豊里酒造所

豊里酒造所

名護市字宮里

当地は玉那覇実信さん(首里の人)が大正時代に字屋部から移転して玉那覇酒造所を戦時中までやっていた。赤瓦の家屋敷は400坪以上で周囲には豚を飼っていた。当時カラキー(蒸した米)を食べたことがある。砕米であった。屋部の上間豆腐屋の親父が玉那覇酒造所に働いていた。

昭和32年前後に豊里酒造所が設立された。経営者は豊里和子さん。玉那覇酒造所の敷地、建物をそっくり使用していた。銘柄の「豊和」は豊里和子から取った名前である。

販売は名護町から恩納村まで出荷していた。豊里さんは恩納村出身だった。一合、二合、三合七酌、一升の酒があった。酒造所はその後荻堂さん(港区のほうきや)に引継がれた後、2~3年で閉めた。(談 比嘉幸仁 字宮里)

名護やんばるの酒」より