津嘉山酒造

(資)津嘉山酒造所

現在の一楽(城1-3-12)の後側にシマブクヤーという風呂屋があったが、そこを借りて当酒造所は津嘉山朝保さん(与那原出身)が小さくやっていた。大正13~ 15年頃かと思われる。現在地に移ったのは昭和4年である。ここは大兼久部落の製糖工場であった。建物は昭和2~ 4年にかけてつくられた。戦争まで津嘉山朝保さんが経営した。当時、工場裏は畑で、農業をかねて7人が従業していた。酒づくりの従事者は麹士と蒸留等の4人であった。また養豚業も兼ね豚舎も屋敷内にあり、100頭程飼っていた。この状態が戦争までつづいた。戦時に工場を閉鎖したが材料がなくなったことと、従業員が出征したためである(出兵軍人以外の人は疎開した)。当時経営者の朝保さんは70代であったが昭和23~4年頃、疎開先の東村有銘で亡くなった。

戦後一時期慶佐次興栄さんが津嘉山酒造所の場所をかりて酒屋をしていた。当時瑞慶村智慎さんは東京に疎開していたが九州に移動後、昭和23年沖縄に戻ってきた。朝保さんの奥さん(瑞慶村さんの義理の母)に促されて瑞慶村さんは酒屋を再開する。昭和24年のことで慶佐次興栄さんには立ち退いてもらった。それ以後は瑞慶村さんが社長となり4~ 5人で酒造りを行う。オキマートの近くに移って慶佐次さん(首里在)は「轟」という酒を昭和48年までつくってた。毎月20日、北部の酒造所の集まりがあるが、慶佐次さんもよく参加する。

当時、原料はアメリカ民政府から斡旋があった。創業時名護以北には酒造所がなかったので、国頭の華の意で「國華」と銘した。北部では第一号(名護税務署になってから)の免許である。

その後、糸満出身の喜屋武さん(喜屋武酒造所)が現在琉銀名護支店のある場所で、銘柄「泡盛」を出す。また泊(那覇市)から来た玉那覇さんが字宮里に酒造所をひらいていた。元は屋部でやっていた。那覇税務署、名護税務署時代、一度泊に帰ったが、再び宮里(名護市)に入り酒造所をひらく。しばらくして龍泉酒造が羽地にできた。

津嘉山酒造所の立て看板は戦時中なくなった。酒造所は戦時中は、米軍がパンエ場として使っていた。終戦直後は中区の住民が屋敷内にテントをはり居住、家屋や豚舎にも複数の家族が生活した。周りの家がほとんど焼けたからである。 (談 瑞慶村智慎)

(「名護やんばるの酒」より)