近 作 (2022年~)
「映画の教室」by Masaaki Kambara
山崎貴監督作品、英題GODZILLA MINUS ONE、神木隆之介、浜辺美波主演、アカデミー賞視覚効果賞、ブルーリボン賞作品賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞、125分。
ゴジラを敵に見立てての戦争映画とも取れるが、最後は生き残ることで、命の尊さを伝えていてホッとする。特攻精神が称賛されているように見えると、反発もあるかもしれない。最後のハッピーエンドがなければ、批判も多かったのではないかと思う。
特撮だけで見ても、迫力は十分にあるが、人間ドラマになっていなければ物足りないものだ。アカデミー賞の視覚効果賞を、予算をかけないで獲得したという点で話題になったが、それだけではなかった。戦争とどう向き合うかという問題を考えるのに、良い材料を提供してくれたように思う。
太平洋戦争末期、南方の孤島(小笠原諸島大戸島)に現れたゴジラによって、全滅した部隊があった。アメリカとの戦闘によるものと判断されたが、実際の相手はゴジラだった。生き残った一人の若者(敷島浩一)が主人公となっている。この島は特攻隊で飛び立った戦闘機が不具合を起こしたときに、不時着する場所にもなっていた。主人公はここに降り立ったが、乗っていた飛行機を点検しながら、どこにも故障はないと整備兵(橘宗作)が言っている。
特攻隊の任務を守らないで、生き残ったことから自分を悔いた。優秀な腕前をもつパイロットであり、射撃能力も際立っていた。にもかかわらず実行力に欠けていた。そんなときゴジラが現れた。ここでもおびえながら逃げ、いつまでもトラウマとなって恐怖心が植え付けられていく。東京に戻ると家族は空襲にあって亡くなっていた。近所に住む顔見知り(太田澄子)が知らせてくれた。その後もいろいろと世話を焼いてくれる女性である。
焼け跡の人だかりを走ってきた女(大石典子)から赤ん坊(明子)を受け取った。女は追われていてそのまま逃げていった。いつまでたっても引き取りにこない。置き去りにして立ち去ろうとすると、赤ん坊と目があった。抱きかかえて戻ろうとするのを、女は見ていて姿を現した。悪い人ではないと言って、家までついてきた。そのまま住み着いてしまうのだが、自分の子ではなかった。孤児をかわいそうに思って育てていた。稼ぐ方法もなく盗みをはたらくしかなかったのである。
とんだ居候が増え、主人公も働き口を求めた。見つけたのが木造船に乗って、アメリカ軍が仕掛けた機雷を、撤去する仕事だった。粗末な船だったが、木造なので、機雷に感知されないのだという。危険を伴うことから、女はやめるように言うが、これでなければ3人が食ってはいけないと答えている。血のつながりのない3人の、奇妙な共同生活が始まっていく。
はた目には家族のように見えている。生活が安定して新居に引っ越しをして、乗船仲間を食事に呼んでいる。夫婦でなく子どもも我が子でないのを不思議がっている。なぜ結婚しないのかという問いに、生き残ったことの後ろめたさを感じながら、主人公は自分の戦争はまだ終わっていないと答えた。
沖での作業中に深海魚が浮かび上がる光景に出くわす。かつてゴジラの出現前に見られた現象だった。ゴジラは島の現地人から聞いていた名称である。引き上げてきた軍艦(高雄)に並走しながらの運航だが、ゴジラが現れ、ひとたまりもなく軍艦は沈没した。そのパワーを前にして一目散に逃げ帰る。
恐怖は東京に向かってくるという予想によって高まった。住み着いた娘も仕事を見つけ、子どもを隣家の女性に預けて銀座まで通っていた。ゴジラが上陸して暴れまわり、都心が破壊された。その道筋に女の勤め先があった。主人公は助けに向かい、出会うことができたが、混乱のなか離れ離れになり、行方不明のまま犠牲になってしまったようだ。幼児と二人になってしまい、今までのように子どもを預けている。
