港区[みなと・く]

港区の現況

世帯数:277世帯 人口1,079人 面積0.50k㎡

港区は、戦後まもない昭和21年5月19日、小字城と港原の一部の区域に、城区から分離して成立した。南側の前面には、国道58号線の湾岸道路を挟んで名誕漁港および埋立地の昭和原が広がっている。21世紀の森公園区域である昭和原の東部は、埋め立て(昭和47年11月起工)に伴う漁業権補償地として港区民の住宅地となった。

主な施設に、名護漁港(昭和41年第1種漁港指定)・名護漁業協同組合愈・名護市下水処理場(同54年供用開始)・名護市民会館(名護中央公民館、同60年開館)・名護市児童センター・港区公民館(同53年)・市営港駐車場・琉球新報北部本社・沖縄タイムス北部支社・琉球バスエ場・ホテル名護キャッスル・金城動物病院などがある。

港区のあゆみ

近現代の港

港区は戦後の成立であるが、戦前城区にあって漁業集落として独自の歴史をあゆんできた。名護に漁業が成立したのは、いつの頃かよく分からないが、糸満、垣花からの移住者が定住する過程で、明治の中頃には漁業集落として形をなしていたといわれる。大正8年には、名護村漁業組合が組織され、地先海面の専用漁業権が設定された。そして昭和13年には名護町漁業協同組合になった。戦時中、軍供出のため、南方への出漁団が編成され、組合員40名近くが参加したこともある。昭和20年3月の空襲で集落は灰崖に帰してしまった。しかし、同年12月には戦後復興の中で名護水産会が設立され、翌21年5月に港区が新設されるに至った。ところで、昭和26年にザトウ鯨が捕獲され、捕獲漁業への熱が高まった。近海捕鯨漁業は昭和29~36年の間行なわれたが、同33~34年をピークにして衰退した。本土からの捕鯨企業との競合と乱狸がその原因であった。昭和47年頃から漁業の近代化も進み、クリ舟から5トン未満の小型船への切り替えが行なわれた。同47年からは名護漁港の整備事業が始まり、54年に完成した。その間、埋立地造成に伴い、区民の住宅地や公民館などが新しい埋立地に建てられ、現在に至っている(宮里尚:名護の捕鯨)。

戦後の人口の動向は、推移グラフに見るように、昭和35年には178世帯・906人であった。人口は、その後昭和46年まで、同41年の976人を最高に900人台を保っていた。同47年に大きく減少するが、翌48年には1,227人まで急増した(城区との組み替えによるか?)。これを最高に、その後減少するが、昭和54年の960人を最少として、以降徐々に増加してきている。その背景には、埋立て区域での住宅建築が進められたこともあり、昭和60年現在、1,079人を数える。25年前に比べて1.2倍に増えた。一方、世帯数は昭和46年までの10年間はほぼ同規模の180世帯で推移し、人口と同じく、同48年に277世帯に急増する。その後少しの変動を経て、昭和60年には277世帯を数える。25年前に比べて約100世帯の増(1.6倍)である。

港区の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者431名の内、第1次産業11%、第2次産業19影、第3次産業70%という構成で、第3次産業に従事する人が多い。この産業一就業椛成はここ10年大きく変化していない。

第3次産業では、卸小売業(49%)とサービス業(35%)が大半を占めている。第2次産業は建設業が多い。

港区は地内に名謹漁港を有し、名護市の水産業の中心となっている。昭和59年現在、名護市の漁狸量1,107トンのうち381トン(34%)を占める。漁業の種類は、小型定置網.一本釣り・刺網・はえ縄の順に漁獲量が多い。漁種別では、第1位がタイ(29%)で、カツオ・ミジュン・ベラ・ハタ・アイゴ. カジキマグロ・イルカ・グルクマ・アジの順となっている(資料:名謹市商工水産課)。なお、イルカについては第1章18節の「ヒートゥと名護」の項に詳しい。

