宮里

宮里区[みやざと・く]

宮里区の現況

世帯数:1,437世帯 人口:5,029人 面積1.491k㎡

宮里は方言でナーザトゥ、あるいはミャーザトゥと呼ばれ、ナーザトゥはナトゥ(湊)が転訛したと解されている。名護の市街地西部に位置し、南は名護湾に面する。北側のシミャー(志味屋原)一帯から屋部の方に向けて東屋部川が西流し、中流地域には沖積地が広がっている。南の方は、埋立てられるまで海浜があり、憩いの場所でもあった。埋立て地では、21世紀の森公園として、野球場・ラグビー場・野外ステージや市民会館をはじめ、運動・文化公園として整備が進んだ。南に国道58号線、北の方を伊差川に向け国道58号線の名護バイパスが通る。

集落は、カニク(兼久原)・アガリカニク(東兼久)・クシガニク(後兼久)に発達し、整然とした碁盤目状の土地割がなされ、大規模な集落を形成し市街地と連続している。市街地化しているが、アサギや根神屋などの拝所のあるところはフルジマ(古島)、その東側はミージマ(新島)と伝統的な呼び方がされる。名座喜原や比留木原の周辺部に住宅が急速に発達している。

主な施設に、名護地方合同庁舎・裁判所庁舎・名護測候所・名護パスターミナル・市営住宅宮里団地・大宮小学校・大宮幼稚園・北里保育所・大宮保育園・みのりの里保育園・名護厚生園・名護宮里郵便局・沖縄銀行大宮支店・北部森林組合・名護市営球場・大宮児童公園・みやさと名座喜原公園・名護農協宮里出張所・名護自動車学校・南西食品第一工場・日本たばこ産業沖縄支社北部指導連絡所・大宮医院・役所前歯科。、新垣耳鼻咽喉科などがある。

宮里のあゆみ

先史~古琉球の宮里

宮里の字座原と為又の大又原にまたがった宮里古島遺跡がある。古琉球から近世にかけての遺跡である。丘陵地の南側に古湊御嶽があり、中国製の青磁(15~16世紀)や沖縄製陶器が採集されている。丘陵の北側は、宮里古島と呼ばれる。付近には、拝泉が3カ所ある(名護市の遺跡2)。

宮里の始祖は、ナングスク(名護城)から16世紀初頭宇座原の古湊に移り住み、その後クシガニク(後兼久原)に移動。さらに現在地に移って来たという(名護六百年史)。

近世の宮里

近世の富里は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」に「宮里」と記され、「高究帳」による石高は73石余り(田71石余で永代荒地27石を含む、畠は1石余)で、水田の多い村であったことが知れる。

近現代の宮里

近代の宮里の人口を見ると、まず明治13年には戸数113、人口623人(内男333)を数える。同36年には821人(内男396)で、この間に人口は1.3倍に増えている。また、同年の平民人口601人に対して士族人口210人(25.9%)で、名護間切ではやや士族人口比率が高い村であった。

宮里の為又に廃藩置県後寄留した士族が住み、宮里と数久田は頑固連の巣窟とも呼ばれる土地柄であった。その頑固さは、明治31年頃にもみられ、尚典が散髪の御装束で帰郷したことを知り、それで初めて散髪をすることになった。断髪を嫌って退校したり、欠席したりする者も多かったという(戦前新聞集成1)。

名座喜原は、地味が劣等で潅慨・排水がうまくいかず、耕地としてよくない土地であった。他の村に属する仕明地であったが、後に宮里の人の所有地になった。

明治40年の村踊りは、不経済という理由で廃止された。そのためか遊び怠ける者が多く、廃止後は不景気となった。それは躍り神の祟りであるので復興して神を奉るようにと、村民協議の上村踊りを催すことになった。旧慣例によって素人芝居が行なわれており、明治41年までは形式的にやっていたが、翌年からは舞台を新設して景気よくやった(前掲書)。

大正5年に「志味屋耕地整理組合」が設立され、28町歩余りで耕地整理が実施された。同年宮里・字茂佐・屋部にまたがる60町歩余りの耕地整理にも着手され、水門の工事がなされた(戦前新聞集成2)。また、昭和12年にも屋部川の水門工事が行なわれた(名護六百年史)。翌6年には、湯比井(ゆっぴー:現在の為又地内) 耕地整理組合が設立され、9町歩余りで事業が実施され、キビの作付面積の拡大が図られた。

大正6年に大瀬原地先海岸で名護航路汽船第三運輸丸が、台風に襲われ大破し乗員166名中16人が溺死するという海難事故があった(名護六百年史)。

昭和9年に宮里産業組合が設立され、また、同年に宮里で山羊組合を組織し、各戸でザーネン種の山羊を飼育していたが、その中に毎日2升の乳を出す優良山羊がいて評判となった(戦前新聞集成2)。しかし、同14年には不振に陥り解散した(名護六百年史)。同14年に198戸の農家は、農業経営改善の実を挙げるために農事実行組合を設立した(前掲書2)。

