美術時評 2018年9月
by Masaaki Kambara
by Masaaki Kambara
2018年9月14日(金)~11月4日(日)
井原市立田中美術館
2018/9/24
日本画でなくてもいいのにと思ってしまうほど、表現は斬新だ。強烈な個性が、圧倒的な迫力でせまってくる。骨太の印象があるが、装飾性も強く、面構えのシリーズでは、顔のダイナミズムが、衣裳の柄の繊細さと不可分の関係をなして、絵画としての威厳を保っている。つまり、原作を前にしないと鑑賞したことにはならないということだ。
富士もいい。静かなはずなのに桜島と同じように爆発している。院展に初入選した絵も出ていたが、出発点はごく普通だ。それがじょじょにあの粘りっけのある、アクの強さが出はじめてくる。それを捨てないようにというアドバイスを受けて、小学校教師が立ち上がる。デリケートでは追っつかない職場だっただろう。北海道生まれという素地は、確かに現れているように思う。大らかな広がりは、根っからのもので、くよくよしていては、小学生を相手にはできない。
面構えに描かれた人物は、皆んな大きな顔だ。一目で片岡球子だとわかる個性が、描かれた絵師とぶつかり合う。浮世絵師が多い中、雪舟へのこだわりが残るのは、両親が総社市出身だかららしい。それで井原での開催と結びつく。加えて平櫛田中とは、 ともに院展に所属したという点で関係をもつ。会場では同人の井手康人さんがオマージュを書いていた。大きな顔は立ち上がると3メートルを超える巨人だ。中には5メートルクラスの顔もある。ミケランジェロのダヴィデかと思えるほど大きな顔だ。
この時、田中のダイナミズムが、片岡球子のエネルギッシュな筆さばきに重なって見えてきた。繊細さと大胆との統合という点でも、田中と共有するところは多い。ともに百歳を超える長寿仲間でもある。病気を競い合う我々からすれば、うらやましい限りだ。つい最近見た鏡獅子の未完成の大作に、今回もまた立ち尽くした。隣にある平安の女神にも再会できた。丹念にディテールを仕上げるデリケートな木彫家の指が、木を前に一瞬止まる。一方は荒削りなノミとの格闘が、もう一方は時の風化に対する嫉妬からである。800年を経て木は風化しても、逆に目鼻立ちはますますくっきりとしてきているように思える。少なくとも前回見た時よりも、私の目にははっきりと見えた。
それは見る者の想像力の問題だが、そんな時、彫刻家の手は一瞬止まって、その先には行かない。鏡獅子の原型はとどめるが、圧倒的な素材の力を前にして、これはロンダニーニのピエタなのだと思った。片岡球子展なのだが、田中館でやる意味を考えると、意義ある二人展だった。
2018年7月27日(金)~9月24日(月)
2018/9/7
全国を巡回する展覧会である。どこで見ても同じはずだが、こだわりはある。居住地に近いのは西宮市大谷記念美術館だったが、ここはどうも高倉健ではないだろうと思い、敬遠した。北九州市立美術館でも行われて、ここで見ようと思ったが、ひとつ前の展覧会で来たばっかりだったので断念。そのせいで交通の便では一番不利な成羽美術館ということで落ち着いた。
200本以上の出演映画を、さわりの部分をダイジェストにして見せる展覧会だったが、ほぼ全てを見た。確かに美術とちがって、映像は時間がかかる。1960年代は念入りに見たが、東映映画の全盛期でもあり、年に8本以上も出演している。60年代後半になると、任侠路線のヒーローとして、いくつかのシリーズが並行して量産されている。20年以上を一気に概観すると、発見もある。
50年代では左手でピストルを撃っていたが、60年代に入ってからは、ピストルも日本刀も右手に持ち替えている。藤純子が60年代の後半から、高倉健の相手役で登場する。右の頬にえくぼがあって、チャーミングなのだが、やくざ映画には馴染まない。何年かのちに気にして見ると、カメラが顔の左側をとらえることが多くなったように感じた。1970年前後になると、だんだんと血生臭くなっていき、ダイジェストで追っていても、背中の刺青と、江戸末の浮世絵にも似た血染めの美学が目立ちはじめる。マンネリ化を解消するために表現が刺激的になっていく姿が読み取れる。観客を引き止めるためには仕方のない手立てだったのだろう。東映によって育てられたヒーローが、東映を去ろうとするのは、仁義には反している。
