美術時評 2018年10月
by Masaaki Kambara
by Masaaki Kambara
2018年9月22日~11月25日
岡山市立オリエント美術館
2018/10/26
ビーズという装飾以外にはあまり用途が思いつかないものが、太古の昔から脈々とつくり続けられていることは興味深い。それを民族学の視点から読み解こうというわけである。原理からは穴を開けてヒモでつなぐということだが、展示のはじまりにソロバンが置かれていて、なるほどこれもビーズかと思わせる演出が、その後の鑑賞を面白くしてくれた。
首飾りを用途と言うことも可能だが、ソロバンが出てくると、確かにこちらに軍配は上がる。さらには戦国武将の鎧なども、ビーズによって身を守るからには、しっかりと役立てられている。貝殻やガラスのほか、歯もビーズになる。獲物であれば戦利品ということだが、人の歯になるとあまり気持ちのよいものではない。17世紀のオランダの版画で、歯医者の治療台に歯が山のように積まれていて、糸でつなげて首飾りのようになっているのを見たことがあるが、歯医者にとって一本一本の歯は、自身のキャリアの証明でもあるのだから、糸でつなげて飾っておこうという気持ちはわからなくはない。
民族学的なレベルでは、衣服は身につけなくても、ビーズだけは首からぶら下げる種族の美意識は、世界中で共通するものであるようだ。男女の差があるのかも定かではない。性差を超えて普遍性を獲得しているとすれば、「かざりの美」という今日的な日本美術史の問い直しとも連動していくものだろう。
素朴なのがベストだといいながら、じゃらじゃらと飾り立ててきた歴史はある。ビーズのハンドバッグのプライベートコレクションが、最後のコーナーを飾っていた。神戸の昭和30年代の考現学でもあったが、元町商店街からセンター街に続く、三越、大丸、十合の百貨店全盛の頃の三ノ宮界隈の雑踏が目に浮かび、かざりの美を演出してくれた。
2018年10月19日(金)~11月25日(日)
岡山県立博物館
2018/10/25
岡山ゆかりの武将のオンパレードである。岡山に関係しない者にとっては、何の興味もないかもしれないが、普遍性は随所にある。下剋上の時代、岡山に限らず、生臭い権力争いは続いている。さまざまな思惑が、それぞれの顔に結晶する。政略結婚のために敵方と似てしまった顔立ちもあるだろう。親子だが養子のために全く似ていない場合もある。頼朝風の似絵の装束で描かれるものも多いが、その場合は顔のすげ替え人形に過ぎず、そのためにかえって顔にスポットが当たり、表情を読み取りたくなってくる。
そんな中、21歳で生涯を終えた小早川秀秋の肖像が目を引く。気弱げな色白の若者である。天下の裏切り者の汚名を着るが、悪人というにはあどけない姿には、絵師の同情が混じるのか。豊臣秀吉の大勢いる養子のひとりである。顔立ちは誰に似ているのだろうか。目と目の間隔は、かなり空いている。もちろん秀吉とは似ていない。
養子たちの肖像画を並べて比べてみたいと思う。秀吉はおそらく、猿とあだ名された自分であっても、似ている我が子を欲したはずだ。待望の血筋が誕生したとしても、似ていないことに気づきつつ、男としての自尊心をどうなだめていただろうか。その後の岡山の地を固める池田家の顔も見比べてみよう。顔は似なくても、名は一字違いを踏襲し、血の繋がりに執着する。美術品が国宝や重要文化財になるのは大変だが、今回の歴史的資料では、重文がずらりと並んでいた。城主の描いた自画像というのもあり、絵心をもつ文化人としての台頭が、徳川家安泰に一役買ったことも、わかってくる。
天下泰平が250年間も続くということは大変なことだ。町人文化を支えたはずの琳派の後続である酒井抱一は、姫路の城主の息子であった。剣を取らせずに、筆を取らせることは、統治者の知恵ではあるが、ペンはまた剣よりも強くもあって、権力を批判し、地位を脅かす火種にもなっていく。
