是 枝 裕 和

幻の光1995/ワンダフルライフ1998/DISTANCE2001/誰も知らない2003/花よりもなほ2006/歩いても歩いても2008/大丈夫であるように -Cocco 終らない旅-2008/空気人形2009/奇跡2011/そして父になる2013/海街diary2015 /海よりもまだ深く2016 /三度目の殺人2017 /万引き家族2018 /真実2019/ベイビー・ブローカー2022/怪物2023/

第218回 2023年7月5日

幻の光1995

 是枝裕和監督作品、江角マキコ主演。原作は宮本輝。自転車を押しながらうつむいて歩く女がいる。魅力的な導入だ。バックには立小便禁止の看板が見える。たぶん録画していたビデオのせいだろう。画面が暗いのと、セリフが聞こえづらいのと、私の目と耳が遠いのと、理解力が乏しいのとで、人間関係がわからないまま、しばらくはぼんやりと見ていた。やがてわかりだしたのは、夫が死んでしまって取り残されて母子が、雪国に向かい第二の結婚生活をはじめるという話のようだ。地名について手がかりはないが、女の母親が大阪まで見送りに行くというセリフと、金沢に向かう列車というのが聞こえてきたので、舞台は北陸なのだとわかる。少しして尼崎という地名が出てきて、大体の距離感がはっきりとした。最後のテロップで協力者の名列から、やっと能登半島や輪島での話だったのだと了解した。

 ナレーションも説明もないので、人間関係が不明なのだが、ボソボソとした少ないセリフから、それが徐々にわかりだしてくるのは、ミステリアスでおもしろいともいえる。女のほうは男の子を、男のほうは女の子を、たがいに連れ子として、家族を形成したということだ。急に男女の子どもが出てくる。彼らはいったい誰なのだろう。仲良くごく普通の会話をしているので、血のつながった姉と弟と思ってしまう。直前では赤ちゃんだったのが、もうこんなにも大きくなっているのでとまどってしまうのだ。男とは見合いによる結びつきだったようで、女が弟の結婚で大阪に戻ったときに、うまくいっているかというセリフから、仲人へのあいさつだったのだとわかる。夫は前妻を亡くしており、恋焦がれて都会から故郷に戻って結ばれたのを、新妻はうわさに聞きつけていた。なぜ死なせたのかと詰問し、そんなに愛していたのならどうして再婚をするのだと、女は詰め寄って問いただしている。

 女のほうは、子どもが生後3カ月の頃に夫が謎の死をとげ、その不可解を再婚後も引きずり続けている。線路を歩いていて轢かれたが、事故なのか自殺なのかもわからないままだ。そして再婚相手に愚問を投げかける。「あなたはなぜ私の夫が自殺をしたと思うか」。夫は漁師であった祖父の昔話として答えて言う。沖に出ると「幻の光」に魅入られて、誘われるように命を落とす場合があるというのだ。それは海で命を落とした祖先の霊が引き寄せているのかもしれない。自殺した夫にも愛する肉親が失踪した体験を負っていた。

 過去を引きずりながら、新しくスタートした他人どうしが、子どもを巻き添いにしながら、家族をつくりあげていく再生の物語だとすると、この監督がその後に一貫して追求することになる「家族」の社会学のデビュー作だと評価できるだろう。肉体的には女のほうから男に迫る場面があった。このあとふたりの間に子どもが生まれることが暗示される。家族構成はさらに一歩、前進、進化していくことになるのだろうが、そこまでは描かれていない。私たちが考える問題である。

第219回 2023年7月6日

ワンダフルライフ1998

 是枝裕和監督作品、ARATA主演、英語タイトルはAfter Life。英語名を知っていれば、話はすぐに理解できるのだが、何の予備知識もなく見ていると戸惑う。しかしそのミステリアスな展開は魅力的だ。はじめこの職場は葬儀屋なのだろうと思ったが、それにしては話がおかしい。先週に比べて今週は人数が多くて忙しくなるぞと、主任役の谷啓が言っている。次の週の葬儀の数などわかるはずはないのだ。まじめくさったセリフだが、喜劇風な香りがただよう。得意のトロンボーンを吹く姿はフェリーニ映画を思わせるものだ。

 ここに登場する人物が、実は死者なのだということがわかるにはしばらくの時間が必要だ。彼らは生前の思い出を語っている。ドキュメンタリータッチで写し出されていて、まさか非現実のファンタジーだとは思わない。生前という語は出てこないので、私たちのほうが困惑する。毎週月曜日にまとめて死者がここに送られてくるようだ。やってきた老若男女は、これまでで一番記憶に残る思い出を語りはじめる。老若での登場は、死んだときの年齢のままということだ。高齢者が多いが若者もいる。3日間のうちに思い出を選ぶことになっている。

 それを映像化するのが、ここでの仕事のようだ。他愛のない話も多かったが、興味深い話もあった。スタッフがそれを聞き取っている。それぞれに脈絡はなく、私たちの記憶にはとどまらない。そのうちの二人だけが、思い出を語ることができなかった。ひとりは品格のある老人で、思い出させようとしてスタッフは、生前の行動を記録したビデオを何十本も用意した。男はそれを順番に見始めている。もうひとりは若者で思い出を語ること自体を拒否している。理屈だけははっきりと言っている。

 映像はセットを組んで、時間をかけて丹念に撮影されていく。出来上がった映像は試写会を開いて鑑賞し、それを手にして天国に向かうことになる。そこでは他の記憶はすべて失われてしまうので、何を思い出にするかは、きわめて重要なものとなるのだ。死者の死後一週間の話は、浅田次郎に似たような小説があったが、ここでは原作はなくオリジナル脚本によっている。