しかし高倉健がその後の人生に、転換を計らなかったなら、こんな展覧会も行われなかったはずだ。東映退社後の数十年の仕事は、フィルムの尺からいえば、東映全盛期の数ヶ月の量にしか満たないにもかかわらずである。
退社の理由については、展覧会でははっきりとは触れてはいないし、年譜にも表示はなかった。人を切るのが嫌になったという単純な理由が正しいと思うのは、1970年を越えてからは私もダイジェスト映像を雑にしか見ていないことからわかる。思いっきり日本刀を振り下ろす場面の繰り返しを前に、もういいのではないかと良心がつぶやく。
ヒーローとしてのアウトローが、ヒューマニストに変貌していくのは、黒澤明と歩みをともにしている。しかし娯楽映画全盛期の黒澤映画がなければ、世界のクロサワにはなっていなかっただろう。マンネリ化の末、解体したとは言え、高倉健を支えているのは、耐えに耐え、最後に堪忍袋の尾が切れて、ひとりで敵地へ乗り込む任侠堅気にある。この原風景が無ければ、次の展開が生まれる余地もない。
さまざまな役柄を演じたが、決してうまい役者ではなかったようだ。繰り返し言っていたことばがある。「自分、不器用ですから」と母親からのメッセージ「恥ずかしいことはしなさんな」の二つが、高倉健を読み解くキーワードだと思う。60年代ポップアートと時代を共有する中で、無責任な軽い乗りを、不器用を切り口に排斥した。ウォーホルが取り上げたポップのヒーローは、モンローであり、プレスリーであり、毛沢東であり、ゲバラであったが、高倉健もまた横尾忠則によってポップのヒーローに加えられた。確かに60年代ポップアートの文脈で、高倉健論は綴られると思う。
2018年8月4日(土)~9月16日(日)
2018/9/7
パフォーマンスを生業とする稀れな人格である。日本以上に海外での評価が高い。私は富山県美術館のオープニングでのギャラリーの個展に出くわし、衝撃を受けた。それは何よりも年老いた母に向かう、飾り気のないアクションだった。母も醜態を気にすることなく、あっけらかんとしている。老々看護に近いシチュエーションを、被写体として楽しみ、演じ切る。究極のパフォーマンスだと思った。そんなに多くない母親の白髪をくちゃくちゃに引っ掻き回して、ベートーベンだと名づける。母も同じように笑っている。アルツハイマーという前提を説明するまでもなく、その笑みが全てを許しているのだとわかる。ともに被写体だということは、第三者がいるということだ。たとえそれが自撮りだとしても、第三者の目を演じているということになる。
サーカスのピエロのようにも見えるが、確かに道化師をパフォーマーと呼ばないなら何と言えばいいだろうか。盛んに動物を扱うというのもサーカスに似ているし、思わず笑ってしまう仕草は、それぞれが真面目くさっていて、真剣に取り組めば取り組むほど、時に嘲笑の対象にされてしまう。
人を笑わすつもりのパフォーマンスなら、何の問題もなく、コメディアンとして市民権を得ることになるはずだ。しかし自虐的でもなく、淡々とアクションは積み重ねられていく。不条理でアナーキーでありながら、攻撃的ではなく、温和で慈愛に満ちている。ことに母に対する思いは強く、それがキリスト教世界で受け入れられるのは、当然だと言ってよいだろう。その姿はキリストのそれに等しい。
こうしたパフォーマンスが、何十年も続いているのは、賛同者がいるということだ。少なくとも自身が被写体だから、それをカメラに収める支持者あるいは共犯者がいるということになる。常にメイキング映像を視野に入れて、一度限りのパフォーマンスを完璧なものに仕上げていく。行為の足跡は福音書のように、ビデオと写真によって、後づけられていく。
