羽地地区

羽地地区のあゆみ

羽地地区で、21カ所の遺跡が確認されているが、沖縄貝塚時代の前期から後期(今から4,000~800年前頃)にかけての遺跡は、真喜屋の奥武原遺跡だけである。その他のほとんどがグスク時代以降の遺跡である。そのほとんどが近世の村、また近現代の字(行政区)と結びついてくる。それらの遺跡は丘陵地に立地し、北の方から源河・真喜屋・仲尾次・仲尾・親川・田井等・川上・振慶名。伊差川などにある。近世になって、多くの集落が低地に移動している。

近世以前の時代(古琉球)には、親川(羽地)グシクを拠点として羽地按司が羽地一帯を管轄していたとみられる。「おもろさうし」で羽地のことを「まはねじ」(真羽地)と謡っている。また、運天の百按司(むむじゃな)墓にあった弘治13年(1500)の木棺に「えさしきやのあし」(伊差川の按司)とあったといわれ(国頭郡志)、古琉球の時代に「伊差川」があったことが知れる。

近世前半の羽地間切の範囲は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」では、旧羽地村はもとより屋我地島と今帰仁間切の一部(現在の湧川・呉我山)・大宜味間切の一部を含む範囲に及んでいた。北の方では、田港(大宜味)間切の新設(1673年)で、平南と津波が大宜味間切の村となった。また、振慶名・呉我・我部・松田・桃原が1690年頃に今帰仁間切から羽地間切へ管轄が移された。

その後1736年(元文元年)に蔡温の山林政策によって振慶名・呉我・我部(松田・桃原)が故地から現在地へ移動させられた。17世紀後半から18世紀前半にかけて、羽地朝秀(向象賢)らによって間切の組み替えがなされ、さらに蔡温による政策的な村落移動がなされた。また、移動ばかりでなく村の新設(親川・稲嶺)や、合併された村(谷田・桃原・松田・瀬洲)もある。

「高究帳」による羽地間切の石高は、1,985石余り(田1,817石余、畠67石余)で、沖縄諸島では田(97%)が圧倒的に多い地域であった。ハネジターブックワ(羽地田袋)やマギャーターブックヮ(真喜屋田袋)、それにギンカターブックワ(源河田袋)の美田が広がり、近世期から米どころとして知られていた。水田の多い羽地間切を領有したのは、羽地朝秀(向象賢)を初代とする羽地御殿家と、総地頭は池城殿内家であった。

1735年(雍正13)に羽地大川の大洪水で羽地田袋が荒廃してしまった。時の尚敬王は、蔡温に命じて改修させた。地形を見、風水を見て改修計画をたて、国頭地方からのべ約10万人の夫役を使っての国家的大事業であった。そのことを記念して8年後の1744年(乾隆9)に碑を建立した。その碑が、破壊したため道光10年(1880)に再建した。田井等のピームイヌメーに建っているのがその碑である。

蔡温によって元文検地(げんぷんけんち:1737~50年)がなされ、羽地間切は1741~42年(乾隆6~7)に実施された。その時作成された絵図や竿入帳に羽地間切各村の屋敷数が記されている(近世羽地間切の村の屋敷数の表参照)。

羽地間切番所は、田井等村にあったが、その地が後に親川村として分村したため、親川番所とも呼ばれた。羽地間切の行政の中心となったところである。

近世、羽地間切や久志間切の仕上世米(しのぼせまい)の集荷や積み出し港として機能した勘定納(かんてな)港が、番所の北の仲尾にある。近世期末には、バジル・ホール(1816年)やペリーの一隊(1853年)が訪れ、当時の状況を描写している。

明治12年の廃藩置県後の羽地間切番所内に、首里警察署羽地分署を、翌13年に国頭地方役所を設置し、一時国頭郡の行政的中心としての役割を担ったが、同15年に両機関は名護に移転された。

明治30年、それまでの番所は役場に、地頭代は間切長に改称された。同41年の「沖縄県及び島嶼町村制」の施行に伴って、羽地間切は羽地村に、また村は字となり、間切長は村長に、村頭は区長となった。

沖縄戦では、羽地も大きな被害を受けた。昭和19年の10.10空襲以後、中南部から疎開・避難民が押し寄せた。沖縄戦下の昭和20年4月には、羽地中部を中心に田井等地区収容所が設けられ、地元住民をはじめ名護。今帰仁、さらに中南部からの避難民もあいついで収容され、一時期人口は72,000人までふくれあがった。

近世期から羽地間切に属していた屋我地が、昭和21年に羽地付から分村し、屋我地村として独立した。同45年8月1日に羽地・屋我地・屋部・久志の旧4村と名護町が合併し、名護市が誕生した。

出典:「わがまちわがむら

羽地地区小年表

名護市地域史料目録:羽地地域