ゴジラを駆逐する手段を民間の知恵を結集して考えはじめる。戦闘を伴うことから、国家間の刺激を避けて、公的な機関が動くことはできなかった。仲間の一人(野田健治)が、リーダーシップを発揮して作戦を提案している。優れた科学者でもあって、ゴジラをいったん海に沈めて、急速に浮上させることで、気圧差を使って息の根を止めようとするものだった。
ゴジラを取り囲む何隻もの軍艦が準備される。旧海軍の乗組員が集められるが、今の生活を考えると士気は高まらなかった。隊長は命令ではないと言うと、何人かは去ったが、かつてのように必ず死ぬものではないと笑いあって、多くが参加した。
一方でゴジラを海に誘導するために、戦闘機が用意された。戦争末期に開発された新機(震電)だったが、出撃することなく基地の倉庫に眠っていた。主人公がひとり乗り組むことになる。整備する必要があり、主人公は島での不正を見破った整備兵にこだわり、生きているはずだと、居どころを確かめようと奔走した。見つけて指示を出すが、そこには大型爆弾が搭載されていた。発射装置を確認している。お国のために今度こそは死のうと決意したのだと、旧整備兵は理解した。
罪滅ぼしは、ゴジラの口を目がけて突撃して爆破させるというものだった。奪われた愛する者への仇討ちでもあっただろう。仲間にはもちろん知らせてはいない。幼児を残してもいることから、無事に帰ってくるものだと思っている。子どもを預けていた隣人に手紙を書いて、札束を同封して、子どものことを託していた。
作戦は失敗して、ゴジラは生き残った。残されたのは主人公の体当たりだけだった。みごとに機体は口に吸い込まれるようにして、やがて爆発してゴジラの頭部は粉々になった。特攻隊として死に損ねた若者の最後のようにみえたが、パラシュートが開いてゆっくりと降りていく姿が、それに続いた。整備兵は爆弾の発射ボタンの説明のあと、脱出方法の説明をしていたのだった。
自宅には電報が届いていた。子どもを預かっている隣人が住み込んでいて、読んでいるが、私たちには内容はわからない。主人公が無事戻ってきたときに手渡すと、走り出して病院を駆け上がり、病室が映し出される。痛々しい姿だったが、そこには死んだはずの女が待っていた。戦争は終わりましたかと問うと、男は黙ってうなずいていた。最後に海底に沈んだゴジラを、カメラは映し出しているのだが、断片がうごめいているように見え、不気味さを残していた。主人公はもう一度生きてみようと思ったが、ゴジラも死滅したわけではなかったのである。
ジュスティーヌ・トリエ監督作品、フランス映画、原題はAnatomie d'une chute、ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ脚本、ザンドラ・ヒュラー主演、カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー賞脚本賞受賞、152分。
法廷での息詰まるやりとりが見どころのサスペンス映画である。自殺か他殺か事故かの判断をめぐって、見ているほうもそれぞれの言い分に納得してしまう。真実はひとつしかないはずなのに、どちらもが正しいと思ってしまうところに、この話の真相はある。弁護士は真実は何かが問題ではなく、どのように見られるかが重要なのだと言っている。
主人公(サンドラ)はドイツ出身の女性作家であり、夫はフランス人だが、視覚障害のある息子がひとりいて、三人はながらくロンドンに暮らしていた。夫も同じように作家をめざしたが、才能は妻のほうがうわまわっていて、教師としての生活に甘んじていた。夫の希望により妻は従って、今はフランスにいて、グルノーブル近郊の山岳地帯に住んでいる。フランス語と英語とドイツ語が混ざりながら飛び交っている。他者に聞かれたくないときには、ことばを切り替えることもできた。
妻の文学を研究対象にした、若い女性研究者が訪れてインタビューをしている。妻は誇らしげに持論を語っている。夫は2階にいて大音量で音楽をかけだした。はじめ聞こえたときには、場ちがいな映画音楽だなと思えたが、2階から聞こえてきていたのである。研究者を妨害しているように見え、早めに切り上げて、次回の約束をして去っていった。妻は娘を気に入ったようで、優しく声をかけている。