スペイン王朝の歴代の肖像画を見ていると、実に面白い。ベラスケスやゴヤを通じて、当事者だけが気づかない肖像画の隠された真実に迫ろうとしていたことがよくわかる。小早川秀秋像には、それに似た絵師の解釈とメッセージが潜んでいるように見え、立ちすくんで見入ってしまった。
2018年9月26日~12月16日
夢二郷土美術館
2018/10/25
夢二式美人を満喫した。たいていは同じ顔立ちなのに、バラエティに富んでいる。目が会うことはない。こちらは見つめたとしても、いつもはぐらかされる。真横を向いたものも多いが、そのときは鼻すじがすうっと伸びて美しい。まつげを描いているせいなのだろうか、まぶしげな表情を浮かべる。恥じらいに見えなくもない。一人でぽつんといる場合が多いが、男性を伴っている場合も時折ある。その場合、男の方はいつも頼りなげだ。男は夢二自身の自画像のように見えてくる。胸を張って俺について来いという男性像とは対極にある。自信なげな仕草は、近松に出てくる典型的男性像と重なり合う。
「初恋」(1)と題した一点では、リンゴの木をはさんで、別々に男女が置かれている。藤村の詩をモチーフにしたものだが、男は後ろに引き下がり、顔をおおって悲嘆にくれている。女はリンゴに手を差し伸べるようにしているが、物思いに沈んでいる。夢二式美人の原点になる初期の油彩画である。まだ荒削りだが、ここにファムファタールとしての女性の原型があるのかもしれない。
さらに「アダムとイヴ」を読み取ることで、理解が深まる。リンゴとは原罪の象徴であり、イヴは目の前にあるリンゴのどれをアダムに与えようかと、思案している。アダムはイヴから渡された禁断の木の実を食ってしまうことで、すべてを知ることになる。この場合の知恵とは、恋愛ということであり、初恋とは、人類のはじまりでリンゴを手にすることで生まれた感情ということになる。顔をおおって悲しむポーズ(2)は、ムンクの版画にもでてくるし、のちの楽園追放を暗示してもいる。ムンクの吸血鬼では、女はいたわるようにしながら、男の首筋にかじりついている。まるでリンゴであるかのように。
夢二がこうしたキリスト教的文脈をどれだけ意識したかはわからない。しかし島崎藤村の詩の中に、その解釈の秘密は隠されているかもしれない。「まだあげ初めし前髪の」からはじまる有名な詩だが、リンゴのもとに見えたときの、作者の初恋の予感が歌われる。続くフレーズにはこうある。「やさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは」。つまりイヴの誘惑がそこでは書かれている。そしてアダムには知恵がついてしまうのである。
こうした女性の魔力は、夢二の場合多くは遊女の姿を取るが、ときおり農作業の手を休める娘であったり、労働風景であったりする。つまり自立した働く女性の姿が混ざり込むという点は、見落とせないようだ。夢二式美人というテーマで、一堂に会すると、このことはよくわかる。顔立ちが華奢なのに比べて、手足がごつい(3)という観察は、よくなされることだが、田舎にいれば農作業に向かっていただろう娘が、都会にやってきて変貌する。イプセンのノラをはじめとして、当時受け入れられた女性観を反映していればこそ、夢二式美人は評判を呼び、広く受け入れられたのだろう。「秋のいこい」(4)はそんな自立する女性の出発点に違いない。都会にやってきた家出娘の面影は、信玄袋のふくらみに残されてはいるが、明日の不安をよそに夢見るような表情には、新しい女性の誕生が見事に現れている。顔を少し傾けて視線の定まらない姿は、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を彷彿とさせるものがある。
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2018年9月8日~11月25日
2018/10/21
人物群像と呼んでよいのだろうが、そこにあるのは死体の山だ。異様にねじれ歪んだ肉体は、デフォルメのせいではない。写実のせいだとすると、画家がこれまでデフォルメしてきたのは、何のためだったのだろうか。極限状態での写実を想像力によって補うためだったとすると、見える以上のものを思い浮かべられなくなるほどに、想像力は枯渇してしまったということか。