 ゲストにインタビューをしながら、スタッフのひとりが、自身の生い立ちを語っている。この主人公を井浦新が演じている。若くして戦死を遂げたようで、思い出をひとつに選びきれなかったので、ここにとどまってこの仕事を続けているのだと打ち明けている。ここにきての勤めは3年だが、その前も別の場所で同じ仕事をしていたようだ。彼に心を寄せる女のスタッフがいる。アシスタントとしてペアを組むなかで、男に惹かれていったが、彼女もまた死者なので若くして死んだということだ。実際にはかなりの年齢差があるのだろう。

 思い出をひとつに絞れないのには、人それぞれに理由がある。問題の老人には妻がいたが、妻はもとの恋人が戦死したことを忘れられないでいた。実はこの担当スタッフがその恋人だったのである。熱い思いを持って結ばれたわけではなかったが、男は夫婦として年輪をかさねた末に、妻と映画を見に行ったときにふと立ち寄った公園のベンチを、思い出のイメージとして選んだ。それはまた恋人同士が出征の日に別れたベンチでもあった。

 ひとりの女性をはさんでふたりの男は思い出を共有し、遅ればせながら天国へと向かうことになった。主人公にはベンチにすわる相手は、人妻となったかつての恋人とここで出会った女性スタッフとが、重なって見えていた。ふてくされて思い出を拒否していた若者は、新しいスタッフとなって前のスタッフと入れ替わることで、辻褄のあう結末となって一件落着となる。

第226回 2023年7月16

DISTANCE2001

 是枝裕和監督作品。カルト教団の信者5人が亡くなった命日に、現地を訪れた遺族の、それぞれの思いを追った、ドキュメントふうのドラマである。はじめに4人の若者が一台の車に乗り合わせて山に向かって行くので、彼らはどんな人間関係なのかと考えることから話はスタートする。同窓生が久しぶりに顔を合わせて、ピクニックでもするのかと思うのだが、行く先は風光明媚なところでもなく、少ない会話に耳をそば立てながら、私たちは不思議な思いで見ている。雑草をかき分けて進み、池のほとりまで来ると、突端まで歩いて行って手を合わせる姿が見えたので、誰かが死んだ追悼なのだと理解する。カメラを引いての撮影だったが、水面に向かって手にしていた花束を投げ入れたように見えた。

 3人は男、1人は女だった。2人は車に乗り合わせて、2人は最寄りの駅からの参加だった。駅に着いた男女は、車が到着するまで、待ち合わせているときの、空々しい会話から、あまり親しい間柄ではないのがわかる。それぞれが手を合わせて祈り、水面に目を落として感慨にふけったあと、引き返すと車がなくなってしまっていた。車だけでなく、止めた時にかたわらに置かれていたバイクも姿を消していた。池をあとにするときに、人の気配が画面には写し込まれていたのが気になる。明日は仕事なのでと徒歩で、急いで引きかえそうとする者がいた。少し待ってみようという者、歩いても結局は野宿になるので一箇所に固まっていたほうがいいという者など、収拾が取れない。

 バイクの持ち主が続いて戻ってきた。バイクもまた盗まれたのだった。彼は土地の事情に詳しく、元信者でもあった。これで5人の遺族がそろったことになる。元信者の案内で、かつてアジトとして使っていた家屋で一夜を過ごすことになる。それぞれがボソボソと対話をはじめて、事件の輪郭が見え出してくる。教祖はすでに自殺をして死んでしまったようである。警察での聞き取りがはさまれて、教団の実態もわかってくる。

 妻が入信してしまった者もいた。風采の上がらない夫の後輩が入信し、その影響を受けて、夫のもとを去った。喫茶店にふたりを呼び出して詰問している。不倫による痴話話のように見えるが、ふたりは宗教的確信をもっていて、悪びれるところはない。夫の怒りは爆発するが、カルト宗教の洗脳の恐ろしさを示すものだった。兄が出家した家の弟もいた。弟は軽はずみな人格で、兄はみるからにまじめそうに見えた。兄は医学をめざしていて、西洋医学は病気を治すだけで、自分は魂を救いたいと語った。教団にはそれがあるといい、決意の末、兄が弟に別れを告げにきた。父が亡くなって四十九日が過ぎたばかりでのことだった。弟にはなぜそんな集団に入らなければならないのかわからない。

 もうひとりも兄の入信だった。元信者は兄のことを覚えていて、不思議そうに近づいてきて、ほんとうに弟なのかと問う。弟は死んでしまったと聞いていたというのである。女性は教師だったが、夫も同業で、この教えに染まった。経典を読み込んで、理解しがたい言動を繰り返している。元信者は姉とふたりで信仰していたが、信仰に疑問を抱きはじめていて、ふたりして逃げようと持ちかけるが、聞き入れられず、ひとりで逃亡していた。警察での聞き取りは厳しかったようだが、今は信仰はないと言明した。

 一夜明け、車は不明のまま、駅の立ち食いそばをかき込んでJRのローカル線に乗り込む。途中でも会話が続くが、駅のアナウンスが大きくて、聞き取りにくいのは、たぶんわざとの演出だろう。新宿駅について、5人はバラバラになって別れた。また来年という声が聞こえた。二度と不幸を繰り返さない遺族会の結束を思わせる連帯のように読み取れた。題名のディスタンスは距離という意味だが、それは東京から教団の根城のあった場所までの距離のことだろうが、ぽっかりと空いた被害者たちの心の隔たり、カルト集団の社会との隔絶のことを言うのだろう。

