大東

大東区[おおひがし・く]

大東区の現況

世帯数:964世帯 人口3,287人 面積8.07k㎡

大東区は、単に東区とも呼ばれる。昭和19年に大兼久は、大東・大中・大西・大南・大北の5区に分割され、大東区も成立した。大東区の「大」は大兼久の「大」をとったものである。地籍は、未分離のままである。

大東区の行政区域は、小字熱田原・以上原・下袋原・上袋原・獄ノ後原・雨志川原・城原・内原の全体と、小字樹原・幸地原・大兼久原のそれぞれの一部から構成される。

大東は、名護十字路から県立名護病院の前を通る本部循環線(県道71号線)と、名護大通り(大兼久馬場跡)、それに幸地川を結ぶ範囲にある。ナングスク(名護城)の麓に広がる下袋原と上袋原は、かつての水田地帯で、昭和45年以降急速に住宅が建ち、大兼久原の旧集落と連続して市街地を形成している。

今次大戦で焼失した名護大通りの商店街は戦後復興し、通りに面して衣料品店や薬局.菓子店などの商店や銀行などが立ち並び、近年アーケード街ができている。

第1区画整理地区(上袋原・下袋原)の区画整理事業は、名護町時代に計画・着手された。名護市誕生以後も本格的な都市計画事業として、街路・排水路・都市下水路の諸工事が年度をおって進められ、現在の住宅地が形成された。また、昭和52年には地主主体で以上原土地区画整理組合が設立され、2ha規模で事業が実施された。

東江中学校は、昭和52年に名護中学校を分離し、また瀬喜田中学校を統合して、上袋原に新築・開校した。東江中学校の校区は、東江小学校と瀬喜田小学校の校区である。

主な施設に、県立名護青年の家(昭和41年開設)・東江中学校(同52年新設開校)・東江学校給食センター・県税事務所・名護社会保険事務所・大東警察官派出所・上袋児童公園(同51年)・下袋児童公園(同51年)・NTT名護電報電話局・琉球銀行名護支店・照屋医院・幸地医院・名嘉真医院・名護小児科医院・真喜屋歯科・名嘉真歯科・岸本歯科・山里歯科・正和歯科・あすなる保育園・ホテル名護城・ホテル山田荘・ホテル東和・ホテル厚養館・ホテルおおさか。日南ホテル・出雲殿・名護そば(新山)・名護囲碁会館・名護料理学院・名護相撲場などがある。

大東区は、中心市街地に隣接する地域として、主に住宅地として発展してきた。戦後の人口の動向は、推移グラフに見るように、ずっと増加してきている。昭和35年には、319世帯・1,618人を数えた。その後、人口は昭和47年頃まで毎年50人程増えてきた。この時期、上袋原・下袋原で都市計画の区画整理事業が実施され、住宅地化と人口増加に拍車がかかった。昭和60年現在3,287人に達している。その結果、25年前に比べて2倍に増えた。名護地区では、宮里・大北についで第3位の人口規模をもつ。世帯数もずっと増え続け、現在964世帯を数える。25年前に比べて3倍の増加である。

大東区の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると、就業者1,544名の内、第1次産業3%、第2次産業20%、第3次産業77%という構成で、第3次産業に従事する人が4分の3を占めている。ここ15年の間に就業者は2.3倍に増えたが、産業-就業者構成は変わっていない。

最も多い第3次産業では、サービス業(42%)・卸小売業(38%)が全体の8割を構成し、運輸通信業(9%)がそれに次ぐ。第2次産業では建設業(54%)・製造業(45%)ともに多い。

市街地域のため、農業はごく僅かを占めるにすぎない。経営耕地は全体で4.4ha、作物はキビが中心だが、近年野菜類・施設園芸がやや伸びている。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御嶽として、「由来記」(1713年)の名護村の項にテンツギノ獄(神名イベヅカサ)が記される。また、神アシアゲもあり、祭祀は名護ノロが司った。当時の月々の祭祀は大中区の「由来記」記事に見る通りである。

昭和19年、旧大兼久が分区してできた大東区であるが、拝所や祭祀は大中・大西・大南・大北と共にする。区では、旧1月の初拝みに具志川屋、イケラガー、そして名護城を拝む。旧8月10日の護佐喜宮例祭には大中区にある護佐喜宮を拝み、11月の火の御願には具志川屋、イケラガー、ひんぷんガジマルの根元の拝所などを拝む。

芸能

芸能は、旧大兼久であった大中・大西・大南・大北と合同で行なわれる護佐喜宮例祭の時に踊りが見られる。詳しくは大中区の項を参照。

文化遺産

名護市のシンボルである名木ヒンプンガジマルは、旧大兼久村、現在の行政区では大東区に位置している。かつての大兼久馬場の東の端にこのガジマルが、西の端にはクワディーサーの大木があった。このヒンプンガジマルは沖縄を代表する樹木との評価も高い(昭和31年10月19日県の天然記念物に指定)。樹高19m・樹冠面積600㎡・推定樹齢240年という堂々たる名木である(名護市の名木)。

ヒンプンガジマルと呼ばれるいわれは、側に建つ「三府龍詠碑記」(1750年)をヒンプンシー(碑文石)といい、それに関連づけてとも、また、この碑が屋敷の門に立てる塀であるヒンプンに似ていることにちなむともいわれる(宮城盛雄:『名護人の雑記帳』)。あるいは、名護の入り口に立つ、その位置からそのように呼ぶともいう。歴史的な老樹と碑が同じ所にたっているわけで、その「三府龍脉碑記」は、戦前は今の場所からやや西に建てられていた。戦争で破壊されたが(約3分の1は名護博物館で保管)、昭和37年に現在地に再建された。碑文は、当時法司と国師を兼任する蔡温が乾隆14年(1749)に起草し、翌年碑が建立された。内容は、王府内部で論議があった(と考えられる)、国都を名護に移す意見(遷都論)と、屋部と古我知の間に水路を通す案(水路開削論)を、蔡温が龍詠の風水を根拠に押えたということを記している(仲原弘哲:名護碑文記)。

ヒンプンガジマルから東に約50m行った幸地川の側に、デイゴの大木が二本生えている。市街地では数少ないデイゴの老樹である。推定樹齢70~90年という(津雌安喜:名護市の名木)。その近くの宮城家のビーム(クワノハエノキ)も、この種では市内で最も古く、推定樹齢160年を数える老樹である。

照屋医院の入口に、戦争文学の作家として知られた火野葦平の詩碑がある(1954年建立)。火野が名護を訪れたおり、先代の照屋規太郎氏と意気投合し、請われるままに名護の町を詠んだ詩を書き残した。名護には数少ない詩碑のひとつである(比嘉道子:名護碑文記)。

大東の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.3 新年宴会

生年祝

▲ 旧2月彼岸祭

3.13 代議員会 *本年あと5(2)、6、12月に開催

4.13 清明祭(旧2.24)

4. 幼児園入園式

5.26 第8回区民運動会(5月第4日曜日)

6. ▲ アブシバレー( 旧4月)

7. ▲ ウマチー( 旧5.15) * 昭和38年迄区で、現在は各戸で

8.29、31 盆踊り(旧7.14、16)

▲旧8月米寿合同祝*昭和45年頃迄実施

9.22~24 護佐喜宮例祭(旧8.8~10) *大中区で

9. 観月会

12.1 火の御願、火災防止祈願

12.18 成人会懇談会