ペンと紙に書きつけようとしても燃え尽き、カメラで撮ろうとしても、金属さえ溶け落ちてしまう。想像を絶した現実があった。そんな中、かろうじて人は記憶にとどめようとする。振り絞って思い出し、こびりついたイメージの輪郭をなぞっていく。何度となく描き描きなおし、その度に記憶からは遠ざかる。忘却との戦いを繰り返す中から、事実とは異なった真実が浮かび上がってくる。生々しい現実が、美に昇華されていく。原爆の図は、第5部まで、再制作ヴァージョンとともに一堂に会すると、実に美しい絵だったのだと気づく。美は現実にとっては不謹慎なことばだが、醜をも美しく描くことができるのが、絵画の本質でもある。
これまで悲惨な現実が絵になってきた。戦争画は絵画の宝庫でもあって、ゴヤの「戦争の惨禍」やドラクロワの「キオス島の虐殺」をみると、ロマン派の傑作は戦争を待ち望んでいたようにさえ見える。鮮烈な色彩を放つロマン派の絵の具だけではなく、モノクロの版画にさえ、生臭い血の匂いはこびりついている。折り重なった死体の山は、ジェリコーの漂流するイカダから始まり、ゴヤの描いたマドリッドでの市民たちのレジスタンスや、藤田の玉砕図で繰り返されてきたが、原爆の図でとどめをさしたと言えそうだ。
モノと化す死の現実を前に、冷徹な観察者の目と、それを象徴化し、普遍化するもう一つの作業を必要とする。一人の人間では制御できないこの難題を、原爆の図では二人で描き分けている。内なる目は水墨によって深みを増す。外なる目は油彩画の技法によって、細部にまで肉付けられていく。その絶妙なバランスが、単に告発だけで終わらない感動へと向かわせるのだと思う。これまで原爆の図を、積極的に見に行こうとは思わなかったが、ヒロシマであればこそ、増幅されるモニュメントに違いない。
2018.9.8~11.4
北九州市立美術館分館
2018/10/21
世界中を旅して驚異的な一瞬をカメラに収める。一枚の写真になる背景に冒険者としての顔が自立している。もちろんファインダーを通して世界を発見するのだが、カメラにこだわり始めると、冒険家としての自我を殺すことにもなってしまう。ファインダーからはみ出すものを求めることで、完結を避け、未知を残したまま、未完へと疾走する。アーティストを返上してでも、真実を追跡する姿勢があるが、恐れることは身の危険を回避する動物的本能への過信だろう。
戦争カメラマンとも紙一重の立ち位置で、今後加速する身体的限界にどう向き合うかが、課題となるのだろう。熊に襲われて命を落とす場合もあるし、地雷を踏みつけてしまう場合もあるだろう。命拾いをして、ベッドの上で気づく場合もあるだろう。第一線に立つのではなく、第一線に立つ人に寄り添う写真家のあり方が、立ち止まる勇気を教える。幼い兄妹が手を引いてよちよちと歩く後ろ姿は、それまで気づくことのない新しい世界の発見だった。それからは、敵と向き合うのではなくて、アヴァンギャルドの後ろ姿を見つめる写真となった。そして見る者の共感も、実はそこにあったのだ。
写真家はどこまで主役になり得るかという問題は、ファインダーをのぞいている限りでは、すでに解答は出されている。それを回避するために自らがファインダーの前に立つ写真家が出始め、セルフポートレートという立ち位置を確立した。しかし写真というメディアの特性を、もう一度考え直す必要もあった。自撮りははたして写真の立つべき場だろうか。
かつてターナーは世界を旅する画家だった。そして同じ頃、同じイギリスにもう一人の風景画家がいた。コンスタブルと言って、生まれ故郷を生涯離れることなく、風景を描き続けた。さてどちらが多くの風景を目にしただろうか。二人はともにのちの印象派の新しい世界観の発見に寄与した。ターナーであり続けることはできるが、まだまだ身近にも見えていない世界が、無限大に広がっていることも確かだ。
2018/09/08(土)~10/21(日)
2018/10/20