第220回 2023年7月8日

誰も知らない2003

 是枝裕和監督作品。柳楽優弥主演、カンヌ映画祭主演男優賞。英語タイトルはNobody Knows最初にことわりが入り、これは実話にもとづくが、フィクションであるとの但し書きが読み取れる。何が起こるのかと身構えることになる。大きな荷物をもって母と息子が引っ越してきてあいさつに出向き、下の階で子どもを小学生だと言って紹介をしている。部屋に戻ってスーツケースを開くと、なかから子どもが何人も出てきた。これにまず驚くが、いったい何が起こるのだろうかと、目をこらして見ることになる。子どもは計4人、上は12歳、下は5歳、男女がふたりづつである。

 母親がみんなを集めて約束をさせている。年長の男の子を除いて、外に出てはいけないことを言い聞かせている。子どもたちは、あたりまえのことのように、指示に従っている。少し会話を聞いていてわかってくるのは、母親は同じだが、父親はそれぞれちがっていることだった。父が同じかもしれないという、あいまいなケースもあった。

 母親には稼ぎがあって、長男に手渡して、買い物も料理も、家事全般を彼が引き受けている。割合にこぎれいなアパートである。子どもたちは広くなったと喜んでいる。母親の帰りは遅い。酔っ払っているときもある。子どものように無邪気で子どもとよく遊ぶ。子どもの散髪も引き受けてスキンシップがないわけではないのだが、携帯が鳴って中断され、聞いているとカラオケをしている男友達からのようだった。

 しばらく出張だと言って、長男に10万円ほどを預けて出て行ってしまう。いつまでたっても帰ってこない。底をついた頃に、長男は出かけて行って、ふたりの父親に事情を話している。ひとりの父はこちらも家族がいて生活が苦しいと言いながら、わずかなお金を手渡した。もうひとりの父は自分の子どもは元気かと聞いた。そのとき別の子の名を出して、顔は似ているかと聞いたあと、自分の子ではないと否定した。

 母親がそれぞれの子におみあげをもって帰ってきた。大喜びでもとの生活がしばらく続く。長男に語るには、新しい恋人ができたので、結婚をして、みんなを連れて、もっと大きな家に住むことができそうだというのだ。クリスマスまでには帰ると言いおいて、また出かけてしまう。クリスマスが過ぎても帰ってこない。正月がきて母親からだと偽って、長男は預金を引き出し、お年玉を用意した。5歳になる妹は兄に手を引かれて、はじめての外出をし、買い物をする。階段で隣人に声をかけられ、兄はとっさに親戚の子が来ているのだと答えた。

 長男だけは外出をして、世間に接していたが、学校には行っていない。同じ年ごろの二人組とコンビニで知り合い、遊び仲間になる。万引きをするような連中だったが、家に連れてきて、テレビゲームをしはじめた。母親が帰ってこないとあきらめた頃からだった。妹たちは迷惑そうにしながらも黙って見ている。春が来て桜が咲いている。遊び仲間は中学の制服を着ている。長男が新しいゲームが手に入ったと家に誘うが塾で忙しいからと断られた。

 貧困を極め、カップラーメンの日々が続く。上の妹がおもちゃのピアノを買い替えるのに残してあったお年玉を、使ってくれともってくる。水道もストップし、公園の水を飲み、洗濯もしている。たまらなくなって母親の職場に電話をすると退職したことがわかった。現金書留が送られてきたことがあった。その住所から電話番号を聞き出して電話をすると、母親の声だったが、知らない家の名を答えた。長男は何も言えなかった。

 驚くようなできごとが続くが、家族とは何なのだろうかと考えさせられる。知り合いになったコンビニの店員が、事情を知って警察に相談すればと言う。それをすれば自分たち4人はばらばらにされてしまうと否定して、前にもそんなことがあったと付け加えている。長男の聡明さが輝きをはなつが、家では小学生国語辞典をかたわらに置いて、自習している。柳楽優弥がことばすくなだが、みごとに演じている。母親役のYOUのもつ非常識なまでの多弁と聡明さとに対比をなしているようだ。母親に学校に行きたいともらしたことがある。母親はそんなところに行っても賢くはならないと否定した。長女が尋ねたときも同じ答えをしている。

 何という親だろうかと疑うが、極めつけは、次の衝撃的なセリフだった。「おかあさんは勝手だ」という息子に、「勝手なのはあなたのおとうさんでしょ」と言い返した。そして「おかあさんは幸せになってはいけないの」と付け加えた。一夫一妻制の現代の日本の社会では、まず出てこない発想である。しかし考えてみれば母親のもとで、子どもたちはひとつにまとまっている。卑弥呼の時代にはあったかもしれないし、女王蜂に群がる働きバチの世界では、ふつうの会話なのかもしれない。男女を入れ替えれば、ながらく続いてきた父兄制では、腹違いの兄弟にかわされるセリフでもある。何という親だと、育児放棄のひとことで頭から否定するのでなく、人間存在の原点に立ち返って考えてみる必要がありそうに思う。

 最後の衝撃は、下の妹がベランダから落ちて死んでしまった。カップラーメンの容器を鉢植えにして遊んでいてのことだった。スーツケースに死体を詰めて、来た時と同じように運び出し、土に埋めてしまうのである。不登校のいじめられっ子の少女が手伝い、放心状態で早朝の電車に乗っている。タイトルを解釈すれば、「誰も知らない」まま、生まれてきて、死んでしまった5年のいのちということになる。名前はあったが戸籍はなく、学校に通うこともできなかった。存在しないのだから、死体遺棄にさえならないかもしれない。とはいえ私たちは、その愛らしいあどけない姿を、確かに見ていたし、知っていた。英文名が示すように、ノーボディ・ノウズは否定形ではない。「誰も知らない」ではなく、「誰でもないものが知っている」のである。

