屋部のあゆみ・小年表

屋部区小年表

1879年9月 久護の岸本久光、新政府より改めて地頭代職を仰せつけられる。

11月 明治政府・県に反抗する岸本久光ら国頭地方の地頭代、羽地間切番所に監禁され、拷問により服従を誓わされる。

この頃、上原や福地原に屋取が形成される。

1883年10月 久護家に対し農民ら阿楚原仕明地の解放を要求、土地紛争事件起こる。

1887年 不作で救荒用のソテツがことごとく伐採される。

1899年5月 地割替えに着手、翌年3月に終了。

1916年8月 屋部耕地整理組合結成。

1917年2月 同事業完了。

1918年8月 屋部共同製糖組合結成。分蜜糖工場を建設するが翌年12月倒産。

1920年 久護家の小作人、小作料値上げを理由に多く逃散する。

1931年4月 屋部に郵便局取扱所開設。

1932年7月 町会議員選挙で幽翌投票。

1935年6月 屋部焼打ち事件(癩問題)

1936年4月 郵便局取扱所、屋部郵便局に昇格。

1938年4月 屋部川水門工事竣工。

4月 屋部寺改築。渡波屋公園工事着手。

1940年11月 屋部小学校敷地拡張で埋立。

1943年 山間部の屋取、中山・旭川が行政区となる。

1944年10月 10.10空襲で被害。

1945年4月 海岸から米軍上陸。住民は田井等収容所に収容される。10月末帰還が許可される。

1948年4月 兼久原に屋部中学校創立。

1960年 渡波屋に平和の塔を建立。

この頃水田がサトウキビ畑に変わる。

1973年3月 久護家、県の有形文化財に指定される。

6月 屋部小学校のデイゴ、市の天然記念物に指定される。

1982年3月 モーテル建設反対運動起こる

5月 屋部児童公園完成。

出典:「わがまちわがむら

屋部区のあゆみ

先史~古琉球の屋部

屋部の集落の後方に、沖縄貝塚時代後期の遺跡である屋部貝塚があるが、その範囲はまだ確認されていない。昭和61年、前田原のミヤートゥヤーで、キビ畑の更新中に、グスク時代の土器が拾われ、確認調査したところ沖縄貝塚時代後期からグスク時代の遺跡であることが分かった。前田原貝塚と名付けられた。集落の東、東屋部川を渡った所には、屋部・宇茂佐の故地である古島があり、グスク時代から近世の遺物が採集されている(名護市の遺跡2)。伝承では、そこに住んでいた7軒のうち6軒が屋部に、1軒が宇茂佐に移ったという。

近世の屋部

近世の屋部は、名護間切に属し、「絵図郷村帳」と「高究帳」には、「やふ村」と見え、「由来記」(1713年)には「屋部村」とある。「おもろさうし」には「やぶ」と見える。「高究帳」に見る石高は42石余り(うち田32石余、畠9石余)で、小規模であった。また、当時の名護間切では畠の比率が高い村であった。「球陽」附巻2尚貞王31年(1696)に、「凌雲和尚、屋部邑に於いて雨を祈りて験有り」という記事がある。それによると、竜福寺の住職を辞めた凌雲和尚が屋部邑に草庵を結び、大旱魃の時に雨乞いをして雨を降らせ、また、屋部は火災の多い所であったので、経を念じてそれを鎮めたともある。その和尚の話は今でも屋部の人たちに伝えられ、その寺も区民の大切な心のよりどころとしている。

名護間切でウェーキと呼ばれた家の一つに、屋部ウェーキがある。そこの所有していた土地は、屋敷地1,500坪・仕明地4万8,000坪で、喜瀬の七かや田をはじめ他村の土地も所有していた程であった。その富を築いたのは三代目の喜瀬御主前と呼ばれた人であった(名護六百年史)。屋部ウェーキの墓には、1757年(乾隆22)に建てられた墓碑があり、基は1755年に造られたと刻まれる。

明治12年の廃藩置県にともない、士族が山原の各地に移住し、屋取集落を形成した。その頃に屋部の上原にも屋取が形成された。

明治12年、名誰間切の地頭代だった屋部ウェーキの岸本久光は、羽地や今帰仁間切の地頭代と共に明治政府や県に反抗し、羽地番所に監禁され拷問を受けた。それを聞いた屋部の村人は、150人の百姓一揆を起こし、地頭代奪還のため羽地に向かった。一揆は途中、地頭代と義兄弟にあたる中城村東江殿内の山入端親雲上の説得によって鎮められたが、地頭代は拘留中に受けた拷問による傷がもとで、翌年亡くなっている(名護六百年史)。

