汀間の山のくらし

汀間の山と暮らし

汀間ムラの暮らしとティマダ川は切り離すことができない。それは、河口から川をさかのぼって細かく地名がつけられていることにもうかがわれる。下流地域は水田を擁し、上流の川沿いにも畑があり、子供たちが泳げるクムイがたくさんあった。さらにさかのぼって、山のマタマタからは薪木をとった。

さかのぼっていく川沿いの小地名には次のものがある。ジュンナギ、アンジュグムイ(瀬嵩側から合流する流れが滝になり、その下にできたクムイ。大きなエビがいた)、ピラタキ、トーヌクヮー(山の名前)、ウプマキ、トゥンゲシキ(いずれも川沿いの畑)、クスヌキシキ、アガリマタグヮー(川の支流が流れる、汀間の字有林と村有林との境。竹を植えてあった)、チャーギジャフ(アガリマタグヮーの字有地側。チャーギの植林育成地があった)、アガリマタアジマー、ウードゥヤー(山の名前。羽地へのシジ道が通る)、トゥーカジャフ、ウプギター、キシンチャ、ウリガニマタなど。

猪垣はムラに近いところにも、遠く山の中にもあったという。山の中では大浦~瀬嵩~汀間~三原~天仁屋まで続いていたというが、その一部だけが確認される。ムラに近いところでは、汀間川対岸のハデールの山裾とティマダ川流域の東側斜面で猪垣が確認された。いずれも斜面を切ってサンゴ平石をムラ側から斜めに差している。

このほか、瀬嵩ムラの範囲の山中の開墾集落であるイシブトゥカーへも、汀間ムラからの道があった。

現在ウンバハリに住むTさん(大正元年生まれ)はイシブトゥカーに暮らしたひとりである。イシブトゥカーで物心ついたときには五軒しかなかったが、その以前にはもっと多くの家があったという、区長のような役職の人もいて、彼は猪撃ちの鉄砲の許可証をもち、使用人も抱えていた。イシブトゥカーから汀間や瀬嵩のムラまで山道を二時間もかかったので、瀬嵩の小学校に一年半しか通えなかった。

当時、山の斜面につくられた家々が点在し、それぞれ周囲の段畑にイモや麦をつくり、牛、豚、山羊、鶏を飼い、どの家の前にも百坪ほどのウー(糸芭蕉)畑があり、桑の木が植えられ、女たちがそれで織物をした。

Tさんの父は底仁屋の人で、若い頃までは藍づくりがよい収入になったようだ。現在もイシブトゥカーには原形をとどめる藍壷跡が、確認できただけでも三組(大壷一基、玉壺一基が二組と大壺一基、玉壺二基が一組の計七基)残っている。藍づくりのための水は、青竹を割った樋で湧水をひいて利用した。化学染料の普及とともに藍が売れなくなったため、櫛の歯が抜けるように次々と山を下りていった。下りた先は、山を越えた羽地や名護のキチルバル、汀間、三原のシネーガチなどである。