第221回 2023年7月11

歩いても歩いても2008

 是枝裕和監督作品、阿部寛主演。英文名はStill Walking。今回はよくわかる話である。複雑さがあるとすれば、妻が再婚で連れ子がいたことから起こる違和感だろうか。その他は世間によくある、わかるわかると納得のいく展開といえる。その分ドラマとしては物足りなさも残るが、共感は得やすいものとなる。なかでも樹木希林の母親役が、演技力としては際立っている。血縁とそうではない人間関係の、微妙な亀裂と、血縁であるがゆえにそれ以上にわきあがる憎悪の感情についても考えさせられ、すべては家族という問題に集約されていく。

 内科と小児科の看板を掲げた父親は、70歳をこえ気難しいが、いまだ現役で診察を続けている。長男はあとを継いだが、他人の子どもを救ったことから命をおとした。命日に子どもたちが久々に顔を合わせる。主役の次男役を阿部寛が演じている。親の仕事を嫌って家を出て、子持ちの未亡人を妻にして、3人で暮らしている。YOUが演じる妹は風采は上がらないが、調子のいい夫とのあいだにふたりの子どもがいる。妹夫婦はマイカーでの帰宅、次男夫婦は電車とバスを乗り継いでの移動と、その対比があるが、ともに父親のような近寄りがたい風格はもたず、前者は軽率、後者は父の血を受け継いだ気難しさが目につく。

 それぞれが人間として少しずつ欠陥をもっているが、つくろえないほどのものではない。次男は父への反発は強かったが、患者に親身になって接する姿をみて、見直しはじめている。父親は血のつながりはないが、孫に医学の興味をもたせようとする。子どもたちは血のつながりも関係なく遊んでいる。孫は亡き実父の職業だったピアノの調律師になりたいと思っている。今の父は絵画の修復師だが、実は失業中なのを隠している。特殊な職業だが医者の仕事と似ていなくもない。孫は母親と二人の時は、実父の思い出を語り、忘れることはない。祖父には医者としての自負がある。ピアノや美術品の命を守るのは、人の命を守るほどには、尊ばれていない。世田谷美術館への就職を失敗したようだ。ふたりを見ながら妹は、似てるわねと言っていた。

 母親が実の娘息子の嫁を対比して見てしまうのは、仕方のないことだろう。甘えと遠慮のちがいとみてよい。子持ちの再婚をよく思っていないが、表面上は平静を装っている。その思いも複雑だ。子どもをどうするのかと嫁に聞いている。生むのなら早いほうがいいと言いながら、連れ子のことを考えると生まないほうがいいとも言う。息子には子どもは生まないほうがいいと言った。孫の誕生を喜ばないのかという疑問には、子どもができると別れられなくなると答えた。前の亭主とは離婚ではなく死別であることをあげて、離婚だとよかったのにと言う。離婚だと前夫を嫌っているが、死別だといつまでも忘れられないというのだ、一理ある。たぶんこれは自分のことを言っているのだろう。亡くした長男をいつまでも忘れられないでいるのである。

 亡き長男の命日に命を助けられた風采の上がらない男が招かれている。今年も汗をかきながらやってきた。息子はもういいのではないかと母親にいう。母親は忘れてもらっては困るので、毎年招くのだという。息子を失った母の悲しみは癒えることはない。夜の部屋に入ってきた黄色い蝶を息子だと言って狂気している。紋白蝶はその日のうちに死ぬことがなければ、次の日には黄色い蝶に姿を変えるのだという。

 娘一家は日帰りで帰っていった。息子は一泊して、父といくらかは打ち解けたが、疲れ切っている。一夜明けて帰宅のバスのなかで、妻が次は日帰りにしようと言っている。ナレーションで3年後に父が亡くなり、そのすぐあとに母親も後を追ったと伝える。一家そろってのお墓参りが写される。同じ墓地の風景だが、母親はいない。孫は成長し、下に妹が加わっていた。帰る姿が映し出されると、マイカーでの墓参だったことがわかる。運転免許はもっていなかったはずだ。はっきりとは見えなかったので、運転しているのは案外、妻だったかもしれない。この病院は坂の上にある。高台には墓地もあって海を見晴らして眺めはいい。以前、歩いての墓参の会話で、母親がいつか息子の車に乗せてもらいたいと言っていた。そのとき先を歩く妻と子は亡き夫のことを語っていた。海の見える坂道である。かつてと同じ情景が繰り返されている。

 「歩いても歩いても」というタイトルは、老医師の日課になった散歩のことなのだろうが、母親の思い出の歌謡曲の一節でもあった。いしだあゆみの「ブルーライト横浜」には確かに出てくる。私にも懐かしい曲だったので、口ずさむとこのフレーズがあるのを思い出し、はっとした。医師はクラシックのレコードを集めていて、息子の嫁は興味深げに話題にしていた。演歌も歌うのだと息子は揶揄したが、父は「昴」は演歌ではないと言い切った。筋は通っている。

第222回 2023年7月12

そして父になる2013

 是枝裕和監督作品、福山雅治主演。カンヌ映画祭審査員賞受賞。英語名はLike Father Like Son。話はチェンジリングにより子どもが取り替えられたが、判明したのが生後6年たってからだったというところから起こる、さまざまな葛藤を考えようとしている。子どもの顔をしげしげとながめている。6年という設定には意味があるようで、これほどの期間、子どもと思ってきたのなら、もはや真実がわかっても取り替えることなどできないという人間の生理の問題が横たわっている。

