瀬嵩の御嶽・拝所

瀬嵩の御嶽・拝所

ムラの拝み泉(1月3日カーウガミには、以下の順番で拝んでまわる)

  • タキガー :御嶽の下にあった湧水。ムラで最初のカーといわれ、かつてはそばに溝田があった。コンクリート枠のみ残る。
  • ウミングヮのカー:浜にあったというが、その存在の有無も不明。カーウガミのリストに入っている。
  • 番所ガー(ばんじょガー)久志間切番所にあった掘り抜き井戸。豆腐作りによい水といわれ、そのときはもらい水をした。もともとはウガミガー(拝み井)ではなかったが、いつからか拝むようになったという。しかし、現在は、まったく使われていない。
  • メーガー :集落西にある。タキガーに次いで使われた。現在はコンクリートの枠のみ。
  • ウブガー:かつての学校敷地、現在はその西隣にコンクリート枠のみ。産水、初水や、ハシカから治った時、生まれ変わったということで、この水を額につけた。
  • 泉ガー :グシク山の裾部の湧水。今も湧いている。ムラに簡易水道ができるまでは、ここが飲料水の水源だった。
  • ノロガー(ヌルガー) :学校敷地にあったものが、現在はコンクリート枠だけが根神屋の後ろに移設されている。(ヌルガーには、汀間のヌルがヌル争いに負けて汀間に居られず、瀬嵩の根神屋の近くに住み、掘った井戸との伝承がある。)
  • クガニムイのカー:かつて小さな川があったというが、現在はない。
  • マチンジャーのカー:マツンギャマタにあったという湧水

◆12月8日の魔除け御願で、集落東西の入口(東の瀬嵩橋、西のクィリジョーグチ)に縄を張り、それに動物の骨などを刺した。

瀬嵩御宮(せだけおみや・シダキウタキ)

現在は「お宮」とよばれ、拝殿・神殿があるが、神名は不明。かつては香炉があるだけで、森全体が「ウタキ」と呼ばれていた。大湊嶽ともいい、戦前は汀間ノロ管轄の大浦・汀間・安部の神女が1月元旦のハツウガンをおこなった。かつてはハツウガンと九月九日の神山の掃除以外には立入りが禁じられ、掃除が終わると、家ごとに十尋(ひろ)の左縄を出し、御嶽の前に幾重にも張り渡した。

瀬嵩御宮がどの様に発祥の経路をたどったかは定かではなく、察温の森林政策の遺物ではないかとの説もあるが、それ以前に何かのかたちで原始的崇拝の根源があったのではとないか思われる。改築1974年(昭和49)11月24日。

根神殿内(ニガミドンチ)

根神屋(ねがみや)とも呼ばれる。根神(ニーガン)とは、村落の最も古い家(根屋・ニーヤ)から出た姉妹(殆どが長女)のことで、オナリ神として村落を守護し、祭祀を取り仕切りった。その為、他の家々より上位にあるのがふつうで、村落の祭祀場になる神アサギの近い場所に置かれた。瀬嵩でもこの屋敷の前に、かつてはカヤ葺き4本柱の神アサギがあったという。

一月一日のハツウガンはここから始まり、以下六つの拝所(あわせて七つ)をこの順にまわる。これらの拝所をまわる行事はこのほか、四月二十日前後のアブシバレー、五月二十五日(五月十五日とも)ヤマジミウイミ、六月二十五日ミーグミウガンと海のウガン、八月十日アラムトゥ(この日に神女の新任式が二十年前までおこなわれた。以上の四つの行事には汀間ノロが参加した)、八月十五日ウシデーク、十二月八日ウニムーチー(各七つの拝所にムーチーを供え、魔よけの御願をした)である。

根神殿内の発祥も漠然としていているが琉球各地の旧部落には名称こそ違え共通の拝所がある。古老の話によると鎮守の神(瀬寓御宮)と根神殿内とはチクサイであると言う。チクサイとは「つながり・関連・親族等の類(タグイ)」の意味ではないだろうか。

東り屋敷(アガリヤシキ)