息子は盲導犬の役割もする愛犬を連れて、山道を散策して戻ったとき、家の前に父が頭から血を流して倒れていた。息子は大声で母親を呼んでいる。三階の窓から落下したように見えるが、駆けつけた警察による現場検証から、不自然な死が指摘されている。頭の傷は落下によるものではなく、殴打によるものではないかという疑問が提出された。
妻が疑われることになると、不利な事実が明らかにされていく。夫が妻の才能に嫉妬していたことと、夫の書いた小説のアイディアを、妻が盗んで書いた小説がヒットしたことから、いさかいがあったことがわかってくる。夫は自分の書く次の小説に反映させようと、言い争いのようすを録音しており、それが警察の手に渡り提出されてくる。音声から妻は暴力的に夫に対していることがわかる。
警察の捜査に対抗して、妻は知り合いの弁護士(ヴァンサン・レンツィ)に相談をして、法廷に臨んだ。弁護士は妻と共闘して何とか有利にことを運ぼうとしている。以前から心を寄せていたようで、アルコールが入ると、危ない情事の予感を感じさせてもいた。法廷での検察側と弁護側のやり取りが、生々しくリアリティを帯びていて、このかけひきをいかに制するかが、勝敗を決するのだということがよくわかる。
息子(ダニエル)からも証言を取ることになる。息子の知らない両親の確執も赤裸々に語られる。息子はまだ11歳であり、目も不自由であり、過酷な現実を受け入れることになる。息子には保護観察に女性がひとり付けられていた。はじめ嫌がっていたが、やがて母親を避け、この女性に心を開いていく。妻がバイセクシャルであったという秘密が法廷で暴露される。夫とのつながりがなく満たされないまま、一度だけ同性愛に走ったことを告白している。疑惑はインタビューにやってきた娘にまで及び追及されていた。
息子は母親の犯行ではないかと思った。弁護士も半信半疑ながらも、弁護に闘志を燃やしている。弁護士の仕事は真理を探究することではなく、依頼主を守ることである。息子は母親が殺したと思うという、正直な気持ちを語ろうとしたが、実際には母親を守る発言となった。父と交わした対話について話しはじめ、そこで父親は自殺をほのめかすようなセリフをふくませていた。
このことから母親は無罪を言い渡された。息子に連絡を入れ、待っているよう伝えて、弁護士とともに勝利を祝った。遅くなり自宅に戻ると、息子は眠ってしまっていた。弁護士は母子が二人でいることをすすめて、去っていった。息子は目を開いて母親に接している。母親は息子のまなざしに躊躇するような素振りを見せたように見えた。私たちにはわからないままだが、息子と母親の表情を読み取ることで、このドラマの凄みが見えてくるようだった。子どもを寝かしつけてベッドに戻った母親に寄り添うように、犬が入り込んできた。息子だけでなく、母親の魂を浄化させようとしているようにみえた。
森達也監督作品、井浦新、田中麗奈、永山瑛太主演、137分、釜山国際映画祭新人監督最優秀作品賞、日本アカデミー賞優秀作品賞・優秀監督賞・優秀脚本賞受賞。関東大震災直後の集団狂気による殺戮劇である。映画タイトルから、どこで事件が起こるのだろうかと待ち受けていたが、とんでもない展開に唖然としてしまう。現実に起こった事件であることで、想像を超えて人間のもつ残酷さを思い知ることになった。部外者を排斥する防衛本能は、これほどまでエスカレートするものなのだろうか。
朝鮮から帰国し、千葉県の静かな村に戻ってきた夫婦がいた。夫(澤田智一)は教師だったが、故郷では新たに農業をはじめようと思っていた。妻(静子)は朝鮮で裕福な家の娘として育ち、ハイカラ趣味は土地の女たちとはかけはなれたものだった。子どもの頃の仲間が男に声をかけている。顔見知りは農家だけでなく、村長や軍人もいたが、農作業をはじめると、腰つきが不安定で頼りないのをからかわれ、なぜ教師をやめたのかが不思議がられている。男は同じ日本人として、侵略者としての自分に嫌気がさしており、罪意識を背負っての帰国だった。