昭和22年に4小字を割いて行政区為又ができ、同26年に地籍字として為又が独立した。同37年宮里と為又を学区とする大宮小学校が、宮里の名座喜原に創立され、名護小学校から分離独立した。

宮里は、名護の旧市街地の西に隣接する住宅地域として人口が急増してきた所で、現在名護地区では最大の人口をもっている。戦後の人口の動きは、昭和35年には264世帯・1,330人であった。人口の急激な増加が始まったのは昭和39年からで、特に同50年に至る時期は平均して毎年200人程の割合で増加が続いた。その後も増加傾向にあり、昭和60年現在5,029人に達している。この25年間に3.8倍も増えたことになる。世帯数も同じ増加をたどりへ現在1,437世帯を数える。25年前に比べて5.4倍の伸びである。

宮里区の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると、就業者1,961名の内、第1次産業6%、第2次産業23%、第3次産業71%という構成で、第3次産業に従事する人が多い。昭和45~50年の間に、第1次・第2次産業の就業者が減り、その分第3次産業が増えたが、産業一就業者構成は変わっていない。

最も多い第3次産業では、サービス業が多く(43%)、卸小売業(33%)・公務(8%)がそれに次ぐ。第2次産業に従事する人も多く、その中では建設業がやや多い。

市街地に隣接し、住宅地が急速に広がっている宮里であるが、名護地区では農業の経営耕地面積が一番広く、現在58戸の農家で59haを持っている。作物ではキビ・パインを中心に、花き類や野菜類も多い。畜産は養豚が盛んで、近年急増して現在3,000頭規模に達している。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御嶽として、「由来記」(1713年)にマキヨガマノ嶽(神名ススカミイベナヌシ)が記され、名護ノロの崇べ所となっている。また、神アシアケもあり、そこの祭祀も名護ノロが司った。

現在の御嶽は、ハスノハギリ林の中にメーヌウタキ(前の御嶽)、集落の北の丘陵地にクシヌウタキ(後の御獄)がある。メーヌウタキは女子禁制、クシヌウタキは男子禁制となっている。公民館の東にアサギとトゥン、北に根神屋がある。拝井泉として、集落に3つのフルカー(古井戸)がある。

また集落の北方に村の発祥の地とされるナントゥバルがあり、そこにも拝井泉が3つある(国頭の村落)。

戦前の神役は、根神、ホーニン(抱人)の他に各門中から1人ずつ出ていたが、今では根神もホーニンも祭祀を司ることができなくなった。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1月4日の初山御願、3月3日のハンカ、4月のアブシバレー、5月のウマチー、6月のナーガラガシキー、アケジュバリ、8月の豊年祭、9月の火の御願、ミャーダニなどがある。

芸能

宮里の公民館の前には、常設の舞台がある。旧8月10日を正日に3日間行なわれる豊年踊りの舞台である。

正日には、道ジュネーで集落内を回った後、舞台をひとまわりして踊りに入る。最初に出るのが長者の大主、その後二才踊り・女踊りなどが出て、最後に組踊をやる。得意とする踊りに前之浜・湯作田[あげちくてん]などがあり、狂言もよくやるが、最も得意とするのは組踊で、11の演目を持っている。「忠臣義勇」「西南敵討」「糸那の按司」「手水之縁」「義臣物語」などで、2年毎に演目を替えて演じている。別れの日には、演目がすべて終わると旗頭を倒し、広場でエイサーを踊る。エイサーは、公民館の前の広場でやぐらを組んでやっているが、戦前までは各戸を回っていた。ティーモーイ(手舞い)を中心とし、軽快に舞う。

文化遺産

県道本部循環線に面した宮里前の御嶽には、見事なハスノハギリの群落がある。ハスノハギリは、沖縄では八重山諸島の海岸によく発達するが、前の御嶽のは広さと大木の点で本島最大であり、昭和48年3月19日県の天然記念物に指定された。大きな木では樹高14m,樹冠面積約250㎡、推定樹齢250年を数える。昭和53年の台風で二本の大木が倒れ、その後も一本倒れた(名護市の文化財第二集、名護市の名木)。

また、宮里公民館の庭には、珍しく気根の少ない種のガジマルの老樹が生育している。樹冠面積250㎡・推定樹齢220年を数える古木である。宮里に新しい二基の碑が建っている。ひとつは、近世後期に中国から伝えられ

た武芸の劉衛流[りゅうえいりゅう]は、長らく門外不出の秘伝とされてきたが、この地で初めて公開された。それを記念して、昭和58年に建立された(名護碑文記)。今一つの碑は、バスターミナルの側に建つ「比嘉山元開基之地碑」で、子孫親戚一同が昭和41年に建立した(前掲書)。

宮里の地域史料はまだ確認されていないが、公民館で保管する組踊台本をはじめとする芸能文書資料は種類・量も多く貴重である。

宮里に伝わる伝説から二話紹介する。

大和人墓の由来

昔、宮里のサーターヤーがアキチドーにあった頃、そこへある大和人がきて、「砂糖湯をくれ」といった。村の人が砂糖湯をあげると、熱くても湯気が立たないことを知らなかったのか、それを一気に飲んだ。あまりの熱さで喉を焼き、名座喜原の山まで行って亡くなった。

