宮城與徳 [みやぎ・よとく]

1903年生〜1943年8月2日没

宮城與徳は、非命の画家、未完の画家であった。

1903年(明治36)2月10日、国頭郡名護間切(現名護市)東江に生まれる。父與正、母カマドの2男。

1918年(大正7)沖縄県立師範学校に入学するが、肺結核のため中途退学。

1919年父與正の呼び寄せで渡米、ブロウレイ公立学校日本人部、カリフォルニア州立美術学校、サンディエゴ市立美術学校に学ぶ。

1921年、屋部憲伝、幸地新政らと「黎明会」を結成、宗教、哲学、社会問題などを研究。後に「黎明会」は「階級社」を経て「労働協会」へと進展、ロサンゼルスにおける社会運動の中心となる。この間、アメリカの移民労働者の悲惨な境遇や社会矛盾に目覚め、無政府主義から共産主義へと傾斜、1931年アメリカ共産党日本人部に入党する。

1933年10月密命を帯びて帰国、すでに来日していたフランクフルター・ツァイトウング特派員で駐日ドイツ大使顧問リヒャルト・ゾルゲの国際諜報組織の一員として、中国問題評論家で近衛内閣のブレーン尾崎秀美らとともに活動する。ゾルゲ機関の任務は日本の対ソ戦略に関する機密情報収集であったとされる。

1941年10月、治安維持法違反の容疑で逮捕。取調べ中手錠のまま築地署の2階から飛下り自殺をはかるなど機密保持に身命を賭したが、ついに全面白供に追い込まれた。同15~18日主要メンバーの逮捕となった。ゾルゲ、尾崎など当代一級のジャーナリスト、知識人が関与したこの国際的な事件は、内外に大きな衝撃を与えた。

宮城は第一審判決前、1943年8月2日に巣鴨拘置所で死亡した。享年40歳。誠意にみちた芸術家タイプだったと評される。戦後、ゾルゲ機関の活動は当時の国際関係の中でぎりぎりの反戦平和運動だつたと評価された。

1965年、東京。多摩墓地に「ゾルゲとその同志たち」との墓碑が建立され、宮城の分骨も収められる。碑の裏面に兄与整の「ふた昔過ぎて/花咲く/わが与徳/多摩のはらから/さぞや迎えん」との歌が刻まれている。

(比屋根照夫)出典:『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ1997年