恩河親雲上

恩河親雲上(おんがべーちん)

明治期に名護・久志一帯で冠船芸能を指導したとされる人物。若い頃、御冠船踊りに出演したと伝えられ、その後王府末期に久志間切を経て名護間切幸喜に移住し、村人に御冠船踊りを伝授したと伝えられる。現在、幸喜に残る村踊りの演目の多くは彼が伝授したものである。特に女踊り「柳」は格調の高い踊りで、同区が最も誇りとする演目である。幸喜に残る組踊「西南敵討」や喜瀬に伝承されている「糸納の按司」は彼の創作と推定される。(宜保榮治郎)

恩河親雲上のこと

「御冠船踊り」を幸喜に伝えたのは恩河親雲上である、と区誌『幸喜部落の歩み』は記載している。その記録によれば、恩河親雲上は寅歳の御冠船(1866年・尚泰王)に出演した首里の士族で、読谷山御殿(朝慶)とともに薩摩の「年頭踊り」(新年祝賀)にも参加したと伝えられる。廃藩置県で職を失い、縁者を頼って幸喜や久志の大浦に住み、踊りを教えたようである。学校所(村学校。寺小屋) の教師でもあったのであろう。生没年については不詳である。

彼が幸喜に伝えた芸能は『幸喜部落の歩み』によると次のとおりである。

①「長者の大主」、②「辺野喜節」、③「四つ竹」、④「道ズネー(浮島節)、⑤「下原節(スンバレー)、⑥「江佐節」、⑦「与那節」、③「天登り」、⑨ 「坂原口説」、⑩「花風節」、⑪「シュンドウ(醜童)」、⑫「コテイ節」、⑬「金武節(恩納節)」、⑭「四季口説」、⑮「組踊 八重瀬の万才(波平大主)」、⑯「柳」、⑰「組踊 久志の万才」、⑱「組踊 伏山の万才」、⑲「上り口説」、⑳「下り口説」、㉑「組踊 一岳平良の万才」、㉒「揚作田」。

なお、このムラは新しい芸能を取り入れることに意欲的で、以下のことが伝えられている。

①金城三良が首里の人より「東里節」を習う。

②幸喜盛善が首里寒水川芝居から「竹富節」を習う。

③那覇泊出身の仲本某から組踊「護佐丸敵討」「久志の若按司」「義臣物語」を習う。

出典:「芸能