屋部の文化遺産

久護の部落のほぼ中央に、福木に囲まれた広い屋敷を持つ家がある。そこが屋部ウェーキと呼ばれる久護家である。昭和48年3月、近代の地方豪農の形式をよく備えているということで、県指定の文化財となった。明治39年に建造された母屋を初め、ひんぷん・井戸・福木囲いも同時に指定を受けた。また、母屋建造の際に記された「本家新築之時日記」(明治38年)や「仲屋普請之時諸事日記帳」(明治15年)も指定を受けた(名護市の文化財第2集)。約700坪の屋敷内には、推定樹齢70年のクルチや樹高9m、推定樹齢60年のタイサンポクなどの名木もある(名護市の名木)。

屋部小学校には、名護市でも一番古いと言われる推定樹齢90年のデイゴが2本並んで立つ。今でも若夏の頃に真っ赤な花をつけ、市の天然記念物に指定されている。その他校内にはシマシラキやサキシマハマポウなどの名木もある(名護市の名木)。

村踊りの感んな屋部は、毎年旧8月に八月踊りをやる。部落で最も大きい行事で、本番は3日間であるが、練習期間から反省会までの約1カ月間は祭りの雰囲気が続く。その八月踊りの全日程が昭和63年1月に県の無形民俗文化財に指定された。

市内の古い碑の一つに久護家の墓碑がある。1757年(乾隆22)の建立で、基の建造やその墓に入るべき人のことが刻まれている。大兼久屋(プーガンクヤー)の墓にも墓碑が建つ。明治12年に建てられたもので、それには、久米村から風水見(フンシーミー)を呼んで墓の場所を選んでもらったとある。渡波屋には、渡波屋建堂記念碑や渡波屋讃歌碑、そして平和之塔が建つ。ハワイへ移民した比嘉徳元氏の多額の寄付によって、昭和35年に渡波屋が整備され、それらの碑はその時に建てられた。建堂記念碑には「つながれる御縁 何時までん結で 変わるなよ村人 年や経てん」と徳元氏の歌が刻まれている(名護碑文記)。

地域史料として、久護家には文化財の指定を受けた2点の他に「元祖歴代日記」(昭和5年写)、「アソウ原御指令済日帳簿」(明治18年)など11点の重要な史料が伝存する。その他、川之端の「墓所仕立之時諸事日記」(明治6年)、耕作屋の「拝神耕作一門中日記」(明治26年)なども注目される。また、荼毘帳も6点確認されている。

出典:「わがまちわがむら

屋部に伝わる伝承話

屋部のイルカ