大浦の人口と産業

昭和20年4月、米軍は大浦崎(辺野古崎)に上陸した。山中に避難していた地元住民や中南部からの疎開・避難民は、7月以降近くの各字に収容された。久志村は、北の瀬嵩地区(市)と南の久志地区(市)に分けられ、大浦は瀬嵩地区に含められた。収容所生活時期、大浦も中南部などからの疎開・避難民で人口は大きく膨れ上がった。人々がそれぞれの郷里へ帰村を始めていた昭和21年1月には1,089人を数えた。避難民の人たちが既に引き揚げ、地元も元の状態に戻った翌22年の10月には、59戸・276人となった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人口の動きは、同年47世帯・223人である。人口はそれ以降僅かずつ減少傾向となり、昭和60年現在116人を数える。25年前に比べると、約半分に減ったことになる。世帯数は、この間わずかの増減があったものの、現在は25年前と同数の47世帯である。

大浦の産業の現状を産業別就業者構成について見ると(同表参照)、就業者57名の内、第1次産業56%、第2次産業19%、第3次産業25%という構成で、第1次産業(農畜産業)に従事する人が半ば余りを占めている。ここ10年、この就業者構成はあまり変化していない。

大浦の主産業である農畜産業について見ると(農業基本統計表参照)、現在農家は20戸で、全体として9haの経営耕地面積を保有している。作物はキビが中心である。経営耕地面積は、ここ15年の間に半分近くに減った。作物の収穫・栽培面積はキビが全体の4分の3を占めている。以前は水稲が9ha余作られていたが、現在はなくなった。昭和56年度から灌漑排水を含む浦川地区土地改良総合整備事業(19.9ha)が着手されている。また、同年、地域の生活活動の拠点施設として大浦集落センターが建設された。

畜産は、近年養豚が1,100頭規模に増えている。

出典:「わがまちわがむら