年表 1300年代~1600年代

1300年代~1600年代の名護、沖縄、日本、世界の出来事

参考文献:5000年の記憶 名護市民の歴史と文化

1350年 察度(1321~ )即位

1368年 [中]明、興る

1372年 明の大祖、楊載を遣わし招諭する 。中山王察度、進貢する

1380年 山南王承察度、初めて明へ進貢する

1383年 山北王伯尼芝、初めて明へ進貢する

1392年 この頃、 ビン人三十六姓帰化と伝わる

[朝]高麗減び、李成桂、朝鮮を興す

1406年 尚巴志、中山王武寧を減ぼし、父思紹を王とする(第一尚氏)

1416年 中山軍、寒汀那港に集結し、北山を攻める。山北王攀安知、中山に減ぼされる

1421年 [中]明、南京から北京に遷都

1422年 尚巴志、中山王に即位 尚忠を北山監守に任じる

1429年 山南王、中山に減ぼされ、三山統一なる

1453年 志魯・布里の乱がおこり、首里城焼ける

1456年 マラッカと通交

1458年 護佐丸・阿麻和利の変、万国津梁の鐘を首里城正殿にかける

1467年 [日]応仁の乱おこる

1469年 [中]市舶司が泉州から福州に移り、柔遠駅(琉球館)が設けられる

1470年 金丸、王位に就き、尚円と名乗り、第二尚氏王統が始まる

1479年 冊封使来琉、尚真を王に封じる

1481年 初めて紋船(慶賀船)を薩摩に遣わす

1500年 八重山のオヤケアカハチが乱をおこすが、中山軍に鎮定される

宮古の仲宗根豊見親が初めて宮古頭職に任命され、

妻の宇津免嘉もこの頃大阿母に任命される

16世紀初め、糸芭蕉が織物に利用される

1501年 玉陵を築く

1509年 16世紀はじめまでに二十三君が置かれ、女官組織が整う

1511年 [世]ポルトガル、マラッカを占領する

1522年 金武の観音堂建立

1526年 尚真王代、諸按司を首里に集住させる

1531年 『おもろさうし』巻1編集

1570年 琉球からの南方貿易の記録とだえる

1571年 中山、奄美大島を征服する

[世]スペイン、マニラ市を建設

1573年 [日]室町幕府減亡

1579年 首里城に「守礼之邦」の額を掲げる

1591年 島津義久、尚寧王に兵7000人の兵糧10カ月分を送ることを命じる

1592年 [日]豊臣秀吉、朝鮮出兵

1597年 [日]豊臣秀吉、朝鮮再出兵

1600年 [日]関ヶ原の戦い

1603年 [日]江戸幕府開く

1605年 野国総官、福州より甘藷を持ち帰る

1606年 島津家久、琉球征討を許される。家久、琉球を介して日明貿易を図るが、琉球応ぜず

1609年 薩摩軍3000人の兵を乗せた軍船100余隻、山川港から琉球へ向かう。

奄美大島・徳之島・沖永良部島を降伏させて運天に上陸する。

薩摩軍、海陸両路から那覇に入る。尚寧王降伏。

尚寧王を伴って帰る 以後、対明貿易も薩摩に掌握される

1610年 薩摩、琉球の検地を行なう

初めて仕上世座が設置される

1611年 薩摩、琉球の検地を終える。

石高8万9086石(宮古1万8000石)のうち5万石を王府歳入、残りは諸士へ配分と定め知行目録(一紙御目録)を給す

薩摩、「掟(15条)」を令達

各地の按司掟が廃され、地頭代が置かれる

奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩の直轄となる

儀間真常、薩摩から木綿を移入

1617年 島津氏、琉球の日本化の禁令を出す

[日]大阪夏の陣、豊臣氏減亡

1623年 儀間真常、初めて黒糖を製造する

『おもろさうし』巻3以下成る

1624年 八重山キリシタン事件おこる

[世]オランダ、台湾占領(~1661)

1628年 那覇に大和在番仮屋が設置される

宮古は平良・砂川・下地の3間切に、八重山は大浜・石垣・宮良の3間切に分けられ、それぞれに頭職がおかれる

1629年 名寄帳が初めてつくられる

1632年 八重山に在番が設置される

1635年 石高が加増され(寛永盛増)、9万883石余となる

[日]鎖国令発布 参勤交代を制度化

1636年 薩摩藩の命令でキリスト教宗門改めが始まる

1644年 各所に遠見番をおく(烽火の制)

[中]明が減びる

1647年 黒糖・鬱金の専売制度始まる

1648年 初めて芭蕉当職を設ける

1650年 羽地朝秀、『中山世鑑』を編集ずる

1652年 羽地朝秀、羽地間切の総地頭になる

1654年 農民の首里・那覇・久米村・泊への移住を禁じる

1658年 この頃、五人組が制度化される

1660年 7代官を4代官に改める(島尻・中頭・国頭・久米代官)

1661年 [中]清、中国全上を統一する

1662年 砂糖奉行を設置する

1663年 名護寵文(程順則)生まれる(~1734)

1665年 北山監守今帰仁披司家を今帰仁から首里に移す(北山監守の廃止)

1666年 羽地朝秀、摂政となる

本部間切が今帰仁間切より分立する

1667年 各間切に鉄匠を一人置く 羽地の呉我(当時は我部祖河)鍛冶屋原に鍛冶を官設する

中頭山奉行(後の国頭山奉行)を設置する

1669年 高奉行を設置する

諸士・百姓、願い次第仕明を許可

1670年 羽地朝秀、諸士に系図の提出を命じる

1671年 製糖車、二転式から三転式に改良される(真喜屋実清)

1673年 羽地朝秀、摂政を辞す 「羽地仕置」成立

恩納・大宜味・久志・小禄間切を創設

名護間切10カ村、金武間切2カ村をもって久志間切を創設する

[中]三藩の乱おこる(~1681)

1674年 大宜味間切創設のおり、羽地間切の平南・津波の2村を分ける

久志間切の両総地頭、尚経・顧思敬、観音菩薩像を勧請し久志観音堂を創建する

1676年 久米村孔子廟完成

1678年 接貢船の制度、定例化する

1679年 山奉行、国頭山奉行を兼務する

1682年 蔡温生まれる(~1761)

陶工が牧志村の南(壺屋)に集住させられ、陶窯が1カ所となる

1683年 [中]清、鄭氏を減ほし、台湾を領有する

1687年 山林・原野の開墾禁止される

久志間切番所を久志から瀬嵩に移す

瀬嵩と羽地の真喜屋間の山道を開削し東宿のコースを変更する

1689年 系図座設置される

羽地の瀬州村が源河に属する

1690年 「家譜」の編集始まる

この頃、今帰仁間切の振慶名・呉我・我部・松田・桃原が羽地間切の区域となる

1693年 程順則、『雪堂紀栄詩』(漢詩集)を編む

1697年 蔡鐸、『中山世譜』を編集(~1701)

1697年 甘庶・鬱金の作付けを制限する

1698年 程順則、『雪堂燕遊草』を福建で板行する

琉球から薩摩に甘藷伝える