伝統文化

拝所の祭祀

戦後、城から分区した新しい区で、港という名から想像がつくように、漁業を営むひとが多い。そのため、他の部落とは趣が違い、拝所や祭祁も漁業に関係が深い。

現在、公民館の側にある拝所は「龍宮」と呼ばれ、海の神が祀られている。区では、旧1月2日、5月4日、9月29日に大漁を祈願してそこを拝む。

その他、伝統的な年中行事には、旧5月4日のハーリー、7月のエイサー、10月の火の御願などがある。中でもハーリーは、漁業組合の主催行事ではあるが、区民あげて盛大に行なわれる。

芸能

戦後分区した当区には伝統的な芸能はない。分区した当時に村踊りをやったことがあるが、区民の生業などの関わりから続けることができなかった。

戦後、青年会を中心にエイサーを始めた。初めは瀬底のエイサーを習ったが、今は辺野古から習った太鼓を中心としたエイサーをやっている。旧7月13日から16日のうち3日間、部落のアジマー(四つ辻)でにぎやかに演じられる。

港の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

2.21 初興し(旧1.2)

3.14 役員会*あと3,5月に開催

4.21 部落総会

6.15 区民運動会

6.21 ハーリー(旧5.4) *漁協主催

8.28~30 エイサー(旧7.13~15)

*青年会主催

9.14、21 区全体清掃

11.11 大漁祈願祭(旧9.29) *漁協主催

11.23 火の御願

大兼久小年表

1882年 1月国頭地方役所が羽地間崎切親川村より移転。

1887年 11月名護兼久馬場を拡張し運動場設置。

1889年 6月県立病院名護分局をクムイに設置。

1898年 砂糖樽検査所設置。

1899年 4月一時閉鎖していた興業芝居を再開。

1901年 3月熱田川、昨年に続き氾濫する。

大兼久・城共同して大兼久大通りの両側に火災用貯水場を5カ所設ける。

1903年 4月附属員を廃止。

1906年 5月護佐喜宮御嶽を名護公園とすることを決める。

1908年 9月ブリ倉で名護座、新芝居を興行する。

1909年 8月行政区大兼久に復する。

9月暴風雨のため倒壊2軒、あなだ橋畔の大木倒れる。

1910年 1月新暦正月の風潮見られる。

1911年 2月山入端月懸、肥料26種の売買営業免許証を付与される。

9月字芝居を興行する。

1916年 6月名護兼久公園計画あり。

1917年 4月共同製糖工場組合起こる。

7月大袋耕地整理(25町歩)組合設立。8月工事着手。

8月湯比井原耕地整理(15町歩)工事着手。

12月大兼久共同製糖場操業開始(19年8月解散)。

1918年 8月港原海岸埋立て事業、村会の承認を得る。

1925年 7月あなだ橋改修工事。

1929年 3月護佐喜宮造営工瓢なる。

1939年 10月護佐喜宮10周年記念祭。記念事業として5年計画で名護公園一帯の整備を計画。

12月名謹校新校舎竣工落成式。

1941年 4月朝日新聞社主催第1回全国優良隣組表彰に、名誕町女学校通第1隣保班選ばれる。

1944年 2月大兼久を東・中・西・南・北の5行政区に分割。

1956年 4月大南区公民館落成。

6月お宮前通り改修。

11月あなだ橋改修工事竣工。

1960年 3月大北区簡易水道竣工。

1962年 3月大西区事務所落成(大西)。

1969年 1月大南区公民館落成。

1973年 3月上袋区画整理街路工事竣工(大東)。

1974年 3月大北区公民館落成。

1976年 4月やなぎ保育所開設。

5月下袋・上袋児童公園完成(大東)。

1977年 6月以上原土地区画整理事業、地主主体で進む(2ha,大東)。

1979年 4月県立農業大学校開校。

1980年 9月名謹市葬斎場完成(大西)。

1981年 4月大堂原第1地区土地区画整理事業完工(大中)。

1982年 8月大堂原第2地区土地区画整理事業、地主主体で着手(大中)。

8月市道宇座線開通。

1983年 3月柳公園完成。