 病院側の過失の場合も考えふられるが、ここでは看護師による犯罪だという点が、波紋を呼ぶ。そして5年を経過すると時効が成立して、刑は無効だという法律上の問題が加わる。しあわせな出産をねたんでの犯罪だったが、5年を経過して事件を打ち明けたことから、悪意と取ることも可能となる。何も言わなければ、子どもと思って何の問題もなく終わっていたかもしれない。犯罪だと打ち明けることでやっと、被害者を苦しめるという目的は達せられる。そして犯罪にも問われることはない。そこまで考えての計画的犯罪とは見えない。ふとした出来心という軽い気持ちでの犯行だったようで、今は罪を償おうと犯人はなけなしの慰謝料を払おうとしている。主人公が返しに行くと、そこにも息子がいて、つつましい生活があった。

 主人公は建築関係のエリートサラリーマンで収入は多く慰謝料など不要だ。忙しくしていて子どもとの時間は限られているが、英才教育には熱心だ。取り替えられた相手は町の電気屋で、下にふたりの子どもが生まれていてにぎやかだ。ざっくばらんな人格で、子どもといっしょになってはしゃいでおり、病院からの慰謝料はあてにしている。対比的に家庭を見せることで、家族の問題を考えさせようとする。問題は血縁にこだわるかどうかにゆきつく。

 ここでの落としどころは、血のつながりよりもつよい絆があると結論づけたが、脚本家の指先ひとつで、正反対の結論に至ることも可能だ。どちらでもあり得る問題なのであり、重要なのはこの問題を、まじめに考えてみようということだ。人間の愚かさは、子どもがピアノを習っているが上達しないのは、血がつながっているなら、自分のせいだと思うが、そうでなければ自分のせいだとは思わないことだろう。主人公の子どもは血液型には問題はなかった。相手の家庭ではちがっていて、愚かにも妻の不貞が疑われた。

 エリートの傲慢は、ふたりとも引き取って育てるという提案に至った。会社の上司がふともらしたアイディアを魔に受けてのことだった。金で解決しようとしたが、相手がたは怒りをあらわにした。試験的に相手の親と住みはじめる。素直に育った自分の子に対して、この子は疑問に対しては何度も「なんで」と繰り返していた。それも遺伝であったかもしれない。うまくいきかけたように見えたが、七夕の日に願いごとを尋ねられて、家に帰りたいと願ったと正直に答えた。

 取り替えを断念する。電気屋に迎えに来た父をみて、もうひとりの子は逃げ出した。ふたりとも電気屋のほうがよかったようにもみえる。逃げる子を追いかけて父親は自分の愚を訴えかけ、やっと足が止まったテレビゲームはしていても子どもと向き合うことはなかったのかもしれない。父親ふたりは対立するが、精神的に未熟なエリートは、ゆっくりと電気屋の言動に教えられていく。電気屋を演じたリリーフランキーは、妻の尻に敷かれて言いなりなのだが、気取りはなく、味わいのある人間味あふれる役柄で、輝きを放っていた。福山雅治演じる鼻持ちならないエリートとの対比が際立っていた。

 妻ふたりは打ち解けている。難産のすえひとりを産んで、もはや子どもの産めないからだになったことを打ち明けて、肩を抱き合う姿があった。欠かすことのできないひとり息子なのだが、それも血筋にこだわったときの話だ。英語名は、この父にしてこの息子あり、つまりは「血は争えない」ということだ。血の系譜を思わせるものだが、「そして父になる」の場合は、血で引かれ合うことのない、努力をして父になるにはという課題を突きつけている。昆虫の世界を見せて、教訓として、人工的に父になるには15年はかかるのだと暗示させてもいた。結末を逆転させて、取り替えられた子どもをもとに戻しても、15年をかければ父になるということでもある。「そして」は決意を示す語であり、ビートルズにもアンドアイラブハーという魅力的な曲がある。

 血縁と他人という問題は、そもそもが夫婦は子どもとは異なって他人なのだという原点に立ち返ると、人類永遠のテーマと言えそうである。惹かれ合う男女が、じつは血を分けた兄妹であったというドラマもあった。兄と妹の結ばれることのない恋愛感情を描いた悲劇もあった。同性愛も含めて、どこまでの自由が人間には許されているのかという課題は、社会的軋轢を乗り越えるというポジティブな側面を宿しながら、文学的遺産となって結晶してきたものだ。

第223回 2023年7月13

海街diary2015

 是枝裕和監督作品。英語タイトルはOur Little Sister。女きょうだい4人の葛藤と成長の物語。いつものように登場人物それぞれの人間関係が謎めいていて、それを探るのに骨が折れるが、わかりだすと俄然おもしろくなってくる。テーマはやはり家族の問題である。3人の娘を残して、父親が愛人をつくって家を出ていった。出た先で子どもが生まれたが、相手にも連れ子があった。父の姿は写らないが、そこまでが各会話から見えてくる話の輪郭である。少しつじつまの合わない部分はあるが、聞き落としたセリフがあったかもしれない。

 父が亡くなったという連絡を受けて3人の娘が葬式に出向くと、しっかりものの妹と出会う。まだ15歳の少女だった。いっしょに暮らさないかという長女の誘いに乗って、山形から鎌倉にやってくる。父を亡くして、居づらい立場にあったようだ。父親は教師をしていたが、多くの人から慕われていた。鎌倉には姉妹3人だけで住んでいる。ともに職業をもち、長女は看護師、次女は銀行員、三女はスポーツ用品の店員をしている。

 母親は父親が去ってのち、子どもを捨てて家を出て、今は北海道にいる。そのころは祖母がいて家を取り仕切っていた。祖母もすでに死に、久々に母親が戻ってくる。このとき夫を奪った女の娘と顔をあわせることになる。三姉妹にとっては血縁のかわいい妹だったが、母親にとっては憎しみの対象だったはずだ。次女と三女は母親との再会を喜ぶが、長女はその無責任を恨んでいる。母親の言いぶんは、娘たちを連れて出ようとしたが、祖母にはばまれてできなかったのだと言うのだった。