同じ列車では、戦死をした夫の遺骨を抱いて帰郷する村女が乗り合わせていた。村では名誉の戦死を、親族をはじめ村長も出迎えていた。母親が泣きはらして遺骨にとりすがるのを、父親が諌めている。この女がやがて船頭をしている青年(田中倉蔵)と恋仲になると、村人から冷ややかな目で見られていく。
船頭は一方で朝鮮から戻った人妻とも関係をもった。目的もなく気まぐれに、船遊びを楽しんだときのことである。夫は川岸から情事の現場を見ていたが、何も言うことができないでいた。妻は夫の情けなさを思うと、なぜ止めてくれなかったのだと迫っている。
讃岐から荷車を押した、十数人のグループが村を訪れていて、薬の行商をおこなっている。富山の薬売りに比べて知名度が劣るが、頭を働かせて売り歩いている。リーダー(沼部新助)が若い仲間にこつを教えている。5人集まっていれば薬は3つしかないといい、その後探して出てきたと言って5つ売るのだという。彼らはエッタと呼ばれてきた被差別民であり、リーダーは道で朝鮮飴を売りに来た娘から、こころよく買ってやっていた。同じように差別されてきた悲哀を感じ取ってのことだった。優しく扱われた娘は、お礼に朝鮮製の扇子をプレゼントしていた。
1923年9月1日に関東大震災が突然起こる。女が船頭との情事の最中だった。夫は田を耕していた。この日から1日単位でカメラはドキュメンタリータッチで事件の経過を追っていく。略奪や放火も出てくる。機に乗じて犯罪は地獄と化していく。壊滅状態にある東京から、うわさが広がってくる。朝鮮人が犯罪者としてでっち上げられると、戒厳令が敷かれる。村でも自警団が組織される。朝鮮人を見つけ出して拘束されるだけでなく、殺害しても犯罪にはならないという状況が生み出された。政府の命令として公然と殺人のお墨付きが得られたのである。
福田村でも朝鮮人を見つけ出そうと血まなこになっている。見つけ出さないと村が破壊されるという脅迫感からだった。行商にやってきていた薬売りの一団が目をつけられた。軍人がまず高圧的に尋問し、朝鮮人でないことを証明させようとして、発音のできないことばを言わせる。リーダーは証明書を提示するが、偽物ではないかと言いがかりをつけられ、確認に役所に持ち込んだ。その間にも厳しい追及が続いている。朝鮮製の扇をもっていたことも災いした。
村人の多くは軍人に同調している。村長は証明書の真偽がわかるまで待つよう訴えるが、軍刀が抜かれて威嚇されている。朝鮮から戻った夫婦も見守っているが、妻が日本人であることを証明してやろうとした。ひとりでいるときに二人がやってきて薬を買ってやっていた。そのときの少年がそこにいた。口出しをしようとしたとき、これまでずっと萎縮していた夫が制止して、はじめての行動に出た。説得を繰り返すが、そのとき一人の女がよろよろとリーダーに近づいて、斧を振りかざして頭に一撃を加えた。あっという間のできごとだったが、これをきっかけに軍人たちは日本刀を振りかざし、村人たちは竹槍を手に、逃げはじめた行商グループに襲いかかっていった。
狂気としか思えない惨劇が続いていく。赤ちゃんをおぶった母親まで犠牲になる。囚われて縄にかけられた者まで殺害された。囚われたものは死を覚悟したとき、口々に弘法大師のお題目を唱えていた。四国からきたことがわかるものだが、村人にはそれを聞く耳をもっていなかった。証明書が確認され、日本人だとわかったとき、暴挙はやっと終わった。リーダーは殺される前、朝鮮人でないのに殺すことになるという擁護の声が起こると、怒りを露わにして、朝鮮人なら殺してもよいのかと叫んでいた。
生き残ったのは5人だったが、そのひとりだった少年が、死者の数が9人だと聞いたとき、10人だと訂正している。殺された妊婦の腹に子どもが宿っていた。そのときの会話を私たちも記憶している。望の一字をあてて、女の子ならのぞみ、男の子ならのぞむと読ませるのだと言っていた。彼らの希望は無残にも失われてしまったのである。