明治16年、屋部に再び百姓一接が起こった。今度は村人が屋部ウェーキに対し、阿楚原仕明地の解放を求める一接であった。その時、一揆が屋敷に乱入したことに腹を立てた屋部ウェーキの当主は裁判に訴えた。結果、阿楚原はそのまま屋部ウェーキのものとなり、屋敷地の内600坪が解放された(名護六百年史)。

近世の頃、村には「地船」という、村の所有する船があった。1813年(嘉慶18)、「かさすけな津」を出帆した屋部村の地船が、翌日北谷の沖で遭難している。その船には屋部村脇文子儀部仁屋などが乗船していたという。「かさすけな津」とは、山入端の潮平川原の前のアサシキナと呼ばれる海岸であろう。

旧琉球藩雑記に記された名護浮得税一覧に、「塩屋二敷」とあるが、それは屋部村の石根付近で照屋某なる者が、製塩に従事していたものだという(名護六百年史)。その場所は、渡波屋(とわや)の下あたりで、今でこそ埋め立てられたが、以前そこは二つの川が合流し、海に注ぐ河口のふところに位置し、満潮時には潮がさした。そこはパジャーとも呼ばれ、石で囲って魚を捕る場所でもあった。

近現代の屋部

屋部の近代の人口を見ると、まず明治13年には戸数263、人口1,426人(内男758)を数える。この年、名護間切13ヵ村の中で人口第1位である。また、他の村と比べて、女に対し男が90人も多いが、理由は明らかではない。同36年には1,851人(内男928)で、この間人口は1.3倍に増えている。この年、屋部は名護間切11ヵ村で名護(元の東江・城・大兼久)に次いで第2位の人口規模である。また、同年の平民人口1,407人に対し、士族人口は400人(22%)で、名護間切ではやや士族人口の割合が高い村であった。

明治32年に施行された土地整理法により、屋部でも地割替が行なわれ、翌33年の3月に終了した。しかし、その決算報告の際、地割替の世話役に当たった2、3名が私腹を肥やしていたことがわかり、村人は大いに憤慨して、不法を訴える運動の準備をしていると、当時の新聞は報道している(戦前新聞集成1)。

明治20年に創立した屋部小学校は同41年に高等科を設置した。その後、校舎新築の予算もついたが、新築延期の要求が出され、そのために名護村の有志大会を開くまでに至った。学校区である宇茂佐・屋部・山入端・安和の有志は、新築を主張したが、他村の有志は新築延期を主張した。そのような経過をたどって、新築落成を見たのは、翌45年6月5日であった(戦前新聞集成2)。

大正2年の朝武士郡長の砂糖増産5カ年計画、同4年の大味知事の産業10年計画などの影響で糖業熱が高まり、キビ栽培のための耕地整理が流行した。宇茂佐に次いで屋部でも大正5年に耕地整理組合が設立された。一方で、区で分蜜工場を持とうということになり、大正7年8月に組合を設立した。しかし、その工場は建物こそ完成したものの、機械の欠陥で一度も製品を作ることなく、同年12月に組合は解散した(名護六百年史)。

大正13年に名護は町制を施行し、名護村から名護町となった。その年に名護・本部の両村が協同して本部半島海岸線道路の工事に取りかかった。工事は各地区の分担で進められ、半島一周線の開通を見たのは10年後の昭和8年であった。その年は町制施行10周年でもあった。

その一年前、昭和7年には町会議員の選挙が行なわれているが、幽霊票が多く混じっていることが分かり、選挙は遣り直しとなった。調べた結果、区長をはじめとする屋部の有権者数人が二度も三度も投票していることがわかった(戦前新聞集成2)。

水稲の新種台中65号が導入され、県下でその成果に驚いている頃、屋部川沿いの耕地でも潅概施設が整備され、志味屋原・宇茂佐原は水田地帯となった。昭和13年、その広い水田地帯を潮害から守るために、東屋部川河口に水門が建設された。

戦時体制もいよいよ高まってきた昭和18年、屋部・山入端に属していた旭川が、また屋部・宇茂佐・山入端・宮里の一部を分けて中山が行政区として独立した。その年の1月の新聞には、軍人援護模範校として屋部国民学校のことが紹介されている。

昭和20年、区民は、屋部や宇茂佐の海岸から上陸した米軍に、早々と捕えられ、田井等収容所に収容された。帰還が許されたのは同年の11月であった。

翌21年、屋部を中心とした西方の7区が、屋部村として独立した。名護町は人口が多く、屋部は行政運営上不利であるし、都市地区と農村地区は利害相反することなどを理由に純農村を宣言しての独立であった。昭和45年には、再び合併し現在に至っている。

昭和23年、六・三・三の学校制度が施行され、屋部村でも中等学校の新設がなった。4月8日、初等学校の校庭で盛大に開校式を行ない、工事が完了し、現在地に移転したのはその2カ月後であった。

出典:「わがまちわがむら