 これは一理ある。大竹しのぶが演じているが、ノーテンキで破天荒な一面、常識的な側面も備えている。娘たちひとりひとりにお見上げを持ってきていたが、四女の分も用意していた。死別ならいざ知らず、夫が女をつくって出て行った家に、嫁としてとどまっておられるか。けったくそが悪いというのが、正直な反応だろう。一昔前に高峰秀子が演じていたなら、忍の一字でとどまっていたかもしれないが。

 英語名が示すように、腹ちがいとはいえ「私たちの小さな妹」に注目するのが、この物語のポイントだろう。15歳にしては礼儀正しく、大人びてもいて親にとっても頼りがいのある存在だった。山形で住んでいたのは温泉地の立派な旅館だったが、鎌倉に行ったのを、厄介払いができたと向こうでは喜んでいると、次女は解釈してみせた。老舗旅館の一人娘はお嬢様育ちで頼りなく、それを見て娘はしっかりものに成長したということだろう。

 次女は長女に比べて派手でドライで、恋多き女だが失敗を繰り返している。長女は地道に歩む家族思いの一面、ウェットな側面をもち、医師との不倫の関係にあった。これは長女の性格から見て驚きの事実だったが、父の遺伝子を引き継いでしまったのかもしれない。相手は病弱の妻をかかえて、離婚ができないでいるようだ。

 長女は家族を捨てた母親を憎む反面、父親は許しているにちがいない。腹ちがいの妹を引き取るという判断がそのことを示している。家族を捨てた父や父を奪った相手を恨んではいけない。なぜならこんなにすばらしい妹を残してくれたのだから。これは死期をさとった子のない海猫食堂の女主人の発言だった。そこは父親が通ったいこいの場所だった。姉は末期患者をケアする看護師として彼女を看取ることになるし、妹は銀行員として財産管理のトラブルの相談に乗っていた。

 看護師として緩和ケアの担当を決意した矢先、長女は医師から妻と別れて、アメリカに行くが、ついてきてほしいと打ち明けられる。研究者としてのグレードアップのためだった。隠れて会う後ろめたい日々の重苦しい表情に一瞬、喜びがうかがえるが、思案の果て、結局は妹たちを捨てることができなかった。医師はその回答を予測していたが、病弱の妻も置いて行くのかと考えると、すべては別れの口実ではなかったかとも取れる。遊びでしかなかったのかもしれない。海辺でのあっけない別れだった。

 長女は山形ではじめてあったとき、妹に最も好きな場所がどこかを問うて、そこに案内してもらった。高台の見晴らしのいい風景だった。そして鎌倉にきたときも、妹を高台に誘い遠望しながら、ここが父親ときた思い出の場所だといった。姉妹は父との秘密を共有していたのである。父親の手料理の味も共有したが、それは海猫食堂でおほえた味だった。次女と三女が父の記憶が希薄なのに対して、対照的に目に映る。

 長女役の綾瀬はるかと、次女役の長澤まさみ、三女役の夏帆、四女役の広瀬すずは、それぞれが個性の差を浮き上がらせて、見ごたえのある人間関係の駆け引きに感銘を受けた。三女は目立たないが、上二人のなだめ役として欠かせない。加えて常連となった樹木希林とリリーフランキーのワンテンポ、間を置いた自然体が、存在感の双璧をなしていた。

第224回 2023年7月14

海よりもまだ深く2016

 是枝裕和監督作品、阿部寛主演。英語名はAfter the Storm。聞き慣れた歌が流れてきて、テレサテンの「別れの予感」だったが、歌詞の一節に「海よりもまだ深く」が聞こえてきたときはっとした。「ブルーライト横浜」のときもそうだったが、よく知っているはずなのに歌われるまで気づかないというのが、不思議な気がする。この感覚が何か映画のテーマと連動しているのではないかと思えてきた。

 今回も家族を問題にするが、親が別れて夫婦関係は解消されても、親子の関係は続くという不条理をどう解決するか。家庭をもつにはふさわしくない人格だと離婚をされた男が主人公で、阿部寛が演じている。小説家と称しているが、栄光は一度だけ、名の知られた賞を獲得したことがある。自宅にはその時の単行本を何冊も並べている。その後は売れない作家として忘れられ、興信所の調査員に身をやつしている。社会の裏側を見ることが目的で、取材というのだが、誇れる職業とはいえない。臨時収入があっても倍にしようといって、競輪に向かう。とことんのめり込む性格を、仕事仲間が不安げに見守っている。

 母親は団地の安アパートでの一人暮らしで、年金をあてにして息子が訪ねてきては、金目のものを物色している。亡くなった父親の遺品整理と称して、持ち出しては売り払っている。姉がひとりいるが、こちらにも借金があり、母親には警戒するように言って、目を光らせている。その姿ははじめてのギャンブルで大穴を当てたために味を覚え、中毒となって、その後破滅へと至る人生に似ている。

 別れた妻をいつまでも忘れきれないでいる。息子とは月に一度会うことになっていて、そのときに養育費として10万円を渡す約束になっているが、滞りがちで、元妻は事務的に厳しい取り立てを要求している。再婚の話も持ち上がっており、気にかかるのだろう。興信所の相棒に付き添ってもらい、相手の年収なども調べ出している。浮気の素行調査は得意な日常の業務でもあった。

