて、首をはねるよう指示している。息子はためらうが、非情になって殺すよう迫っている。息子は従わず、反旗を翻して師を相手に立ち向かった。対してながらく支えてきた執事は優しく、この名家の跡取りに接している。井戸に落ちたとき、少年を見守りながら、「人はなぜ落ちる、這い上がるためだ」という含蓄あるセリフを残していた。その後も息子がバットマンとなってからも、良きアドバイザーとなった。
少年時代の遊び相手だった少女は、検察官となって悪に立ち向かっていた。窮地に陥ったとき、バットマンに救われるが、かつてのひ弱な少年だったのだと知ることになる。親の会社を継いで、女性をはべらせて、富豪生活に甘んじる姿を目にしていた。世をあざむく借りの姿であるのは、スーパーマンでもスパイダーマンでも、鼠小僧でも遠山の金さんでも大石内蔵助でも同じだ。
新製品の開発を担当する会社役員(ルーシャス・フォックス)の力を借りて、バットマンの衣装が整えられていく。跳躍力を誇る装置に支えられて、悪に立ち向かっていた。火を浴びて逃げ帰る敗北もあり、万能ではない側面に、身近なヒーローの親しみを感じ取った。衣服を脱ぐと鍛えられた肉体美が顔を出す。キリアン・マーフィー演じる知的な悪党(ジョナサン・クレイン)と対比をなすものだ。主人公を上回るクールな身のこなしは魅力的で、宮本武蔵と佐々木小次郎になぞらえてみることができる。切れ味のいい悪党ぶりは、20年後にオッペンハイマー役をこなすことになった。
やがて戦おうとしなかった父親の姿を理解し、受け入れることになるのだろうが、次なる敵はまだまだ登場してくる。バットマンがシリーズ化するためには、必要な戦いなのだ。戦いのむなしさを描いて終わるには早すぎるほどに、世に悪ははびこっているということか。人を殺さなくなった、宮本武蔵の晩年の姿を思い浮かべてみた。
クリストファー・ノーラン監督作品、アメリカ・イギリス映画、原題はThe Prestige、ヒュー・ジャックマン、クリスチャン・ベール主演、128分。舞台で華やかに活躍する、マジシャンの世界で起こった、死亡事故にまつわる人間関係を描く。入り組んでいる手品のような話を楽しんだ。
知られたマジシャン(ミルトン)のもとで、ふたりの若者の野望がぶつかり合う。水槽での女助手(ジュリア・マッカロー)の縄抜けのはずが、腕を強く結ばれたことから、ほどくことができず、ガラス張りの水のなかで溺死してしまった。ふたりの若者は客席から選び出されていたが、ともにマジシャンを志す仲間うちだった。
ひとり(ロバート・アンジャー)は助手の女と恋仲であり、もうひとり(アルフレッド・ボーデン)の縄の結び方を厳しく非難している。どんな結び方をしていたのだと詰め寄るが、覚えていないという曖昧な返答だった。その後ふたりは敵対しながら、ライバルとして人気を競っていく。舞台名は「偉大なるダントン」と「教授」だった。瞬間移動のマジックで一方が評判を呼ぶと、他方はそっくりな男を見つけてきて、同じようなトリックを試みる。
相手の秘密を知りたくて、助手として使っていた女(オリヴィア)を、スパイとして潜り込ませる。女はそこで相手の男に惹かれてしまい、目的をはたせず、逆にこちらが替え玉を使っていることを明かしてしまった。ふたりの恋愛感情は高まるが、男には妻子があった。路上でパフォーマンスをしているときに出会った女(サラ)だった。少女を連れていたので、自身の娘かと思ったが姪だと言ったことから、ふたりの仲は深まっていった。
男は発射された銃弾を手でつかむというマジックを得意としていて、女にその種明かしをしている。種明かしをするのは特別だと言って、女の気を引いている。女はそんな簡単なことかと驚いた。大道芸で人を集めていたとき、銃を撃つ役を募ると現れたのは、人ごみに紛れ込んでいたライバルだった。このときも「どんな結び方をしたのだ」と憎しみのことばを放って、発砲すると弾が入っていて、手にあたり指を切断した。恨みを募らせた報復だった。愛するものを奪われてしまった憎しみは、相手に妻がいて幼い娘を抱きかかえる、幸せそうな姿を、街中で見かけることで加速していた。
瞬間移動では、本人が舞台下に落ち込むと同時に、替え玉が離れたところから顔を出す。このとき舞台上にいる替え玉に向かって、観客の拍手が集まると、主役の不満は高まっていく。替え玉に人気を奪われるという危機感も生まれ、舞台の仕掛けを考える演出家(ハリー・カッター)に食ってかかっている。瞬間移動の装置は落雷のように火花を放っており、コロラドに住む科学者(ニコラ・テスラ)の関わった科学的成果のように見えるが、ともに替え玉による人的トリックだった。
妻子ある身で、愛人をつくったのも、そっくりな二人の、それぞれの愛の結末であることがわかってくる。ライバル同士の殺意にまで発展する悲劇は、ともに片方が殺害されて、二人が生き残るということになるのだが、生き残ったのが本人だったのか、替え玉の方だったのかは、入り組んでいて混乱させる。これもまた手品だ。
さらに一方では単なる替え玉ではなく、双子の兄弟であったというのが、この映画の最大のポイントとなっている。舞台の床が開いて地下に落ち込むとき、クッションを敷いて置くのだが、それが取り除かれていて、けがをしたときがあった。さらに殺意はガラスの水槽が真下に運ばれていて、そこに落ち込んで鍵が自動的にかかり溺死させた。このシーンは映画の冒頭でも出てくる。何のことかわからないまま見続けることになるが、水槽を移動させたのが、そこにいたライバルでなかったことは確かだ。