写真家の立場としては、アーティストと同じ目の高さで推移し、時代の本性を切り取ろうとする。バスキアが何者かを知らなければ、何の意味もない写真展だが、輝くまなざしを持つ魅力的な黒人の若者であったことはわかる。マニアックな者にたまらないのは、知った顔に出くわした時だ。ウォーホルの顔は誰でも知っているが、シュナーベルがすっくと立つ存在感を前にすると、はじめて関根伸夫を見た時との共通性を感じる。アペルもいる。最高にいいアーティストだが、普通の人に見える。キース・へリングとは仲間であったこともよくわかる。肌の艶と柔らかそうな額の輝きはとてもいい。目も輝いているのにバスキアと同じく、早く死んでしまった。落書きをしているところなので、作品としては、この写真しかない。ニューヨークをカンバスにした、壮大な絵画プロジェクトだったことは確かだ。一時期だが爽やかな一陣の風のように通り過ぎて行ってしまった。没年はバスキア1988年、ヘリング1990年のことだった。
27年の生涯はプロボクサーなら、すでに一花咲かせているので、短いというわけではないのかもしれない。イタリアルネサンスを切り開いたマサッチオだって27歳で死んでいる。日本では青木繁が28歳だが、関根正二や村山槐多といったさらに上回る夭折の画家がいる。それを過ぎるともう一仕事をすませたゴッホ37歳、ラファエロ37歳、岸田劉生37歳の年齢になる。適齢期はありそうな気がするが、バスキアも見事に天命に合致しているということは言えそうだ。
ドイツ語ふうの名をもつインタビュアーが、フランス語ふうの名の作家に英語で質問をしている。画家はベルリンが引き合いに出されるのを嫌っている。ニューヨーカーとしての自覚と自負と自信が見えてくる。グラフィティと名乗る絵画の領域は、絵画そのものの物質性よりも、パフォーマンスに根ざし、モノからコトへと視点をずらすことで、哲学的迷走を避け、時間的推移を呼び込もうとする。建設よりも解体を準備する破壊的特性を前面に出しながら、行為する自我の前にあっては、作品概念は一歩下がり、商業さえも否定の対象として停滞する。世界の生命線の否定を通じて、アートの潔癖なまでの真実が求められている。
売買の対象にならないものに、値をつけていく。それが商業の醍醐味でもあって、これまで映像の最先端でさえも、クリアしてきたことだった。バスキアの名が一人歩きする限り、作品以上の意味が、生身の作家にかぶせられていく。写真集がオリジナルを駆逐する瞬間である。出発点はジャクソン・ポロックのアクションを映し出した写真にすでにあった。それはくわえたタバコを捨てて忘我に入っていくドリッピングの一瞬だったが、ここではバスキアは、何気ない素振りで、タバコを指にはさんでいて、気取りも何もない。
2018年10月12日(金)〜12月9日(日)
福岡県立美術館
2018/10/20
美の価値判断のあり方を探るのに興味深い実例がある。イギリスの個人コレクションを通して、真実が見えてくる。ここでの対象はイギリスの海運王バレルの場合ということになる。日本の財閥系の場合とかロシアの貴族の場合とか、カテゴライズしてゆくと、美に対する欲望に微妙な差異があることに気づく。共通するのは富豪というくくりだが、バレルの視野は宮殿や美術館を前提とした大作にはなく、私室に置かれる日常的気分に支えられたものが、主流となっている。
何気ない自然を描いた17世紀オランダの風景画を範として、バルビゾン派やハーグ派、印象派に影響したブータンにも熱いまなざしが向けられている。不思議なことに自国の風景画家であるターナーやコンスタブルは選ばれてはいない。隣の芝生は青いのひそみにならえば、当然のことでもあるが、さらに凡庸な画家の選択も混じっている。
今日のビックネームの小品を含むので一目置かれるし、ゴッホがバレル周辺の肖像画を描いているという点でも興味深い。マネの描く花瓶の小品もいい。当時の流行画家ではファンタン・ラトゥールが多く、ル・シダネルも2点混じるが、薄明の街並みが甘美な雰囲気を高めている。実験的な作品ではないが、わかりやすく通俗的で親しみやすい点は、共感できるものだろう。身近さを感じさせる良いコレクションだった。
