瀬嵩のあゆみ 小年表

瀬嵩のあゆみ

先史~古琉球の瀬嵩

瀬嵩には、先史時代から古琉球にかけての遺跡は、まだ確認されていない。

近世の瀬嵩

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」には、名護間切「せたけ村」とみえ、「高究帳」には「おほら村」と併記される。「由来記」(1713年)には、久志間切「瀬嵩村」と記される。「乾隆二年帳Jと「当時用候表」に、「高嘉山村」とみえる。それは「琉球一件帳」に脇地頭多嘉山とあり、「高嘉山村」は脇地頭の名に因んだ村名であることが知られる。

「高究帳」による石高は、「おほら村Jと合わせて168石余り(田149石余、うち永代荒地66石余を含む、畠19石余)である。永代荒地の66石余は、「てま村」の68石余に次ぐものである。

久志間切の番所は、はじめ久志村に置かれていたが、康熙26年(1687)に瀬嵩村に移転された。移転の理由は、久志間切は古くから交通が不便で往来が困難であった。公文書の回送は、西宿は恩納間切から名護へ、また東宿は金武間切から名護に来ていた。そのため、名護間切番所は二重の駅費の負担を強いられた。その負担に堪えることができないと、名護間切の百姓からの訴えがなされた。康熙26年(1687)に瀬嵩と真喜屋とを結ぶ山道を開削して、金武から久志を通り羽地。大宜味・国頭へのルートをつけ、名護間切の負担を軽減した(国頭郡志・南島風土記)。「御当国御高並諸上納里積記」は、首里城から瀬嵩村の番所までの距離を「御城より瀬嵩村番所迄14里8合7勺9才」(約59.5km)と記している。番所が久志村から瀬嵩村へ移転した後は、瀬嵩村が久志間切の行政の中心となった。

近現代の瀬嵩

近代の瀬嵩の人口を見ると、まず明治13年には戸数60、人口239人(内男119)である。同36年には425人(内男198)で、この間に1.8倍にも増加している。同年の平民人口249人に対して士族人口は134人(35%)で士族人口の多い村であった。

明治14年に久志間切を巡回した上杉県令の一行は、久志間切番所を訪れた。当時の番所の様子を、「門南二向ヒ、『ヘゴ』ヲ門柱ト、左右生垣ヲ摘ミ揚タリ、生垣ノ外、右ニ九株ノ松、鬆疎列ヲナシ、左二雑卉ノ欝林アリ、庭二芝ヲ敷ケリ」と記している。そこで、学校設立の質問がなされ、検者・下知の詰所を学校にし、当年中には開校する見込みであると答えている。

翌15年に久志小学校が創設され、同20年に嘉陽に分教場が設置された。同21年に、久志尋常小学校と改称、そして同31年には高等科が併置され久志尋常高等小学校となった。戦時体制に入った昭和16年に久志国民学校となり、戦後昭和21年に久志初等学校となった。同27年に久志小学校となり現在に至る。

瀬嵩村には、明治24年に久志間切を受持つ山方筆者の詰所があり、山原の主な林産物である薪炭や用材、それに山原竹の監視をしていた(国頭郡志)。 明治32年の新聞に、瀬嵩村の内也山内の仕立山から松や杉木を盗み、与那城間切の平安座村へ持っていたところを探索人に見つかり差し押えられたという記事がある(戦前新聞集成1)。 山方筆者を置いた当時の、瀬嵩村を含む東海岸一帯の状況が伺える。

明治26年に国頭地方を巡回した笹森儀助は、瀬嵩村にあった久志間切番所を訪れ、泰温が実施した元文検地(1737~50年)の時の、久志間切の道路竿入帳。田畑竿入帳。河川溝渠竿帳・山野竿帳の四絵図(乾隆8年)を一覧している(南島探験)。

明治29年に久志郵便局が設置された(国頭郡志)。 同31年の瀬嵩村は、久志間切の小都会で一軒の料理店と旅人宿があった(戦前新聞集成1)。 同37年に瀬嵩村の馬場で新入営送別会を行なっており、それに間切役場の吏員・警察官・郵便局員・山方筆者・医師・各学校の職員などが参加した(前掲書)。 また同44年馬場で、久志・嘉腸・久辺の三校連合の大運動会が催された(前掲書)。

昭和10年に郡道が開通し、同14年に名護から朝日自動車が瀬嵩まで運行されるようになり、地元民にとって交通の便がよくなった。戦前は、与那原方面へ薪や木炭などを運搬する山原船の往来が頻繁にあり、海上交通が盛んな時代があった。

→タムン座と山原船

沖縄戦下、山奥に避難していた地元住民や中南部からの疎開・避難民は、昭和20年7月初旬、米軍の勧告に従って山を下り、久志の北部では瀬嵩を中心として各字に収容された。瀬嵩には、久志国民学校(現久志小学校)に米軍の司令部が置かれた。同年8月には、大浦以北の瀬嵩地区の人口は約3万人を数え、瀬嵩だけでも6,669人に達した。9月には、「地方行政緊急措置要綱」によって市会議員選挙(20日)と市長選挙(25日)が実施され、瀬嵩市が成立した。市役所は久志国民学校に置かれ、総務課・社会事業課・教育課・衛生課など7課の組織に、市会議員らも配置され、行政運営に当たった。図に見るように、中央の馬場に面して食糧配給所や警察署が、また東側には病院などが設けられた。収容された人々は、各民家はもちろん、鶏小屋のような建物にひしめきあって住んだ。浜では、暑い青空の下で学校も再開された。11月から中南部の人々の帰村が始まり、翌22年1月には瀬嵩市と南の久志市が合併し、もとの久志村に戻った。