それからというもの、村では生れてくる子供がみんな死んでしまった。村の人が心配していると、ある人がきて、「この村には外人のたたりがある。その人を祀なければ村は滅びる」といった。村の人は大和人のことだと気づいて、その人をきちんと葬った。それからは子供たちも元気に育つようになった。

その基は大和人墓と呼ばれ、名護自動車学校の裏山にあり、毎年旧暦9月のワラビミキ御願には、村でその基を拝んでいるという。

(宮里区御願日誌より)

ジュリガミの幽霊

宮里から字茂佐に行こうとする所にジュリガミと呼ばれる坂がある。

昔、崎本部辺りの女で遊郭に売られた人がいた。その女がたまたま郷里に用事があって帰る途中、宮里を過ぎたあたりで大雨が降り出した。女はジュリガミの岩の陰に隠れて雨宿りをしていたが、突然、岩が崩れて女は死んでしまった。それからそこに幽霊が出るようになり、そこを通って遊郭に売られる者は一人として成功しなかった。それで、宮里より西側の村の人たちはそこを通らず、ずっと奥の白銀橋を通って行ったそうだ。

(昭和54年民話調査より)

宮里の小字一覧

カニク[兼久原/兼久原]

アガリガニク[東兼久原/東兼久原]

クシガニク[後兼久原/後兼久原]

ポーシ(バル)[大瀬原/大瀬原]

ピルギ[比留木原/比留木原]

シミャー[志味屋原/志味屋原]

ナザキ[名座喜原/名座喜原]

ウジャ/ナントゥバル[宇座原/宇座原]

宮里は8小字からなる。集落の中心部はカニクで、東側にアガリカニク、北の後ろにあたるところにクシガニクが位置する。周辺には低湿地が広がり、ピルギはかつてヒルギ(マングローブ)が密生し、ナザキは湿地の雑草ハイキビに因むという。ウジャのフルナントゥは宮里発祥の地である。この付近の田は深田であるが、宮里では一番の良田であった。

宮里小年表

1907年 住民協議して、廃していた村踊りを復興する。

1909年 屋部・宇茂佐・宮里3ヵ字に農道の開削を企てる。

1910年 9月旧慣例により9月12.13両日に素人芝居を挙行する。

1911年 9月字芝居を挙行する。

1917年 7月湯比井耕地整理組合結成。

1934年 1月宮里産業組合結成。

1935年 3月宮里山羊乳組合結成(組合員47名、ザーネン種山羊)。

1939年 9月農家198戸で農事実行組合を設立。

12月山羊乳組合解散。

1945年 6月住民、田井等収容所に収容される。

1950年 宮里海浜に教会建つ。

1960年 1月紡織工場宮里分工場地鎮祭。

1962年 2月大宮小学校独立。

1968年 4月大宮幼稚園開園。

1969年 7月宮里公民館落成。

1970年 11月名護厚生園落成。

1973年 3月前の御たきのハスノハギリ林県の天然記念物に指定される。

6月市営住宅起工式。

12月防犯モデル地域となる。

1975年 4月北里保育所開設。

1978年 大瀬原海岸埋立て、21世紀の森公園となる。

1983年 3月宮里サンパーク公園完成。

1986年 1月国道58号バイパス開通。

宮里の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.2 区新年会

1.22 老人会研修

1.28 ウニムーチー(旧12.8)

2.18 老人会役員会*本年あと5、6、9月に開催

2.22 初バル( 旧1.3 ) * 各戸で

2.23 初山御願(旧1.4)

4.13 清明祭

4.19 婦人会班長会

4.22 ハンカ( 旧3.3) * 大ハンカ:子・午年、小ハンカ:寅・辰・申・戊年に実施

4.30 老人会総会

5.1 婦人会総会

5.2 審議委員会

5.7 施設委員会*あと5、6(3)、10月に開催

5.29 アブシバレー(旧4月)

6.4 老人会視察

6.5 班長会

6.23 区民運動会

▲年浴(由来記)

7.2 ウマチー(旧5.15)

7.2 産業共進会

8.3 産業視察

8.4 六月ウマチー、ナーガラガシキー(1日6.15~23の吉日)

8.11 アケジュバリ(旧6.25)

8.22 七夕(旧7.7)

8.30 盆踊り(旧7.15)

9.8 婦人会視察

9.9 審議委員会

9.15 踊り御願(旧8.1)

9.23~25 豊年踊り(旧8.9~11)

9.24 タンガイ御願(旧8.10)

9.26 踊り御願(旧8.12)

11.3 火の御願(旧9.18~23の吉日)

11.8 区敬老会

11.9 ミャーダニ(旧9.23~27)

11.9 ワラビミキ(旧9.23~27)

11.11 ポーウガミ(旧9.29)

▲芋ナイ折目(由来記)

12. 前の宮の帯縄取り替え