まずはパン人間からスタートする。バケットを仮面の代わりに顔にくくりつけて、真面目くさって街に出る。パンは言うまでもなく、キリストの身体のことだ。ひとりのパン人間は、共鳴するように100人に増殖する場合もある。それを映し出した異様な光景が、記録としてアリバイを証言する。
パン人間のスタートは、1990年前後のようだ。顔がパンになっているという限りでは、日本にはアンパンマンという最強のキャラクターがいる。絵本としてのアンパンマンの登場は、1969年までさかのぼるから、折元の発想源として、何らかの影響を与えているかもしれない。ただしここではアンパンではない。丸顔で潤いを与える甘いマスクではなくて、表面がかさかさに乾燥した硬くて長い表情を持っている。バケットがまるでキリストその人であるかのように見えるのだ。この象徴性に欧米人たちは惹かれていく。しかもバケットは荒縄に縛られている。知らずのうちに、ゴルゴタの道行きを思い浮かべることになる。
誰も日本人のアクションを、宗教的パフォーマンスだとは思わないだろう。しかしパン人間の次に、「運ぶ」carryingが設定されると、そのパフォーマンスは宗教劇の一節なのではないかと、薄々気づき出す。小道具を携えて折元は世界を旅している。各地で行なうパフォーマンスは、布教の名に等しい。運ぶものは、背負われた箱に満載されたパンである。人の住まない廃屋を訪ねて、パンを差し出すパフォーマンスが、映像で紹介されている。それは巡礼の名にふさわしい。
イベントはコミュニケーションアートとしてネパールにまで広がって行く。うで輪をはめ、耳と髪を引く。1980年代のものだが、今回はポスターにも使われ強調されている。尾道市内にネパールの少女の写真が散らばっているが、展覧会のポスターだと認識する者は少ない。よく見るとタグ付きのピアスが、耳から糸で引っ張られている。何のまじないなのかと思うが、ネパールの人たちは、男女の違いを越えて、違和感なくこのパフォーマンスを受け入れている。
耳や髪を引っ張ることに意味があるだろうか。あるとすれば、「目を引く」という日本語の言い回しに対応していることだろう。確かに無意味なように見えながら、目を引く行為であることは確かだ。つまりは「この人を見よ」というキリスト教の常套句に、ここでも行き着くことになるのだ。
「運ぶ」は「引く」と同義語として用いられると、箱を引きずったり、箱に片足を入れたまま歩いたり、何枚もの上着のボタンをつなげて、引きずって歩くというパフォーマンスに結晶する。ここでも十字架を引きずって歩くというキリストの行為を反復することで、祈りの形を見い出しているのだと思う。写真を見ていると「後ろ髪を引く」という語に対応したパフォーマンスもあることに気づく。
以前アルゼンチンのアーチストだったか、固まった四角い氷を溶けてなくなるまで、市中を押して歩くというパフォーマンスのビデオを見て、面白がったことがあった。その時も消えてしまう氷に、人生の教訓と宗教性を感じたが、ナンセンスには一概に読みすぎとは言えない宇宙の真理が潜んでいる。nonsense(無意味)とinnocence(無垢)はきわめて近い関係にある。パフォーマンスは多くの場合、無意味で愚かな行為を外包しているが、天真爛漫な純粋無垢な魂という点で、宇宙の真理を内包している。
ナンセンスの極みは、子豚を背負った折元を写した一枚の写真だろうか。無表情でこちらを見て立っている。豚は折元の背になついているように見えるが、メーキングビデオが残っていて、見るとこの決定的瞬間を撮るのに、いかに苦労したかがよくわかる。豚はもがきながら、必死で逃れようとする。おんぶ紐から落ちるのを食い止めるアシスタントの苦闘は、ナンセンスをユーモアに変える。
このパロディーの中にも、十字架を背負うキリストが、下敷きになっている。30歳で死ぬはずのキリストが、ここでは60歳を越えた白髪の老人になってしまった。バケットのように長いはずのキリストの顔に比べて、折元の顔はアンパンマンのように丸い。犠牲の子羊を背負うはずが、ここでは子豚に置き換えられているようだ。