2018年10月2日[火]-12月9日[日]
九州国立博物館
2018/10/20
親子二代のコレクターが続くと、一代限りでは太刀打ちできない、最強のコレクションとなるという証しが、ここにある。倉敷の大原コレクションの場合も同様だったが、この場合も父子が趣味を異にするというのがポイントのようだ。通例は父が豪傑、子は貴公子ということになるが、目も父は古美術、子は現代に向かい、二人合わせて互いを補完しあう関係となっている。父が叩き上げの裸一貫から一代で富を築いたとするなら、子は英才教育の末、海外に学び、当然西洋通として成長する。まるで敷かれた路線であるかのように、申し合わせたパターンを繰り返す。しかし父の集めた美術品の散逸に一役買う継承者も多いことを考えると、美術品は遺伝をしないという厄介な課題はクリアしている。
美術品のコレクションは美に対する欲望だけではない。そこに宗教的主題が伴えば、現世での罪の償いを願う寄進者の祈りとなる。キリスト教がここでは仏教にかわっているが、600年前にフィレンツェで起こったことをなぞっている。大倉集古館の設立と、その無料開放は、富の社会的還元の名の下になされた贖罪の行為とも見えるかもしれない。コレクターの心情はよくわからないが、メディチ家やスクロヴェーニが金融業で荒稼ぎをした罪滅ぼしであったことは確かで、そんなパトロンであっても、いない限りは、画家は力を発揮することはできない。
一方で贖罪は常に富を誇る自画自讃を内包してもいて、アーティストの側も、それを利用する思惑が、飛び交うことになる。ここでも院展のメンバーが、現代日本の絵を代表しようとしている。横山大観から平山郁夫へと脈々として連なる山脈がある。それも岡倉天心の教えの一つだったかもしれない。
富豪との癒着は政界ではご法度だが、芸術家には許された生活の知恵である。ことに野に下った天心が生き抜く知恵でもあった。芸術がパトロンに支えられた歴史であることは、すでに証明済みで、清浄でも無垢でもなく、それは俗にまみれているということだ。
大観の季節外れの「夜桜」が見られると期待したが、全会期ではなかったようで、その定位置には鏑木清方の屏風が並び、華やかさに欠けた。そのかたわらには前田青邨の頼朝がいて、グロテスクにも近い迫力で迫っている。ローマ出兵に掛けた意気込みを感じさせるものだった。日本画家を引き連れた大倉家二代目の出陣は、全ての費用を丸抱えとしたが、今ではオークラコレクションの華となっている。西洋に向けて東洋の理想をぶつけるのは、院展創設以来の悲願であり、それがオークラの夢と二重奏をかなでたということなのだろう。
2018年7月21日(土)~10月28日(日)
山口情報芸術センター[YCAM]
2018/10/19
メディアアートにつきものなのは、故障である。最先端の技術ほど始末に悪いということだ。「只今調整中」というプラカードを平気で使わないようにならない限りは、進展はないだろう。危機感の喪失は、原発事故だけの話ではない。大学の卒業展でも、先端技術を誇るほどに、調整中は常に目に入る光景だ。
映画館でフィルムが切れて、観客も切れて、ブーイングというのは、かつて、よくあった話だ。フィルムの交換に手間取り、およそプロの仕事とは思えない醜態を演じる。会期が始まったばかりなのにもう故障というトラブルに、先日も東京都写真美術館で出くわした。実験的なものだから仕方ないという開き直りも見えたりするが、公開する限りはプロの意識を持たねばと思う。
今回の展覧会、「輪廻転生」は皮肉に聞こえて、なかなか興味深い命名だ。発展のない世界観の表明でもあり、自分の首を絞める自己批判の弁とも響く。ピラミッドに似た円錐形の緑の芝生が、ロビーに設置されている。お墓なのだというが、未来に開けたニューメディアには、似つかわしいものとは思えない。しかし危機意識は、先に私が感じたものと大差ない。ひとつのメディアが、時代と運命をともにするのだと言えば、多かれ少なかれ、メディアアートと同様に、未来永劫続くものではない。