そばにいたことから、ライバルの犯行とされ、捕まって死刑が確定して、処刑されることになる。収監されているときに、別人の名で面会にきた男がいた。娘を連れてきていて、ひとり残したことを案じて、真っ先にわが子に目が向かった。そして男の顔を見ると殺したはずのライバルだった。看守に自分が殺したのはこの男だと、意味不明なことを叫んでいる。
妻が悲観をして自殺したあと、娘の世話をしていたのだった。妻は二面性のある夫の不実に耐えかねられないでいた。日によって同じ人間とは思えない姿を見せつけられていた。水槽で死んだのは替え玉の方だったということになる。落ちるほうと出てくるほうとが、入れ替わったなどとはどこにも、説明されてはいなかった。
処刑がすんで落ち着いた頃に、今度は死んだはずの死刑囚が姿を現す。相手を銃殺するが、なぜ自分が生きているかが明らかにされる。双子の兄弟は入れ代わりながら、身を隠し続けてきたのだった。銃弾を受けて指を負傷したときには、もうひとりの指にも、鑿を当てて、ハンマーで切断までしていた。ここには替え玉はいない。ふたりはともに本人なのだ。
プレステージとは、手品で人を騙す三段階の、最後の詰めにあたることばである。二人の人間が四人いて、さらにそれぞれが変装しはじめると、これは確かに奇術だ。最後にみごとな締めくくりとなるが、それがプレステージであって、決して種明かしではないのである。
クリストファー・ノーラン監督作品、アメリカ映画、原題はThe Dark Knight、クリスチャン・ベール主演、マイケル・ケイン、ヒース・レジャー、ゲイリー・オールドマン共演、アカデミー賞助演男優賞・音響編集賞受賞、152分。
バットマンとジョーカーの戦いを描いたアクション映画。はじまりはジョーカー率いる悪党グループが銀行強盗をするところからである。5人組だが互いに面識はないようだ。5人での山分けだいう声に、ボスであるジョーカーを加えると6人だという答えがあった。ボスは参加しないで命令だけしているようで、全員がピエロの面をかぶっている。マフィアの銀行なので、現金を運ぶには大型トラックがいるほどに、重たいカバンが積み上げられた。マフィアの活動には中国人実業家(ラウ)も一枚加わっている。
支店長なのだろうか、勇気あるひとりがショットガンを撃ちはじめた。それによってひとりは撃ち殺されたが、弾丸の数が数えられていて、弾が切れると反撃にあって倒れてしまった。5人いた悪党は仕事を終えて後ろをむいたすきに、容赦なく仲間から撃ち殺されている。分け前は人数が少ない方がいい。最後は大型バスが壁を破って突っ込んできて、2人だけが残った。
結局は運転手も撃ち殺されて一人だけになった。倒れ込んだ支店長の口に、時限爆弾をくわえさせて去っていく。仮面を取るとピエロの化粧をしており、ジョーカー自身だったのだ。ここまでのスピード感ある展開は、バイオレンスを前面に出した、犯罪映画として首を傾げながらも、引き込まれる見ごたえのあるものだった。
ジョーカーは組織としては弱小だったが、マフィアに挑みかかって地歩を築いていく。強盗団の一味が殺されたジョーカーを抱えて、敵のアジトに運んでいる。見ている私たちも死んだのだと、油断をした隙に目を開いて起き上がり、不意打ちを食わせて、アジトを占拠してしまう。悪の敵として恐れられたバットマンにも挑戦的で、挑発して呼び出そうとする。
偽物のバットマンも登場するが、強くはなく、倒されてマスクを外され、テレビのインタビューを受けている。みっともない姿がさらけ出される。世間を騒がす迷惑な存在として、バットマンは悪人だけではなく、警察からも追われる存在になっていた。
子どもの頃から恋心を抱いてきた、幼なじみ(レイチェル・ドーズ)が女性検事となり、正義感を燃やしていた。新しく赴任してきた敏腕検事(ハービー・デント)が彼女の恋人だった。結婚の約束をしている。バットマンの正体である、大富豪(ブルース・ウェイン)にとってはライバルとなっていく。
悪の栄えた町(ゴッサム・シティ)を救う英雄として期待されていて、バットマンは愛する幼なじみを奪われていらだち、嫉妬を抱いているように見える。顔を見せて堂々と正義を主張するのに対して、自分は顔を隠して逃げているのだと卑下してもいる。
期待の検事に対しては「光の騎士」の呼び名が与えられたが、これと対比的にバットマンは、「闇の騎士(ダークナイト)」と呼ばれることになる。覆面はジョーカーが顔をピエロの化粧で隠すのと、機能としては大差ないものかもしれない。
検事は攻撃を受けて、顔の半分が焼けただれて、見るも無惨な相貌に変わってしまう。バットマンも万能ではないので負傷するし、犬にも噛まれる。富豪 の財力は強力なボディスーツを開発させていたが、まだ重すぎるとぼやいている。黒人の開発部長(ルーシャス・フォックス)は無理をするなと、血気にはやる御曹司をなだめている。
スーパーカーも登場し、まるで戦車だ。ちがうのは高速運転ができることである。開発には会社の資金が使われていると疑う監査役も出てくる。バットマンの地位は会長だったが、中国人経営者との重要な会議の席で、寝そべっているのを見ると、会社の行く末が案じられている。