動物愛護のように見える一枚の写真が、メーキングビデオでは動物虐待とも取れるパフォーマンスの実像を示しているのが興味深い。鶏と遊ぶと題したパフォーマンスでは、無数の鶏に囲まれて、教えを説く折元の姿に釘づけになってしまう。鶏を相手に書を手にした折元が、語り続ける。目の高さに鶏がいる。鶏と同じ目線に立っているというのが、ここでは重要だ。もちろん鶏が人の話に耳を傾けるはずはない。みんなあちこちを向いて騒いでいる。いっときとしてじっとしていない光景は、低学年の教室を彷彿とさせる。
ここでも一枚の宗教画が連想される。ジォットの描いた小鳥の説法では、鳥たちは熱心に聖フランチェスコの教えに耳を傾けている。民に向かって語りかける宗教家と、聞く耳を持たない群衆をつなぐものは、水をワインに変えたり、死者を蘇らせる奇蹟しかないのかと、思ってしまう一コマだった。それでも折元は怒ることなく淡々として、鶏と遊んでいる。餌を散布する時だけに、鶏に反応があったのは、人の世も同じだと思って見ていた。
パロディーの精神は、ネーミングの中にも潜んでいるのかもしれない。元を折って身を立てるという本名とも思えない名には、パフォーマンスを予感させる視覚があるし、「おりもとたつみ」という響きの中には、60年代のパフォーマーでもあった舞踏家の土方巽が潜んでいるような気がする。もしこれが偶然なら、神の引き起こした奇蹟ということにもなるだろう。
2018年7月27日(金)~9月9日(日)
2018/9/7
竹喬の描く山や海や川や谷には、魔物は住まない。毒はなく、飼いならされた自然だと言ってもいい。だからこそ、心の風景として、誰もが愛するのだ。若がきに特徴的な野心は、徐々に消え去っていく。77歳頃がいい。喜寿を制作目標に課したからだろうか。温和な風土は、円熟の歳を重ねて、高みに登り詰めていく。濁った色なのに鮮やかさがある。似たようなものなのに、もっと見たいと思ってしまう。それが巨匠の要件だ。なぜなら、似たようなものなのに、もっと描きたいと思ったはずだからだ。
今回のテーマは、竹喬とは異なった風景にも出会える。中でも林正明がいい。六曲一双屏風「峻厳霊峰」では、黒々とした山並みが連なっている。目を凝らしていると、荒れ狂う波がこちらに向かって打ち寄せてくるように見え出してきた。空も暗く、絵の具の粒子も荒い。もちろん書きなぐってはいないが、一点一点荒い粒子が力強く打ち込まれている。鈍い金地が背後に引き下がっていく。同じ作者の瀬戸内の早春を描いた同サイズの六曲一双が対をなすように並んでいる。滝を真正面に置いた一点「祈り」も、大胆な構図法に驚嘆した。竹喬の京都での弟子だったようだが、師匠とは全く異なったものでありながら、旧来の日本画の枠を外れた鮮やかさに感嘆した。
向かいのガラスケースには横山大観が並ぶのだが、気をてらったアイデアだけが目立って、本来の大観の持ち味が見えてこないのは、気の毒な気がする。竹喬美術館だから致し方ないかと思った。天心の肝いりとなる初期院展の風景描写はいい。
さらに不染鉄の一点に出会えたのも、収穫のひとつだ。昨年東京ステーションギャラリーでの展覧会を見逃して、残念に思っていた。幻の天才画家や、美術学校を首席で卒業しながらドロップアウトしたというセンセーショナルなうたい文句に、田中一村はそんなにもいないだろうという疑心暗鬼が、見逃した一因でもある。この山水図鑑は船から始まる。しかしよく見ると汽船か連絡船のようであり、後に続く水墨画の伝統をくつがえすような序章なのだ。
山水に誘うために舟をプロローグに用いるというのは、定番なのだろうが、どう見ても室町水墨画からの伝統に沿った小舟ではない。タイムスリップした中に、ことの本質は潜んでいる。船の形は時代とともに変化を重ねたが、自然は何一つとして変わってはいないという、メッセージも読み取れる。このリアリティのある描写は、シュルレアリスムのように、生々しく響いてくる。多くは見ていないが、ここに不染鉄の感性があるようだ。もっと見てみたいと思った。
2018年7月14日~9月9日
倉敷市立美術館
2018/9/7
