久志のあゆみ・小年表

久志の小年表

1673年 久志間切創設の際間切番所を置く。

1674年 両総地頭尚経・顧思敬、観音菩薩を勧請し久志観音堂を創建する。

1687年 番所を瀬嵩に移す。

1895年7月 久辺小学校設置。

1904年4月 久志夜学会設立(翌年3月まで)。

1909年7月 字費(あざひ)により木橋を架設する。

1913年1月 茅ぶき3間方の拝所消失。焼失?

4月 県有林明治山を南明治山と改称。

1945年9月 久志市の市役所を置く。

1947年3月 伊江村民3200余人が元住地に移動する。

1955年7月 護岸工事竣工。

1958年 海岸の護岸堤建設。

1961年10月 水道工事完備。

10月 共同売店新築。

1971年5月 沖縄貝類標本館落成。

1979年8月 久志貝塚発掘調査。

1985年9月 久志体育館落成。

出典:「わがまちわがむら

久志のあゆみ

先史~古琉球の久志

久志で発見された最も古い遺跡は、西方の大川田原遺跡(約3500~3000年前)であるが、他の遺跡とのつながりは明らかでない。

集落の東寄り、旧家が集まる一帯は約1,500~700年前の久志貝塚(昭和54年発掘調査)があり、また、北東の丘陵上には久志若按司の居城と言い伝えられる上里グシク遺跡(約600~300年前)、そして当原には現集落に直接つながると伝えられる久志古島遺跡( 約600~300年前)がある。ウガミ(御獄)の西側、前田原の水田は、発掘調査の結果、今から約500年前に遡ることが分かった。久志貝塚から以降の遺跡は時期がほぼ連続し、その順に久志の集落が移動し、現在に至ったと考えられる。

久志は、「おもろさうし」にも「くしのまえかねく」と謡われている(巻13)。

近世の久志

このように久志は古い村であり、近世を経て現在まで一質して存在してきた。

17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」では「くし村」と見え、「由来記」(1713年)以降は、「久志村」と漢字が当てられる。「高究帳」による久志村の石高は122石余り(田118石余、畠4石余)で、田の比率がたいへん大きい村であった。

はじめ辺野古とともに金武間切に属したが、康熊12年(1673)名謹・金武間切から久志間切が分離・創設されたのに伴って久志間切に属し、1687年に瀬嵩に移されるまで、間切番所が置かれていた。康熊27年(1688)には、

両惣地頭の尚経(豊見城王子朝良)と顧思敬(久志親方助豊)が観音石像を請来し、当原に観音堂を創設した(球陽)。また、18世紀前半、久志には下江・中江・毛港の三津口があった(旧記)。

近現代の久志

近代の久志の人口を見ると、まず明治13年には戸数61、人口338人(内男179)を数えた。同36年には404人(内男221) で、この間に人口は1.2倍に増えている。また、同年の平民人口350人に対して士族人口は21人(6%)と、久志間切では辺野古とともに士族人口の少ない村であった。

小学校の設置はやや遅れて、明治28年(1895)村屋の一部に久志・辺野古を校区とする久辺(くべ)尋常小学校が設け・られた。翌年仮校舎が建てられたあと、同34年(1901)に現在の場所に新築移転された。

戦前の久志の産業と生活は、農業と山仕事が中心であった。農業は米と甘藷が主で、一部でキビも作られたが、現金収入は多く山仕事に求めた。薪炭は、山原船で主として与那原に運ばれた。旧藩時代は各村で共有船を持ち、こちらが運んでいたが、廃藩置県後は与那原の船が専ら海上運送を受け持つようになった。こうしたことで、久志と与那原等東海岸各地との関係は、旧藩時代以来たいそう緊密であった。その中で明治41年(1908)、柚山払い下げの代金をつくるため、久志・金武・国頭の各村が薪の価格を値上げしようとした。それで、与那原の問屋・運送業者との関係が悪化し鋭く対立し、1カ月余にわたって搬出が停止した。当時、薪は現代の石油・電気・ガスに相当する燃料源であり、那捌や首里の町の生活者にとっても重要問題で、社会問題として騒がれた(戦前新聞集成1)。

大正2年から、辺野古・大浦と共に久志の福地原にも明治山記念造林が実施され、久志の区域は南明治山と称された(戦前新聞集成2)。

昭和17年、久志の東原、辺野古の前の上原を割いて成立した行政区豊原は、同26年地籍字として分離した。

大浦崎収容所跡地に、昭和32年米軍マリン隊キャンプ(現キャンプシュワーブ)の建設工事が着手されるに伴い、各地から多くの人々が流入した。それに対応すべく、同年暮に久志都市計画事業を決定し、大道原・大川田原・福地原の区域約11haに1万5,000ドルの資金を投じて区画整理事業が実施された。数年間は30軒ほどのレストランやバー・商店が立ち並んだ。現在この区域は「新部落」として、主に久志の分家住宅地区となっている。

出典「わがまちわがむら