はじめに:絵画のアウトサイド

映像の重さ/イメージと物質/時よ止まれ

第375回 2022年101

映像の重さ

映像とは何かを考えたとき、いつも私が思い浮かべるのは、映像に重さはあるだろうかという問いだ。一枚のDVDに映像が入っている場合、何時間入っていても重さは同じだ。これはかなり不思議なことだ。情報量がどんどん入ってきて重たくなるはずなのに重さは変わらない。物質とイメージという話になる。つねにどんなものにも重さはある。夢をみる場合、夢には重さはない。イメージには重さはないが、イメージだけでは生きてはゆけない。つねに肉体をもっていてイメージはそこに乗っかっている。それがキャンバスの場合は絵画だし、写真では紙ということになる。今ではディスクや画像ファイルとなり、肉体すら消滅しようとしている。

 そこでイメージには本当に重さはないのかと問い直してみる。構造として似ているのは、魂(たましい)の重さだろう。魂は肉体が滅びたときに抜け出して、体重は21グラム軽くなるのだという。ガセネタに属するが映画にもなったものだ。それはヒトの肉体に乗っかっているイメージのようなものだ。魂そのものはひとりでは生きていけない。つねに肉体に寄生するものだ。古代エジプトでは肉体を保存することで魂も永遠を獲得するという理屈となる。心霊現象ではイメージがひとりで歩くことがある。それは目には見えるが手には取れないものだ。しかしそれは絵では表現可能なものだ。これが今日の映像につながる思考法だろう。

第376回 2022年10月1日

イメージと物質

 美術の話に置きなおせば、イメージはモノに乗っかっていないと作品にはならない。作品という概念も問い直す必要がある。写真や映像では何をもって作品というか。基本となるのは絵画というジャンルだ。絵画は額縁をもって壁に掛けられるものという古めかしい定義がある。一点何億という売買の対象にもなる。それは一点限りしかないもので、イメージが乗っかっているから意味がある。物質的にはピカソの絵であっても、無名の子どもの絵であっても、サイズが同じなら素材としての値段は同じだ。ピカソの絵が一億円だとすると、それはイメージに付けられた値段ということになる。イメージは高価なものなのだとわかる。

 「イメージと物質」を「魂と肉体」との関係でみる。つねに結合していないと成立しないことを教える。現代科学で脳科学が万能になってきているのは、イメージだけが独り歩きしている姿に等しい。脳はつねに肉体の一部である。以前は人間の中心は心臓だった。頭は手足と同じ、心臓を取り巻く位置づけにあった。今は逆転して、脳の指令によって心臓も手足も動くことになった。万能である脳は、本当は物質なのにそれを超えたものとして見ようとしている。神格化といってもよい。

 現象か存在かを問うと両者を異なったものとして対峙させることになるが、イメージとは何かを考えたとき、紙にはりついた映像として写真をとらえれば、両者は切り離せない一体のものといえる。図と地という心理学も、両者を対等なものとして対にして考えたとき、「図と地の反転」などという用語法も出てくる。実際は地に図が貼りついているのだ。

 映像は今日、バーチャルリアルという名で、実体験をともなわないまま、体験してしまったような錯覚を起こして、閉塞した世界のなかだけで生きているような気がする。映写装置はプロジェクションマッピングへと進化し、肉体をもたないで魂がひとり浮遊し、あるいは街並みのさまざまな対象に寄生する姿にも等しい。こうした現況を前提に、映像の歴史を綴ってみる。

第377回 2022年10月2

時よ止まれ

 映像表現の歴史を写真史と映画史をベースにして、今日のデジタル映像のゆくえもふまえながら、多角的に考えていく。映像を「絵画のアウトサイド」として位置づけ、人類の長い歴史につなげて考えなおしてみる。紙やキャンバスの支持体が、フィルム上のイメージとなって定着する。はじまりは「見える」という身体的な生理機能にある。「見える」という全身での体感は、目の特化によって「見る」という主体性と積極性に移行する。自分の目で見たとき、それを定着させたいという欲求が生まれる。うつろいゆくものは簡単には定着しないが、時を止めることが人類の夢となる。「時よ止まれ、おまえはあまりに美しい」。これはゲーテの書いたファーストのセリフだ。

映像は世界の発見がまずは先行する。そして「再現」をめざし、つぎに「表現」へと進化していく。その進化の過程でさまざまな発明があった。映像表現を実現するためには道具の発明は必須の条件だったのである。それは具体的にはレンズでありカメラでありフィルムでありテレビであった。これらの道具を通して人類の夢が実現へと向かう。世界を見たいという欲望とみずからの足跡を残したいという願望が出会うはざまにそれらの道具があった。「記憶」から「記録」への推移は、「見える」から「見る」への視覚の変化をともなって、やがて商業と結びつくと、「見せる」という行動ヘと進化してゆく。プレゼンテーションといってもよいが、スクリーンからモ二ターへという推移のなかで、人間の視覚の変容をたどることができる。

表現は双方向性をとることで鍛え上げられて、個から開放される。それは悪いことではないが、一方で自己主張が希薄になり、平均化されていく。大きな力に一元化されていく危険を含んでもいる。「いいね」を期待しないマイノリティの自覚と自信も、必要となってくる。表現から参加へ、そして対話へという広がりの中で、表現に終始してきた芸術のかたちが変わろうとしている。作品をつくるという概念が、作品をつくる仕掛けをつくるという包括的なシステムにまで広がっていくと、20世紀を支えてきた「表現」は空中分解してしまう。これが21世紀の映像の方向性だろうか。コンテンポラリーアートの歴史と同調していることも確かだろう。


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