ジョーカーは町を支配しようとしていた。標的は警察の本部長と市長と、二人のナイトだった。パニックが起こって市民たちは、町から逃げようとするが、通過する橋を渡れないよう、爆発物を仕掛けたようだ。拘束した人物から、バットマンに命の選択をさせている。男女の検事のどちらかを救うというのだ。
バットマンが女検事を愛しているのを、ジョーカーは知っていた。検事は命は救われたが、顔の半分を焼失してしまった。かつてのあだ名は「二つの顔」であり、その通りになってしまったのである。フィアンセを失った英雄は、悲しみと憎しみから凶暴な鬼と化していく。自分がバットマンなのだとも、偽ってみせていた。
女検事はバットマンに手紙をあてて、執事(アルフレッド)に託していた。頃あいを見計らって手渡すと、バットマンをやめることができないのはわかっているが、やめるならばあなたのもとに戻るのにという内容だった。検事と結婚をするという決裂が読み取れた。「英雄となって死ぬか、悪人となって生き残るか」というのは、残された検事のことばだった。
警部補(ジェームズ・ゴードン)は現場を指揮するが、ジョーカーを拘束した功によって、犠牲になった本部長のあとを継いだ。部下にはスパイも潜り込んでいて、検事を窮地に陥れていた。それによって女検事も命を落とすと、検事は怒りを警部補の家族に向け、銃で威嚇して死の恐怖を味あわせようとする。警部補の息子(ジミー)を犠牲にしようとしたとき、バットマンが現れて救出する。怒りは味方にではなく、ジョーカーに向けるよう示唆している。
コインを投げて、その裏表で生死を決める検事には、もはや町を救う英雄の姿はなかった。しかも手にしたコインを見ると、表も裏も同じ図柄だった。子どもを階上より突き落とそうとして、検事はみずからが落ちて命を落としてしまう。バットマンの怒りだったのかもしれない。町を救う英雄像を汚してはならないと判断したバットマンは、現場から逃げ去ることで、悪人となって生き残ることにした。真相を知っていたのは、新本部長だったが、その姿を「ダークナイト」と称していた。
二者択一を迫るというテーマが、頻繁に登場する。それは善人と悪人という単純な二分法のこともあるし、表か裏かという半々の確率のこともある。ジョーカーもバットマンに二者択一を迫った。橋が渡れなくなって、町から避難する二隻の船が用意された。そこでもジョーカーは両船に爆発物を仕掛け、その起爆スイッチを相手の船に持たせて、恐怖を楽しんでいる。自動的に爆発するタイムリミットを決めて、それまでにスイッチを押せば、片方は助けるというのである。
正気を逸した検事もそれをまねた。警部補を逆恨みして、その家族に向けた銃口で、妻か息子かと迫った。どちらかが助かるという保証はない。主導権は奪われてしまっているのだ。一方がスイッチを押したとたんに、他方も押すだろうから、ともに自滅することになる。核による威嚇という、人類の危機への警告を含むものだ。スイッチはともに押されなかったが、底流に潜む絶対悪の前では、それはただの弱々しい良心にすぎないのだろう。
クリストファー・ノーラン監督・脚本、アメリカ映画、原題はInception、レオナルド・ディカプリオ主演、アカデミー賞撮影賞・視覚効果賞・音響編集賞・録音賞受賞、150分。
今回のテーマは「夢」である。夢の中の夢という、二重写しになった非現実を、映画という非現実に写し込んだときの、トリックを味わうことになる。他人の夢の中に入り込むという、とんでもない着想が、映像の実験と融合して、とんでもない映画が誕生したという印象だ。
これまで夢は繰り返し映画のテーマになってきた。場面が切り替わって、眠っている人物が写されれば、それまでのシーンは夢だったのだとわかる。そんな約束事が定着してしまうと、夢なのか現実なのかがわからない映画に、監督は挑みはじめる。眠っている夢を見ているという逆説も成り立つ。夢を見ている者にとっては、夢こそが現実なのだというセリフも用意されていた。
他人の見る夢を盗み見するというのが出発点であるが、さらに見る者が能動的に、眠っている者の見ている夢に侵入して、特定のアイディアの「植え付け」(インセプション)をするということにもなる。ここではその状態がウィルスや寄生虫になぞらえられてもいた。普通の状態なら「洗脳」ということなのだろうが、眠っているときが最も無防備だという解説が加えられている。
主人公(ドム・コブ)は他人の夢の中に入り込んで、夢を誘導する設計者である。夢と脳という未開拓の科学的領域に分け入ったサイエンスフィクションとして読み取れるものだ。パリ大学に出向いて、師を訪ねて助手を紹介してもらう。優秀な教え子を推薦するが、犯罪に利用されることを恐れて釘を刺している。採用テストに1分間で解ける迷路を、2分間でつくらせている。四角の迷路を2度つくり、3度目に円盤の迷路をつくったときに気に入った。
この女助手をつれてパリの街角のカフェでいるとき、突然に建物の窓が爆発しはじめ、さらには壁に広がり、座っている周辺までも飛び散りはじめた。街並みが変貌して道路が立ち上がってくる。二人だけは無事であり、男はこれが夢なのだと言っている。助手を雇って夢を設計させたのは、主人公がつくると必ず邪魔が入るからだった。それは死んでしまった自身の妻(モル)であり、明かせない事情が潜んでいた。