新聞報道も政府の方針に迎合するなか、取材にきた女性記者が、呆然としている村長に話しかけている。自分の見た真実を書きたいと投げかけるが、村長はこの事件を伏せてほしいと答えていた。そして9月6日に発生したこの事件がながらく伝えられないままいたことを、テロップは綴っていた。
クリストファー・ノーラン監督作品、キリアン・マーフィ主演、アメリカ映画、原題はOppenheimer、アカデミー賞作品賞・監督賞・主演男優賞はじめ7部門で受賞、180分。優秀な物理学者(ロバート・オッペンハイマー)が原子爆弾の製造に関わった。アメリカに勝利をもたらした英雄としてもてはやされたが、本人の表情は暗かった。ナチスドイツやソ連の研究状況が語られて、アメリカはこの競争に負けたくはなかった。ドイツが敗戦を迎えて、日本戦に使われることになった。ドイツに使いたかったという発言も聞こえていた。
広島と長崎の惨状が明らかになると、ますます心は閉ざされていく。大統領に呼ばれて、原子爆弾をつくったものには責任はない。落とした者に責任があり、それは大統領自身だと言われたが気持ちは晴れなかった。本人が去ると、弱気な科学者をなじる声が聞こえていた。実際に落としたのはB29のパイロットだとすれば、大統領以上に罪悪感を抱いていただろう。命令によって敵兵を殺した最前線の兵士たちも同じだろうし、死刑執行人にも、決断を下した法務大臣以上の苦痛がともなったはずだ。
政府の命令に科学者は従っただけだという割り切りかたができなかった。委員会が組織され、戦争責任とスパイ容疑が検証されていく。プライベートの事情も明かされる。共産党員の女性との関係や、恋愛歴も細かに調べられて、人物像の歪みが指摘され、悪魔に身を売った非人間的実像が神話化されていく。「原爆の父」という呼び名は、やがて汚名として聞こえ出していく。
政治家たちに取り囲まれて、厳しい追及が続いている。戦争に勝利したときは、オッペンハイマーという名から、オッピーという愛称で親しまれていた。気まぐれな民衆を前にして、自分を見失ってしまうことは多い。科学は権力者に利用されるものだ。それは科学には倫理はなく、善悪のけじめもなく、それに従うように科学者の人格が形成されていく。
年を重ねて思想を学び取って、やっと気づくことになる。研究所の前任者としてアインシュタインが登場するが、自身の罪を嘆く修道士のような風格を備えていた。政治家がおしなべて悪人に見えるなか、警告を発する唯一の議員として、ジョンFケネディの名が聞こえていた。志し半ばにして命を落とした神話的人物である。
戦争に加担してきた科学者の系譜をたどれば、毒ガスの発明者もそうだし、シンプルな鉄砲やナイフにまでもさかのぼる。権力者の欲望があって、頭脳明晰な科学者がそれに手を貸した。とんでもなく優秀な頭脳の持ち主がいるということがよくわかる。それが必ずしも心や体とバランスが取れているものでもないこともわかる。頭脳の明晰さに比べて、肉体的にはだらしない場合も少なくない。のむ・うつ・かうの三拍子そろった悪人は多いが、頭と心と体はなかなかそろわないようだ。
覆いかぶさるようなカメラワークはスリリングではあるが、セリフが連写され息をつく暇もない。ときおりはさまれるショッキングな場面で、覚醒させようとするのだが、唐突に男女のヌードが出てくると不可解でしかない。さらには主人公が尋問を受ける場面も、一瞬裸体となって写されて驚きを隠せない。フラッシュによって目がくらまされたような印象は、原子爆弾が落とされての突然死に対応するものだろう。
長い映画であるが、日本人にとっては広島の名が出てくると、はっとして身を乗り出す。他人事を描いた外国映画ではないのだと気づき、見る目が変わってくる。なぜこんなものが発明されてしまったのかという、良心の問題から発して、どんな発明も、悪魔のささやきに心を奪われた欲望の産物なのかと、反省をうながされる。コンピュータやインターネットも軍事目的から開発されてきたものだった。