 息子と会う約束の日に、母親の団地に連れていく。遅くなり母親が迎えに来て、義理の母との対面を懐かしんでいる。台風到来の日でもあったので、一晩泊まることになり、心が揺れるが、復縁するつもりはない。母親と結託して泊まらせたという邪推まで出てきた。月に一度顔を合わせて、息子と一日を過ごす日は、いつまで続くのか。元妻は仕事をもっているが、再婚をすれば事情は変わってくるだろう。それによって毎月の経済的負担はなくなるかもしれないが、落胆はそれ以上に大きい。

 是枝作品では日本語タイトルは暗示を含んだ変化球であるのに対し、英語タイトルはストレートであることが多い。そこにねらいが隠されているとすると、この映画では「嵐のあとに」何かが起こることを予測している。嵐は具体的には台風のことだが、人生の荒波は離婚のことだろうし、文学賞受賞のことだったかもしれない。宝くじが当たった幸運は、しばしば破滅へ向かう暴風雨となるものだ。

 夢に生きている限り希望は持続する。成功するとそれは終わってしまう。それでも過去の栄光は忘れられない。親は息子の文才をいつまでも自慢に思っている。どんなに変わってしまっても親子の絆は変わらないのだろう。カルピスを凍らせて、カチカチになったシャーベットを、親子で食べる姿が印象的だった。アイスクリームだとすぐになくなるが、これだと時間をかけて楽しめる。裕福とは言えない庶民の味わう、ささやかな幸福の知恵である。

 50歳がらみの息子がみせる無邪気な表情には、口には出さないが、老いた母親への変わらぬ信頼感があった。それは海よりも深いものだっただろうし、妻の嫌悪もまた海の深さを思わせるものだった。義理の母に見せる温和な表情との落差には、愛想をつかした底知れぬ決意が読み取れた。とたんに三行半(みくだりはん)ということばを思い起こしてみた。延々と続いてきた日本文化の基調をなす女の意地のことである。

第225回 2023年7月15

三度目の殺人2017

 是枝裕和監督作品、福山雅治、役所広司主演。英語名はThe Third Murder。殺人の容疑者と弁護人の息詰まる駆け引きを描いたサスペンス。法廷戦術のためには嘘をつくこともある。弁護人は依頼人のことばをすべて信じているわけではない。真実を語ってくれないと、法廷で勝つことはできない。強盗殺人は怨恨による殺人よりも罪が重い。この線に沿って事実が組み立てられる。金を取るための極悪非道に比べて、怨恨だと止むに止まれぬ事情が酌量され同情も期待できるということだ。ときに事実が曲げられることにもなる。裁判官と裁判員の印象を良くしようとして、戦術が練り上げられる。殺人には変わりはないのにと思ってしまう。弁護士はどうすれば刑が軽くなるかを考える職業である。前提は殺人を犯したという動かしがたい事実から、スタートした。容疑者の供述がころころと変わるだけでなく、はては殺人には無関係だと言いはじめる。弁護人はあきれはてるが容疑者は、真実だと言い張っている。複雑な人格をもった不可解な容疑者役を役所広司が好演している。死刑の判決を恐れての嘘だということで、すべてを丸く収めようという舞台裏の駆け引きも写されている。それは当事者を除いての談合のようにみえる。

 事実関係を追うと次のような事件だ。会社社長が撲殺され、死体にガソリンがかけられて焼き払われた。その従業員が逮捕され、犯人は犯行を認めている。財布が奪われているので、物取りによる殺人となるが、弁護人は怨恨にならないかと調査を進める。財布にガソリンの匂いが付いていたので、財布を奪うのが目的ではなく、焼き殺してのちに、ついでに財布も盗んだというストーリーを考えだした。焼け跡が十字架のような黒いシルエットに見えたので、これも報復殺人を暗示するものだと推理を進める。撲殺に加えて焼殺まで至ることで強い恨みを読み取ろうというわけだ。

 この線に沿って聞き込みを続けていくと、いくつかの事実がわかってきた。娘が一人いて父親からレイプされていたという衝撃的事実が明かされる。容疑者はこのことを聞いて同情し、娘を慰め親密な関係に至っていたことも聞き出された。一方で容疑者に50万円の入金があったことがわかり、妻からの依頼で殺人に至ったという筋書きに書き換えられる。保険金の額が調査され、容疑者との結びつきにも探りが入れられる。弁護人が容疑者に問いただすと、社長夫人から殺人を持ちかけられたのだと供述を変えてしまった。

 容疑者には前科があった。その会社には他にも元受刑者が働いていて、彼らの社会復帰に手助けもしていたようだ。前科は殺人だった。弁護人の父親は裁判官だったが、偶然そのときの担当であり、当時の記録を持ってきて手渡しながら、自分の判断ミスで第二の殺人が起きてしまったと悔やんだ。娘は父から暴行を受けていた事実を法廷で語ると決意した。それによって容疑者を救おうと考えたのだが、検察側がその一部始終を聞いてくるが、その屈辱に耐えられるかを心配した。このことを容疑者に伝えると、供述を翻して、自分は殺していないと主張しはじめたのだった。法廷には妻と娘が社長の遺影を掲げる姿があり、潔白の意志表示が読み取れる。悪あがきと取られることで、容疑者は死刑判決に至り、娘は好奇の目にさらされることを免れた。同時に「三度目の殺人」も免れたということになるのか。四つ角の車道のまんなかに立つラストシーンは象徴的だが美しいものだった。

第227回 2023年7月17

万引き家族2018

 是枝裕和監督作品、英語名はShoplifters。カンヌ映画祭パルムドール受賞。5人家族にもうひとり5歳の少女が加わり、幸せな家庭が築かれるが、やがて崩壊するまでのものがたり。驚くべき事実はこの6人は、すべて血のつながりのない他人だということだった。それぞれの人間関係は少ない会話を聞き逃さないように注意しておかないとみえてこない。