二人の子どもがいて、まだ幼児であるが、遊んでいる後ろ姿がひんぱんに登場する。アメリカに残していて、はやく帰りたいと言っている。教授が心配したように、男の仕事は合法的なものではなかった。助手は気になって、主人公が眠っているときに、夢の誘導装置に接続して、夢のなかに入っていく。
ビルの壊れかけたエレベーターに乗って移動すると、妻とともにいる姿を見つける。助手の存在に気づくと、なぜこんなところにいるのだと声を荒げた。妻はそれ以上に高圧的に迫ってくる。男が飛び乗って階を移動する。層を成して妻との記憶が映し出されている。明るい野外で幸せそうに語らっている層もある。
地下に行くボタンを押しかけると制止された。気になってその後、隙を縫って降りていくと、列車が通り過ぎる階をすぎて、地下は薄暗い部屋になっていて、妻がひとりでいた。迫ってきて身の危険を感じたとき、男が駆けつけて、エレベーターを閉じて難を逃れた。
仕事は財産家の息子(ロバート)の夢に入り込むことだった。プロを集めて5人のグループを組んで、準備をし行動をはじめた。依頼主は渡辺謙の演じる日本人(サイトー)で、自分も加わると言って6人になった。航空機のファーストクラスを、ターゲット以外の全席借り切っての犯行だった。息子を眠らせると、全員が一本の線につながって眠りに入る。
場面は切り替わり、タクシーを乗っ取って、息子を乗り込ませている。そのとき一両の列車が車道に入り込んできて、車を跳ね飛ばしながら進んでいる。設計をした娘にも、なぜ邪魔が入ったのか理解できない、突然のできごとだった。銃撃戦になり日本人は負傷する。通常は命を落とすと目醒めることになるのだが、鎮痛剤を打つなど、特殊な状況では、夢で死ぬとさらに奈落に落ちるのだという。
仲間が夢から去ったあとも、主人公は依頼主を気にかけて、夢にとどまり、さらに下層に分け入っていく。薬剤のプロによれば、夢の各層では時の流れが異なっていて、上下の移動には鎮静剤が必要なのだという。主人公が追いかけて目覚めたときには、波打ち際に打ち寄せられて横たわっていた。男の目には二人の幼児の姿が見えている。
この場面が冒頭で一度出てくる。気を失っているのを、銃を突きつけて揺り起こしている。日本語で人を呼ぶ声が聞こえたので、この映画は字幕版ではないのだと思ってしまった。遠景の岸壁に建てられているのは日本の城郭建築のようだ。連行され室内に入ると金屏風に囲まれたインテリアで、待っていたのは老人だった。
この世界に落ち込んできた依頼主であるのだが、冒頭場面ではわからない。主人公は追いかけてきて、間もないはずなのに、ここではすでに50年が経過していたようで、城郭を構えて安定した生活を送っていた。あとで気づくのは老人が渡辺謙の特殊メイクだったということだ。
そこには妻もいた。金庫に入った書類を盗もうとすると、依頼主が銃を突きつけた。かたわらには妻がいて、同じように銃を構えている。相棒が捕らえられてきて、主人公は銃をおろした。殺すと夢から覚めるので、女が足を撃ち抜くと、相棒は痛みで絶叫した。そのとき主人公は相棒の額に弾丸を撃ち込んで即死させた。この夢を眠って見ているのは、日本の新幹線のなかだった。
小道具としてコマが、何度も登場する。回り続けると夢で、止まると現実だと言って、主人公はどちらかを確認するために持ち歩いている。コマまわしがおもしろいのは、回り続けると止まっているように見えるという現象だろう。現実と虚構の同一化も、重要なポイントなのだと思う。教授が子どもたちを主人公に引き合わせるラストシーンでは、コマは回り続けている。父は駆け寄って子どもたちを抱きかかえていた。さてこれは現実なのか夢なのか。
入り組んだ話を一度見ただけでは理解できない。劇場で最初に見るときは、スピード感のあるスペクタクルに圧倒されて、満足感を得る。その後、ビデオを通して繰り返し見るというのが、現代の鑑賞法だろう。ひと昔前の映画制作とは異なった映画術が、一般化されている。劇場とホームビデオの両方をターゲットにした商法でもある。映画祭での授賞にも影響するもので、ビデオ発売前の映画祭では作品賞にはなりにくいものかもしれない。
クリストファー・ノーラン監督作品、アメリカ・イギリス映画、原題はThe Dark Knight Rises、クリスチャン・ベール主演、マイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマン共演、165分。
バットマンの再登場と最後の死までがつづられる、三部作の完結編である。光の騎士(ハービー・デント)を殺して姿を消したとされていたバットマン(ブルース・ウェイン)は、長らく出番がなかった。町に平和がやってきたということでもあったが、再び最強の敵が現れる。奈落の底から這い上がった、まれにみる屈強の少年であったことが語られるが、成長して町を恐怖に陥れる大男(傭兵ベイン)となった。
警察の本部長(ジム・ゴードン)が前面に立って指揮を取って戦うが、歯が立たず倒され、バットマンの登場を期待している。バットマンに汚名を着せたのは本部長であったことが明るみに出ると、上司に向かって不満を募らせる刑事(ジョン・ブレイク)もいた。はじめ警官であったが、刑事に昇格して最後まで大きな働きをすることになる。バットマンは闇の騎士となって罪を被ったことから、富豪でありながら世を捨てて隠者のような生活をしていた。
