嘉陽・ムラの暮らし

嘉陽・ムラの暮らし

アミソ、ナクヮガチ、ヤマダ、ソウズ、ギキ、ハヨウの各マタでは川から流れる水を使い、稲が作られていた。それぞれの田では稲を刈り取った後、タードーシイモを裏作として栽培した。集落には集落共同の稲の乾燥所、ノロを出す比嘉家所有の精米所があった。集落内の屋号イリトウバル(西桃原)には高倉があったが、目立ったウェーキは集落にはいなかったようである。各マタに沿ってヤマシシガキと呼ばれる猪よけがあり(地図には実際に調査で確認できたものだけを記した。民俗2「着ける」二六二頁~二六三参照。)、テーブルサンゴをそのままマタの傾斜に差し込んだものと、石垣を積んでその上にテーブルサンゴを差し込んだものの二種類があった。垣の修復はその垣のある土地の人の責任で行い、猪が垣を越えて入った場合、その人はムラに罰金を払わねばならなかったという。そのため土地を取られた人もいたそうである。猪の通る道にヤマシシゴウと呼ばれる猪を落とす穴もあったが、人が落ちることもあり、危険なので現在はほとんど埋められてしまった。

集落西手のサーバル、マチバマは畑地としてイモ、粟、麦などが作られていたが、砂地で痩せた土地であったため、海岸から海草を拾ってきてそれを肥料代わりにしたという。

集落では四つのサーターヤーが確認できたが、時代的な変遷はよく分からない。イリには三つのサーターヤーがあり、集落の横の道でイリを前・中・後の三つに分け、サーターヤーを使用していた。アガリには現嘉陽小学校の体育館の付近にサーターヤーがあったという。これらのサーターヤーはすべて畜力で、以前は集落のものだったが、やがて個人に払い下げられた。

川の利用としては、集落わきを流れるウッカーを主として飲み水などに使い、その下流のンスアライガーは赤子のおむつ洗いなどに使った。戦前は子供の腰までの水位があり、川エビやウナギを捕ることもできた。夏でも水が絶えることなく、集落の人々はあまり水に困ることはなかったという。

海の利用としては、集落の前のイノーにバーキ(竹籠)を背負って、サザエ、ウニ、タコなどを捕っていた。また、イジュの皮をはいで粉にし、その毒で浮いてきた魚を捕る漁法や、戦後には火薬を使って魚を捕ることがあった。ときには安部のカヌシチャのウミンチュの家まで魚を買いに行くこともあったという。

嘉陽ではマタを除いて集落後方の山々はすべて杣山であったようである。戦後、山々は村有林と認識され、木や竹を切り出して、木は薪にして、竹は主にバーキと呼ばれる籠を編むために使われた。薪の運搬は重労働であり、ソウズマタでは切った材木を一旦海に落とし、浜まで運び乾すという方法がとられていた。また集落から遠いギキマタには薪の集積場があったという。集落には山係と呼ばれる人がおり、ナマ木を取る者を取り締まっていた。見つかると山札を取らなければならず、鋸、鉈を没収される者もいたという。食用の目的でテーチ、ギーマと呼ばれる木の実やシーギー(椎)の実を取りに行くこともあった。山から取ってきた薪は共同売店に持っていき、農具や味噌などと物々交換した。共同売店の薪は、訪れた山原船との物々交換に使われた。

人々の服装は夏は芭蕉布、冬は木綿の着物であった。山には祖先から受け継いできた芭蕉地があり、材料となる芭蕉はそこから取ってきたという。大きなシンメーナービで灰と一緒に煮て糸を取り出した。芭蕉の 糸は布を織るだけでなく集落内のシーシーヤーに保管されている獅子の毛にも使用されていた。また戦前は養蚕がさかんであり、ムラには養蚕所はなかったが、各家で蚕を飼っていたという。餌となる桑の葉については山に取りに行く者、畑の一部で桑を育てる者などがいた。木綿の糸は名護から買ってきた。(民俗Ⅱ「着ける」二六二頁~二六三参照。)ウイグシクの後方の山中に個人所有の藍壺があったというが、誰の所有であるかははっきりしなかった。

ムラの旧家としてはセドヤー(勢頭屋・宮里姓)、アラカチヤー(新垣屋・宮城姓)、アガリティンナー(東天仁屋・安谷屋姓)、オナガヤー(翁長屋・翁長姓)がある。このうちセドヤーは昔から嘉陽におり、アガリティンナーは与那原から、オナガヤーは首里からやって来たという。アラカチヤーは元々は知念姓であり、やはり外からの移住であるという。

集落の施設としてはムラヤーがある。集落の取り決めごとなどはムラヤーで行われ、ムラの集まりの際には「サジ」と呼ばれる人が太鼓を叩いて集まりを呼びかけたという。

出典:「民俗3 民俗地図