済井出のあゆみ、小年表

済井出小年表

1736年 桃原村の住民が済井出村に移動。

1904年 日露戦争で金城福永戦死。

1916年 済井出耕地整理組合設立(20町歩)。翌年8月頃完了。

1930年 製糖組合発足。県補助で大型の動力圧搾機を設置。

1931年 ハンセン病患者保養施設設置反対運動、羽地村を中心に今帰仁村・名護町の住民を挙げて展開される。

1932年 水稲台中65号種普及。正条植えや二期作の技術も導入される。

1937年 大堂原にハンセン病患者の住宅を作る。

1938年11月 MTL相談所県に移管され、国頭愛楽園となる。

1950年3月 済井出農協設立。

1972年8月 子供の遊び場できる。

1973年6月 済井出のアコウを市の天然記念物に指定。

1974年 沖縄農業開発実験調査地区構造改善事業(PP事業)着手。55ha。

1976年 屋我地東部県営圃場整備事業実施。

出典:「わがまちわがむら

済井出のあゆみ

先史~古琉球の済井出

済井出には、済井出長佐久貝塚と大堂原貝塚・ハンタジー遺跡(仮称)・大堂浜遺物散布地(仮称)がある。大堂浜遺物散布地を除いた他の貝塚や遺跡は、済井出の北側の運天水道に面した位置に分布している。それらの遺跡と済井出との歴史的な関わりについては、これまでのところはっきりしていない。

済井出長佐久貝塚は、運天原との境付近にあり沖縄貝塚時代後期の遺跡である。大堂原貝塚は、愛楽園から運天原に向かう途中、北側の海岸よりに下っていくとウンドーバマがあり、その一帯に貝塚がある。沖縄貝塚時代前期~中期~後期に亘る遺跡である。ハンタジー遺跡(仮称)は、ハンタジーと呼ばれる崖の割れ目にあり、グスク時代前期の遺跡である。大堂浜遺物散布地(仮称)は、屋我地の最北端に近い愛楽園の東海岸から海まで広がる。沖縄貝塚時代前期と後期(?)の遺跡である(名護市の遺跡2)。

近世の済井出

済井出は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」に村名が出てこない。屋我からの分かれだとの伝承がある。済井出の殿(トウン)は屋我城の西側にあり、今も旧家ヤガヤー(屋我屋)を中心にして拝まれている。済井出の村名は、1713年の「由来記」から出てくる。

済井出村に合併されたという桃原村(南島風土記)は、「絵図郷村帳」や「由来記」などには出てこない。「当時用候表」(1736年)に出てきて、同年の蔡温の山林政策により、今帰仁の湧川の地から移動させられた村の一つである。移動後の行方が済井出と言われているが、「琉球国内羽地間切呉我桃原村二ヶ村人改帳」(1801年ほか10冊)があることから、呉我付に合併されたのではないかという(呉我誌)。

近現代の済井出

済井出の近代の人口の動向を見ると、まず明治13年は戸数85、人口は510人(内男264)である。同36年には632人(内男308)で、この間1.2倍に増えた。同年平民560人に対し士族は73人(12%)で、屋我地では少ない方である。また、下って昭和14年には戸数121、人口683人(内男337)を数え、それまでの60年間に人口は1.3倍に増えている。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和40年の708人から同60年には585人へと、ここ20年間で約8割に減っている。羽地村では大正5年に伊差川の深田原で耕地整理が行なわれたのが最初だが、済井出も同年に耕地整理組合を発足させ、集落西側のフカダプロー(深田)・トーバル(桃原)・シリブロー(世利)の低地20町歩で事業が実施された。また、水稲の台中65号種は少し遅れて昭和7年頃から普及し、合わせて2期作がひろがった。製糖は、それまでの旧式製糖場(4カ所)を改め、昭和5年に製糖組合を発足し、県補助を受けて大型の動力圧搾機を導入・設置した。

済井出に関わる近代の出来事で忘れてならないのは、愛楽園設立をめぐる運動である(詳細は次の愛楽園の項参照)。呉我の嵐山にハンセン病者保養施設を設置しようとする県案に対し、昭和6年春から約2年間にわたって羽地村民挙げての反対運動が展開された。一年間は村行政が全く停止するほどであった。昭和12年大堂原に患者の住宅が建設され、翌年県に移管されて国頭愛楽園の基礎がつくられた。

戦後、昭和25年に済井出農協が設置され、農業を基盤に戦後の産業が展開していく。昭和38年に公民館が建設された。屋我地でのコンクリート造り公民館の最初である。

出典:「わがまちわがむら