執事(アルフレッド・ペニーワース)があいかわらず付き添っていたが、刑事がやってきて願いを聞き、バットマンとなって再び敵に向かいあうと、命をかえりみない姿をみて、身をひくことを申し出た。会社(ウェイン産業)の経営は芳しくなかったが、新兵器として空を飛ぶスーパーカー(ザ・バット)を開発していた。黒人の役員(ルーシャス・フォックス)が変わらず協力を続けていた。
戦闘に活躍することになるが、メイドに化けた謎の女性(セリーナ・カイル)が現れ、指紋を盗まれて悪用され、破産へと追い込まれた。母の形見のネックレスを奪われたが、ねらいは指紋を取ることだった。会社を乗っ取ろうとする役員(ダゲット)が黒幕としており、経営者会議の席上で、御曹司は厳しい叱責を受けていた。この役員も雇っていたはずの、傭兵の大男に倒される。
町に爆発物が仕掛けられ、破壊が始まる。はては核爆弾の使用にまで進んでいくと、バットマンは一命に代えて、スーパーカーで運んで、町を離れ海上を進み爆発させる。はるか彼方でキノコ雲が湧きあがっていた。執事は戻ってきて、墓を前にして退職してしまったことを悔いていた。墓は三基が並んでいたが、殺害された両親のもとに葬られたということなのだろう。
女バットマンかと思わせる頼もしい女性も現れる。拳法に長けていて、はじめ悪党に加担してネックレスを奪ったが、その後バットマンを助ける役にまわる。もうひとり会社役員となる美女(ミランダ・テイト)も登場し、破産したあとの会社の主導権を握ることになる。主人公と情愛を交わすが、バットマンは殺された幼なじみの女検事のことが忘れられないでいる。
この女性がじつは最強の敵に付き従っていた。最後に明かされるのは、奈落の底から這いあがった少年は、この少女だったことである。屈強の大男は彼女を支えてきて、守り続けてきた。彼女のほうも深い恩義を感じている。さらには主人公に武道を教授した師(ラーズ・アル・グール)の娘(タリア)でもあったことも明かされる。名を変えて富豪の会社に入り込み、町を破滅へと向かわせる、父の意志を継いでいた。
主人公も捕らえられて、この谷底に落とし込まれるが、少年時代に落ちた丸い井戸を思わせるものだった。這い上がろうとしてロッククライミングを試みるが、何度も失敗する。富豪のおぼっちゃまには無理だと断定されている。
極貧の生活を味わってきた者のパワーを示すものだった。バットマンが対抗できるのは、身につけた衣装や道具にたよってのことだということがわかる。かつて光の騎士が語ったセリフ、英雄として死ぬか、悪人となって生きるかという二者択一は、確かに真理だったようである。
バットマンは肉体を鍛え直して、奈落から逃れ、傭兵を倒すことができたが、油断をした隙にナイフに突き刺された。父の恨みをはらす娘の憎悪は、奥深くまでナイフで肉をえぐっていた。突然のことで見ているほうも、何が起こったのかと困惑してしまう。父の血を引き継いでいるので、娘は拳法には習熟していたはずだが、これまではその片鱗を見せることもなかった。深い傷を負っていたはずで、この不覚がバットマンに、英雄として終わることを決意させたのかもしれない。
バットマンの汚名は返上され、記念像も建てられた。執事は遺産のいくらかを受け継いだが、守ることのできなかった失意の日々を送るなか、カフェで素顔のバットマンが、素顔の女バットマンとだろうか、二人でいる姿を目撃していた。両親を亡くした孤児をながらく支えて、そんな平穏な姿を見ることができるのを願っていたのだろう。
クリストファー・ノーラン監督、アメリカ・イギリス映画、原題はInterstellar、マシュー・マコノヒー主演、アン・ハサウェイ、マイケル・ケイン共演、アカデミー賞視覚効果賞受賞、169分。
地球環境の悪化を下敷きにして、宇宙に住処を探そうとして旅立つSF大作。キーワードは「時間」である。時間とは何かという、本来は哲学問答となるものを、サイエンスのヴェールにくるむことで、現実感が増してみえてくる。時間は絶対的なものではなく、人間の意識によっていかようにも変容する。ポイントは地球と宇宙空間では時間の長さが違うということだ。ある星での1時間が地球での7年に相当するのだという。そんな遊星のあいだを行き来することを、インターステラーの語で呼んでいる。
日本での浦島太郎の話は、異界への旅として、科学的な根拠に基づいたものではないはずだが、古くから直感的に、人類は感づいていたものかもしれない。ここでは宇宙に旅立った父親(クーパー)が、同じ顔立ちなのに、地球との交信で現れた娘(マーフィー)が、少女であったものが、同年齢となり、やがて父を超えて、老いていき、孫に囲まれて息を引き取るということになる。父が帰還したとき、120歳だというのだが、旅立ったときと変わらない年齢にみえる。
映画はアメリカの農家の生活からはじまった。環境の悪化は砂煙によって、突然火山灰のように砂塵が降り積り、食器はいつも裏返しておかないといけない。日本映画では「砂の女」を思い浮かべるとよいだろう。吸い込むと肺炎を起こすものだ。親の代まで農家を営んできたが、父親は宇宙開発に従事した優秀な飛行士であり、今は退職して農夫となっている。
食糧難が人類滅亡に重くのしかかる。書斎にはエンジニア時代の書籍が並んでいるが、今は無用なものだ。一家は祖父と父親、子どもは男女の二人である。妻は脳腫瘍で亡くなっていた。年端の行かない娘が、科学に興味をもっていて、父の書斎で勝手に書籍が落ちるのをみて、幽霊がいると言っている。