ノーベル賞の話題になったとき、主人公の口から真っ先にでたのは、ダイナマイトの発明者という事実だった。平和利用という罪滅ぼしの姿を背負いながらも、名誉だけではなく、それに見合うだけの賞金への欲望によって支えられてもいるものだ。完成した核弾頭がトラックに乗せられて運ばれている。こんなに小さなものがと思うと身震いがする。誰もやめようとは言わなかったことに、さらに恐怖した。
北野武監督・原作・脚本、ビートたけし、西島秀俊、遠藤憲一、加瀬亮、小林薫、木村祐一主演、131分。主役は首である。顔のように見える、崩し文字で書かれた「首」という漢字が、斜めから一文字に切り裂かれて、上部が前にポトンと落ちた。黒字が赤に変わり、象徴的な効果を見せている。
首のない死体が転がる戦場が映し出される。よく見ると切断された首のなかで、何かわからないが、うごめいているものがいる。これがはじまりで、ラストシーンは首など問題ではないといって、足で首をサッカーボールのように蹴飛ばして終わる。血生臭い生首が飛ぶ戦国の凄惨な時代絵巻を、異様な世界観で綴っている。ときおりはさまれるお笑いのサービス精神にホッとする。
本能寺の変に至る、織田信長殺害の真実に迫る。荒木村重の裏切りに対し、一族郎党を皆殺しにしたが、本人が見つからない。明智光秀がかくまっていたのである。信長と明智光秀との確執を追いながら解き明かそうとするのだが、三者の間を結びつけるのに、ホモセクシャルな愛憎に目を向けたという点で、ユニークな視点を提供する。それに加えて、秀吉と家康の野望もはさまれて、信長とでかたちづくる人間関係のトライアングルも入り組んで、重層的なドラマが成立した。
村重が急に光秀の唇を奪おうとしはじめるのに、まずは驚かされるが、戦国の世、美少年の小姓を身近に置いた戦国大名の嗜好を考えれば、男世界に生きる者にとって、無理もない解釈に思えてくる。同時にシリアスな展開を、コメディとして娯楽作品に落とし込むことで、フィクションであることが強調される。
歴史的人物への興味だけでは、生活感のリアリティは出てこない。武士になって一旗あげるという百姓の登場や、曽呂利新左衛門という伝説的人物を登場させることで、地に足のついたドラマの躍動感を獲得できたのだと思う。敵将の首を切り落とすことに、血まなこになる異様な執念に身震いするが、影武者を何人も用意して、それに対抗しようとする家康の姿が、興味深く目に映った。
家康が醜女好きだったという設定もおもしろく、それが敵の送った女忍者(くのいち)であり、さらに寝所にいたのは家康ではなかったというはぐらかしも、気が利いている。五人並んだ娘を一人ずつ売り込む老女に対して、好みはお前だというくだりは、バイオレンスな笑いに満ちている。信長が森蘭丸をはじめとした、美少年に愛する嗜好とは対極にあるものだ。
信長の異国趣味は、黒人の青年を小姓にするに至っていて、本能寺の変ではこの黒人に首をはねられるという解釈がなされている。光秀の死についても、一攫千金をねらう下級の若者を前にして、樹木にもたれかかった姿で、首をやろうと言って、みずから首を切り落とした。
若者は首を手にして、出世の糸口ができたと喜んだとたんに、四方から竹やりに突かれて命を落とした。光秀の首の争奪戦がはじまっている。ラグビーやサッカーなどの球技は、このイメージから出発したスポーツなのかと思えてくる。ことにラグビーは大きさも形も、抱え込んだ首に似ている。
若者と光秀の首が並んで、秀吉の前にもたらされた。若者は見覚えのある足軽だったが、光秀のほうは汚れていて、見分けがつかない。首がなくても、死んでいれば問題はないと言って、秀吉はその首を蹴飛ばして映画は終わった。首が象徴的に何度も登場する。毛利攻めを終わらせて、光秀打倒に向かうときも、小舟での切腹の儀式を、秀吉はいらいらとしながら見つめている。介錯をしたとき首が水に落ちてしまい、家臣があわてて飛び込んで拾い上げる姿があった。