一階ロビーの学生服が圧巻だ。児島と言えばこれが真っ先にくるのだろう。制服そのものよりも当時のポスターや看板に惹かれる。東郷学生服という厳しい元帥姿の半身像を用いたポスターもある。本展では江戸後期の著名な画家がずらりと並ぶ。児島には長沢芦雪から円山応挙に至る京都画派のコレクションが残る。そして浦上玉堂と春琴の父子を見ると地元の画家の台頭に拍手を送るということになる。玉堂はやはりいい。玉堂に限らず、所属先を見ると多くが野﨑家塩業歴史館の所蔵になっている。芸術を支えるのは産業だということがよくわかる。この展覧会は三期に分かれ児島・玉島・倉敷編と続くが、倉敷での大原コレクションへと続く序章になっている。
玉堂と春琴が並べられている。ともに風景画だが、父子の違いを越えて、時代の違いが読み取れる。横に広がるパノラマ的な春琴の風景には、遠方へ引き下がって行く、遠近法描写が見られるが、玉堂にはそうしたパースペクティブはない。しかし古い画法かというとそうではなく、遠近法を越えて自然をとらえようとする心の叫びがある。目ではなくて心でとらえた自然だと言うと、月並みな解釈に流れるが、解釈のヒントはタイトルにあるかもしれない。「山水清音図」とあるようにこの風景には音がこだましている。走査線のような無数の横線が画面に走っていて、それが音のありかではないかと思う。
走査線などというデジタル用語とは無縁の時代にあって、並行に走る筆跡の奇跡は、自然を擦りだそうとする探求心の現われのように見える。セザンヌが同じような右上がりのハッチングを繰り返しながら、自然の原理を見つけだしたことと対応しているのではないだろうか。山水に清音ありという心境は、市中に騒音ありと対をなすことばに違いない。玉堂の場合で言えば、城内に雑音ありに対する言い回しだったかもしれない。定年退職を機に、琴を手に諸国に清音を求めたということだろう。児島や岡山といったローカルな話ではないのである。
森山知己の大作二点が、異彩を放っている。一点は以前話題になった光琳の紅白梅図の復元、もう一点は同じサイズの屏風でオリジナル作品、大きな蛸が異色でキッチュとしか言いようのない奇想の系譜に属するものか。奈義町の現代美術館での個展で見た記憶がある。あっと驚く感性は、北斎や若冲に近いが、琳派とは対極にあるものだと理解していた。琳派は奥ゆかしを基調とする平安貴族の美意識に支えられた格調高いものだと思っていた。しかし紅白梅図の復元を見る限りでは、中央の波は装飾過多な、奥ゆかしとは思えない江戸のポップアートに見えてくる。
その他、展示に脈絡は見出し難いが、緑川洋一、阿藤秀一郎、斎藤真一は、見応えのある作品群だった。
2018年6月22日(金)~9月6日(木)
井原市立田中美術館
2018/9/6
牛乳瓶やラムネの瓶を手にして、ぴったりとフィットする心地よさを懐かしく思い出すことがある。昭和30年代の銭湯とともに思い浮かべる光景だが、幼い日の母性の思い出にも等しく、慈愛に満ちている。それは名も持たず、ただ母性としか言いようのない安らぎに根ざしている。
小谷さんのガラスには、ガラスの本性が希薄なようだ。尖って傷つけやすい、鋭利な殺傷性とは対極にある。土がガラスに変わったのが磁器だとすると、ガラスが土に戻ったのが倉敷ガラスだと言えるだろう。持ち味は、地上に出て自己主張を続けるのではなく、地に埋もれて土に抱き抱えられた眠りの姿にある。胎児のような温もりと安らぎが、ガラスに命を宿している。
民芸運動がめざしてきた敬虔なクリスチャンのような、日常の心情を見事に伝えるものと言ってもよいだろうか。イタリアの静物画家モランディの描く瓶にそっくりのガラス器に出くわすと、あの静寂と沈黙は、倉敷ガラスを見て描いたのではないかと疑ってしまう。ここではガラス瓶がモランディとそっくりに歪んでいるのだ。少し首をかしげるようなガラス瓶の立ち姿は、人間味を帯びてユーモラスでもある。
展示されているのは井原市が所蔵する作品だが、キャプションはなく、題名も制作年も持たない。つまりは日用雑器を憧れた民芸の理念に対応しているということだ。美術品としての登録からは抹消されているという印象が、平凡なのに非凡でラジカルな精神に支えられている。反骨と言ってもいい。