娘は成績は優秀だったが、学校生活にはなじめないでいた。好奇心旺盛で父に付き従い、10年前に閉鎖されたはずの空軍が飛ばしたインド製のドローンに出くわす。父と車で繁茂する農作物のあいだを分け入って、追いかけていくと、地下に知られない秘密基地のような施設があるのに感づいた。
拉致されて連れていかれると、すでに活動を終えていたはずのNASAの、秘密の研究所であることがわかった。かつて師事していた教授(ジョン・ブランド)がいて迎えてくれた。そこでは人間の住める星の探索(ラザロ計画)が推進されていた。離れてしまった娘の安否が気がかりだったが、教授のそばに座っていた。好奇心が気に入られたようだ。娘はその後、教授のもとで学び、あとを継ぐ研究者として育っていく。
乗組員のチームが編成され、優れた博士のほか女性飛行士も加わっていて、教授の娘(アメリア)だった。ただ飛行経験のあるパイロットが必要であり、主人公に目をつけていた。地球を救うという命題を掲げられ、個人の幸福に閉じこもることを捨てる決意をする。
娘のとどめるのを振り切って、宇宙へと旅立つことになる。書斎での別れで、娘は書架から落ちてきた書籍をながめている。父は必ず帰ってくると約束して、部屋を出ていく。娘はとどまってくれ(ステイ)と叫んでいる。じつはこの場面が最後にもう一度出てくる。
本は自然に落ちたのではなく、書架の裏側にいた飛行服を着た父親が揺らしたものだった。父が去ったのを娘がステイと言ってとどめたように、父は娘が去るのをステイと叫んで、振り返ってくれと願っている。いくら叫んでも聞こえない。
同じ部屋に数十年後の娘が戻ってきていて、映像が重なりはじめる。モールス信号を繰り返すと、反応を示したようだった。娘と持ちあった二つの腕時計があり、その針が揺れ動き、年齢を重ねた娘は、父の存在に気づきはじめている。書架の裏側にいる父には、宇宙に旅立たず家にとどまっていればよかったという悔恨が顔を出す。
時間という概念を端的に見せるものは、老いである。20年ぶりに会った旧友が、自分と同じように老いている姿を、私たちは当たり前のことと思って見ている。それでいて20年前に死んだ旧友は、20年前のままいるのだと思ってもいる。ここから時間の探索がはじまる。夜空の星を見ながら、その光を今の時間ではなく、はるか過去の時間として、見ているのだということに気づくと、過去を見ることができる不思議を、私たちは体験することになる。
光の速度を超えれば、歳を取らないというサイエンス・フィクションの世界がはじまっていく。宇宙で人間が住める星が見つかっていた。愛が芽生えはじめていた教授の娘はその星に残っていた。娘はチームの博士と恋仲であったが、博士が裏切った。住めそうもない環境を偽って、本船を呼び出し、主人公を殺害しようとした。娘が主人公を助けることになる。
主人公は少女であった頃の自身の娘との約束通り地球に戻ったが、地球では人の一生を超える時間が過ぎていて、まったくの異邦人となっていた。祖父の死については娘からの通信で知らされた。恩師の死についても、その娘とともに宇宙船内で聞いた。そして娘が老いて死ぬ姿にも、亡霊のようにして立ち会った。主人公は宇宙に戻るしかなかった。再度宇宙船に乗り込んで、置いてきた教授の娘のいる星に旅立とうとしている。
かけがえのない地球と家族を失う、悲しい別れだったが、絶対的孤独は誰もが感じ取るものだ。それは逃れられない、一個の生命をもった人間の宿命でもある。飛行船の爆破で、宇宙に放り出された飛行士が、老いることもなく永遠に浮遊しに飛び続ける姿を思い浮かべてみた。
祖父は農夫であったが、息子(トム)については多くは語られない。学校の面談で大学は難しいと言われていた。おそらくあとを継いで農夫となったのだろう。主人公が去るとき、息子に祖父を頼むと言いおいた。祖父には子どもたちを頼むと言っていた。その後の息子のことは、無視されていたが、私には気にかかっている。宇宙とは対極にある、土に根ざして生きる姿がそこにはあり、改めて考えさせるものとなった。足が地についていることへの感謝を考えれば、それは「地球」という名の由来でもあるのだ。
クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作、イギリス・オランダ・フランス・アメリカ合作映画、原題はDunkirk、フィン・ホワイトヘッド主演、アカデミー賞編集賞・録音賞・音響編集賞受賞。紅茶文化の国、イギリス人が主役で、テーマは、名誉ある「撤退」である。ダンケルクで起こった史実をベースにして、イギリス軍の若者(トミー)の行動を中心に追った群像劇。
フランスを占領したドイツ軍の攻撃を受けて、町から撤退して浜辺まで逃げついたイギリスの若者がいた。10人ほどの部隊が街中を進んでいて、いきなりの銃撃に、散り散りに逃げたが、撃ち殺されひとりだけ助かった。空から紙吹雪のように落ちてくるアジビラを確認中のできごとだった。
途中では味方の銃撃隊にも出くわし、敵とまちがわれる。浜には多くのイギリス兵が集まって、列をなしていた。船での退却を待つ隊列だった。遠浅の海であり大型船は近づけない。いくつかの列ができていて、それぞれに並ぶには条件があった。フランス兵は排除されている。若者はフランス兵ではなかったが、はじき出されて移動する。
