饒平名の人口と産業

饒平名の近代の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数127、人口653人(内男327)である。同36年には892人(内男445)で、この間約1.4倍に増えた。また、同年平民が689人、士族212人で.士族人口が23.5%を占め、羽地間切では士族の多い地域であった。下って昭和14年には戸数125、人口470人(内男204)を数えた。それまでの60年間に人口が大きく減ったのは、主として昭和6年に連天原が分離したことによる。

戦後の人口の動態は、推移グラフに見るように、昭和39年に636人、昭和60年には356人を示す。昭和46年頃を境に減少傾向にありこの20年間に約6割に減った。

饒平名のキビ作りは、明治30年以前に近くの杣山地内で木車を使ってキビ汁で酒を密造するために作付けしたのが始まりという。大正8年に鉄製のキビ搾り機から12馬力の動力の圧搾機が導入され、字営の精米所を兼ねた製糖工場が操業した。その後、昭和17年には大型(50t)の製糖工場を運立に建て屋我地の製糖業を先導したが、昭和20年に戦災にあった(饒平名郷士誌)。

現在の饒平名の産業は(就業者構成表参照)、就業者172名の内、第1次産業52%、第2次産業10%、そして第3次産業38%という構成である。ここ15年の動向を見ると、第2次産業から第3次産業への移動が大きいものの、主力は農業である。

その農業について見ると(農業基本統計表参照)、基幹作物としてはキビ・パインが依然として強い。パインは、昭和32年に今帰仁村呉我山から種苗を導入し、杣山を開墾して栽培を始めた。

ところで、焼平名の農業が大きく変わったのは、昭和40年代以降の大規模な農業基盤整備事業によってである。済井出区域にまたがって実施された、沖縄農業開発実験調査地区農業構造改善事業(略称PP事業、昭和46~49年、72ha)および屋我地東部県営圃場整備事業(昭和47~51年、95ha)、また北西部の屋我地西部県営畑地帯総合土地改良事業(昭和59年度完工、147ha)などにより、近代的な農業基盤整備が実現した。その中で、ウプグムイ(大堀原)やピラダ(平良田)にあった水田は、昭和40年代後半に消滅した。なお、畜産は養豚が中心だが、ここ15年大きな変化はない。

出典:「わがまちわがむら