カンヌ国際映画祭に出品されることになったが、斬首と男色は西洋文化でも、共通のテーマとして繰り返し劇化されてきたもので、興味深く理解されただろう。しかし日本の戦国武将の基礎知識がなければ、おもしろみは半減しただろうし、誤解もされたかもしれない。信長を男色、家康を醜女好きというなら、秀吉だけが、一般的な女性観をもっていたと見ることができる。
役柄はお市の方でも茶々でもいいが、今をときめく女優をひとり加えていれば、三者の対比はくっきりとしたものになっただろう。カンヌでも戦国衣装を着た女優の彩りを考えると、戦略的にも有効だったにちがいない。もちろんそうしたスター戦略は興行的には重要だが、最後にスクロールされる、おびただしい数のスタッフの名列を見ると、あらためて映画は集団の力の結集だということがわかる。署名活動にも似た、この重みを前にして、軽はずみな意見などすべきではないと、頭がさがる思いがした。
バッサリと切られた傷口には、バイ菌がうごめいている。大胆にして繊細、これを同時に実現させるのが、巨匠の腕前なのだろう。ミステリアスな仕掛けは、いつまでも尾を引く。小型モニターでの鑑賞は、スクリーンではくっきりとした実像として見えているはずだ。映画はスクリーンがすべてではない。それぞれはともにおもしろい。誰か知った名前が出てこないかと、スクロールを最後まで目を凝らしながら見ていた。
第639回 2025年1月10日
石川慶監督作品、平野啓一郎原作、妻夫木聡主演、安藤サクラ、窪田正孝共演、日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞、121分。
原作のおもしろさに支えられてもいるのだろうが、映像表現としてのスリリングな推移に引き込まれる。名前と顔とがちがうことからはじまり、他人になりすました犯罪へと展開するのかと、ミステリーに固唾を飲んで見守ることになった。はじまりは文具店に、ある男が画材を買いにくるところからである。店に出ていたのは、離婚をして実家に戻っていた娘(谷口里枝)だった。幼い息子(悠人)がひとりいて、母親を加えて親子3代が生活を共にしていた。
男はたびたびやってきて、唐突に友だちになってくれないかと聞く。子どももいるのだと答えると、知らなかったと言う。知っていればもっと怪しいと言って女は笑った。ことば数の少ない、影のある目立たない男だったが、実直そうな風貌に女は心を許した。スケッチブックを持ってきて見せている。
女のほうも何も買わなくていいので、絵を見せてくれと言っている。男の実家は伊香保温泉で旅館を経営していて、兄(谷口恭一)があとを継いでいるのだという。事情があり、弟(谷口大祐)は多くを語りたくなさそうだった。場面の展開の速さに驚くが、幼児の女の子(花)が登場して、男はこの家に入って一家の主人として住み着いて、子どもをもうけていたのだとわかる。
上の男の子とも仲良く、男は林業に携わり、木こりとして就職していた。男の子を連れて山に入り、仕事仲間との作業中に誤って切り倒した大木の下敷きになって死んでしまう。伊香保の実家にも知らせないとと連絡すると、兄がやってきて、弟が迷惑をかけたと言い、葬儀の費用も出すと申し出ている。弟を見くびるような口ぶりで、仏前で手を合わせて、遺影はないのかと問いかける。置いてあると言って指さすと、弟ではなく初めてみる顔だと言った。
ここまでは長いが前置きで、じつはここからが本筋になっていく。実態を究明しようと、かつて離婚の調停で世話になった弁護士(城戸章良)が登場して、謎を解明していく。弁護士は在日の三世で、出生のことを気にかけている。妻(香織)は裕福な家庭からもらっていて、男の子(颯太)がひとりいる。謎の男を調べはじめるところから、それにのめり込むと、妻は依頼先の女のことを疑って、夫婦関係にも亀裂が生まれる。
手がかりは同僚の弁護士(中北)からもたらされた。戸籍を交換して他人になりすますという、過去にあった事件に関わって、服役している仲介役のブローカー(小見浦憲男)がいることを知る。会いに行くといきなり在日だろうと見破った。顔を見れば一目でわかるというのだ。伊香保の旅館のことをあげると、次男のことだろうと言って、関わりのあったことをほのめかした。