いつまで待てば乗船できるかも定かでない。浜辺で用を足そうとして、お尻を見せたとき、戦死者を弔う兵士(ギブソン)と出会った。二人で救護兵の格好をして、負傷者を担架で運ぶことを思いつく。優先して乗船できることがわかってのことだった。相棒は無口な男だったが、その後彼がフランス人であることが判明している。確かに浜辺で会ったとき、埋葬されていた兵士は靴も履かずに、素足が見えていた。そこでイギリス兵の軍服を奪って着替えていたのだった。
列をかき分けて前列まで進んで、船にたどり着くが、負傷兵を降ろしたあと、戻るように命じられ、乗り組むことができない。目を盗んで隠れ込んで、ようすをうががっている。桟橋が一本沖まで伸びているが、大勢の兵士で、あふれかえっている。それをねらってドイツ軍の戦闘機がやってきて、死傷者を増やしていく。味方の戦闘機が飛び立ち応戦するが、十分な成果をあげていない。本土決戦を見越して、フランスに送り込む船も戦闘機もわずかだった。
イギリスとフランスとはドーバー海峡をはさんで目と鼻の先であり、多くのイギリス兵が連合軍として、フランスに派兵されドイツ軍と戦っていた。撤退するというのは首相チャーチルの判断だったが、浜に集まった兵士が、空から狙い撃ちをされるのでは、たまったものではない。
空軍の役割が期待され、3機が発進するが、十分に食い止めたとは言い難い。隊長機はすぐに墜落し、次の一機(コリンズ)も撃ち落とされ、海に不時着する。残る一機(ファリア)が、戻る燃料もかえりみず奮闘を続けた。民間の船が政府の呼びかけに応じて、自発的に参加しはじめ、その活躍がつづられていく。ことに退役軍人(ドーソン)が、息子(ピーター)とともに出航した船は、沈没した戦艦から逃れてきた兵士たちを救った。船長は従軍したもうひとりの息子を亡くしていた。重油まみれの兵士たちは、間一髪で火災から逃れることができた。
若者たちを戦争に送り込んだのは、自分たちの世代の責任だと、罪滅ぼしの決意だった。途中で沈没船で生き残っていた兵士を救うが、もう一度フランスに向かうことを知ると、イギリスに戻るよう命令する。こんな遊覧船で何ができるのかと言うのだった。高圧的な態度からもみ合いになり、息子とともに乗船していた友人にケガを負わし、それがもとで死亡してしまう。引き戻そうとはしない船長は、兵士の恐怖心を察しているが、息子は憎しみを抱いている。
撤退を語るのに、陸・海・空という三つの視点から見ているのが興味深い。それぞれは軍隊の組織でもあり、三方向から同じ時間帯を記述することになる。時間区分も図式に従っていて、陸の1週間は、海の1日、空の1時間にあたるのだと言われると、その法則性がわかるような気がする。
歩兵だと1週間かかるところを、船だと1日、戦闘機だと1時間で移動するという意味なのだろう。あとから出撃した戦闘機が、船を追い越して敵地に向かう場面がはさまれる。それぞれに独立した場面が、交錯して出会う展開が興味深い。
場面が切り替わり、交互に映し出されるが、一瞬、陸海空どちらの話だったのかと、混同してしまうのも、頭の体操としてはおもしろい。陸軍の話が船に乗って撤退し、それが沈没して、救出に向かった民間船に助けられることになる。民間船が攻撃されることはなかった。海に墜落した英国機のパイロットも、この民間船に救出されている。撤退によって40万人の兵士の命を救ったと、政治家は豪語するのだが、しっくりとしない違和感が残るものだ。
逃げるという消極的な行為を、真正面から考えるのがここでのポイントなのだろう。敵の姿は出てこない。銃弾は所狭しと打ち込まれてくる。主人公と担架を運んだ無口な青年は、ドイツ訛りだと言って摘発されたがフランス人だった。兵士たちが浅瀬に乗り上げていた船で、逃走しようとした時、重量オーバーから降りるよう目をつけられたのが、この青年だった。
船の持ち主はオランダ人だったが、廃船だと思ったのか、ドイツ軍がこの船を標的にして、射撃訓練をしはじめていた。潮が満ちるのを待って、沖に出ようとして、兵士たちは身を隠していた。弾丸で貫かれた穴から浸水しはじめている。
潜んでいることを悟られないようにしながらふさごうとするが、さらに銃弾を受けて負傷した兵士も出てくる。潮が満ちてきても浮き上がらないのは、人数が多すぎるからだと、戻ってきたオランダ人乗組員は言う。フランス人が追い出されたところで、敵にみつかり全滅することになるのは分かりきっている。
異なった国どおしの駆け引きに考えさせられる。追い詰められたフランス人は、イギリス人だと偽って乗船したが、イギリス船に乗り込めなかったフランス兵は数多い。彼らを救うのが、次の任務となるのだろう。現地のイギリス人司令官(ボルトン)は船には乗り込まずに、残る決意をしていた。
国境を越えた美談ではあるが、抗戦する兵力はない。燃料切れでイギリスに戻れなかった戦闘機もダンケルクの海岸に降り立って、自機を燃やしていた。主人公は帰国するが、歓喜を浴びての凱旋ではないだろう。名誉ある戦死のほうが誇らしい、世の非情が待ち受けてもいるはずだ。通常は敵前逃亡は銃殺刑だというとんでもない掟が潜んでいる。美しく死ぬか、無様に生きるか。行きつ戻りつしながら、名誉ある撤退は、そんな判断のつかない価値観を宿している。