絵画でたまたま油彩画の伝統が、必要以上に長すぎたがために、メディアの不滅伝説は誕生したのだろう。本当はもっと危ういものであるはずだ。ブラウン管や家庭用電話機ばかりではない。木彫だって大理石彫刻だって、メディアとしては同じ運命をたどる。自然環境の急速な破壊は、度を超えている。今回の墓に入る最後の遺品が興味を引く。開催されてもしない展覧会のポスターが墓に入っている。会場名が国立国際美術館とあり、国の権威がフェイクに力を貸す。メディアが常に情報として処理される現象を問い直すのに、最適の指標だ。
新聞メディアは、常に過去の記録を真実として、綴るものだと、信頼を勝ち得てきた。しかし、天気予報とテレビ欄は、少なくとも記録ではない。未来予測でありながら、歳月の経過とともに、それを過去の事実へと押し上げいくのだ。「未来の歴史」という、矛盾しながらも、決して実在しない空白地帯ではない。それがメディアアートの立ち位置だという気がする。フェイクニュースという語が飛び交う時代、イメージだけが存在したアラン・ロブ・グリエの虚構は、フィルムの時代にすでにメディアアートの予感を秘めていたと言えそうである。
ここでも墓のはじまりにナム・ジュン・パイクが君臨している。現代アートの創始者としてマルセル・デュシャンを持ち出すのと同じだ。教祖を定めないと落ち着かないというのは、キリスト教以来の一神教の論理であり、ああまたかと思ってしまう。メディアアートを美術史に位置付ける作業なのだが、それによって収まりよく、歴史に組み込まれていく。みずから墓に入るという殿堂入りのセレモニーは、さすがに博物館的発想からは抜けきれてはいない。アクリルケースに入ったハードディスクを前に、何を見ろというのだろうか。情報が山ほど詰まっているということでは、ホルマリン漬けにされた脳みそということか。渡されたアイパッドを手に、解説がお経のように響いてくる。その間仕方なくハードディスクをじっと見つめている。これも不思議で不自然な光景だ。
墓の外では天井から散りばめられたメッセージが吊り下げられて、天の声のように響いている。まさに伝道に入ったということだろう。原語が飛び交うなか、日本語訳も加わっている。メディアアートのバイブルの一節を引用してみる。「自分の作品はまだ生まれたばかりだと思っていた」「メディアアートを芸術作品として見たら負けかもしれない」「作品の完成は死を冷凍保存、もしくは死の瞬間をスキャンしたようなもので完成は死」「記憶から無くなること」。
イメージメイキングからパフォーマンスへと移行しながらも、いさぎよく死に切れないメディアとしての身体性を残す音の響きに、共感する心地よい哀愁が漂ってくる。言語が最強のメディアではないのかと再認識することになってしまった。しかも普遍的で不滅でもある。
2018.09.07~2018.10.21
山口県立美術館
2018/10/19
見るからに超絶技巧だが、明治初めと現代の工芸家との競演という点で、これまでにない意義のある展覧会になっている。清水三年坂美術館が脚光を浴びるなか、帝室技芸員という名に、古めかしいが、現代の芸術にはない厳めしさと格調の高さを感じる。それに加えて現代、細部へのこだわりと職人芸に裏打ちされた人格が、確実に育ってきているようだ。作家紹介のパネルでは、東京芸大の工芸出身者が目を引く。しかも若い。木工や金工などあまり陽の目を見ているとは思えないが、近年の超絶技巧ブームで少しは名が世に出るとよいと思う。
みずみずしい緑葉や枯葉を木彫で見せる須田悦弘は現代アートの文脈で有名になったが、もとを辿れば江戸から続く超絶技巧の系譜にある。違いはすたれた工芸のくくりに属するか、おしゃれな現代アートに組み込まれるかのことだけのような気もする。
しかし一方で単なる技巧を駆使するだけではアートにはならないのだという表明でもある。技巧を見せびらかすのではなくて、生活空間にまぎれて隠れこむ。日常性と環境的要素の導入によって、「場」を生み出す空間認識の側に、アートとしての意義を見い出したということだろう。ガラスケースの中に旧態依然のままに収まっている限りでは、進展はない。