初めてみるのに懐かしいというレトリックがあるが、それはかつてどこかで見たことがあるということだ。そうした原始性のことを母性と言ったが、父性がチャレンジだとすると、母性は許しや癒しだろう。全てを受け入れるには、角がなく、まろやかでゆったりとして、どっしりとした重量感が求められる。その厚みはふてぶてしくもある。
ひとつひとつが異なっているというのも、重要な要件だ。機械で量産されたものが好きだと言ったアンディ・ウォーホルにはわからない一個人の世界を尊重するデモクラシーに根ざしている。分業によるガラス産業にまで行き着いた反省から、全てを一人でこなしていく。ガラス界での創作版画運動だとも言えるだろう。
***
常設展では平櫛田中の木彫を数多く目にすることができた。金箔をかけたり、彩色するのも少なくなく、木のもつ霊性を否定しているように見える。そうでなければあのリアリティは生まれないだろう。子どもの一瞬見せる表情がいい。禅坊主の気迫むき出しの忿怒もいい。そこには物質としての木材を凌駕したような技巧の冴えを見せてくれる。それらの多くは無彩色だ。しかし、それでもたどり着くことのできない神性を、作者は自覚していたようだ。
田中が所蔵した平安時代の女神像が、そのありかを伝えてくれる。目鼻立ちすら摩滅しているのに、その母性のふくよかさと安らぎは、いくら技法を駆使してもたどり着くことのできないものだ。今では高名な建築家の設計した厨子に入れられて、ガラスケースに収まっている。解説によるとこの神像には銘文が書かれていて「出現」の文字が読み取れる。彫られたものではない、現われ出たものであるという点に、むき出しの木が語る本性がある。田中は、これにはかなわんと言わんばかりに、木の霊性を閉じ込めて彩色し、彫刻を人形に変容させたのではなかったか。
鏡獅子の未完成の木彫りには、まだまだ木霊が宿っている。ことに量塊と化した後ろ姿には、木彫のもつ素材としてのヴォリュームを見た気がした。天心の後ろ姿もいいのだが、無残にも美術館の玄関では、金箔におおわれてしまった。これは何年か前にも気づいた感覚だったが、木彫はリアリティとは対極にあるデーモンに支えられているということだ。その点で今日まで続いている田中賞には意義がある。木彫を大きく外れて舞踊まで取り込んだ岐阜県の円空賞とともに、造形全般へと、もっと羽を広げていってほしいと思う。
2018年8月31日~9月30日
岡山県立美術館
2018/9/6
中国の山水画の系譜を、日本の現代作家の作品と並べることで、風景画論の問い直しを図る。現代でも南画や水墨画で、風景は描き継がれているが、ここではそれらを排して、現代アートよりで精力的な制作を続ける山部泰司にスポットを当てて、廬山を描いた中国画の名品とぶつけてみる。名前は表には出ないが、半分は山部泰司展と言ってよいだろう。ポスターやチラシのデザインが秀逸だ。赤茶けた山部の描き出した自然のディテールが、古画と呼応している。17世紀オランダのセーヘルスを思わせる自然の胎動は、樹木にうごめく生命力を伝えて、赤く燃え、一方で青く沈んでいる。
雪舟を前座にして、玉澗へと至る。薄暗い画面から立ち上がる古色も、誕生した時は輝きを放っていたに違いないと想像してみる。同時に今から一千年近くも前の絵が、残っているというのは、どういうことかと問い直してみる。ことの発端は玉澗の描いた「廬山図」(重要文化財)である。なぜこんなものを岡山県立美術館が所蔵しているのだという驚きと、それにまつわる様々な出会いを通して、雪舟や玉堂が呼び寄せたのではないかと気づく。加えてこのような企画展を開催することで、岡山の地に既成事実が打ち立てられる。ゆかりという曖昧な収蔵方針に確信が築かれる。
