愛楽園のあゆみ

愛楽園は、国立療養所という一点だけを除けば、一つの病を縁とした人々の集落と言ってよい。事実、この縁で互いに相寄り助け合い、青木恵哉氏をリーダーに、偏見と迫害に抗して、屋我地大堂原に療養所建設の拠点を確保したことで、園の歴史が始まる。

ところで、日本本土におけるハンセン病史によると、聖徳太子や光明皇后等の仏教によって培われた慈悲、あるいはキリスト教伝来後は隣人愛等に基づく救済の事績が数多く伝わっている。しかし、わが沖縄には全くそれがなく、口碑・伝説も忌避一途の感がある。思うに、これは宗教の伝来が本土よりも遅れたために、ひたすら「御獄崇拝」「ユタ・サンジンソー」に頼ってあらゆることを判断したからではなかったろうか。

青木(以下敬称略)の来沖は、1927年熊本回春病院長ミス・ハンナ・リデルの命で、同病者へのキリスト教伝道が任務であった。青木を火種に、沖縄の病者に、生存の意識が俄然高まった。嵐山事件、屋部・安和の焼討ち事件、ジャルマ島への避難等、極限とも思える苦難がことごとく克服昇華され、黄金森下に、木の香も高く沖縄MTL相談所が建ち、1938年2月沖縄県立国頭愛楽園が誕生して吸収された。11月10日の開園式は、玉扇会玉城盛重一行の祝賀舞踊に3000人の観衆が押し寄せたという。

敷地3万2764坪。建物53棟・1564坪。収容定員250人(昭和15年3月末の実人員310人)。職員:医師2人、属2人、看護婦長1人、調剤員1人、雇2人、嘱託2人、傭人30人、合計40人。管理:沖縄県知事。食事:米麦6:4,1人1日5合(昼食芋食の場合は3合)。

職員の使命感と、それに励まされた入園者の”これぞわれらが命の園”といった園造りは、皇室の“御仁慈”も大いに作用して高まり、園の運営に大きく寄与した。1941年7月1日、国立に移管した。

日支事変の凶音を聞きながら誕生した園は、どこまで悲運なのか、日本軍による収容で入園者数が835人に膨張した1944年10月10日、第2次世界大戦に発展した太平洋戦争で、米海・空軍の猛撃に遭い、園中の殆どの建物が爆破された。掩蓋壕(えんがいごう)で男子1人が惜しくも犠牲になった。

時の園長早田皓によって、入園者に「愛楽園翼賛会」が作られ、組織は食糧増産・防空・待避・給食・重病人介護・死者埋葬等、少ない職員をカバーして、-糸乱れぬ活動をした。

しかし、戦争は無抵抗の病人も容赦しなかった。変わり果てた無惨な姿の園で、人々は塀を壁に、あるいは木麻黄の立木を柱に、板葺の小屋を建てて住んだ。それの叶わない者は壕を住居にし、恩人青木も納骨堂で起居した。

そんな所へ、1946年台湾楽生園から17人、翌1947年本土各療養所から県および奄美出身218人が、生れ故郷恋しさに帰ってきた。入園者総数834人。

沖縄民政府工務部工作隊によって茅葺規格住宅が建てられ、1棟2世帯の夫婦舎となり、大半の独身者は、がれきを片付け砲弾の穴を埋め、コンセットハウスを組み立てて住んだ。砂地の暑さは耐え難く、冬は寒さがこたえた。本土引揚者の影響で、評議会を創設する等、患者自治会の活動が急速に活発化した。

1949年、ロルフ・フォン.スコアブランドが米軍政府公衆衛生部長として、救世主の如く園に現われた。医・衣食住について、沖縄の他の医療施設がうらやむ程、図れる限りの援助を尽くした。琉・米官民に理解と援助を求める一方、米本国にも支援を募り、生れ故郷西ドイツの人たちからも「希望と自信の鐘」を贈らせ、鐘は朝夕園の丘で国境を越えた友愛を音にこめて鳴り続けている。

1961年、琉球政府はハンセン氏病予防法を制定し、軽快退園・在宅治療の画期的な措置を講じた。本土政府援助で、那覇市古波蔵に後保護指導所も設置され、宮古南静園からの退園者と合わせて328人が職業指導を受け、社会復帰へのステップにした。

1972年5月15日、晴れの日本復帰で園も厚生省の所管に移った。

出典:「わがまちわがむら