 まずはじめはこの家族の中心になる男女で、このふたりをリリーフランキーと安藤サクラが演じている。男は日雇い労務者、女はクリーニング会社の従業員だが、万引きでも収入を得ている。過去に女の夫を殺害して土に埋めたという前歴をもつ。この二人がパチンコ屋の駐車場で捨てられていた子どもを拾って育て、年金暮らしの老女の住む一軒家に同居しはじめる。年恰好からは実の子と実の母親のように見える。

 樹木希林の演じるこの老女も、複雑な経歴をもっている。離婚した夫が死んで、その年金をもらっており、離婚後の相手の家族からも、命日だと言って訪れては、こずかいをせしめている。毎回決まって三万円だったが、老女はそれを慰謝料だと言っている。遺族宅には息子夫婦と二人の娘がいるが、うまく育ってはいないようだ。姉のほうは家を出てしまっていて、じつは老女が連れてきて、義理の妹という触れ込みで同居するひとりとなっている。あちらの家ではアメリカに行っていると言って、家庭の事情をつくろっていた。こちらではおばあちゃんと呼んでいるが、血のつながりはない。ピンク系の仕事をしていて、客だけでなく同居人にも思いやりがあり、悪い性格ではない。

 最後に加わった5歳の少女は、道端で一人でいるのを連れ帰った。おなかをすかせているのか遠慮がちに鍋をつつくのをながめていたが、コロッケは3つも食べた。身体中にやけどなど暴行の跡がみつかった。食事を与えてから家に戻そうとすると、大声での夫婦のいさかいが聞こえてきて、再び連れ帰った。捜索願いも出ていないので、ずるずると生活をともにし、少年に付き添って、万引きの手伝いをするようになった。兄と妹に見えるようにふるまっている。新しい衣服も万引きをしてそろえ、古い過去のものは燃やしてしまった。万引きはおもにスーパーをねらったが、個人商店では見抜かれていて、妹にまで万引きをさせないよう諭されている。ある日、テレビ報道に少女が行方不明として映されたが、捜索願いも出さなかったことを不審がられている。誘拐と思われるのを恐れるが、親の暴力を確信していて、ここにいるほうが、安全だと思っている。少女の傷を見て、本当の愛は叩くことではないと言って、強く抱きしめる姿があった。

 家族旅行で海に行ったり、隅田川の花火を音だけで楽しんだりして、家族の絆を強めていくが、老女がぽっくりと死んでしまう。大人は冷静で悲しむでもなく、悲しげな5歳の娘に順番なのだからと言って慰めている。病院にも警察にも知らせることができず、家の床を掘って土に埋めてしまう。預金通帳を引き出しにも行ったし、タンスに置いていた慰謝料も探し出したので、立場は良くない。事実の発覚は、万引きの失敗からだった。少年はスーパーでの万引きを単独でおこなおうとするが、妹がついてくるので、気をそらせようとして、おとりとなって店先にあるものを持って逃げた。店員が追いかけてきて、少年は坂道から道路へ飛び降りて足を折ってしまった。

 父親が呼び出され、母親もかけつけるが、警察からの聞き取りをおそれ、とっさの判断で、その場を離れる。少年を残して逃げようとするが、自宅の玄関で全員が捕まってしまった。行方不明の少女と、老女の遺体が発見された。ひとりひとりからの聞き取りが始まった。前科のある男をかばって、女は自分一人の単独犯だと主張した。ひとり刑に服すことになり、男は住み慣れた家を出て、一人アパートの二階に暮らしている。死体を埋めることはもうできない。義理の妹が訪ねたが旧家には誰も住んではいなかった。少年は施設に入れられ、学校にも通えるようになった。学校は家でひとりで勉強ができないものが行くところだと教え込まれていた。少女は実の両親のもとに戻され、親はテレビ報道の取材を受けて、誘拐事件から戻って手づくりの料理を楽しんだと語ってみせた。そして親から相手にされない、さみしい一人遊びがまたはじまっていった。

 女の面会に男が少年を連れてやってきた。女は少年の記憶にない拾われたときのことを話し、じつの親に会える情報を伝えた。少年はこの万引き家族との別れを決意していた。父親がハンマーで車の窓を叩き割って、盗む姿を見たときから、別れの予感は芽生えたようだった。女は子どもの生めない体で、少年と歩いていて、店先でおかあさんと呼び止められたときの幸せそうな表情が印象的だ。彼女はうちらではもう親の代わりは無理だと感慨深げに、敗北宣言をしている。ふたりの子どもを誘拐とみた警察に対して、それを否定して、捨てられたものを拾ったのだと答えた。男も少年におとうちゃんと呼ばせていたが、おじさんに戻ろうといい、万引きのテクニックを教え込んだ少年との別れを受け入れた。施設に戻るバスを見送り、別れを惜しんでいつまでも追いかけてくる。少年は振り返ろうとはしなかった。

 家族の絆をどこにみるかという問題はまた、血のつながりで暗礁に乗り上げてしまった。つながっていたのは、金だけのことだったのか。血のつながっている見せかけの家族よりも、それらしいヴァーチャル家族ではあるが、やはり限界があるということだろうか。「誰も知らない」、「そして父になる」とあわせて、三部作の完結編のように見えるが、まだこの問いかけは進化の兆しを宿している。幼い頃、いたずらをすると、お前は拾ってきた子だというのが、その頃の親のおどし文句だったのを思い出した。血の問題は家族だけでなく、言語をともなって民族の問題、国家の問題にまで発展するものだろう。