三原 ミチェーガチ、ゲーヤ

ミチェーガチ/ゲーヤ

この地域は、小地域名のミチェーガチマタ、スルギバル、ゲーヤマタ、フェーマーイ、ナカダー、ヒルギダーを含む。ミチェーガチは背後の山からのびる二つの細長い丘に囲まれた小さなマタで、首里・泊の出身者が多い。スルギバルには、山原船の船着き場があり(イシグムヤーという深みがあったため)、アブマタ、カヨウマタからもここに薪木を運びこんで賑った。首里・泊の出身者が多い。字三原のムラヤーや共同売店もあった中心地である。ゲーヤマタはゲーヤガーラに沿う細長いマタで、ここにも首里・泊出身者が点在して住んだ。ゲーヤマタの奥からは馬道があり、アブマタとの境のシジ道を通って一ツ岳に至る仕事の道がある。 この一帯には汀間川に面して東から、ミチェーガチチグチ(ミチェーガチマタ入口)、船着き場の前に並んだアブマタタムン座、カヨウマタタムン座のふたつ(現在のゲートボール場付近が、イシグムヤーと呼ばれる船着き場だった)、ゲーヤーチグチ(現在の三原共同売店前)があり、普通、山原船は船着き場までしか入らなかったが、大潮の満潮時にはゲーヤーチグチまでのぼることができた。木炭だけは濡らさないように屋根つきの木炭置き場があり、タンヤーと呼ばれた。木炭は、源河との境の県有林の払い下げをうけて、山に寝泊まりして焼いた。炭焼きをするのはゲーヤの人が多かったという。そのほか、砂糖樽用のクリ板(山中で火を焚いて乾燥させた)や鉄道枕木、防虫剤のヤマクニブなどを出荷した。 ミチェーガチマタの奥には材木を滑り落とす場所があり、石山だったのでイシキーシンダとよばれた。 平地のほぼすべてが水田だった。ミチェーガチ、ゲーヤマタでは川から導水し、スルギバルではスルギブックと呼ばれ、現三原小学校敷地を含めて水田がひろがっていた。スルギブックの一角に汀間ムラのミフーダがあり、またナカダーのイビーブック(ウフィーブック)は汀間の稲作発祥地といわれ、種取り行事三日前の拝みに汀間ノロ、根神がやってきた。フェーマーイの水田はたびたび水害や潮害にみまわれたが、日当たりもよく、護岸ができてから改善された。昔の稲は赤穂・黒穂といって、年一回の収穫だった。これらの水田はもと汀間の人の所有で、小作料を払って三原の人が耕作した。米の裏作にはタードーシイモをつくった。 集落に面する山の斜面はほとんど段畑で、イモを植えた。イノシシによる被害はよくあったが、猪垣はつくっていない(古いものがフェーマーイに残っている)。 スルギバルの現三原小学校敷地付近と、ゲーヤに一か所ずつサーターヤーがあったといわれている。詳細は不明だが、前者は付近の大地主が所有していたという。当時、サトウキビをつくっていたのは数軒のみで、多くはそこまでの余裕はなかったようだ。 このほか、ゲーヤマタ奥のサケーラマタの入口に個人有の藍壺があったと聞く。 三原の分区のあと、スルギバルにムラヤー(当時から「事務所」とよばれた)と共同売店ができ、戦争直前までつかわれた(戦後は、シネーガチ、フクジの各組にも事務所ができる)。アブマタへのスクミチ沿いに、ヒジャー(比嘉姓)のマチヤー(商店)が一軒あり、個人店としてかなり大きかった。ほかのマチヤグヮーは一時期だけのことで、長く続いたのはこの一軒くらいだった。

ミチェーガチには湧水が三か所あった。元旦に初水をそこから汲み、先祖に供えた。スルギバルのスルギガーは汀間ムラの拝泉である。一月三日には汀間から拝みにくるので、三原の人も一緒に拝んだ。

分区までは葬式のガンは汀間のものを借りたが、のちにガンヤーを新築し、戦後まで三原の組(シネーガチ~ゲーヤ)で使った(アブマタ・カヨウマタは別に共同のガンをもっていた)。墓は、地域ごとに山の斜面や山裾に小さな掘り込みをつくり、墓口をシックイで固めたもので、今でも空き墓として残っている。地域の人が亡くなると、男たちが共同でクヮンチャバク(棺箱、高さ一尺四寸四分、長さ三尺四寸四分)をつくり、各家から米二合ずつ集め、初七日まで、遺族にかわって地域の人たちが家畜の世話、薪取りから食事まで世話をした。

出典:「民俗3