帝室技芸員の力量は、現代の目を通して再評価されてはいるのだが、それに追いつけ追い越せではないような気もする。半分食べてしまった秋刀魚の半身が、木彫作品としてガラスケースの中で皿に収まっている。それに向かって、目を皿にして鑑賞している観客も、不思議かつ不自然なものだ。本来は日常空間に置いて、猫がそれを見て、どんな反応をするかを観察する方が、圧倒的に面白いはずだ。
安藤緑山の見事なブドウなら、鳥がついばみにやってくれば、本物だということだ。そのためにもガラスケースからは解放されなければならない。つまりパフォーマーとしての資質が、付加価値以上のものとして要求されているということだろう。先日銀座で見た野口哲哉の彫り出した、くたびれ疲れ切った中世兵士の残像などは、イメージメイカーを超えた点で、現代に生きようとしている。
生人形以来、明治再発見の旅は、見世物としての美術を前面に押し出してきたが、そっくりという価値だけでは物足りない写実絵画への不満は、少なからずある。加賀温泉で見た山田宗美の鉄の置物に、今回再会できたのは、懐かしくもあったが、扱いにくい素材を飼いならす調教師の腕前にだけ感嘆していてはならないという反省もある。何年か前に驚異をもって面白がった宮川香山の装飾過多な壺が、私の目には今では悪趣味な珍品に見え出している。芸術と技術という美学の課題を突きつけられたような気がしている。
2018年10月5日(金)~11月4日(日)
岡山県立美術館
2018/10/14
版画というマイナーなメディアがもっている意外と広い人脈を理解するのによい勉強になった。創作版画がキーワードではあるが、分業による浮世絵の伝統を否定することで、職人からアーティストへという作者と作品の強固なつながりを確立する。木版画の伝統が覆されるには、時間がかかる。
いつもの定番のように、ここでも出発は山本鼎の木版からスタートする。そして「月映」のメンバー三人でピークを迎えるという図式である。岡山でもかなりフォローしているが、中心になるのは和歌山県立近代美術館のコレクションである。和歌山出身の田中恭吉の研ぎ澄まされた感性には、殺気が漂う。短命だが、そのオーラを携えてキリストの弟子のように、版画は四方に広がっていった。
先日見た岸田劉生展に並んでいた版画にここでも再会した。千葉で感銘を受けた平塚運一も多数紹介されていた。版画史の胎動が腑に落ちたのは、このメディアを介して、日本画も洋画もなく、一つとなってインターナショナルへと一元化されていったダイナミズムによるものだった。系譜の末尾には、棟方志功の大画面が並んだ。版画を印刷の枠内から解放して、屏風のもつ豊かな4次元空間へと解き放った。
田中恭吉と仲間を組んだ三人は、ハイレッドセンターのように見える。田中恭吉の弔いを恩地孝四郎と藤森静雄が果たしている。恩地は竹久夢二の知遇を得て、出版や装幀へと翼を広げていく。藤森は久留米の出身で青木繁と結びついている。この三角関係を通して、青木繁にある夢二的要素の出現を理解できる。
戸張孤雁は彫刻家として知られるが、魅力的な木版画を残している。自画自刻自刷をモットーとする創作版画では、画家の仕事だけではすまされない。木版画家は木彫家でもあったということだ。自刷とは、画家、彫刻家に加えて、マーケットをコミュニケートするマネージャーでもあることを、言わんとしているようだ。摺師としての技術だけではなく、何枚刷るのか、どこに頒布するのかといったマーケティングをも視野に入れたデザイナー的視野が求められることになる。人脈の底流を版画が支えたというのは言い過ぎだとしても、一芸で名を成した作家が、白紙の状態で版画に興味をもったことは事実で、それは西洋の場合、ピカソについても言えるし、ゴーギャンなどは、木版画だけでなく、木彫にまで手を出して、タヒチの神秘を素材に託してもいる。
2018年9月15日(土)~11月4日(日)
2018/10/14