軍服を着替えるだけで敵か味方かわからなくなるような戦いを、ヨーロッパ戦線は繰り返してきた。アジア戦線でもことばを交わさないと、敵かどうかもわからないし、戦国時代を考えれば、日本でも同胞同士で殺しあっていた。敵が異生物や自然の猛威であったなら、名誉ある撤退などとは言っていられないことになる。
クリストファー・ノーラン監督作品、アメリカ・イギリス映画、原題はTenet、ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン共演、151分。
今回のテーマは、時間の順行と逆行である。キエフの国立オペラハウスが突然、覆面をした武装勢力によって占拠された。続いて制圧隊が出動する。客席は満員だが、全員が反り返って眠っている。催眠にかかったような不思議な光景である。アメリカの黒人兵士をひとり、主人公としてカメラが追っていく。敵に捕まり、拷問を受けるが、自殺用に携帯していたカプセルを飲んで死を試みる。隠し持っていたのが見つかり、手足が拘束されたまま、仲間が飲み損ねたものに突進して口に含んだ。
気がつくと来世にようこそという声が聞こえた。一瞬どこにいるのかわからなくなったが、味方に救出されたようで、テストに合格したと言われている。船上にいて上官と思われる男(フェイ)からの指令を受けて、灯台にこもって体を鍛えたのち、本部に出向く。主人公は使命として「テネット」ということばが伝えられていた。
日本語では「主義」と訳されていたが、しっくりとはこない。その意味を探りながら、映画を見続けることになる。女性研究官(バーバラ)から銃を手渡され、射撃をするよう言われる。見ると弾丸が入っていないが、それでも引き金をひく。標的にはすでに何ヵ所も穴が空いていたが、撃った途端に新たな穴ができるのではなくて、古い穴がひとつ塞がった。時間が逆行する銃なのだという。主人公はこれまでにも、逆再生をしたような、過去と未来が逆転した不思議な体験をしたことがあった。
この銃を扱っているロシアの武器商人(アンドレイ・セイター)を探ることを命じられるが、直接会うことは困難で、夫人(キャット)を通してコンタクトを取るのがよいとアドバイスを受ける。夫人は絵画の鑑定を仕事としていて、贋作を夫が高額で購入したことを知る。間に入った贋作画家(トマス・アレポ)と不倫の関係にあることも突き止めた。主人公は贋作のゴヤの絵をもって夫人を訪ねる。
夫人には連れ子がいて、嫉妬深い夫のもとで、我慢をしながら着き従っていた。近づいていた主人公との関係も疑われて、手下が目を光らせて暴行を加えようとしたが、歯が立たず、反対にやり返されていた。美術品を保管するのにオスロ空港が利用されていて、武器売買にも関わっていることを疑い、仲間(ニール)とともに調査を深めていった。
核兵器の疑いもあり、プルトニウムの所在をちらつかせることで、商人の気を引こうとする。夫人への同情は、愛情へと変わっていった。ヨットでの遊びに同行し、夫が油断したすきに、妻が突き落として殺害を企てる。主人公があわてて飛び込んで助けると、妻は憤る。捜査上、死なれては困るためだったが、夫は命の恩人だと言って気を許している。お礼にと希望を聞かれると、夫人を許してやってくれと答えていた。
夫人を守ろうとする主人公に対して、夫は妻を盾にしてプルトニウムの所在を迫っている。妻の腹部をナイフで突き刺し、死に瀕すると、主人公は過去に遡り時間の流れを変えようとする。時間の流れの順行と逆行が同居して、見るものを困惑させるが、原理としては理解は可能だ。未来では過去に戻って出来事をゆがめることができるようになっていて、現在は未来からきた人物と、未来に向かう人物とがふつかりあっている。錯綜して戸惑うが、人や車が後ろ向きに動く不自然に出くわすと、頭の整理をしていくことになる。
最後に取られた作戦は、10分間のあいだに未来からと過去からの挟み撃ちをして勝利を得るというもので、それがテネットという語に託された。武器商人は末期がんを患っており、人類を道連れにしての核弾頭による破壊だった。兵士のもつ腕時計がときおりはさまれて写し出され、10分間がカウントダウンされていく。兵士は巡行と逆行のグループが混じり合うので、肩に赤と青のラベルを目印として貼っている。ビルが爆破される場面では、時間が重なり合って、上階がもとに戻った途端に、下階が破壊されていた。
TENETは前から読んでも、後ろから見ても、同じ綴りであり、TEN(10)という文字を含んでいる。これを裏側から見れば、Nは英語では左右が逆さになるが、ロシア文字では正しい向きなのも興味深いものだ。天使がアルファベットを運び損ねたという説もあるようだが、ロシア人は世界を裏側から見ている。ことばに隠し込まれた意味を探る謎解きとして、鑑賞者の心をそそるものとなっている。
ウクライナのコンサート会場でのテロもプルトニウムを手に入れるためのものだった。第三次世界大戦や冷戦という語も飛びかうが、世界情勢としては、ロシアによるウクライナ侵攻に敏感に反応した結果であるように見える。
ただし現実でのロシア侵攻は2022年2月のことだが、映画はそれ以前の2020年に制作されている。映画での虚構と同じように、現実世界でも過去と未来とが逆転しているのだ。映画はいつも預言者である。60年代の冷戦で、ジェームスボンドがロシアより愛を込めた、延長上のイギリス映画だった。