「東り殿内」ともよばれ、瀬嵩の最初の家といい、かつてはノロ殿内、根神屋だったとする伝承もある。屋敷地の一角にガジュマルの老木があり、そこにはかつてはアサギがあったとも聞く。(根神が屋号シリーに嫁いだときに、シリーの隣、現在の根神屋の前にアサギを移したともいう)。

7月16日の村踊りの前に必ずこのガジュマルの前で3曲を踊る。8月15日のウシデークの前には、必ずここを拝む。

土地の所有が部落有地か個人有地かはっきりしないため、保存修復の面で支障をきたしているようである。

金丸殿内(カニマンドゥンチ)

金丸(尚円王)のゆかりの地と言われている。戦前は2間四方程の赤瓦葺きの古い建物があったが戦災で焼滅した。当時の位牌には、金丸、国頭親方の他 4・5 名の名前あった。戦前は正月三日に川参御願(カワウガン)が盛大に行われていた。

国頭親方が何故に瀬嵩の拝所に祭られているかは、不明。

金丸が伊是名島を追われ、国頭の奥聞に辿り着き奥間鍛冶屋に助けられたあと、汀間・瀬嵩に落ち着き、 二男一女をもうけたという伝説があり、汀間に長男が、瀬嵩に次男が住んだとも聞く。現在の瀬嵩の大城門中は、その末裔といわれている。金丸は、その後首里に上り王位についた。そして、自分を助けた奥間鍛冶屋を首里に呼び寄せ国頭家初代の国頭親方にしたと伝えられる。瀬嵩の金丸殿内に、国頭親方が祭られていたことは、それと関わりがあると思われる。

8月15日ウシデーク、11月キリシタンのときに拝む。かつては1月3日にここで、子どもが生れない男をアダンでつくった馬に乗せ、ムラ中をひきまわした。

御産子(ウミングヮ)

集落から東浜(あがりはま)に続く、「お宮」の森の下にある竜宮神への拝所(お通し所)。4月のアブシバレーでは、ここを拝んだあと東浜から虫を流す。

高山城の按司が家臣の大浦大主の謀反によって討ち滅ぼされるが、のちに高山按司の忠臣によって仇討ちされるが、残された大浦大主の二人の子どもは現在の御産子まで逃れるがあえなく殺されてしまう。幼い兄妹を哀れに思った部落の人々が弔い、現在でも拝所として拝まれている。

黄金森(クガニムイ)

集落の背後東側の森。台風などからムラや耕地を守ってくれるという。かつて、一続きの高山グシクの森とともにウカミヤマとよばれ、年1回、9月9日以外は木も草も採ることを禁じられた。森の前にお通しの拝所が戦前からつくられた。また、前には20坪ほどのフミーダ(神田)もあった。

高山城(たかやまグシク)マチンジャー、マツンギャマタ

マツンギャマタともいう。集落の東側の山のふもとにある、集落の発祥の地と伝えられる場所、洞穴の中に祖先の骨といわれる人骨もあったようだ。かつてはムラの人々が重箱にご馳走をつくって供え、拝んでいたが、現在はゴルフ場用地となって切り崩されている。

地理・地形的に考えると、第一尚氏あるいはそれ以前の城と思われる。館(やかた)のような所であったのではないかと考えられる。

現在は高山城(グシク)という拝所であり、御産子(ウミングヮ) とともに組踊「高山敵討」の舞台として知られている。

カンサ(ハンサ)

カンサはお墓のこと。

瀬嵩のカンサは大昔の風葬の場であり、戦前はその周辺の畑からたくさんの人骨が出てきたと伝えられるため、かなり広い範囲の風葬地であったと思われる。

鬱蒼とした大木に囲まれた広場には古風なお墓があり、周囲の畑から出た人骨を収納してる。

戦前は、7月7日にここで拝んだあと、村踊りの練習は必ずこのお墓の前で行われたという。踊りの神とされる歴史上の人物、瀬嵩カマド小がここに祀られているためとされているが、なぜここに祀られているかは不明。