平安朝への憧れというわけで、平安時代のものが並んでいるわけではないのだが、江戸時代が平安貴族の雅の美に、いかに憧れていたかがよくわかる。天下泰平が続くとふとしたきっかけで、不安が頭をもたげてくる。この平和はいつまで続くのだろうかという漠然とした疑問が、時代を過去にひき戻す。そんな時、自分たちより長く権力を維持し続けた平安朝に想いを馳せる。平安時代三百年、江戸時代二百五十年だが、江戸の当事者たちは自分たちの時代が、この先いつまで続くかはわからない。もちろん貴族の平和を奪ったのは、自分たち武士だったことはわかっていても、自分たちが誰によって追われるかはわからない。ただ平安にならえば、少なくとも三百年は平和が続くのだと感じてはいた。そんな中、城主も絵を描き書を学んだ。
岡山藩池田家の伝来品を眺めながら、源氏物語をはじめとした王朝文学の平和主義に想いを馳せた。しかし平和と裏腹に、迫り来る時代の交代劇はどこかで爆発するのが、歴史の教訓であり、文学や美術にそこはかとなく感じとれる崩壊感覚が、美を一層引き締めていたことは間違いない。もののあわれとは生者必滅の仏教感だけでなく、世の権力者の交代劇を思っての予感だったようだ。
少し前に中之島の香雪美術館で見た柳橋水車図屏風とそっくりの大画面にでくわした。この一点を見るだけでもこの展覧会を訪れた価値はある。もちろん等伯から伝わる意匠ではあるのだろうが、あの黒々とした閉塞感はどこから来るのか気になっている。桃山の春とは言えない豪奢な中に忍び寄る不気味さが、私には感じられて仕方がない。手招きするようになびき続ける柳には、素材のもつ執念にも似た影が、橋を閉ざしてまとわりつこうとしている。
2018年9月15日~11月4日
2018/10/11
38歳が没年だというのだから、そんなに作品はないはずだが、バラエティに富んだ作品群を前にして、驚異的に受け止めた。ゴッホなどがワンパターンなのに比べると、印象主義もあれば、ポスト印象派もあるし、フォービスムも古典絵画も日本画もあって、節操なく貪欲に取り込んでいて、しかも見応えがある。重要文化財に指定されている「切り通し風景」だけは、写真展示であったが、所蔵先の東京国立近代美術館に行けば、いつも常設展で見られるので、それほどありがたみはない。それならせっかくなので、福山にも貸し出せばいいのにと思うが、国の方針なのだろうか。
なかでもやはり麗子像がいい。というか、イメージの宝庫なのだろうと思う。初期肉筆浮世絵の影響だとか、ファンアイク影響だとかはよく言われるが、さまざまな見え方がする。今日の私の目には、大人びた幼児の容貌にバルチュスの少女愛の美学や、おかっぱ頭にエジプト女王ハトシェプストの彫像が脳裏をよぎる。日本髪を結った浮世絵ふうの麗子像は、横長の顔が面長に変貌している。わが子の成長を見届ける父のまなざしは、早すぎる死を予感するように性急に推移していったようにみえる。麗子はスペイン王家とは対照的に、大きくなるほど美しくなっていった。
優秀な画家だったことは確かだが、留学組ではない点に注目する必要があるかもしれない。東京に生まれ、しかもそれが銀座であるということは、留学を必要としない都会人の自負を感じさせる。17世紀オランダのレンブラントや19世紀パリのドラクロワが、イタリアに留学することなく大成できたのは、アムステルダムやパリにいて、十分に事足りたことを意味している。東京もまた世界の文化をいち早くキャッチできる拠点となったということだろう。留学するのはいなか者のステータスだというのだろう。
劉生もまた白樺派をはじめとした都会派の教養人の一人であったことも確かで、知的エリートという限りでは、ゴッホやブラマンクのような野生が感じ取れず、物足りないという気がしないでもない。38歳は若すぎる死なのだが、悲劇的とは思えないのはなぜなのだろうか。もっと長く生きた人だと思っていた。ろうたけたところがあったのだろう。京都に落ち着いて日本画に向かう心境などは、三十代の情趣ではなさそうだ。岸田吟香の息子だったが、銀行の子どもだと思われたとも言うが、その噂にも真実はありそうだ。