面会ではイケメンの弁護士と茶化されて、心を見透かされ雲にまかれたが、その後ハガキが届き、ヒントとしてはじめて聞く名(曽根崎)が書かれていた。わからないまま調査を進めていって、次に得た手がかりは、死刑囚の描いた絵を集めた展覧会だった。旅館の次男坊には愛人(後藤美涼)がいて、スナックを開いていた。付き合っていたが、突然姿を消したのだという。彼女に紹介した展覧会場で顔をあわせると、同僚の弁護士は仲良さそうな二人を疑っている。
そこに展示されている一点に、顔を塗りつぶした奇妙な絵があり、それが死んだ男の残したスケッチブックに描かれた顔と同一だった。パンフレットに掲載されている作者の顔を見ると、その男とそっくりだった。死刑囚(小林謙吉)には子ども(原誠)が一人いることから、それがこの男ではないかと、直感を働かせた。
子どもがボクサーだったこともわかり、ジムを訪ねていく。将来有望な才能の持ち主で期待されていたが、新人戦を前にして身を隠してしまった。父親は死刑囚であり、自分は日のあたる世界には住めないのだと判断していた。そのことを突き止めて、再度受刑者に持ち込むと、お前は何もわかっていないと罵倒された。名前の売買をしている自分の名前さえ、本名は刑務所に記録されている名前ではないかもしれないとも、言ってのけた。
スナックのママは、行方不明の旅館の次男坊を名乗って、ブログを書きはじめていた。弁護士の捜査に協力してのことだったが、やがてはじめて聞く名前(Sonezaki)で返信があり、偽者であることを見破り、止めるよう促すメールが届く。弁護士に付き添われて、その人物と顔を合わすことになる。会うと失踪していた愛人だった。死んだのではなくて、他人の名前で生きていたことに女は涙している。振り返ると弁護士は、二人をそのままに残して姿を消していた。
送りつけたメールの名は、受刑者がはじめに教えていた名であり、弁護士は真相を理解することになった。謎解きのキーポイントは、二度名前を変えたということにある。過去を捨てたい三人がいて、ブローカーの手を借りて、戸籍を交換していたのだった。
弁護士は調査報告書をまとめて、依頼主に手渡した。息子にも読ませて、娘にはどうしようかと問いかけている。自分の口から知らせてみる、その時が来れば、というのが息子の返事だった。父親が自分に優しかったのは、父自身が自分の父親からそうしてほしかったからだと、息子は言う。母親は否定して、あなたが好きだったからよと言っていた。
他人になりすましていたことから、その人物が見つからないことで、殺していたのではと疑い、死刑囚を親にもつことから、犯罪者の血が流れているのだと邪推しただけのことだった。それでもまだ、孫娘には死刑囚の血が流れているのだと気づかっている。弁護士も民族の血にこだわり、偏見を前に苦悩し、同じように息子に受け継がれていることを気にかけることにもなるだろう。携帯をのぞき見て、妻の浮気を確認しても黙っていて、平静を繕っていた。
勝手に続編を考えてみれば、ここから話を展開させていけるかもしれない。息子は弁護士のじつの子ではなかったということにして、タイトルは「そして父になる」でどうだろう。主演は妻夫木聡から福山雅治にバトンタッチする。人類史は血のつながりを考え続けてきた殺戮の歴史だった。そして血のつながっている者同士がいがみ合う歴史でもあった。
弁護士が三世なのですでに日本人だと言い返したときには、偏見を認めてしまっているということだ。報告書を読み終えて、依頼人は何も知る必要はなかったのではとつぶやいていた。いらないことは知らない方がいい。
はじめと終わりに登場するマグリットの絵は暗示的で、鏡写しになった顔のない後ろ姿である。虚像も実像もともに顔はない。同じ顔なのかどうかはわからないが、後ろ姿は同一なのだ。同じ顔なのかを知ろうと、邪推する必要もないのだということを、この絵は教えようとしているのだと思った。