東洋画の宝庫、大阪市立美術館からの出品も得て、風格のある山水画の系譜を目にすることができた。それにしても中国画の天井にまで達する掛け軸のスケールには驚く。廬山を描くにはそこまでの大きさが必要だったと言うことか。それを見ながら玉澗に戻ると、薄墨で淡々と描かれた山の峰だけのディテールが、ますます凄みを帯びてくる。抽象にまで行き着くような破墨山水は、自然を見続けて、果ては混沌とした宇宙にまでたどり着いた、モネの世界と共通するものである。リアリティが夢想と出会う見事な一瞬がそこにはある。
2018年7月14日~9月9日
岡山市立オリエント美術館
2018/9/6
シルクロードという東西の文化を結ぶキーワードを太古から現代まで一気にたどろうという壮大な企画である。まずは石から始まる。そして土、金属、ガラスと、素材の進化を追いながら、西アジアが東アジアと出会う。動かないはずの石が、一万年かかってゆっくりと移動するのは感動ものだ。石を磨いて武器にする技術が、ユーラシア大陸を移動するのだ。
土は土器から始まって、やきものへと進化して、美術史を形づくっていく。海のシルクロードは、中国の青花と結びついているが、それはまさに海の青に他ならない。砂漠に広がるラスター彩と際立った対比をなしている。海底に沈んだ青い陶磁器は、砂漠に眠るラスターの色と比較することで、やきものの秘密を知ることになる。もちろん釉薬の話ではあるのだが、水や土が自然と自己増殖を繰り返して、青花やラスターになったのではないかと思ってしまう。以前、水中考古学の成果として、海から引き上げられた韓国の青磁を集めた展覧会があった。その時思ったのは、沈没船から出てきた未使用のやきものなのだが、それらは何百年をかけて海底が作り上げた鮮やかなブルーとしか言えないものだった。
馬もまたシルクロードの秘密を語る貴重なテーマだ。騎馬像は東西の文化をまたにかけているし、馬具の装飾もこだわりの一品だ。唐の三彩として陶芸に開花するには、見事な馬の改良史があったということだ。天馬の伝説まで生まれるには、広大なシルクロードの風土が必要だっただろう。やがては現代のダービーの馬のように美しく、早いだけではなく、ヴィジュアルが競われるようになっていく。
颯爽とした馬上の勇姿は、東西で共有している。馬に乗るという西部劇での一コマを、不思議にも日本の時代劇が共有している。陸続きにシルクロードを東西に走り出した馬が、海を渡ってアメリカと日本にたどり着いたということだろう。アメリカ人が日本にはじめて来た時、江戸の侍が馬に乗るのを見て驚いたのは、地球を一回りした文明の不思議に気づいたからである。そこに至るまでの実証が、シルクロードに眠っている。
ガラスも重要だが、シルクロードを語るには、ほんの一つの素材に過ぎない。ササン朝の瑠璃碗の名品が、日本にまでたどり着いた。はじめて見る素材の神秘に接した驚異は、仏教伝来でもたらされた金銅仏の輝きに匹敵するものだっただろう。最高級の品質のガラスが奈良の朝廷に送られて来たようだ。今では正倉院から借り出しての展示は不可能にしても、現代の技術で復元されたクリスタルの輝きは、ガラスの進化をしっかりと伝えてくれる。同時に素材の特性として、割れないように、極度の緊張を強いられる旅だっただろう。
シルクロードというのに、肝心の絹がない。移動するには軽いものの方がいいはずだが、絹だけでなく、紙も木もない。それらは朽ちやすいものだが、人はそういうものに託して、思想を伝えようとしてきた。それらは文字となり、絵となった。文字は人の心に深く入り込んで、宗教となった。絵は壁画だけが残される。風化して姿をとどめない形を求めて、果てしない発掘が、今も続いている。
モノに語らせるのが、考古学の本領だろうが、展示品に並んだ解説文がやたらと詳しく、展示品が埋もれてしまっている。もちろん重要な研究成果であり、理解は深まるのだが、美術館というからには、モノに集中できる方がありがたい。リーフレットにして配布するとすっきりするのにと思った。出品目録もなかったので、思い出そうとするが、大半は忘れてしまっている。これは美術品だと思って所蔵先を見ると、Miho Museumと書かれているのに、何度か出くわした。センスの良さが光る、力のこもったいい展覧会だった。壮大な夢とロマンをもらった。