久志地区

久志地区(くし ちく)

着色部分が久志地区

久志の成り立ち

1670年代、羽地朝秀によって間切の再編が行われ、名護間切の東海岸側10カ村と金武間切の2カ村(久志・辺野古)を併せて久志間切が創設された(1673年)。その後1908年4月に「沖縄県島嶼町村制」が施行され、久志村となった。1970年に旧名護町、屋部村、羽地村、屋我地村と合併し名護市となった。旧久志村地域は、久志地域と呼称される。

久志地区のあゆみ

久志地区にいつ頃から人が住み、生活を始めたのかは、はっきりしない。遺跡を見ると、久志地区で古いのは、天仁屋の有津遺跡および久志の大川田原遣跡である。沖縄貝塚時代後期(2,000~ 800年前)に属する遺跡としては、久志・辺野吉・安部・嘉陽で発見されている。その後に続くグスク時代から近世にかけての遺跡も、久志・辺野古。汀間・安部・嘉陽。天仁屋でみつかっており、現代につながる村の歴史を考える上に有効な資料となっている。

行政単位としての久志間切は、康熙12年(1673)に、金武間切の久志・辺野古、そして名護間切の10カ村を割いて創設された。総地頭は、尚経(豊見城王子朝良)と顧思敬(久志親方助豊)であった。

間切番所は、はじめ久志に置かれたが、国頭方面へも東(アガリジュク:東コース)から西宿(イリジュク)の名護番所を経由するため、名護番所は王府からの文書・書類などの伝達が二重の負担になる等という理由で、1687年に久志間切番所は瀬嵩に移された。それ以降、瀬嵩が行政機関の中心地とされるようになった。

久志地区は、近世から明治・大正、さらには戦後まもない頃まで、山仕事、つまり薪や材本を産する地域として位置づけられ、それが主な地域産業であった。当時は各村ごとに地船といって、村船を持ち、自分たちでそれを使って公租や薪・材本などを運んでいた。明治期になって、それらの船は与那原を中心とする運送・間屋業者の手に移され、それ以降久志地区は山の産物を首里や那覇。南部に送り出す地域となった。

明治41年の「沖縄県島嶼町村制」の施行に伴い、久志間切から久志村に改称される。大正12年には、有銘以北区域が分かれ、東村が新設された。なお、大正10年から昭和元年までの間、久志村役場は一時汀間に置かれたことがある。

陸上交通が長らく不便であった久志地区も、大正10年に至って瀬嵩から大浦を経て西海岸の世冨慶に通じる郡道が開通され、東海岸と西海岸の交通が飛躍的に便利になった。しかし、東海岸自体の道路整備はさらに遅れ、ようやく昭和10年に着手された。

久志地区は、明治の廃藩置県以来、首里や那覇・泊からの士族の寄留・定住が多い地域であった。それによって、近代前期から半ばにかけて人口が急増したという歴史もある。士族出身の人々が居住した地域を中心に、まず大正14年には三原が汀間から、昭和2年には二見。大川が大浦から、戦中の昭和17年には久志・辺野苗から豊原が、それぞれ分離・独立して行政区を設定した。これらの行政区は、昭和26年には地籍字となっている。

昭和20年の沖縄戦下、久志地区は中南部から多くの疎開者。避難民を受け入れた。終戦時の収容所生活時期には、瀬嵩地区(市)・久志地区(市)の区域に分けられ、あわせて9万人を越える人々がしばらくの時期ではあるが、共に生活をした。同時期、辺野古の大浦崎は、伊江村。本部町。今帰仁村の住民の多くが収容されていた。同年11月から、久志の両地区に収容されていた中南部の人々の帰村が始まったが、最終的には翌21年の6月までかかった(伊江村民はさらに遅れ同22年3月になって帰村)。

この大浦崎収容所の跡地には、昭和32年から米軍のキャンプ・シュヮーブ基地が建設され、また久志岳。辺野吉岳一帯の山々はその演習場となって現在に至っている。米軍基地に隣接する辺野吉や久志では、基地建設が始まって以来、建設に従事する人々、そして米兵を相手にする民間の諸施設が建てられ、特に辺野古では、東の台地に新しく「基地の町」ができた。1960年代のベトナム戦争時をピークに、近年は活気を失いつつある。

昭和45年8月、名護町・屋部村・羽地村・屋我地村と共に合併して名護市となる。

出典:「わがまちわがむら」より

「くしの由来」

「おもろそうし」巻13(1623年編)に「くしのまえかねく」とみえるように、古い地名である。

その意味は、

1,久志が砂浜を前にして湾曲している集落の地形が櫛(くし)に似ている

2,クシ=背面の意味から海岸に対して背面に位置する

3,名護の背(クシ)にあたる

4,山脈とゆったりとした海岸線の地勢から

5,後(クシ)は腰(こし)と同じで山の麓、すそ野、

などの諸説がある。

出典:「5000年の記憶」、久志誌

久志の字(区)

久辺地区:久志豊原辺野古

二見以北十区:二見大浦大川瀬嵩汀間三原安部嘉陽天仁屋底仁屋

行政

久志支所

学校

久辺小学校

久辺中学校

緑風学園小中一貫教育校(旧久志小学校・久志中学校)

三原小学校(閉校)

嘉陽小学校(閉校)

天仁屋小学校(閉校)

地域史料

久志地区小年表