クリスチャン・ボルタンスキーLifetime
2019年06月12日~09月02日
国立新美術館
2019/7/22
大阪での展示と比べると、同じ素材を用いてはいるが、全く違う味わいとなっている。つまり旧作品を素材に用いたインスタレーションとして見ると、ボルタンスキーの今を共有することになる。それは作者が存命であるあかしであり、何をしても許容できる自由度の勝利とも取れる。音楽で言えば作曲家であり、演奏者でもあるということだが、美術の場合、演奏家としての存在が長らく希薄なままいたということになる。
大阪では「古着の壁」が、効果的に目に飛び込んできたが、ここでは照明が暗くて沈み込んでいた。反対に「古着の山」は広い展示室の中央に積み上げられていて、黒光りのする照明効果は、炭坑のボタ山を思わせるものとなっていた。不気味な重苦しい空気は、心臓音に乗せられて、どよんでいるのだが、せきたてられるような緊迫感は、体感に値するものだ。抜け道のない坑道に入り込んだような感覚は、天井は高いのに背を丸めて通り過ぎようとして、息を詰めて行く手を探している。未来の見えない閉塞感を丸ごと演出して、視聴覚に訴えかけてくる。
影絵も効果的で壁面に必要以上に大きく引き伸ばされている。目を凝らして何かを見ようとするのだが、視線が交わらない。亡霊のような実在が、ネガとポジを逆転させて、息づいている。すべては遺影であって、古着もまた遺品として機能する。身体を失った集団墓地が、渦高く積み上げられた無数の衣類に染み込んだ無念となって、こだましている。無意味な会話が立ち上がったカカシのようなヒトガタから発せられている。音声のはじまりは入り口を入ってすぐの咳き込む男の苦しみからだった。絞り出すような喉の痛みは、やがてドクドクと流れる心臓音の不協和音へと移行し、人工的なささやきへと向かう。耳をすますと風になびく風鈴の音も、聞こえていたかもしれない。しかしそれは沈黙にかき消されたように思う。
美術とはいえ単独の作品と呼べるものではないことは確かだ。手垢の染み込んだ無数の遺物が、無名のメッセージを送っている。裸電球の光が直接目に入ってくる。フィラメントとコードが揺れ動くたびに、影はそれ以上に拡張して、闇を増し、恐怖の演出となっている。ナチの恐怖に怯えた過去が亡霊となって、繰り返されている。忘れることのできない、忘れてはならない記憶を、手繰り寄せようとして、現代の若者に言い聞かせている。はたしてその心の闇に気づいてくれるのか。見せかけのお化け屋敷としか見えない中で、言葉では説明的になってしまう形の結晶が、広い会場にこだましていることだけは確かだ。